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沖縄本島両岸の旅

はじめに

 鉄道のほとんどない沖縄では、バス路線が発達している。そのなかでも最長距離の系統が、那覇と名護(なご)の二大都市を東廻りで結ぶ77系統名護東(ひがし)線で、沖縄バスが運行している。長いから価値があるというものでもないが、最長片道切符をはじめとして、乗り物の魅力を語るに長さをもって尺度とすることも多いこのブログである。
 この系統に乗ってみようと思うが、ただ乗りとおすだけでは面白くないので、適宜下車しながら、沖縄の、琉球の、土地柄のさまざまを感じとる旅にしたい。そして、帰りは経路を替え、西海岸から戻ってくることとする。

 


那覇バスターミナル→宇地泊(28系統)

 広大な那覇バスターミナルの長いホームの端のブースに、乗ろうと思っていた便が着車するのが見える。まだ発車時刻にはまだ十分ほど間があるようだが、一応小走りにバスを追いかけて乗車した。
 しかし、バスはすぐにドアを閉めて発車する。わたしが時刻を見違えたのだろうか。危うく乗り損なうところだった。
 このバスは77系統ではなく、琉球(りゅうきゅう)バスの28系統読谷楚辺(よみたんそべ)線読谷バスターミナル行であるが、途中まで77系統と同じ経路を走る。
 最初の停留所である県庁北口は、都心部の繁華街に位置する。実質ここが始発のようなものだが、停まっても乗る客がなく、「運転者」さんが首を傾げながら発車させている。
 車内には、「○○の場合は運転者にお申し出ください」というような掲示が随所にあり、ドア上の名札差しも「運転者氏名」となっている。沖縄ではそう呼ぶようである。こんなことまで品が変わるなど、油断ならない。
 
 国道58号に出て、農林中金(のうりんちゅうきん)前で、運転者さんはしげしげ運行指示票と時計とを見比べるとついにハザードランプを出し、客席を振り返ると、
「ちょっと、ターミナル十分ほど早く出すぎたみたいで、暫く停まります。すいません」
と大きな声で言う。初老の太った運転者さんである。やはり誤早発だった。沖縄らしいのどかさだが、国道の渋滞のおかげで五分ほどの早発に短縮していたとはいえ、ここまでの停留所に来る客はどうなるのか、心配だ。28系統にもいろいろな途中経路のバリエーションがあり、このバスと同じ経路を通る便は三時間ほど後までないのだが。
 いきなり沖縄のバスの洗礼を受けた気分だ。今後も覚悟しておかねばならないが、どう対策すればいいのか、分からない。

 慶良間(けらま)や久米(くめ)島、それに大東(だいとう)島など、県内の小島に向かう船のターミナルに近い泊高橋(とまりたかはし)で、右側からのバス道が合流する。このバスは58号を直行して来たが、右から来るのは那覇のメインストリートと言ってもいい国際通りを経由して来たルートだ。28系統も一部の便が国際通り経由であるが、何にしろ渋滞の激しい通りなので、昼間はほとんどの便が避けて通る。
 片側三車線のこの国道58号も、国際通りほどではないにしても、決して流れがいいとは言えない。信号が多くて、クルマがせきとめられる。ところどころに交叉点をパスする高架道路が設置されてはいるが、焼け石に水と見える。
 安謝橋(あじゃばし)を出てその名の橋を渡ると、那覇市から出て浦添(うらそえ)市に入る。が、沿線風景は、若干大きなビルが減ったかな、という程度で、依然市街地である。

 城間(ぐすくま)あたりで反対車線に珍しいバスを見た。昭和五十年台製造の型で、かつて日野自動車製バスとしては全国的に主力だったものだ。いくら沖縄でもこんな古いバスが現役とは不自然にみえるが、実はこれは、東陽(とうよう)バスという会社が動態保存的に運行している、「730バス」と呼ばれるものである。

