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誰かと乗った播但線

INDEX
 はじめに

 1.上り臨時急行「はしだてビーチ2号」(昭和47年8月)

 2.1.下り特急「はまかぜ2号」のはずが…
 2.2.下り臨時急行「但馬銀嶺3号」
 2.3.八鹿駅と豊岡近辺
 2.4.上り臨時急行「銀嶺」(以上、昭和49年2月)

 3.631列車(昭和51年7月)

 4.629列車・季節急行「但馬6号」(昭和54年8月) 

 おわりに 


はじめに

 播但(ばんたん)線は、兵庫県の中央部を南北に貫き陰陽を結ぶ、姫路(ひめじ)~和田山(わだやま)間のJR線である。
 ローカル線だが、一応昔から急行や特急が運行されてきた。山陰方面へは京都からは山陰本線、大阪からは福知山(ふくちやま)線がメインルートだったが、神戸から行こうとすると播但線になる。山陰の東端部にあたる豊岡(とよおか)や浜坂(はまさか)あたりは兵庫県なので、優等列車によって県都神戸と直結する必要があったのである。

 加えて、和田山で山陰本線に合流した先には、八鹿(ようか)・江原(えばら)といった駅がある。これらは、鉢伏(はちぶせ)や神鍋(かんなべ)にそれぞれ代表される山岳観光地の玄関口である。神戸からそういう高原へ観光旅行に出かけるには、やはり播但線が便利だった。
 だから、播但線は一人で乗ることが少ない線だった。


1.上り臨時急行「はしだてビーチ2号」

 わたしは神戸で生まれ育った。父の里は福知山である。だから、毎年お盆前後には父に連れられて福知山へ泊まりがけで旅行した。そのときのコースは、一旦大阪まで出て福知山線に乗ることが多かった。
 しかし、昭和47年、小学校三年生の夏は、曜日の関係で父の夏休みが長めにとれたのであろう、帰省に旅行をくっつけて、福知山の帰りに天橋立(あまのはしだて)に寄り、父の会社の寮に一泊した。海水浴をするため、帰省の時期もいつもの盆より少し早めにした。
 その天橋立からの帰途が、わたしが播但線に乗った最初であった。

 
 父とわたしは、荷物をまとめて国鉄宮津(みやづ)線(現・北近畿タンゴ鉄道宮津線)天橋立駅のホームに出た。既に青い客車が停まっている。これは、ここ始発の臨時急行「はしだてビーチ2号」である。当時は急行でもエアコンのない車輌がけっこう使われていたのだが、この客車は新型で、冷房が効いていた。わたしは、夏なのにこんな涼しい思いで旅行できることが、信じられなかった。
 せっかくの臨時急行なのに、この車輌には父とわたしの他、数人しか乗っていない。実は、当初の予定では福知山より先に天橋立に行くはずだったのだが、往路の「はしだてビーチ」の指定が取れなかったのである。父も拍子抜けしていたようだが、繁忙期にもエアポケットのような日があるものである。わたしたちは当然四人掛けボックスを独占できた。

 走りだした「はしだてビーチ」は、間もなく丹後山田(たんごやまだ)(現・野田川)で機関車付替えのために停車した。なんでこんなに早く付け替えるのか分からないが、夏のピーク時で車輌もフル稼働し、やりくりが複雑になっていたのかもしれない。父が、ここを起点とする加悦(かや)鉄道のディーゼルカーを指さして教えてくれる。
 この列車に連結されるために待機しているディーゼル機関車が隣のホームに停まっていた。凸形をした機関車である。随分変な形だな、とわたしは思った。しかも前と後ろでボンネット部分の長さが違い、片や三軸、片や二軸の車輪が支えている。それもまた不格好に見えた。毎年のように乗る福知山線の客車を牽くディーゼル機関車は箱型で前面が逆さに傾斜したカッコいい型だったので、それが普通だと思っていた。実際には、ディーゼル機関車は凸形が主流なのだが、そんなことを知るのはもっと後のことだ。
 急行といいながらのんびりと各所で交換待ちなどしながら宮津線を辿り、豊岡(とよおか)で山陰本線に合流する。ここでまた機関車交換である。
 わたしたちが乗ったのは前から二輌めだったので、車内からも機関車の背中がよく見えた。赤い凸形ディーゼル機関車が切り離され、遠ざかっていく。さて、次はどんなのが来るのか、と前を凝視していると、黒く四角い物が近づいてきて、そのまま客車に密着した。目玉のような赤いランプが二つ付いている。何だあれは。鉄道車輌には見えないな、と思っていると、父が事も無げに言った。
「あれ、蒸気機関車みたいやな」
 蒸気機関車の形はもちろん知っていたが、真後ろから見ることはあまりないので、気づかなかった。まさか自分の乗ったこんながら空きの列車を蒸気機関車が牽くなどとは思いもよらないことだった。わたしは仰天し、また昂奮した。

