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「あかつき82号」(震災臨時)の記録

 阪神淡路大震災から二カ月足らずの平成7年3月、西九州を訪れた。この旅行自体は震災とは特に関係なかったのだが、長崎から関西に帰ってくるのには当然鉄道不通の影響を受ける。
 その時わたしが乗ったのは、臨時寝台特急「あかつき82号」であった。今や本体の定期「あかつき」も廃止されて久しく、ましてこういう期間限定の臨時列車の記憶は薄れがちになる。その時のことを書き留めておく。

 現在もはや山陽線を通って九州に発着する夜行列車は全くないので、信じられない人もいるかもしれないが、当時は東京と九州を結ぶ寝台特急が三往復、関西と九州を結ぶ寝台特急が三往復、合計六往復も設定されていたのである。このほかに、東京~下関(しものせき)間の列車も一往復あった。
 しかし、それらは神戸付近の線路が不通となったため、全て運休となっていた。そして、これら列車の利用客に便を提供するため、JRは「あかつき81・82号」(京都~長崎・佐世保(させぼ))と「なは81・82号」(新大阪~熊本)の二往復の臨時寝台特急を運行しはじめた。

 このあたりに、寝台列車の需要のありさまが現れている。時代とともに急速に変化、というより衰退した需要がである。
 これらの列車は、不通区間を避けて、大阪~姫路(ひめじ)間で福知山(ふくちやま)線・播但(ばんたん)線を経由して運転された。福知山線・播但線、それに加古川(かこがわ)線は、昼間にも迂回ルートとして活用されていたが、接続駅での乗換えが必要で、迂回ルートをまたいで両方向へ直通運転していたのは、この二往復の臨時寝台特急だけであった。
 新幹線が姫路以西の折返し運転だったように、不通区間をカットした区間運転、つまり姫路以西でのみ運転するかたちをとったとしても、被災地の状況を考えればそれほど文句は出なかったであろうに、迂回してまで新大阪・京都発着としたところは良心的であった。
 東日本大震災では寝台特急「北斗星」が長期にわたって運休したが、だからといって代替列車が設定されることもなかった。阪神淡路大震災当時の寝台特急が、まだ実用的な輸送力を提供していたということだ。
 が、その反面、七往復が運休しているのに臨時寝台特急が二往復だけ、というのは、震災ゆえに旅行を控える人もいたことは計算に入れる必要があるが、単純にいえば五往復分は無ければ無いで済む列車であったことにもなり、寝台特急の凋落傾向のなかにあったとも言える。山陽新幹線博多開業前の昭和四十年台に震災が起きていたとしたら、とてもこんなものでは済まず、姫路発着とか山陰線経由京都発着とか、多数の臨時夜行が運転されたことだろう。

 おそらく急遽運転計画が立てられた臨時列車だからであろう、寝台券を買ったときも、「みどりの窓口」の人は要領を得ないようであった。時刻表に編成も載っていないし、わたしは定期「あかつき」のように個室があるのならそれに乗りたいと思って、そのように所望したのだが、そもそも連結されているのかいないのかが窓口でも分からない。
 駅員さんは、資料を調べたりどこかに電話したりしたが、いっこうに明らかにならないようで、調べてみてあるようなら確保しておく、とのことで、一旦帰宅した。
 その日の夜自宅に電話があって、結局「あかつき82号」は開放式B寝台だけの編成だと分かったので、とりあえずB寝台下段を確保した、これでよければ引き取りに来てほしい、ということだったので、わたしはそれを買った。

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 3月14日火曜日、わたしは駅内外の店でいろんな物を買い込んで、長崎駅の改札を入った。既に「あかつき82号」京都行が入線していた。B寝台車ばかり僅か四輌という、寝台列車としてはずいぶん淋しい編成である。ホームの売店には客が群がっている。何の設備もない列車に面食らって、慌てて買い物をしているのだろう。
「本日、寝台は満席です。寝台券のない方はご乗車いただけません」
 と放送が入る。観光シーズンでもない平日に満席とは意外だが、六往復を二往復に集約した結果でもあり、短い編成だからでもある。
 寝台は四席で一区画だが、わたしの区画は始発駅の長崎で、既に三席が埋まった。わたしは下段が取れていたが、向かいの上下段に入ったのは、地元長崎の老夫婦であった。その老夫婦と、
「よろしくお願いします」
 と挨拶を交わした。