 昭和五十三年七月三十日、かつて米国領だったために右側通行だった沖縄の道路が、一斉に日本式の左側通行に改められた。この切換えが当時、「730」の名でPRされていたのだ。
 タクシーなどは、ハンドルがどちら側に付いていようがどちらからでも乗降できるので、事前に右ハンドル車へ徐々に替えておけたのだが、バスだけは、切換え日を機して一挙にハンドルとドアの位置を替えなければならない。これはバス会社の手に余るので、国の補助で右ハンドルの新車に総取替えとなった。一部改造した車もあったようだが、改造する間、車輌が不足してしまうので、結局一斉取替えしかなかったのである。
 切換え当初は、当然ながらバスの事故やトラブルが相次いだ。わたしもバスが畑に突っ込んだニュース映像を覚えている。運転者にしても、事前に徐々に慣れておく、ということがバスの場合だけはできなかったのである。トラブルのみならず、バス停のポールや時刻表などを反対側に移す作業だけでも厖大なものであるし、慣れきるまでには時間もかかったろう。
 そんなことがあったので、沖縄県民やバス会社は、730には今も特別な感慨をもっているという。単なる交通方式の変更ではなく、日本復帰を実感できるエポックでもあったことだろう。
 この時に一斉に導入された新車のバスを、730バスと呼ぶ。三十年以上を経て既にほとんどの車が退役したのだが、東陽バスと沖縄バスに一台ずつ残った730バスを、いわゆる歴史の証人として保存することにしたものである。沖縄バスのものは予備車扱いであるが、東陽バスのは路線バスとして月に数日運行されている。
 わたしもできれば見たいと思っていたのだが、運よくすれ違うことができた。沖縄占領時代を、ひいては、日本と米国、それに大陸も加わった力の押し合いのなかで翻弄されてきた琉球の歴史をも象徴するバスと言えるかもしれず、そう思ってみると、古びたバスにも貫祿を感じる。

 その城間の次が第二城間である。後から停留所を新設したのであろうか。そう思っていると、第一牧港(まきみなと)の次に牧港に停まった。
 この後も気をつけて見ていたが、どうも、元々「○○」という停留所があって、同じ地区内にもう一つ停留所を増設するとき、○○よりも起点側だと「第一○○」、終点側だと「第二○○」にする、という原則らしいのである。わたしなど、○○も含めてナンバリングしたり、「東○○」「西○○」などとしたりする方が分かりやすいのではないか、と思うのだが、こういうことも地域によって流儀が異なり、沖縄のは独特だ。
 牧港はそこそこ大きな分岐点なのだが、停留所の前に胸を張るように聳えるのは、パチンコ屋のビルである。が、そのビルには、カップルや家族連れまで出入りしている。パチンコ以外の娯楽施設もあるのかもしれないし、ビルの一階にはマクドナルドも入っている。そのとりあわせも妙だし、なんとなく異様に見える。パチンコが年齢層を超えて盛んなのだろうか。
 その次の停留所が宇地泊(うちどまり)とはできすぎているようだが、わたしは寄りたい所があるので、ここで降りる。料金表を見て、釣りのないように小銭を掌に揃える。沖縄のバスは、磁気カードもICカードも未だ導入されていないため、バス旅には小銭入れを膨らませておく方がよい。


嘉数高台公園

 ぶらぶら歩くつもりでいたが、空模様が怪しい。前回来沖では、スコールに驚いたこともあり、わたしはタクシーを止め、
「嘉数高台(かかずたかだい)公園」
 と告げた。
 沖縄戦のなかでも最も大規模で激しい戦闘となったのが、嘉数の戦いと呼ばれるものである。量を恃んで攻撃を重ねてくる米軍と、領土を死守せんと捨て身の防御で粘る日本軍とが、何日にもわたって角突き合わせ、両軍に多数の死傷者を出した。そういう実地の戦闘の跡を本土内で見られるというのは、内地の者にとっては意外性がある。もちろん、現地の人の思いを忘れるべきではないが、とまれそこを見たいと思ったのである。
「あいにくのお天気になりましたね」
 と運転者さんが言うとおり、タクシーが住宅地の狭い道を縫って走るうち、忌ま忌ましくも雨足が強まってきた。車を降りて傘を拡げると、運転者さんがわざわざ降りてきて、
「あちらの階段から展望台にどうぞ。基地の写真が撮れます。よかったらお待ちしましょうか」
 と案内してくれる。

 バスやタクシーの運転者さんは大概、見た目はでっぷり体格がよくアロハシャツにサングラスなどかけて、いかつい。なにか他の職種の人に見えたりもするのだが、話してみると、皆優しい。物腰も柔らかだし、声も変にわざとらしい猫撫で声でなく、言葉を惜しまず、心の底からの親切心が出た接客をしてくれる。

 待ってもらう方は辞退し、礼を言って別れる。公園の入口から階段下までは、舗装されていない。ズボンの裾に泥水が撥ねた。コンクリートの長い階段をとぼとぼ昇っていると、公園というよりお寺に参詣するような気分だが、来意には似合っている。園内に他の人影はない。