 既に蒸気機関車、つまりSLは、都市部や幹線筋からは姿を消し、地方線区で細々走るだけになっていた。たまに山陽本線などでSLの特別運行が行われることがあり、わたしもそれを見に行ったことがあるが、沿線は大変な人出になった。
 後から知ったところでは、わたしが知っていた箱型のディーゼル機関車は西ドイツ製の高性能車だったが、それだけに扱いが難しかったようで、車軸が折れたりする故障が多発していたらしい。それでその型が配置されている山陰地区では機関車不足が発生し、多客期には半ば引退状態で車庫の奥に眠っていた蒸気機関車を、叩き起こして使わざるを得なかったのである。わたしは幸運にもその運用に当たった。

 蒸気機関車に替わったせいか、「はしだてビーチ」の走りはいよいよのんびりしたように感じられた。播但線に入って生野(いくの)の峠を越える時は、上り坂でほとんど停まりそうなくらいにまで減速した。トンネルに入ると、車内に霧のように煙が流れた。エアコン付の客車だから、ドアも窓も閉め切っているはずなのだが、どこからか侵入してくるらしい。
 姫路平野に出ると、ようやく軽快な走りとなり、姫路駅にすべり込んだ。進行方向が替わるので、ここでまた機関車付替えである。わたしは、あの蒸気機関車が向きを替えて反対側に付くのか、と期待したが、父は冷静に、ここからは電気機関車だろう、と言った。その言葉どおり、今度は青い電気機関車が連結された。そうなってみると、ごく普通の客車列車でしかない。
 が、一本の列車を三種の動力の機関車が寄って集って牽いたわけで、過渡期の貴重な体験ではあった。もちろん、蒸気機関車の牽く列車に乗った、ということは、級友たちへの恰好の土産ないし自慢話となった。


2.1.下り特急「はまかぜ2号」のはずが…

 
 小学校四年生の冬、昭和49年の2月に連休があった。当時はもちろん週休二日は定着していなかったし、振替休日の制度も始まったばかりだったので、二連休でさえ珍しかった。そういうなか、11日の建国記念日が月曜日にあたったのである。半ドンの土曜午後から二日半にわたる旅行が可能となった。
 そういう時期に、わたしが所属していた神戸YMCAの支部で、土曜から月曜まで二泊三日のスノーキャンプが計画されており、わたしはそれに参加することになった。中学生以上が主体となるチームは「スーキャンプ」に行くのだが、わたしたち小学生は、行先はスキー場だが、スキーではなく単なる雪遊びがが目的である。それで「スーキャンプ」と銘打ったのである。スキー板ではなく缶のフタを持参するよう、指示されていた。
 二十人ほどの小学生を引率するのは、正規職員は中年の女性一人だけで、あとはわたしたちが「リーダー」と呼んでいた大学生ボランティア二名のみであった。今から考えると、よくこんな陣容にこんなことを任せるものだ、と思うが、それでいい時代だったのだろう。
 当初、YMCAの所有するバスに乗っていくことになっていたのだが、直前になり、このバスの運転手さんが体調を崩し、バスが使えなくなった。それで急遽播但線経由の列車で移動することになった。思いがけず列車に乗れることになり、わたしは小躍りした。しかも、乗る列車は特急「はまかぜ2号」と聞かされた。わたしは新幹線以外の特急列車にはまだ乗ったことがなかったので、雪よりもそっちの方が楽しみになりさえしたが、連休の兵庫県北部は大雪の予報になっていたので、雪遊びも存分に愉しめそうだ、とその時は思った。
 が、これがまた相当に大変な、しおりに記された予定表とは似ても似つかぬ旅になった。

 高速道路も整備されていない当時、スキーバスの類はまだなく、自家用車もさして普及しておらず、宅配便もないから、スキー客は大荷物を持って列車に乗るのが当たり前であった。シーズン真っ只中に出現した2.5連休の初日にスキー場に向かう列車、直前に指定券など取れるわけがなく、わたしたちは自由席に乗ることになった。
 学校が昼にひけてから集合したわたしたちは、車中で食べる弁当をリュックに入れて、夕方の明石(あかし)駅に向かった。晩ご飯がお弁当、というのも小学生にはなかなかないことなので、痛快な気分であった。

 ホームに上がってみると、もう一目でスキーに行くと分かる人たちでごった返していた。明石は神戸の西隣の都市だが、神戸市域は東西にかなり長いので、神戸市西部在住の人も、「はまかぜ」に乗ろうとなると、明石駅に集まって来る。当時、明石に停まる特急は「はまかぜ」だけであった。

