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神戸市電最期の日

INDEX
板宿→大橋九丁目 (板宿線)
大橋九丁目→東尻池二丁目 (須磨線)
東尻池二丁目→中之島 (和田高松線)
中之島→築島 (尻池線)
築島→楠公前南分岐点 (兵庫線)
楠公前南分岐点→滝道分界点 (栄町線)
滝道分界点→三宮阪神前 (布引線)


板宿→大橋九丁目 (板宿線)

 市電が大好きだ。
 理由を問われても分からないが、物心ついたら大好きだった。事実上の伯父が市電の車掌をしていたことは聞いていたのだが、それはむしろわたしが市電が好きだから聞かせてくれたのであって、好きになった理由ではない。どこかで血が継がれてはいるのかもしれない。
 わたしが幼い頃住んでいたのは神戸市の西の端の方で、近所に市電の路線はなかったのだが、中山手(なかやまて)に住んでいた祖父母を訪ねたり、都心の百貨店などへ買い物に連れて行ってもらうこともあり、市電に親しんでいた。
 乗った経験ないし記憶は案外少ないけれど、都心に行くたびに緑色の流麗な車体が往来するのを目にしていたのである。
 しかし、市電はほどなく次々廃止されていった。そして遂に全廃の日を迎える。その営業最終日、父はわたしを連れ出してくれた。最終日の市電にわたしを乗せるためである。

 わたしには、どうしてこんなに好きな市電がなくなるのか、よくは分かっていなかったし、不満であったが、とにかく今日を最後に乗ることも見ることもできなくなる、と聞き、子供なりに心と体の感度をいっぱいに拡げ、全てを自分の中に焼き付けるぞ、という意気込みで、父に手を引かれた。

 昭和46年3月13日という生涯忘れ得ぬ日である。神戸市電の最期の晴れ舞台というだけでなく、今思えば、わたしにとって生涯の趣味ともなった「電車に乗るために出かける」行為の最初でもあった。

 山陽電車を板宿(いたやど)で降りた。当時の板宿駅は、ごく狭いホームが向かい合う小さな地上駅であった。駅東側の改札を出て、踏切を渡った。はずである。そのあたりは人だかりがしていて、どこに何があるのか、視線の低いわたしには、全く分からない。前方に市電が停まっているらしいのは気配で分かるが、見えはしない。引っぱられるまま歩く。
「楠公前(なんこうまえ)、か。三宮(さんのみや)までは行かへんのやな」
 と電車の行先方向幕を見たらしい父がつぶやいた。その父が、制服の人と二言三言交わしたようでもある。この板宿から三宮へ直通する便はなく、楠公前が直行できる最遠と分かった。
 ひとの足やお尻ばかり縫って何歩か車道の上を歩き、気がつくと、目の前に電車の乗車口が開いていた。市電には安全地帯から乗るもの、と思っていたわたしは、最初から驚くことになる。子供にはなかなか高いステップに足を載せた。
 周囲は人だらけなのに、車内は空いていて、わたしたちは進行方向左側のロングシートに並んで坐った。窓に向いて膝をつくほどの幼さはもう通り過ぎているが、もちろんわたしはきょろきょろと周りを見回して、あらゆることを観察している。

 神戸市電最後の路線は、板宿~大橋(おおはし)~吉田町(よしだちょう)~神戸駅~栄町(さかえまち)~三宮阪神前という浜手路線で、これから神戸駅前~楠公前という短い支線が飛び出した形である。
 この最終営業区間は、現在の市営地下鉄海岸線のルートと似通っている。海岸線が開通する前は、市バスのこの区間に「都市新バスシステム」が導入され、路線バス近代化のモデル路線ともなっていた。
 それだけ利用の活発な区間であることが、市電路線としても最後まで残った所以であろうが、逆に言えば、この区間だけそのまま存続したらよかった、とも言える。
 海岸線が、地下鉄としては小型の車輌が短い編成で走っているのを見ると、わざわざ新たに地下鉄を建設せずとも、市電の連接車化や一部区間の路下化・停留所の統廃合など車輌や線路を改良することで、十分対応できたのではないか、と思えてならない。
 市電廃止の時期には、地下鉄海岸線も少なくとも構想は既にされていたはずであるが、それを市電の改良によって実現する、という発想は、残念ながら当時の日本にはほとんどなかった。線路を取っ払ってからまた敷きなおすというのは、経費の無駄遣いという見方もできるのだが、そういうことを公に追及する人はいない。都電や札幌・熊本の市電などが、広汎な路線網のなかで一~二系統だけ存置し、現在も走っているのを見ると、あと数年持ちこたえたら神戸市電も風向きが変わったのに、と惜しい。 
 とはいえ、それとは別に神戸市電は、軌道を路上高架化することで高速化・輸送力増強を図る、という当時としては画期的、今で言うLRTを先取りするような「高架市電」計画もうち出していた。旧さと新しさとが同居する神戸に相応しい計画だったと思うが、結局具体化することもなく、全廃を迎えたのである。