 丘の頂上付近が日本陣の最前線だった所である。それだけに、非常に胸に迫る物が遺る。

 当時のトーチカが、そのままの形でそこにある。人が一人やっと這いずって出入りできる程度の穴が開いており、中は狭く暗い。戦闘で傷んだのか年月が朽ちさせたのか分からないが、ぼろぼろに欠けたコンクリートが粗悪であることは分かる。
 周囲には、京都や島根の名を冠した慰霊の碑が建っている。それらの地の部隊が戦いに臨んだのである。それぞれに手を合わせるが、わたしが最も深く頭を垂れずにおれなかったのは、韓民族の慰霊碑であった。併合された国の兵として戦い死にゆく割り切れない心持ちは、想像するだに哀切である。
 展望台は、地球を象った球形のデザインだが、螺旋状になっているので、大蛇がとぐろを巻いているようにも見え、気味が悪い。わたしはその展望台の最上段まで昇った。
 皮肉なことに、この展望台からは普天間(ふてんま)基地が一望に、と言っても、先の方は地平線に霞んでいるのだが、とにかく見える。宜野湾(ぎのわん)市の密集した市街の真ん中にぽっかり傲然たる基地が拡がっている異様さは、ここから見下ろすと実感できる。ニュースなどでよく見る基地の映像は、このあたりで撮るらしい。市の都市計画もこれではお手上げであろう。だからと言ってどこへ移転するか、となると、この威容を引き受ける土地がなかなかないのも分かる。


宇地泊→普天間入口(23系統) 

 日を改めて、宇地泊に戻ってきた。この日も雨模様であるが、ここは屋根付き停留所であるし、すぐそばにコンビニもあるので、助かる。
 23系統具志川(ぐしかわ)線具志川バスターミナル行が来たので、これに乗る。終点近くまで77系統と同じ経路なので、問題ない。
 普天間方面へのバス路線は、次の大謝名(おおじゃな)から二手に分かれる。基地の北側を通るか南側を通るかということになるのだ。このバスが行く北廻りの方が近道だが、南廻りは宜野湾市の中心部を通り、沿道に大学や高校もある。
 暫く直進して、大山(おおやま)を通る。戦前那覇と嘉手納(かでな)とを結んでいた沖縄県鉄道嘉手納線の中間地点で、比較的大きな駅があった所である。沖縄県鉄道は、各線とも昭和二十年頃に運行停止し、そのまま廃止されている。内地では、いかな戦争中とはいえ、鉄道の休廃止の年月日くらいきちんと記録されているものだが、沖縄県鉄道は正式に廃止になった時期を「頃」付きで言わねばならぬところが、痛々しい。
 伊佐で国道58号と分かれ、右折する。交叉点はロータリー状になっていて、欧米的だ。ゆるい上り坂で台地に登ると、普天間基地は右側にあるはずだが、左側にも米軍施設が見えてくる。わたしは、普天間入口で降りてみた。
 停留所のある歩道は、薄く低い金網だけで米軍施設に面している。何か投げ込もうと思えば簡単な隔て方だが、さほど重要な施設ではないのだろう。コテージ状の白い建造物が芝生の上に点在している。兵士の宿舎らしい。あまりに真四角な家なので、角砂糖でもばらまいたように見える。集合住宅にすれば土地が節約できるのに、と考えるのは日本人の発想なのだろう。住民が出払っているのか、もう使われていないのか、人の気配も生活のにおいも全くしない。
 そうしているうち、何台もの23系統が通り過ぎて行く。23系統は、「女性専用バスの実験運行を開始します」と車内に掲示があったほどの幹線ルートなので、かなり本数が多い。わたしはその度に手を振らねばならず、忙しい。

 沖縄のバスは、手を挙げて乗る意志を示さないと、停まらない。それがわたしが予め仕入れていた予備知識であった。那覇市内の繁華街であってもそれは同じだ、とガイドブックなどにも書いてある。前回沖縄を訪れた時は、数回しかバスに乗っていないが、確かにそうであった。ひめゆりの塔前の停留所で、旅行者らしい荷を持って立っているのに、危うく通過されそうになったりもした。
 やっと乗り込んだバスは、速度も高く運転も粗かった。最前列左側に坐ったわたしは、バスというよりダンプの助手席に添乗した気分を味わったものだ。平気で早発する、ということも話にも聞きまた経験もしたところである。