 「はまかぜ」は、昭和47年新幹線岡山開業と同時に運行を開始した、播但線経由の特急である。大阪と山陰とを結ぶ特急列車は、福知山線経由の「まつかぜ」が従来からあった。「はまかぜ」は実質的に「まつかぜ」の増発で、車輌も共通であった。福知山線経由にしなかったのは、同線の線路容量に余裕がなかったのと、先述のとおり神戸での利用をフォローする意図があったものと思われる。
 当初の「はまかぜ」は、一日2往復で、うち1往復では食堂車も営業していた。現在は3往復に増発され車輌も新しくなったものの、編成は短くなりもちろん食堂車もない。

 それにしても人が多い。そのうち、わたしたちを打ちのめすアナウンスがホームに流れた。

「「はまかぜ2号」鳥取行をお待ちのお客様にお知らせいたします。「はまかぜ2号」は、ただ今三(さん)ノ宮(みや)駅を超満員で発車しております。当駅からのご乗車は、難しいものと思われます。恐れ入りますが、後に続いております、臨時急行「但馬銀嶺(たじまぎんれい)3号」江原行にご乗車くださいますよう、お願い申し上げます。「はまかぜ」号の特急券で、そのまま「但馬銀嶺」号の自由席にご乗車いただけます」
 ホームにいる人たちがどよめいた。しかし、深刻な表情の人や駅員に文句を言うような人はいない。皆、遊びに行くのだから、気分も昂っていたのだろう。わあ、すごいことになってきたぞ、というように笑っている人が多い。
 一方、わたしたちのリーダーは、決断が早かった。

 なんと、今ここで、夕食の弁当を食べるよう、わたしたちに指示したのである。
「リーダー、本気?」
 と思わずわたしは訊ねた。リーダーは、本気だ、とわたしたちを人の少ないホーム西端に移動させた。あまり時間はない。わたしたちは地べたに敷物を広げ、その上に腰を下ろし、弁当のふたを取った。北側には神姫バスのターミナルが見下ろせた。寒風の吹く二月の夜だが、わたしは楽しくてしようがなかった。ひっきりなしに行き交う電車とバスを間近に眺め、友達と品評しながら弁当を食べたのだから。弁当の主菜が牛肉と糸蒟蒻の大和煮であったことまで確と覚えている。

 そうしているうち、問題の「はまかぜ2号」鳥取行が入ってきた。食事を終えようとしていたわたしたちは、一斉に列車に目をやった。超満員 という言葉を初めて聞いたわたしたちは、それがどんな状態であるのか、見きわめてやろう、と意気込んでいたのだ。列車がホームに姿を見せ、その車内が待っている人の目に映ると、喚声があがった。
 なるほど、車内はもう全く空間がないようだった。通路に立つ人が座席に覆い被さるような姿勢で体を傾けていた。ドアは一応開いたが、それだけでデッキに詰まった人がホームにこぼれそうになる。そのデッキで押し合いながら中に入る人も多少いたが、大半の待ち客は車内を見ただけで、これでは乗れない、と諦め、苦笑しながら身を引いた。ドアは何度か開けたり閉めたりを繰り返した後、駅員さんが客の背中を押し込んでやっと完全に閉じた。
 恐らく、指定券を持っていた人も、明石からでは乗り込めなかった、あるいは乗れはしても自分の席まで辿り着けなかったのではないか。心なしか重たげに列車が排気ガスを吹かした。
 ここまで込んだ列車を見たことがないわたしたちは、これが超満員というものか、と感心し、このキャンプの間、超満員 はわたしたちの流行語となった。低く長い警笛を鳴らし、ゆっくりホームを離れる「はまかぜ2号」の人の顔が蝟集した窓に向け、手や帽子や箸やいろんな物を振って見送った。

2.2.下り臨時急行「但馬銀嶺3号」

 この昭和48年度の冬ダイヤを収録した時刻表を、残念ながらわたしは持っていない。しかし、その前後の年の復刻版を見ると、だいたいこの年のダイヤも類推はできる。明石駅の発車時刻でみると、「はまかぜ2号」の僅か九分後に「但馬銀嶺3号」が出ることになっている。
 が、わたしの朧げな記憶では、「はまかぜ」が出た後の待ち時間は、二~三十分はあったような気がするのである。「はまかぜ」が三ノ宮を出てから弁当を食べ始め、低学年の子も含めて「但馬銀嶺」が来るまでにきちんと食べ終えたのだ。わたしも食べ終わってからホームで友達とかなり遊んでいた気がする。
 この年だけダイヤが異なっていたのか、あるいはダイヤがこの時点で既に乱れていたのか。そのへんははっきりしない。単に、昂奮状態にあったわたしの時間感覚が麻痺していただけである可能性も高い。