 後で調べたところでは、父とわたしは楠公前行の1系統ワンマンカーに乗ったことになる。
 当時のわたしは、市電に運転系統というものがあることも知らず、適当に各方面に向かう電車を運転しているのだと思っていた。正面窓の右下に何やら数字が大きく表示されていることには気づいていたが、それが何をあらわすものかは分かっていなかった。

 電車がゆっくり走りだした。足から尻から体に伝わるその揺れ具合、座席のモケットについた手の感触、車窓風景、車内放送、停留所の名前…、それら何でもかんでも取り込めるだけ頭に取り込まないといけない、とわたしは懸命だった。それが奏功して今でもこんな文章が書けるわけである。
 一つめの停留所は大田町(おおたちょう)(現・大田町二丁目バス停付近)である。停留所に停まった時に窓を振り向いたら、道の端に立つ架線柱に、「大田町」と書かれた縦長の停留所名票が掲げられていた。
 それまでにも何度も市電に乗っていたはずなのに、そういう表示があることには初めて気づいた。安全地帯に立つピンク色に点灯するポールは知っていたのだが。
 さらに、店の広告看板が道端に多くあった。「●●電停前」「●●電停から徒歩●分」などと店の場所が書かれている。「電停」という初めて接する単語について、わたしは「バス停」からの類推で、瞬時にその意味が腑に落ち自分の語彙として獲得してしまった。
 こうして市電に関する新たな知識に次々目を開かされていきつつも、せっかく得た知識も今日一日しか役に立たないのか、という虚脱があった。あの看板も、明日には「●●バス停」に書き換えられるのだろうか、とも思った。

 車内がちょっと暗くなると、常盤町(ときわちょう)(現・千歳町(ちとせちょう)バス停付近)であった。国鉄のガード下に電停があった。国鉄の電車にはよく乗っていて、その車窓から市電の軌道を見下ろすことはしょっちゅうだったが、やっとその軌道の方を通れた。
 大橋九丁目の交叉点に来ると、大きな半径で左折する。ここから西へ、須磨(すま)の方に向かう線が分かれていたのだ、と父が教えてくれる。

 須磨線の末端部、衣掛町(きぬがけちょう)(現・須磨水族園バス停付近)~須磨駅前間は、これより三年前、昭和43年に廃止されているが、この区間で市電が国鉄を天神橋(てんじんばし)という陸橋で乗り越えていた。そのあたりを行く市電も、国鉄電車の中から見た三~四歳頃の記憶がかすかにある。一緒にいた伯母が、
「あら見てみ、ちっちゃい市電やねー」
 とわたしに言った。確かに神戸市電にしては小ぶりな電車がそこにいた。大多数の市電車輌が柔らかな曲線で縁取られた箱型だったことからすると、前面が傾斜していて横からは台形に見えるその電車のスタイルも、異質に見えた。幼稚園にも上がらない頃だったのに、こんなことはよく覚えている。後からの知識では、これは大阪市電から譲受した200形という車輌だったようだ。
 両親が言うには、中山手の祖父母の家を訪ねた帰り、山手から須磨駅前まで市電に乗ったこともあるそうだが、これはさすがに覚えていない。


大橋九丁目→東尻池二丁目 (須磨線)

 楠公前行電車は、大橋九丁目から国道2号を走っている。軌道とは別に片側四車線もある堂々たる道である。市電がクルマの邪魔になる、という話は聞いていたが、クルマはこの広い道を滞ることなく走っていたし、軌道敷に入ってくるクルマもなく、市電の走行もスムーズだ。なんで廃止せねばならないのか、ますます分からなかった。
 上には阪神高速道路の高架があり、その軒下に市電の軌道が敷かれていたのである。高架の橋脚を避けたため、東行と西行の軌道は間隔が開いていた。