 17時05分に「あかつき82号」は発車した。平常ダイヤであれば、この時間に特急で出発して博多で新幹線に乗り継げば、その日のうちに新大阪に着くことができる。
 が、その山陽新幹線も姫路以東不通のため、このときは無理であった。姫路~大阪の迂回手段はいろいろあったとはいえ、うまく乗り継げるかどうかに不安が残る。だから、直通のこの列車にも人気があるのだろう。 

 長崎17時05分という発車時刻は、定期の寝台特急「さくら」東京行と同じである。姫路までは「さくら」のダイヤで行くのである。同様に、熊本発の「なは82号」も姫路までは東京行「はやぶさ」のダイヤを踏襲していた。
 ただし、停車駅は追加されている。定期「さくら」の大阪までの停車駅は、諫早(いさはや)・肥前鹿島(ひぜんかしま)・肥前山口(やまぐち)・佐賀・鳥栖(とす)・博多(はかた)・小倉(こくら)・門司(もじ)・下関・宇部(うべ)・小郡(おごおり)・徳山(とくやま)・岩国(いわくに)・姫路となっていたが、「あかつき82号」は防府(ほうふ)・柳井(やない)・岡山にも停車する。これは、同様に運休している寝台特急「富士」(南宮崎~東京)と「あさかぜ」(下関~大阪)の停車駅をカバーするためと思われた。姫路には停車しないが、これは「さくら」の姫路は降車を想定した停車だからだろうか。
 一方で、定期「あかつき」が停車する黒崎(くろさき)・福山(ふくやま)・倉敷(くらしき)は追加されていない。「あかつき」は姫路にも停まるのだが。してみると、どうもこの臨時寝台特急は、愛称名に反して、「あかつき」よりも「さくら」など東京発着列車の代替として設定されているらしい。
 それなら、例えば迂回区間経由で東京~岡山などといった臨時寝台列車の運行もあってよさそうだったとも思うが、いろいろな都合でこうなっていたのだろう。

 まだベッドをセットして眠るには早すぎるが、早春だからすぐに日が暮れてきた。本も持ち込んでいるが、退屈である。
 18時27分に肥前山口に着いた。ここで十八分も停車し、佐世保から来た三輌を前に連結する。これで七輌連結となって、何とか幹線を走る列車らしくなったが、それでも普段の「さくら」「あかつき」に比べると淋しい。迂回区間の播但線はローカル線であり、あまり長い編成が入れないからだろう。また、迂回ルートでも加古川線経由の方が距離が短いのに播但線経由となったのも、加古川線はさらに編成輌数の制約が厳しかったからと思われる。

 停車中に、長崎を後に出た特急「かもめ34号」博多行が追いついて来て、先に発車して行く。あちらはJR九州最新の特急車輌で、ビュッフェも営業している。それなら、ここまで、あるいは博多まで、あっちに乗ってきてもよかったか、と後悔する。この「あかつき82号」は夜行列車なのに食堂車も売店もないのだ。定期「さくら」なら食堂車を連結しており、既に食堂営業はしていなかったが、売店として営業し、弁当などを売っていた。テーブルでそれを食べることもできた。が、それもこの列車には連結していない。
 ここで、向かいの老夫婦も持参の弁当を広げたので、安心してわたしも駅弁を食べる。挨拶までした相席の人をほっといて食事するのは気がひける。

 博多を出て二十時頃になると、老夫婦はカーテンを閉めて寝てしまった。わたしには早い時間だし、もう少し起きていたい。幸いわたしの寝台は右側の前向きである。対向列車や駅の観察には都合がよい。
 車内はけっこう人いきれがしてきた感じもする。空いていた寝台も、博多でほぼ埋まった。ただし、わたしの上段は空いたままである。
 門司と下関でそれぞれ機関車の付替えをし、山陽線に進む。ここでおやすみ放送が入り、本州に入ってからの停車駅では、わたしの周囲に人の動きはない。22時41分に徳山を出たところで、わたしも寝ることにした。

 わたしは眠ったままだったが、岡山を2時21分に発車している。その次は大阪まで停まらないが、迂回ルートを通るので、七時間近くもかかる。寝台特急とはいえ、ずいぶん長時間の無停車である。もっともドアが開かないだけであって、運転停車する駅がいくつもあるはずだ。
 神戸方面への連絡を考えると、姫路・三田(さんだ)・宝塚(たからづか)ぐらいには停まってもいい気がするのだが、なぜか停まらない。