 やがて「但馬銀嶺3号」が入ってきた。これは客車列車で、12系と呼ばれる青く新しい客車が使われていた。先の「はしだてビーチ」と同じ車輌である。しかし、牽いていた機関車が何であったか、全く記憶にない。その時はもう客車の込み具合に関心が偏していたのだろう。
 その混雑度は、幸い「はまかぜ」に比べれば緩やかであった。座席はもちろん全部埋まっていたが、立っている人の間に隙間があり、客車の窓を通して列車の向こう側が見えた。わたしたちは何輌かに分かれ、それぞれのデッキに数人ずつ陣取った。子供だから立っていてもそれほど苦にならず、元気にしゃべりはじめた。

 姫路で機関車付替えをするのも「はしだてビーチ」と同様だ。暫く停車する。前方の車輌に乗っていた職員さんがホームを歩いてわたしたちの様子を見に来、前はもっと空いている、と告げた。わたしたちはすぐさま移動を決断し、ホームに駆け出た。わたしははしゃぐあまり手ぶらで走りだしてしまった。後から追ってきたリーダーに、リュックと拳固をちょうだいしたが、移った先のデッキでは、交替でリュックを床に置いて腰掛けることができた。
 列車がこれまでと逆向きに走りだし、いよいよ播但線に入った。速度は目立って落ちた。単に非電化の単線に入ったから、というわけではなさそうだった。明らかにダイヤが乱れていて、交換駅ごとに長く停まり、ただいま○分の遅れで××を発車しました、という車内放送がかかるたび、その分数が増していく。このあたりはまだ雪が積もっていないが、和田山方面からの対向列車が軒並み遅れているらしい。また停まってドアが開き、リーダーが顔を出して駅名標を見た。
「福崎(ふくさき)ゆうたら、まだ姫路やないか」
 と嘆息するリーダーの独り言が聞こえた。

 寺前(てらまえ)から山越えの区間に入り、生野に出た。但馬の国まで来ると線路際は真っ白である。また列車は停まってしまった。雑談もしりとりもネタが尽きて飽きてきた。
 無聊を託つわたしたちのいるデッキから扉ごしに客室内が見えた。ガラスのすぐ向こうに立っている若い女性が、さっきから毛糸を編み棒で操りながら、マフラーか何かを編んでいる。リーダーが言った。
「あの糸を分けてもらって、あやとりをしようか」
 しかし、それには女性に交渉しないといけない。リーダーは、くじで当たった者が女性に頼むことにしよう、と提案、いや、わたしたちにすればリーダーの言は命令であった。果たしてわたしが当たりを引いた。

 後から考えれば、男子大学生であるリーダーよりも子供に言わせる方が何かと好都合な場面であり、そのリーダーとわたしは普段の体操教室などでよく知った仲である。わたしが年齢の割にきちんとしたしゃべり方をする子供であることも、リーダーは分かっていたはずだ。
 リーダーのつくったくじには、何らかの操作が加えられていた可能性が高い。

 ともかく恐る恐る扉を開け、わたしは女性に総意を告げた。
 意外にあっけなく承諾が得られたが、どうやって糸を切るかが問題であった。女性は鋏を持っていないようで、太い毛糸を犬歯に挟んでものすごい形相で噛み切ろうとしたりし、わたしをたじろがせた。幸い、リーダーがリュックの中からナイフを探し出した。

 播但線から山陰本線に入る和田山に着いたときは、二十三時を回っていたと思う。定刻ならとうに終着江原に着いていなければならない時刻である。しかし、和田山でまた長い間停まった。夜の闇の中に白が浮かび、隣にあるはずの線路はすっかり埋もれていた。そんな状態も初めて見るものだった。
 車内放送が入った。八鹿から鉢伏山、江原から神鍋山に向かうバスのダイヤは、大雪のため相当乱れている、この列車も遅れたため、豊岡行最終列車に接続できない、この列車は江原に終着後、回送となって豊岡に向かう予定だったが、豊岡まで普通列車として営業運転を延長する。そういう主旨の放送であった。
 結局、八鹿に着いたのは、二十三時四十分頃であった。わたしたちはあまり大きくない駅舎を抜け、やっと駅前広場に出た。そこにもまた、列車内に負けるとも劣らぬ渾沌があった。

2.3.八鹿駅と豊岡近辺

 見わたすかぎり、と言っても、子供のわたしたちには見わたすことさえ困難なのだが、群衆が溢れかえってざわめいているのである。先着した「はまかぜ2号」、さらにその前に福知山線廻りで来た別の急行が着いており、それらの客が、駅からスキー場に向かえないままそこに滞留しているようであった。
 駅舎の向かい側左手には、全但(ぜんたん)バスのターミナルがあり、「鉢伏」という方向幕を掲げたバスが二台停まっている。一台めには既に満杯の客が乗っていたが、なかなか発車しない。早く二台めに乗せろ、と大声を挙げる客もいた。駅舎に面したタクシー乗場に、タクシーは十分に一台程度しか現れなかった。タクシーが駅前広場に入ってくるたびに拍手が起きた。が、よく見ていると、二台めと四台めのタクシーは同じナンバーであった。バスがようやくチェーンの音も賑やかに発車していき、二台めのバスがすぐに満員になる。