 今考えても、これはなかなか合理的なスペースの活用法だと思うし、高速道路工事のためにせっかく軌道を移設してから僅か数年で市電が廃止になっているのもやりきれない。
 当時の軌道部分は、現在も柵で仕切られてデッドスペースになっている部分がけっこうあって、もったいない。

 電車は、ゆっくりと東に進み、わたしが単に文字として知っていた地名のあたりにさしかかった(下は神戸市電の路線図。神戸市街は東西に長いので、どうしてもこのように縦方向が間延びした図になってしまう。黒太線がこの最終日まで営業していた区間である)

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 尻池(しりいけ)西口(現在対応するバス停はなし)という電停が現れた。三宮や山手あたりで、「東尻池」という方向幕を掲げたバスをよく見ていたので、こんな所にあったのか、と思う。それ以前は市電もそういう方向幕を出していたのだが、それは後で写真を見て知ったことである。
 その次の東尻池二丁目では、交叉点を右折する。以前は直進も左折も路線があったが、もう右折しかない。はずなのだが、振り返って窓を見た父が、あれ、と首を傾げた。

 わたしも、窓の外を見た。
「山手の方へ行く線はなくなったんやないんかな。レールがあるな」
 と父が言う。なるほど左折して北方向、つまり廃止されたはずの五番町(ごばんちょう)(現・市営地下鉄山手線長田駅付近)方面に軌道が伸びているのが見えた。

 これも後から知ったことだが、当時長田のすぐ南の旧・尻池北町電停付近に車輌工場があり、整備・修理の必要からそこへ出入りする車輌のため、営業廃止した尻池北町~東尻池二丁目間の軌道を回送線として残していたのである。


東尻池二丁目→中之島 (和田高松線)

 国道から外れたので道幅は狭くなり、また縦長の停留所名票が目につくようになった。東尻池八丁目から左折して東に向く。
 やがて吉田町二丁目電停の名がアナウンスされた。「吉田町」もまた、市バスの行先としてよく目にしていたが、来るのは初めてだった。
「次は、吉田町一丁目、吉田町一丁目、和田(わだ)車庫前でございます」
 とテープ放送が告げた。父が、
「車庫があるんやな。降りてみよか」
 とわたしを促した。

 電車が出入りする引込線があり、そこから車庫の構内に入ることができた。構内は舗装されておらず、地面に雑草が生え、そこに何本もの線路が敷かれていた。市電を惜しむ人たちが構内をうろついている。つられるように、わたしたちも自然に構内に入って行ったのである。
 昼間なので休んでいる車輌が多く、ドアを開けたままそこここに停まっている。父は電車のステップにわたしを立たせ、写真を撮ったりした。
 暫しそうやっていると、奥の方の事務所から制服の人が出てきて、
「危ないですから車庫の中には入らないでください!」
 と怒鳴った。わたしたちを含めた闖入者らは、そそくさと外に出た。
 この時の写真を、なぜかわたしは見たことがない。知らなかったとはいえ、立入禁止の場所で撮ったから、どのみち公にすることはできないのだが、もしかすると、生真面目な父はこの写真を現像しなかったのかもしれない。

 和田車庫は昭和38年開設の新しい車輌基地で、わずか八年で役目を終えることとなったのも、なんとももったいない。
 もっとも、市電廃止後、和田車庫はバスの操車場・営業所として使われたし、地下鉄海岸線の車輌基地も、ここの地下に設けられた。かたちは替えながらも、市営交通の拠点ではありつづけている。現在のウィングスタジアムの近くである。
 「吉田町一丁目」が正式な停留所名だが、ここで終着して入庫する電車は、「和田車庫」の方向幕を掲出していた。それが一時は全市内を走っていたのだから、けっこうその名前は親しまれていたのではなかろうか。