 しかし、今回はどうも様子が違う。どのバスの運転者も、停留所付近に人影を一人でも認めれば、必ず停車する。そしてバスの行先や経由地を車外にアナウンスし、客を待っている。物腰も運転も柔らかである。降車ボタンが押されると、はい停まります、などと返事している。早発気味になれば、時間調整をして定時運行に務めているようである。
 沖縄本島には四社のバス会社がある。が、近年そのうち三社までが民事再生法の適用を受けた。事実上の倒産である。クルマが普及しきったことなどにより、乗客減がひどくなったためだろう。今回もかなりの回数バスに乗ったが、立客が出たのは一回だけで、他のバスはたとえラッシュ時であっても一桁の人数しか乗っていなかった。23系統などはそれなりに込むのだろうが。
 そんなこともあり、サービス改善にとり組んでいるのかもしれない。最初の28系統のような大ボケが残存するのはその傾向と合致しないが、過渡期にあるのだろう。
 だから、停留所にわたし一人が立っているだけで、23系統のバスが次々停まろうとする。わたしが右手を横に振ると、安心したようにアクセルをふかし通過するのであった。
 渋滞の激しい那覇から来るので、実際のバスの来方は時刻表とは全く合っていない。その時刻表にも、「祝日及びウークイは運休」などと不可解な表記があったりし、不安になる。「ウークイ」とは、後で調べると、旧盆のことだそうだ。

 何台めかの23系統の後ろに隠れるように、77系統名護バスターミナル行がやってきた。今度は手を挙げる。四社のなかでは最も経営状態のましな沖縄バスの運行である。バスは古いが、座席が観光タイプで背凭れが高く分厚いのは、名護までの長距離を行く系統だからだろう。
 すぐに普天間の交叉点に至る。基地の南側から来た各系統と接続する。25系統普天間空港線という系統も、南側を廻って来て、ここ普天間が終点である。名のとおり、那覇空港と普天間とを那覇市街と宜野湾市の中心部を経て直結する便利な系統であるが、それだけに、そしてそのあまりに分かりやすい路線名から、いろいろな趣向の人が乗っていそうであったり、何かと標的になりやすかったりするのでは、という懸念もあり、地元の人は25系統を敬遠しがち、とも聞く。普天間と那覇を結ぶ系統は、他にいくつかあり、23系統や77系統もそうである。


普天間入口→北部合同庁舎前(77系統)

 やっと目指す77系統を無事つかまえたからか、わたしは坐り心地のいい座席で少しうとうとした。バスは北中城村(きたなかぐすくそん)内の国道330号を、ゆったりカーブしながら北上している。プラザハウス前という停留所がアナウンスされ、プラザハウスとはどういう施設だろう、と思って見ていると、古めかしいショッピングセンターが車窓を過ぎて行った。このあたりから沖縄市に入っており、次の比嘉(ひが)で謝刈(じゃーがる)方面からの路線が合流すると、中心市街である。
 中(なか)の町(まち)停留所付近には、「那覇から路面電車を走らそう」と大書された看板が掲げられている。なるほど330号を含めて道幅のある幹線道路が那覇から何本か通じているから、それも検討に値するだろう。が、路面電車では交通信号に従わねばならず、軌道にクルマの乗り入れを禁じたとしても、加減速の素早いバスと所要時間はあまり変わらないだろう。モノレールの延伸か高架鉄道の新設がいいように思うが、道路でもどこでも走れて建設費が抑えられるLRTが最適かもしれない。あるいは、「路面電車」というのはLRTを想定しているのだろうか。いずれにせよ、一昔前にはそんな発想すらなかったはずの沖縄で、鉄道を敷設しようという声が上がっているだけでも、頼もしいことだ。
 中の町から次の胡屋(ごや)にかけては、沖縄市の官庁街で、乗り降りも多いので、バスが連なる。さっき手を振った23系統にも追いついた。さらにその先のコザの交叉点は一大ジャンクションで、あっちからもこっちからもバスが来て、てんでの方向に進んでいく。壮観だが、どのバスもがら空きなのがいたわしい。

 バスはうるま市に進む。中部(ちゅうぶ)病院前でおばさんが多く乗降するのは、内地と同じである。付近には小から中の規模の商店が多く並んでおり、「山羊汁」の文字を看板に掲げた食堂もある。英語の店名表示が日本語より大きい店も、特にステーキ屋などに多い。
 ここは、嘉手納基地の東側にあたっている。嘉手納は西海岸の町だが、島は細く基地は広大なので、裏口は東廻りのバスが通る町になってしまうのである。あたかもパソコンやケータイの街づくりゲームでアイテムを苦心して配置するような、窮屈な土地のやりくりがなされている。