 バスとタクシーを待つ列が、もつれ合うようになっていて、最後尾がどこなのかも分からず、どちらもいつ乗れるのか分からぬありさまだ。大きなホテルからは、その名を側面に大書したマイクロバスが迎えに来ており、宿泊客を乗せるとさっさと出て行く。それに乗り込んだ人が、選ばれた高貴な人のように見えた。わたしたちの宿はスキー場の民宿だから、そんなものはない。
 駅舎のそばにわたしたちを固めておいて、リーダーが情報収集に動いた。

 包み込むように堆い雪をいよいよ目前にした小学生が、じっとしているわけがない。限られたスペースで小規模な雪合戦や雪像作りが始まった。この駅前広場で雪と戯れたわたしたちにとって、このスノーキャンプの目的は、早くも達せられたようなものだった。
 
 そのうち、日付が変わった。こんな駅頭で日の変わり目を迎えるなど、わたしたちにとっては十分に昂奮する事態である。
 列車の音がしたので改札口に行ってそれを眺めたが、その時間に来たのは貨物列車であった。こんな時間まで列車が走ることに感心した。いや、時刻表を好んで読んだ結果知識としてはあったが、自分の眼で確認できたのが感動的だ。
 改札口の上の発車案内は、上りが京都行、下りが出雲市(いずもし)行の、それぞれ普通列車であった。発車時刻はいずれも二時少し前、両者は二分か三分しか違わなかった。これも、山陰本線にそういう夜行普通列車があることは知っていたが、ほんとに走ってるんだ、と思ったことである。その上下列車がこの八鹿で交換することには、初めて気づいた。
 しかし、さすがにそれらの発着を見ることはできなかった。

 駅前の交番に備付けのスピーカーが告げた。八鹿から鉢伏へ向かう途中の国道9号上で、マイクロバスが横転して道を塞いでいる、という。名を聞けば、さっき迎えに来ていたホテルのバスであった。羨ましく眺めたあのバスが、とわたしたちは顔を見合わせた。
 しかし国道が通行止となると、鉢伏に向かうのはいよいよ難しくなったわけである。どうするのか、と思っていると、リーダーらがどのように探し交渉したのか、八鹿市街のホテルだったか旅館だったかにわたしたちは入ることになった。さすがに朦朧としている低学年の子らとその荷物を手分けして背負ったり提げたりし、わたしたちは雪を踏みしめ二転三起しつつ移動した。
 その宿のことは何も覚えていない。わたしも、荷物を置くや布団に倒れ込んだのであろう。

 そんなことがあった翌日なので、二日めの日曜日、わたしたちが始動したのは昼近くになってからであった。全但バスで豊岡に移動したのは確かだ。どこか見学したように思うし、昼食もとったはずだが、あまり記憶がない。
 ただ、昼食の席に、この日の朝神戸を発った職員が応援に駆けつけ合流したことを覚えている。今考えると、応援というよりも、予定外の交通費や宿泊費の支出に、リーダーらの手持ちが少なくなったのを補充しに来たのではないか、と思う。ATMなどない時代だ。
 夕方になると、これも急遽交渉してくれたものと思われるが、豊岡市内の但馬文教府という県立の施設に入った。現在はやっていないようだが、当時は宿泊も受け付けていたらしい。
 そこで、大きなガラス窓から降り続く雪を見つつ、夕食をとった。どのような手配の結果なのか、アコーディオンで弾き語りをするおじさんが現れ、「但馬恋しや」なるご当地ソングを聴かせてくれた。
 リーダーの部屋割に従って荷物を運び込んだ。男子全員とリーダー一人、十人あまりが一室に固まった。わたしたちは、空だった押入れの下段を列車に見立て、全員が押し合いながら入り、超満員です、などとアナウンスの真似をしながら襖を閉める「はまかぜごっこ」に興じた。研修にも使う部屋なので、和室には場違いな黒板が部屋に備えつけられていた。それへの落書きも、わたしたちの娯楽となった。

 明けると最終日、建国記念の日となる。飛び込みで宿泊したわたしたちは、部屋を早々に明け渡さねばならなかった。その日施設で結婚式が行われることになっており、わたしたちの泊まった部屋は花嫁さんの控室になる、とのことであった。
 わたしはふと思いついて、黒板に見も知らぬ花嫁さんへの祝辞を書いた。部屋のメンバー全員が、わたしに倣った。
 荷物を持ってロビーに集まったが、帰りの列車は午後だし、かといっていよいよ深まる雪に、どこへも行きようがない。
 わたしたちは施設の庭へ出た。丘の上にある施設なので、雪に覆われた坂道が庭から始まっていた。それはまるでゲレンデのように見えた。わたしはまたもや頭の中で回路がつながった気がして、自分のリュックから缶のフタを取り出した。それを尻に敷いて橇のようにすると、面白いように滑る。そんなわたしを見て、瞬く間に全員が同じ行動をとる。