 しかたなく電停に戻り、安全地帯に立って、行き来したり出入庫したりする電車を暫く眺めた。
 わたしの目の高さくらいにヘッドライトがあった。これほど間近にしげしげ市電を見つづけたこともないので、わたしは興奮気味である。ヘッドライトの両斜め下には、左右の小さな矢印灯がある。方向指示器なのだが、こんなに小さくて周囲のクルマから見えるのだろうか、とも思った。それとは別に、正面窓の左下に、横長の長方形をした白い表示灯が付いている電車がある。あれは何だろう、と思っていると、ドアが開いたらそこに「⇦乗降中」という文字が浮かび上がり点滅するのであった。ワンマン運転のとき車掌の後方確認に代わって周囲のクルマに注意を促すためのものらしい。
 多くの電車の側面には、「ながい間、ご利用ありがとうございました」と毛筆体で書かれたパネルが取り付けられている。その文字の上には「1917~1971」という数字もある。なんとか引き算できた五十四年という歴史が、長いのか短いのか、年齢が一桁のわたしには評定のしようもなかったが、市電の最初から最後までを見た人もいるんだなあ、と漠然と思った。
 正面のヘッドライトの下に「さよなら神戸市電」というパネルが掲出されている電車は、車体全体が花で装飾されていた。父が、
「きっとあれが最終電車になるんや」
 と解説してくれた。華やかな化粧ではあるが、今写真を見れば、釘が打たれる直前の棺桶に見えなくもない。その時のわたしも、もの珍しくはあったが、車内は薄暗そうだし、市電らしい流麗な前面も緑色も見えない電車には、あんまり乗りたくないな、と思った。

 わたしたちはまた楠公前行に乗った。ほどなく、電車が大きな鉄橋のような所を渡っているのに気づく。道路を走っていたはずなのに、市電の軌道だけがいつの間にか空中に浮いているのだ。こんな所を市電が通るのか、とわたしは目を見張った。
 その鉄橋の中央部で、父が窓の外を指さしながら、
「あれが和田岬(わだみさき)の駅なんやて」
 と言う。見下ろすと、下を国鉄の線路が通っていて、ささやかなホームが見える。屋根もベンチもない殺風景なホームで、国鉄の駅にこんなそっけないのがあるのか、とわたしは驚いた。

 これは、山陽本線の枝線である通称「和田岬線」(兵庫~和田岬)の和田岬駅である。旅客列車は朝夕しか運転されないという特殊な路線で、当時は南側の三菱造船所の構内まで線路が伸びていたため、市電軌道を跨線橋として平面交叉を避けていたのだ。
 この和田岬線の存在自体は、国鉄に乗って兵庫駅を通るときに、よく父が指さして教えてくれたので知っていた。しかしその終点は初めて見た。さっきからのバスの行先となった地名といい、まだまだわたしの知らない神戸があったことを思い知らされ、また未知の国を探検しているような痛快さをおぼえていた。


中之島→築島 (尻池線)

 父が隣の人と雑談などしていて、このあたりからなら三宮までの直通便がある、と分かったようだ。父は降車ボタンを押すと、再びわたしを立たせて出口に向かった(下は、最終営業時の運転系統図)
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築島→楠公前南分岐点 (兵庫線)

 たまたま降りたのは島上町(しまがみちょう)(現在対応するバス停はなし)という電停である。安全地帯に立って南の方を見ると、手の届きそうな所に一つ前の電停が見え、そこにもう次の電車が停まっていた。
「近いな。一分もかからんぐらいやな」
 と父が呟き、はたして見る間に電車が来た。

 すぐそこに見えたのは、築島(つきじま)電停(現・中央市場(ちゅうおういちば)前バス停付近)だったはずである。そこから西へ、兵庫駅に近い西柳原(にしやなぎわら)までの路線が分岐していたが、戦争中に休止したまま、遂に復活しなかった。

 やって来た電車は幸い三宮行であった。さっき二便続けて乗った楠公前行は、いずれもわたしたちのようなお別れ乗車の客が大半と見うけたのだが、都心の三宮に向かうこの電車は、さすがに実用的に乗っている客の方が多いようだった。込んでいてわたしたちは坐れず、父は吊り革に、わたしは父のベルトに摑まった。前の席のおばさんは、買物袋を手にしている。
 こんなにたくさんの人が乗っているのに、なんで廃止になるのか、とわたしは再び首を傾げた。
 三宮行の電車、東尻池五丁目始発の5系統か和田車庫始発の7系統だったと思われるが、今度はワンマンではなく、車掌さんが肉声で案内をしていた。これこそ昔ながらの市電の姿なのだが、子供のわたしは、ワンマンカーの方が現代風でかっこいい、と思っていたので、ちょっとがっかりし、その案内の声に耳を傾けることもなかった。
 電車は信号で停まった。前方を見ると、見覚えのある広い道路だ。