 うるま市の中心街具志川地区に近づき、安慶名(あげな)の交叉点にさしかかる。この交叉点は、那覇から続いてきた東側幹線道路のどんづまりのような所で、ひしめきあったバスが三方に分かれて行く。長らく同じ道を雁行してきた23系統は、ここで右折して具志川バスターミナル終点に入り、お別れとなる。直進すると市役所や高校のあるエリアである。この77系統は左折だ。
 曲がった道は片側一車線で、この系統初めての生活道路的な道になる。山がちの所をカーブしながら上下する。沿道の家は、沖縄式の屋根よりコンクリート造りの箱型のものが多くなってくる。普天間の米軍施設で見たような家だが、あれに比べると建て込んでいて緑に深く彩られているので、整然という感じは全くないが、人々の暮らしは息づいている。道が狭くなったためか、「路上駐車はやめてください」という掲示があちこちに見えるが、そのすぐ脇にクルマが停まっていたりする。
 うるま市北部の町である石川(いしかわ)に近づいたところで、「教員免許を取るなら、沖縄大学」とCM放送が入った。これまでも停留所案内のついでにいろいろなCMは入っていて、宗教団体のもあったが、ついに大学か、とわたしは驚いた。バスのお客のかなりの割合を高校生が占めているから、宣伝効果からすると理に適ってはいる。
 石川の街中には、小さなアーケードを被った路地にスナックが並ぶ「歓楽街」が目についたり、琉映(りゅうえい)前という停留所もあったりし、昭和の日本と米国の西部がまざりあったような、国籍も時代も不明の感じになる。その次は石川電話局前である。電話局という言葉も久しぶりに聞いた。内地のそういう停留所は、既に多くが改称されたろう。

 小浜(こはま)からは、いよいよ沖縄本島の東海岸に沿って走る。遠浅の海である。と、バスから見下ろすだけで遠浅だと分かるほど、水質がいいのである。
 金武(きん)町に入っていて、左手には沖縄自動車道が間近である。細長い沖縄本島の全域に高速道路の恩恵をふりまこうと、ほぼ中央部を縦断する沖縄自動車道だが、このあたりでは東海岸に寄っている。中北部にくると、西海岸がわにまとまった街がないからであろうか。那覇と名護の間には高速バスも走っていて、最短時間で両都市を結んでいる。四社が共同運行しているから、ドル箱路線なのだろう。
 金武、宜野座(ぎのざ)と、現れる街がだんだん小規模になってくる。十人内外で推移していた乗客も、一人欠け二人欠ける。すぐに街を抜けてしまい、灰色の海になる。今日は雨がちだからしかたないが、天気によってはすばらしい紺青がひろがるのであろう。バス道は、海岸よりも高い所に上ったりする。松田(まつだ)あたりの家は、どことも屋根の上に水タンクを載せている。近くには大きな川や池はなく、水源に乏しいようだ。
 潟原(かたばる)付近から見る海は、青灰色とオレンジとがまだらになっている。毒々しい配色である。このへんは海への赤土の流出があるらしい。水が透明だから、なお目立つ。

 本来のバス道から逸れて久志や豊原の集落の中を通る。こういう迂回をする便が一部にある。
 細い道をくねくね進んでからバス道に復帰すると、道は切り通しになり、両側が高台となる。そこが沖縄高専のキャンパスで、左側に校舎やグラウンド、右側に学寮があり、連絡橋がバス道を跨いでいて、平面で行き来できる。なかなか機能的な構造のキャンパスだ、と思う間もなく辺野古(へのこ)の交叉点である。
 ここも、小規模ながらロータリー状になっていて、その真ん中に塔のような看板が建っている。「ようこそ沖縄工業高等専門学校へ」と書いてあり、古い温泉地のようだ。洗煉されたキャンパスとのギャップが可笑しい。
 その辺野古の停留所で、わたしより前から乗っていた女の子が、巨大な楽器のケースをやっこらさと抱えて降りて行く。高専の吹奏楽部生が帰省先から寮に戻ったのだろうか。これで、乗客はわたし一人になった。