 目が醒めると、列車は昨夜と逆向きに走っている。迂回区間の途中、和田山(わだやま)で進行方向替えがあったのである。わたしの直上もカーテンが閉まっている。広島あたりで乗ってきたのであろうか。
 福知山線は乗り慣れているので大体分かるが、柏原(かいばら)あたりを走っているようである。単線に割り込ませたダイヤで、しかも朝ラッシュなので、駅ごとに交換待ちをして、なかなか進まない。
 おはよう放送が入り、朝食弁当の販売の案内もある。途中の丹波大山(たんばおおやま)という小さな駅に運転停車し、そこで弁当販売のワゴンが乗り込んだ。おそらく篠山口(ささやまぐち)の駅弁業者であろう。そういう車内販売があるのは意外なことで、予想していなかったので、わたしは朝食用のパンを買ってある。それを食べる。

 向かいのおじいさんが、
「この辺はもう被災地なんですかね」
 とわたしに訊く。
「もう少し先が、被害の大きかった地域ですね。宝塚を過ぎたら、ブルーシートをかけた家がたくさんありますよ」
 と教えてさしあげる。わたしが言うまでもなく、宝塚あたりで車掌さんの放送が入った。
「阪神淡路大震災で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。窓からも被災された家屋が見えております。一日も早い復興をお祈り申し上げます。また、本日は迂回運転でご不便をおかけいたしますことをお詫びいたします」
 その放送をきっかけにしたように、降り支度を始める人が多くなる。わたしの上の段からも、三十歳台くらいの男性が降りてきて、わたしたちに挨拶し、窓外に目をやった。男性は大阪へ出張とのことで、通路に斜め下を向いて取り付けられている鏡を見ながら髭を剃ると、ぎゅっとネクタイを締めた。この頃、寝台列車にもまだまだビジネス利用があったのである。
 被災地に敬意を表するわけではないだろうが、列車はかなりゆっくり走っている。もう複線区間に入っているとはいえ、列車本数の多い所だから、普通列車を追い抜けないでいるのだろう。

 9時12分、定期「あかつき」に比べると二時間近く遅れて大阪に着く。車内は一気に空いて、この車輌は十人ほどだけになった。十分停車してから発車する。その間に、住吉(すみよし)始発の新快速堅田(かたた)行が着き、先に出て行く。ここから一駅だけ、定期「なは」のダイヤに乗る。
 9時26分新大阪着。ここで、当時はまだ一時間に一本程度しかなかった新幹線「のぞみ」に乗継ぐと、12時24分に東京に着けた。定期「さくら」の東京着は11時29分だから、まずは代替列車の役を果たしていると言えよう。しかし、それらしく新大阪で降りる客はあまり多くない。

 終着京都には9時57分に着いた。観光を始めるにはちょうどいい時間だが、平日なのでそういう客もまた少ない。

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 結局、わたしがこの臨時寝台特急に乗ったのもこの一回限りとなった。
 この旅行から帰ってすぐ、東海道線が4月1日から全線復旧することが決定し発表された。3月限りで臨時寝台特急も運転を終了し、定期列車が再開するわけである。しかし、JRの指定券は一カ月前から発売するので、既に4月16日分までの寝台券を発売してしまっていた。
 
 このため、既に寝台券を買った人には、定期列車の寝台券への発行替えを行い、16日までの「さくら」「はやぶさ」「なは」「あかつき」は、「あかつき81・82号」「なは81・82号」の停車駅を全てカバーするように臨時停車する措置がとられた(写真は、運転再開とそれに伴う措置を知らせるリーフレット)。下り「なは」は、「なは81号」のダイヤに合わせて発車時刻を遅らせるようにもなっていたのである。

 以上が、震災臨時列車としての「あかつき82号」の乗車とその周辺の記録である。
 「あかつき81・82号」を名乗る列車は、それ以前にも多客期の臨時列車として運転されたことがあるが、ブルートレイン最初期の狭い寝台だったので、特急を名乗るに忍びなくなり、やがて急行「雲仙」に格下げされた。これは、震災の前年ごろまでは運転されていたのだが、その後は運転されなくなった。これをみても、震災の頃がちょうど寝台特急の転換点であったようである。

(平成7年3月乗車)

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