 西出町(にしでまち)電停(現・七宮町(しちのみやちょう)バス停付近)前後で再び国道2号を、すなわち阪神高速の真下をちょっと走る。

 件の伯父が住んでいたのは、この西出町電停に近いアパートであった。そのためこれ以前に両親とともにこの電停から市電に乗ったこともあった。
 その時はまだ阪神高速が建設工事途上で、市電は仮線に移されて運行していた。道路の端を走る市電に仮ホームから乗ったのである。軌道は枕木が剥き出しになっていて通常の鉄道のようであり、踏切も仮設されていた。市電がこんな「普通の線路」を走ることもあるのか、とわたしは驚いたものだ。

 左折して国鉄の高架をくぐった。この高架も、国鉄の電車から見下ろすことは多かったが、市電の方に乗るのは初めてだった。ガードを抜けるとすぐ右折し、道路から外れる。相生町(あいおいちょう)の専用軌道である。

 市電の窓すれすれに家の軒先が通りすぎていくのも、当時のわたしには衝撃の光景であった。
 専用軌道を抜けると、緩く左右にカーブして神戸駅前の広場に出る。ここは、祖父母の家に行くときなどによく見る電停であった。

 この日からおよそ一年前、山手上沢(やまてかみさわ)線が廃止になっていた。それが近づいた時、やはり両親が最後にわたしを乗せてやろうと思ったらしく、祖父母を訪ねるのに神戸駅からいつもはタクシーに乗るところを、市電で行ったことがあった。
 わたしたち親子三人は、神戸駅前の北行電停に立ち、山手に向かう電車を待った。が、なかなか来なかった。もしかしたら、来ていたのに父が気づかなかったのかもしれない。何便か見送った後、父が車掌さんに、山手ですか、と訊くと、車掌さんが窓から身を乗り出して後ろをさっと指して、山手後ろです、と答えた。そのしぐさとぶっきらぼうな答え方が、なぜかキマっているように見え、今でも目と耳に残っている。母が、
「山手回り、って書いてあるのでないとあかんの違うの」
 と言い、その時わたしは神戸市電独特の「経由幕」の存在に気づいたのであった。その当時の神戸駅前北行に来る電車の多くが、方向幕は「三宮駅」であり、山手回りか栄町回りかという経路の違いは、経由幕を見ないといけなかったのである。

 神戸駅前で降りる客もけっこうあった。父とわたしはまた並んで坐れた。楠公前の交叉点で右折する。左側に、直進した軌道の先にある楠公前電停が見えた。
 楠公前は1系統が折返す電停だが、1系統も実質は神戸駅前発着なのだろう。神戸駅前が手狭で折返し用の渡り線を設けるのが難しかったために、楠公前まで路線を残し、そこまで運行するようにしたのかもしれない。
 ここが市電最後の営業路線分岐であった。交叉点にはポイントマンが常駐し、最後まで手動でポイントの切換が行われていた。

 漢字は読めなかったし、ナンコーマエという電停名を父の口から聞いて、オロナインの工場でもあるのか、とその時わたしは勝手に思っていた。
 交叉点の北西部に境内が広がる湊川(みなとがわ)神社が、祀っている楠木正成に因んで「楠公さん」と市民には通称されている。それがそのまま採られた、思えば素朴な電停名である。
 栄町・三宮方面へ行く電車は、交叉点を右折した後に電停に停まるのだが、そこは裁判所前という別の名が付いていた。同じ名前にしてもさし支えないと思える程度しか離れていなかった。市電廃止後の代替バスでは、楠公前に相当する位置のバス停も、裁判所前の名に統合されており、楠公前の名が市電とともに消えてしまった。ただ、その後の観光周遊バス「シティー・ループ」の停留所として、一時楠公前が復活したこともある。


楠公前南分岐点→滝道分界点 (栄町線)