 第二辺野古を過ぎると、右手にはキャンプシュワブが拡がる。いわゆる基地に比べると、素朴さが目立つように見える。辺野古崎という岬が東方に突き出しているはずだが、そこもキャンプ内である。第一ゲート、第二ゲートと、キャンプシュワブに由来する名の停留所を過ぎると、ぐっと南西に方向を換え、山越えにかかる。
 と、雨が激しく降りはじめた。フロントガラスはワイパーも利かない。中年の運転者さんは豪快に大声で呪詛を吐く。あの高専生は濡れない間に寮に着けただろうか。
 しかし、昔に比べれば道もよくなったのだろう。使われなくなった危なっかしい旧道があちこちで見え、道路改良の工事が進められている所もある。
 ようやく道が川に沿いはじめ、ちょっとした平地が出てくると、間もなく西海岸の58号に世富慶(よふけ)で久々の合流である。名護市街が近い。
 58号は海岸沿いを直進し、先には大型の店舗なども見えて賑わしいが、バスはそこへは向かわず、右に折れて名護の古くからの市街に入っていく。が、道沿いはみごとなシャッター通りだ。郊外にしかるべき店舗ができているものと思われる。それでも、スーパーの近所だけは人通りがあり、名護城(なんぐすく)入口からは買物帰りのおばさんが乗ってくる。商店街もちょっと活気が出てきたようで、改築中の居酒屋が見え、女性の店員が重そうな材木を運んでいる。
 名護城の由来ははっきりしないが、公園として整備され、名護市民のオアシスとなっている。花見の名所としても知られるが、桜の見頃は一月末頃だそうだ。

 わたしは北部(ほくぶ)合同庁舎前で下車した。運賃が千円を超えたので、千円札に若干の小銭を添えて払い口に入れようとしたが、運転者さんが札だけ取って両替口に差し込んで何やらボタン操作をすると、そのまま札が収納された。ちょっとしたことでも沖縄流である。
 雨足はあの山道ほどではないが、まだ強い。しかたなく傘をさして散策するが、入れる店もない。市街といっても、建物は低いし間隔が空いている。探す目も雨に遮られてうまく配れていないのだろう。わたしは市役所へ行った。バスに三時間近くも乗っていたので、用も足したいし、雨宿りもさせてもらおうと思う。
 市役所はスケルトンの煉瓦作りで、シーサーも大勢出迎える、なんとも独自性の高い建築である。こんな建物は見たことがない。武骨ながら美も感じさせ、沖縄らしさもある、不思議な市役所だ。

 昼食を済ませても雨は止まない。できれば名護から郊外にも足を伸ばしたかったが、徒歩の距離が長くなるため、この雨では億劫だ。諦めて、名護バスターミナルに向かった。
 名護バスターミナルは以前は街はずれだったと思われるが、新しい店舗が点在する中にあった。那覇のターミナルほどの規模はないが、バスの駐車場は広々としており、沖縄バスと琉球バスの車輌が多数待機していて、圧倒される。ターミナルビルは平屋だが、小規模ながら売店や食堂があり、タクシーも客待ちしている。線路がないだけで、どこから見ても「駅」である。
 ベンチに坐って時間をつぶしていると、明らかに地元の人である爺さんが、
「売店どこですか」
 と訊く。指を差しながら教えてあげると、丁寧に礼を言い、たどたどしくそこへ向かっていく。大丈夫かなと思うが、アロハは似合っている。
 時間がきて乗り場に向かおうとすると、売店から出てきた爺さんと目が合った。爺さんはもう一度かなり深く会釈をする。気持ちよく返す。
 夥しいバス群の中でどの車が来るのか、と思っていると、120系統名護西空港(なごにしくうこう)線の乗り場に時間ぎりぎりに着車したのは、琉球バスの那覇空港国際線ターミナル行である。


名護バスターミナル→嘉手納(120系統)

 沖縄の四社のバスは、かつてはそれぞれ勝手に路線を設定しており、競合も激しかったのだが、それでは分かりにくいし、いたずらに客を奪い合って共倒れになりかねないため、ある時期から運行形態の統一を進めた。平行する系統は統合して同じ系統番号を付けて共同運行としたり、路線の移管をしたりした。もちろん、乗車券類も共通とした。停留所もターミナルも共用である。
 その結果、現在では全く融合したと言っていいような状態になっている。この120系統にしても、琉球バスと沖縄バスの共同運行だが、時刻表にもどの便がどの会社の担当というようなことは何も書いていない。利用客は、会社の別を意識する必要なく、来たものに乗ればいいのである。外来の観光客なども、系統番号だけ覚えておけば用が足るから、ありがたい。
 こういう方式は内地にはみられず、沖縄という閉じた地域だからできる面もあるが、内地も少しは見倣っては、と思う。同じ地域に複数のバス社局が入り乱れ、乗降方式や支払方式が微妙に違ったり、停留所位置がずれていたり、同じ場所にある停留所が社局によって名前が異なったり、と内地は乱雑である。
 ただ、趣味の人間からすると、その場にならないとどの会社のバスが来るか分からないのは、ちょっと面白くない。スリルはあるが。
 