 わたしはそのように、独自の発想力や企画力を発揮し、しかもそれを即行動に移す子供だった。それは既存の規範や常識に全くとらわれないものだった。思えば、後に研究者となる資質の萌芽があったとも言える。もっとも、浅慮や勇み足によって、こっぴどく叱られることもしばしばであった。この点も今もあんまり変わっていない。

 橇の遊びを堪能すると、昼になった。荷物を取りにロビーに戻ると、ウェディングマーチが大音量で響いた。角隠しがわたしたちの目の前をしずしず通りすぎた。
 食事の後、タクシーに分乗して豊岡駅に向かった。

2.4.上り臨時急行「銀嶺」

 帰りに乗ることにして団体券を用意してあったのは、臨時急行「銀嶺」大阪行であった。この「銀嶺」は、季節列車である急行「但馬3号」に併結される列車である。「但馬3号」は姫路止りだが、「銀嶺」の編成だけが大阪まで行くのである。これに乗って明石まで帰る。
 一昨日乗ったのが「但馬銀嶺」、これから乗るのがただの「銀嶺」、ということで頭が混乱しそうだったが、豊岡駅のホームに入ってきたディーゼルカーの長い編成を見ると、確かに前の方が「但馬」、後ろの車輌には「銀嶺」の愛称板がドア脇に入っていた。足し算して「但馬銀嶺」なのか、とわたしは変に納得した。
 「銀嶺」は城崎始発だが、既に自由席車は満席であった。わたしたちはまだ空いていた指定席車にとりあえず坐った。次の江原でもその席の人は乗って来なかったが、八鹿で席を譲り通路に立たねばならなかった。そればかりか、どんどん人が入ってきて、通路はぎゅうぎゅう詰めになった。わたしたちは車輌の中央部で互いの姿も見えにくくなったまま揺られた。

 姫路に着いたのは夕方になってからだが、降りる人はいない。それは当然で、姫路で降りるつもりの人は、最初から「但馬3号」の車輌に乗っているのだ。身動きとれないまま、切り離しと進行方向替えの数分間、停車したまま待つことになる。
 が、ここで、リーダーはこの旅何度めか、そして最後となる大胆な英断を下した。何となれば、このまま明石まで行ったとして、この混雑ではうまく降りられるかどうか、覚束ない。明石での停車時間は僅かであるはずだ。

 リーダーらは、四人掛けボックスに坐っているお客さんに手短かに事情を話し、窓を全開してもらった。幸いこのディーゼルカーの窓は、区切りの横桟がなく、一枚のガラスを上げることで全開できた。
 そして、一人のリーダーが窓からホームに出、車内のリーダーと協力してわたしたちのリュックをどんどん窓からホームに運び出す。次に低学年の子を同様にホームへリレーする。最後にわたしたち三・四年生が順に、自ら着座客の膝の間から足掛け上がりのようにして窓側のテーブルに足を載せ、鴨居に手をかけて身を乗り出した。ところを、リーダーが抱き取ってくれる。
 周囲のお客さんも、面白がって手を貸してくれた。ホームで点呼をとって全員がいることを確かめると、去る車窓に頭を下げながら手を振った。どこまでも予定が崩れる旅行であった。

 わたしもあちこち鉄道で旅してきたが、窓から乗降したのはこの時だけである。戦中の買出し列車、戦後の混乱期などはそれも普通のことだったそうだが、そんなムードがまだどこかに残存していたのだろうか。
 昨今の鉄道車輌は、そもそも窓が開かなかったり、開いても人が出入りできるほどの大きな開き方にはならないものがほとんどである。

 姫路で普通電車に乗り換えて、無事明石に戻った。わたしたちほぼ全員が風邪をひいて喉ががらがらであった。
 が、このスノーキャンプがつらい旅行だったという印象は、全くなかった。夜中まで駅前で過ごしたことや、窓から降りたことやは、やはり鉄道好きの友達への恰好の武勇伝となった。スノーなどという要素がどこへいったのかは、どうでもよかった。
 


3.631列車

 中学校に入ると、わたしは郷土史研究の部活に入った。中学生としては渋いテーマの部だが、運動が苦手で社会科が好きだったわたしには、ちょうどよかった。顧問の先生も熱心な方だった。
 この部では、長期休業になるたびに、「実地踏査」と称する旅行に出かけた。日帰りがほとんどだったが、夏休みには一泊になることもあった。
 入部して初めての実地踏査となる昭和51年8月の実地踏査は、竹田(たけだ)城跡の見学であった。