 電車は三越百貨店の前で逆S字カーブを描く。ここに元町(もとまち)六丁目電停がある。三越を市電で訪れる人もかつては多かったはずだが、昭和43年に開通した神戸高速鉄道が、三越に直結する地下駅として西元町駅を設けたので、それも減ってしまったことだろう。
 西元町の三越は6階、元町の大丸は7階、三宮のそごうは8階。このように非常に覚えやすいこともあり、当時の各百貨店のおもちゃ売場階だけは、わたしの頭にしっかり入っていた。
 電車は栄町通に入る。道は相当狭くなり、電停には安全地帯もなくなった。歩道もなく、乗るときは通行中のクルマや人に注意しながら、路面から直接足を持ち上げねばならない。

 栄町通は銀行や商社のビルが並ぶビジネス街だ。神戸市電最大の幹線区間でもあり、都心の三宮に入る系統の大半がこの栄町を経由した。その栄町通の各電停がこういう危険な状態であったため、ここを通る系統はワンマン運転が認可されなかったのだという。車掌が安全確認したうえで乗降を扱わねばならなかったのである。
 このネックがなく、ワンマン化が拡大していたら、神戸市電の寿命が多少なりとも延びていたかもしれない。いろいろな不運も重なって、京都はもとより、東京や横浜・名古屋よりも早いこの時期の廃止となったのである。

 栄町には五丁目から二丁目まで、各丁目に電停があり、停車しては乗降を扱う。今度は正S字カーブで大丸百貨店の前を通る。

 大丸で母や伯母が買い物をしている間、一階のロビーのような所で父や祖母などと待っていることがあったが、前を走る市電を眺めていると、わたしは何十分でも飽きなかった。大丸の北側で東に向かう道路が二股に分かれていて、その北側の道に市電が通っていた。南側の道は市バスが走っていた。それらが行き交う様子が面白くてしようがなかった。
 市電が三輌続けて元町一丁目の電停に停まったのを見て、そんなのは初めてなので、
「市電が三つもつながっとぅー!」
 とわたしが驚嘆の声をあげ、祖母が、
「ほんにー」
 と目を丸くして調子を合わせてくれたのを覚えている。

 元町一丁目からその北側の道に入ると、次は三宮神社前である。「三宮」の付く電停が遂に現れたことで、わたしは名残惜しくつまらない気分になってきた。
 三宮町一丁目(現・市役所前バス停付近)まで来ると、道の両側はビルや店で賑やかで、都心のムードが高まる。すぐ北側はセンター街である。そのあたりも両親に連れられてよく歩く所であった。


滝道分界点→三宮阪神前 (布引線)

 左にカーブしてフラワーロードに出れば、すぐに終点の三宮阪神前である。山手や石屋川(いしやがわ)に向けて延びていた軌道は撤去され、電停には強引に折返し設備が設けられていた。下車したわたしたちは、暫く降車用安全地帯に立ったまま、折返し発車していく電車を見送った。その間に次の終着電車が着き、客が降りてくる。
「山火事ですかなあ」
 と父に話しかけるおじさんがいた。国鉄の高架の向こうに見える山の中腹に、炎がちらついて煙が上がっていた。
「ああ、燃えてますな」
 と父が答えた。

 望み薄とは思いながら一応父に請願してみた、もう一回市電で板宿まで戻ろうよ、というわたしの提案は、一言のもとに却下され、わたしたちは地下街に下りて食事をした。朝から家を出てきたのに、途中下車したりしていたから、もう昼時だったのである。
 帰りの国鉄三ノ宮駅下りホームからも、三宮阪神前電停を見下ろすことができた。多くの市民やファンに囲まれた市電が見えた。

 それが生きた神戸市電を見た最後だった。わたしにとっては長かった一日が終わった。

 帰宅したわたしは、すぐさま紙に今日乗った市電の路線図を、全ての電停を含めて記憶のまま書き留めた。その紙はずっと取ってあり、後で資料とつき合わせてみたら、一つも間違っていなかった。
 その後も、市電が存続していたらどうなっていたか、市バスや地下鉄の変遷と照合しながら想定しつづけ、これは現在に至っている。
 時間の彼岸へ散り散りに去ってしまった市電だが、その一部はわたしの追憶と空想のなかに真っ直ぐ走り込んできたのである。

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