 名護から西海岸沿い、つまり国道58号をほぼ直行して那覇に向かうのが20系統名護西線で、それが那覇空港まで足を伸ばしたバージョンが120系統である。昼間はほぼ120系統として運行される。ただし、那覇へは高速バスがあるので、通しの利用客はほとんどなく、短区間利用が多いようである。「並行在来線」のような存在だ。
 バスは、世富慶まで77系統と同じ道を行くが、直進して東シナ海沿いを走る。次の数久田(すくた)からはかなり長い距離停留所がない。山が海に迫っていて集落がないのだ。ちょっとできた平地に「道の駅許田(きょだ)」などが設けられているが、バスはそんなものは関係ない、とばかり行き過ぎる。1キロほども先にある許田停留所は、ちょうど沖縄自動車道の北端部分であるが、左側の山沿いに並ぶ物に、わたしは目を奪われた。
 そこには、屋根付きの立派な墓が並んでいたのである。沖縄式の屋形墓である。荘厳だが、場所をとること無類だ。

 高速道路と別れると間もなく、ホテルが建ち並ぶブセナリゾートをかすめる。リゾートホテルの脇の小山にも、ぽつんと屋形墓が孤独にある。歩いて渡れそうな島やヨットハーバーや、夏の沖縄にふさわしい情景が続くが、恩納(おんな)村中心近くの万座ビーチでは、墓が集団で砂浜に面しているのが見える。観光地を走っていながら、なぜ墓ばかり目に入るのか、自分でも不思議だが、インパクトは大きいのである。
 何とかビーチが次々とあらわれ、ほとんど水着のように見える薄着のままでバスに乗り込んでくる若い関西弁の女性もいる。もちろんそんな恰好で道をうろうろしている人も多く、カフェや土産物屋、それに屋根にシーサーを載せたファミリーマートなどが賑わっている。そんな一角に仲泊(なかどまり)小学校がある。こんな環境で、落ち着いて勉強ができるのだろうか。このあたりは沖縄本島も最も細くくびれており、東岸のうるま市石川地区までは直線距離で2キロほどしかない。
 そこを過ぎると、西側に読谷村の半島部が盛り上がるあたりにさしかかる。58号は内陸部に入る。山を越えて、白っぽく明るい市街地に出た所が、嘉手納停留所である。ここで降りる。
 自動放送は、五千円札以上の紙幣は両替できません、と言うのだが、料金箱の掲示は「二千円以上の両替は、出来ませんので御協力お願い致します」とあり、二千円札の扱いが宙ぶらりんである。あるいは、二千円札なら運転者手持ちの千円札でなんとかする、ということであろうか。わたしは小銭でちょうど払って降りた。
 停留所の側では個人タクシーが客待ちしていて、バスを降りたわたしに運転者さんが、
「どちらへ行かれます? 道の駅? タクシー要りませんか」
 と大声で訊く。沖縄のタクシーはどこも積極的だ。これは前回の訪問と変わらないが、わたしは手を振ってロータリーの方へ歩く。

 かつて嘉手納には、沖縄で、ということは日本で最大のロータリーがあった。これまた米国の占領時代を象徴するような遺産だったが、58号が市街をバイパスするルートに付け替えられたので、ロータリーも廃止された。しかしロータリーの一部だった円弧状の道路は現在も使われていて、沿道に店も建ち並び、ロータリーに因んだ名の店も多い。
 わたしはその一角にある沖縄銀行のATMで金を引き出した。ディスプレイには、あたりまえのように「二千円札優先」というボタンが表示される。沖縄ではどこの銀行もそうだったが、郵便局のATMは全国統一仕様のようで、そんなボタンはなかった。わたしは、その珍しいディスプレイをカメラに収めようと、ケータイを広げた。すると、行員さんが来て、お振り込みですか、と声をかけた。
 嘉手納の街を歩いた後、停留所に戻る。個人タクシーの運転者さんはまだ側で車を磨いている。どこからかタクシーで乗りつけたおばさんが、バス待ちの客群、といっても数人だが、そこに加わる。


嘉手納→宜野湾市営住宅前(28系統)