 わたしたちは、明石に集合し、普通電車で姫路に向かった。ここから播但線に乗る。
 旧型客車の列車に、わたしたち、特に鉄道に興味があるわけでもない部員までが、けっこうテンションを上げた。

 何といっても、客車列車は一気に旅行気分にしてくれるからである。

 旧型客車とは、出入口ドアが手動で、それを入ったデッキからもう一つドアを開けて車室内に入るタイプの客車である。四人掛けのボックスが並んでいるのが普通だった。出入口ドアは開けっ放しで走ることも珍しくなかった。子供同士で乗ったときはスリルを味わうため、座席が空いていてもデッキに立ったりすることもあった。塗装は茶色のと青色のとがランダムに混結されていて、わたしたちは些かでも上等に見える青い客車に好んで乗った。
 この当時、神戸あたりの東海道本線・山陽本線ではもう旧型客車の普通列車にはお目にかかれなくなっていたが、亜幹線やローカル線に入ると、旧型客車はまだあたりまえのように走っていた。播但線だけではなく、山陰本線・福知山線などでも、旧型客車は普通列車の主力であった。ちょっと遠出しようとなると、旧型客車に出会うわけである。

 乗ったのは姫路8時29分発の和田山行631列車だったと思われる。竹田は終点和田山の一つ手前の駅で、10時16分着であった。
 わたしたちは、駅の裏手にある登山口から山登りを始めた。登山口には地元の人が用意してくれたらしい、木の枝を折った手づくりの杖が缶に差してあった。一人一人それを持ち、一本道を辿る。登山道は比較的広く整備されていたが、傾斜はきつかった。途中に「○合目」と記した道標が立っており、励みになった。

 竹田城は、虎伏山(とらふすやま)の山頂に位置する典型的な山城である。室町時代の築城と言われ、戦国時代には再三繰り返された但馬と播磨(はりま)の小競り合いの、但馬側の基地になった。現存する山城としては、かなりの規模を誇り、石垣が完全な形で残っている。
 山頂に石垣を礎とする遺構が広がるさまを、ペルーのマチュピチュ遺跡に擬する人もいる。
 長年、地味な遺跡でしかなかったが、ここ数年になって、アニメからの連想で「天空の城」などと呼ばれるようになり、訪れる客が激増し、あれよあれよという間に付近随一の観光地に急成長した。
 もちろん、昭和51年当時は、夏休みとはいえ、山に人影はほとんどなかった。

 猛暑の平日に、他に登山する人に出会うことはなかった。はあはあ言いながら頂上に着いたわたしたちは、石垣に腰掛けて弁当を食べた。円山(まるやま)川とそれに沿った町並みがジオラマのように見えた。播但線の線路を「はまかぜ1号」が走って行くさまが小さな蟲のようだ。
 昼食後は、城の調査を始めた。といっても、石垣の寸法などを巻尺を二人でぴんと伸ばして測量したり、形状をスケッチしたり、熱心に作業しているのは顧問の先生と先輩たちであり、わたしたち一年坊主はそれを見学していればよかった。しかし、日陰もなく暑いなかでただ見学するのも飽きてくるので、鬼ごっこなどが始まる。
 竹田城にはクルマで登れる道もあり、城跡の少し下には駐車場もあった。何となくそこに集まったわたしたちは、そのままクルマの道を歩いて下山しはじめた。が、アスファルトが照り返して木の陰もない道は、却って辛かったし、杖も返せなくなった。麓に着くや、雑貨屋に飛び込んでジュースを求めた。