 最初に那覇から乗ったのと同じ、28系統読谷楚辺線の那覇バスターミナル行が来て、それに乗る。
 58号は不自然に大きな弧を描いて南西に迂回している。嘉手納基地の隅を避けているのである。前述の沖縄県鉄道嘉手納線は、こんな迂回はしていなかったが、その廃線敷は基地内に埋没している。
 アメリカンビーチのお洒落な店を右に見たりしながら北谷(ちゃたん)町を抜け、宜野湾市に入った所が伊佐浜(いさはま)停留所である。このまま58号を直進すると、往路の23系統で通った伊佐につながる。同じ道では面白くないが、この便は、宜野湾バイパスを通る便なので、右に折れてくれる。
 バイパスに入ってすぐの宜野湾市営住宅前で下車、中規模のショッピングセンターで買物し、お茶を飲む。


宜野湾市営住宅前→壷屋(112系統)

 ここからは、112系統国体道路線那覇バスターミナル行で那覇に向かう。これは、バイパスと呼ばれる国道330号経由で那覇に向かう系統で、便利なのだが、朝夕のみの運行で、本数は少ない。
 少し進むと、右手にコンベンションセンターが見える。会議場のほか、各種スポーツ施設も揃っている文化ゾーンである。ここまでは那覇から多数の系統が来ている。
 真志喜(ましき)から宇地泊までのほんの短い区間だけ58号を通り、バイパスに入る。330号に合流すると、高速道路ではないが、それに近いようなスムーズな流れになる。このバイパスのすぐ北西には、浦添市街を縦断するパイプライン通りと呼ばれる道路が並行している。米軍の燃料輸送のために設けられたパイプラインの上を道路としたためこの名が付いたそうで、内地によくある「水道路」の油版である。
 宜野湾から二十分もかからず、那覇市内の古島(ふるじま)駅前に着く。古島はモノレールの駅で、ここからはバイパスの上空をモノレールが走る。ここでバスとモノレールを乗り継ぐ利用も増えており、駅前には客待ちのタクシーが常駐している。モノレールが北部市外へ延伸することになれば、ここから分岐するようになるかもしれない。
 興南(こうなん)高校前では、クラブ帰りの高校生が乗ってくる。高校と道を挟んで反対側の市営住宅のフェンスに、
「興南高校甲子園春夏連覇おめでとう!」
という大段幕が掲げられており、地域の教育への関心が垣間見える。

 数日の滞在で限られた経験ではあるが、沖縄では子供を甘やかさないように見うける。よその子でも注意する場面は何度かあったし、だからこそ子供たちも妙に調子にのって騒いだりはしない。
 横断歩道ではもちろん歩行者優先で、左折車などは辛抱強く待ってくれる。が、待っているクルマがあるのにだらだらした歩調で渡ろうとする高校生のグループなどがいると、容赦なく、おそらく故意に、彼らの前ぎりぎりを脅かすようにクルマが曲がっていく。高校生はわっ、と立ち止まる。
 しかし、厳しい反面、暖かく静かに見守って育ててもいるのだろう。

 新都心とも呼ばれるおもろまち駅前を過ぎたあたりから、この330号も渋滞が始まった。那覇市街に入って、信号が多くなったからであろう。このバスも、国際通りは避けて南側の開南(かいなん)を迂回するが、それでも込んでいる。わたしは壺屋(つぼや)でバスを降り、国際通りを歩くことにした。
 なるほど、歩いてぐんぐんバスを追い越すことができるほどの渋滞である。歩道も雑踏で、土産物屋の店員が激烈な呼び込みをしているので、流れが悪い。それでもクルマよりはスムーズに進めるようだ。


 国際通りが尽きた所にあるデパートに入り、レストラン街で食事をする。店員さんは営業スマイルではない本当の笑顔で迎えてくれる。金を払ってくれるからではなく、ここに来てくれたことを喜ぶ笑顔だ。食べ終えたらさりげなく水を替えてくれ、この後もゆっくりなさってくださいね、などと声をかけてくれる。内地では見られないことである。
 短い期間で感じとった範囲でも、沖縄は人の心がすがすがしいのである。滞在中、他人に苛々することがほとんどなかった。一二あったが、それは明らかに内地からの観光客であった。ほんの小さなことからそうだ。道を歩けば、さりげなく譲り合う。他人の前に出ようとはしない。バスに乗るときも、舗道を歩くときもそうであった。
 実質一日で一巡りできた沖縄本島を、大きいと思うか小さいと思うかは人それぞれである。わたしは広さを感じた。  

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