 帰りの列車は、竹田15時17分発の姫路行で、これはディーゼルカーなのであまり面白くなく、エンジンの熱で蒸しかえるような車内で、わたしたちは眠った。


 
4.629列車・季節急行「但馬6号」

 この部の夏季実地踏査では、昭和54年にも播但線を利用した。わたしはもう高校生になっていたが、OB参加である。この年は一泊旅行で、出石の町外れにある民宿に泊まったはずである。
 往路に乗ったのは、629列車で、列車番号は替わっているが、ダイヤはほぼ前回の631列車と同じである。この年もまだ旧型客車だったが、三年前と様子が違ったのは、ロングシートに改造された車輌が連結されていたことである。ローカル線とはいえ、朝ラッシュには乗客が集中し、詰め込みのきかないボックスシートでは捌ききれなくなっていたらしい。8時29分発の下りだから、朝ラッシュピークの列車の折返しなのだ。
 それにしても、旧型客車とロングシートというのはいくらなんでもミスマッチである。デッキからデッキまで、二十メートル近いロングシートに沿って吊革が揺れている。播但線や同じ姫路を起点とする姫新(きしん)線には、ディーゼルカーにも同様の改造車があった。
 わたしたちの前に停まったのがそういう車輌だったが、わたしは、こんな車輌に乗っても旅の気分が出ない、と敬遠し、後輩と二人で隣のボックスシート車に移ったが、顧問の先生は珍しがってロングシート車に乗り込んだ。大勢でしゃべりながら行くには、それもまた好都合なのであった。
 途中の砥堀(とほり)駅は通過した。この駅はディーゼルカーだけが停まり、客車列車は普通列車でも通過するのである。ホームが短かったり両側の駅との間隔が短かったり勾配の途中にあったりする小駅は、普通列車にも冷淡に通過されることが、この頃まではあたりまえに各地で行われていた。急加速や坂道発進が客車列車は特に苦手なのである。
 甘地(あまじ)のアナウンスが入ると、隣の車輌からどっと笑いが起きた。「甘っちょろい」を縮めた「あまち!」が顧問の先生が生徒を叱るときの口癖だったからである。わたしのボックスはというと、後輩と二人で対向列車や駅を評定しているので、鉄道や地理に興味がある、とみたのだろう。向かいのボックスの地元客らしいおじさんが、寺前の駅名は固有名詞ではなく単に寺の前にあるという意味なのだ、などと教えてくれた。
 わたしたちは9時53分着の生野で降りることになっていた。一つ手前の長谷(はせ)で、駅名標の次の駅名に「いくの」を見つけた気の早い後輩が、いそいそと荷物を下ろしてデッキに向かうのが連結部ごしに見えた。しかし、勝手を知ったわたしは悠然と車窓の渓谷を眺めている。長谷から生野までは、一駅だが十分はかかるのだ。

 生野駅の構内は、配線の都合で珍しく右側通行になっている。わたしたちの乗った下り列車は、表口の駅舎に面したホームに停車した。
 ここから生野銀山の見学に出かけたのだが、後輩である部長の立てたプランは、張り切りすぎたこともあってちょっと無理があった。駅から銀山までの距離をきちんと調べていなかったのである。バスで行くべき距離をわたしたちはとぼとぼと歩き続けねばならなかった。生野から乗るべき列車を予定より一本遅らせることにしたが、それでさえ銀山の遺構の内部を巡る時間はなくなり、入口の資料館を見学するに留めた。

 駅に戻って13時52分発の和田山行に乗る。これはディーゼルカーである。
 次の新井(にい)に停まると、鉄道好きの後輩がそわそわして窓からあたりを見わたしている。顧問の先生が、どうしたのか、と訊くと、「一円電車」の跡を探している、と言う。

 「一円電車」とは、この西方の山中にある明延(あけのべ)鉱山と神木畑(みこばた)選鉱所とを結んでいた鉱山鉄道である。非鉄金属の輸送が主な使命だが、そのついでに人を乗せる客車も連結していた。旅客輸送で利益を上げる意志も必要もなく、便宜上の運賃を1円と設定していたため、そう渾名されていた。
 明延と神木畑の間の軌道はこの時も現役であったが、さらに昔は、神木畑から新井に鉱物を運び出す軌道もあったという。しかしそれは早期に道路整備が成ったため、昭和32年に廃止されている。後輩が探していたのはその痕跡であったが、廃止から二十年以上を経過し、一目見てそれとわかる名残はないようであった。

 青倉を過ぎると、左の窓に竹田城の石垣を見上げることができる。わたしは窓からそれを指し示し、集まった後輩たちに、自分で調査したかのような顔で、解説を聞かせた。

 翌日までに出石城や日和山(ひよりやま)を見学し、帰りは豊岡から14時50分発急行「但馬6号」姫路行に乗った。六年前にあの「銀嶺」を併結していた列車である。あの時は3号を名乗っていたが、この間に国鉄列車の号数は下り奇数・上り偶数に改められたので、上りの三本めは6号となったのである。
 「但馬6号」は季節列車で、夏休み期間中は毎日運転されていたのだが、姫路までしか行かないせいか、がら空きであった。わたしたちは一輌を借り切ったようなかたちで、はしゃぎながら帰途を愉しんだ。


おわりに 

 その後も、父と福知山に出かけるときに播但線を利用することがあった。父には大阪から福知山線に乗る、という発想しかしなかったのだが、姫路発9時46分の季節急行「但馬3号」を利用することで、朝ご飯を食べてから神戸の家を出ても、昼どきには福知山に着ける、と分かり、わたしが進言したからである。
 しかもそれで帰りを福知山線経由にすれば、乗車券もぐるっと一周するルートになり、同じ道を往復するより安上がりになった。
 高校生にもなると、この種のことについては父よりわたしの方が長けるようになっていたのである。そしてそれ以後は、播但線にも一人で乗る機会が増えていくことになる。

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