特急「雷鳥」最後の華

 関西との往復には特急「雷鳥」を使うことが多い(他にも選択肢はできたのだが、これはまた別記事で)。

 その「雷鳥」をテコ入れするためのキャンペーンが、この夏実施された。いろいろなイベントのなかでも、すばらしいと思ったのが「雷鳥御膳」である。

 この、7~9月に実施された「この夏は「雷鳥」号で出かけよう!」というキャンペーンは、三本立てである。
 まず、小学生以下の乗客には雷鳥号をあしらったピンバッジがもれなくプレゼントされる。しかも月ごとに車輌デザインが替えられ、子供心をくすぐるしくみになっている。
 次に、「雷鳥」停車駅のスタンプを集めて応募すると、このピンバッジを収納するケースが抽籤で当たる。
 ここまでは子供相手。最後の一つが特製弁当「雷鳥御膳」なのである。

 北陸本線で初めての特急は、昭和36年、大阪~青森・上野間に運転開始された「白鳥」であった。大阪~青森間の編成と大阪~上野間の編成各七輌であり、大阪~直江津間は双方を併結し、十四輌編成で走っていたのだ。しかも食堂車を二輌連結するという豪華列車である。
 青森編成は関西と東北・北海道連絡が主たる使命である。そして、上野編成は首都圏と信州・北陸の連絡、関西と北陸・信州の連絡と二つの使命を併せ持った、現在の北陸新幹線(計画)を図らずも先取りした列車だった。

 利用者の特急志向が昂じ、関西~北陸間の需要を「白鳥」だけで捌ききれなくなったため、これをサポートする特急が昭和39年に誕生した。これが「雷鳥」(大阪~富山間)だ。
 その後、「白鳥」の上野編成は「はくたか」(漢字で書くなら「白鷹」)として独立し、「白鳥」は大阪~青森間となる。
 余談ながら、この三つの特急の愛称の関係性は見事である。同じ関西~北陸特急であることを「鳥」の字を共通させて表し、出自が同じ北陸特急であることを「はく」の音と鳥の名をつけることで表している。国鉄も結構几帳面だったのだ。さらにその後、「はくたか」を別経路で増発した特急の愛称は「白山」、新幹線を介して首都圏~北陸連絡の一端を担う北陸線特急は「しらさぎ」(漢字なら「白鷺」)となった。

 「雷鳥」はダイヤ改正のたびにどんどん本数を増やしていった。大阪~金沢間を運転するもの、新潟まで足を伸ばすものなど、バリエーションも生まれたが、北陸本線の花形はあくまで長距離の「白鳥」であり、「白鳥」は「雷鳥」より停車駅も少なめであった。
 国鉄末期になると、「雷鳥」の増発に伴い急行が廃止されていったため、「雷鳥」はかつての急行停車駅もカバーする必要が出てきた。そうなっても、「白鳥」は気軽にそれらの駅には停まらなかった。福井県内で言えば、敦賀・福井・芦原温泉にしか停まらなかったのである。「雷鳥」はやっぱり二番手の特急だったのだ。

 JRの時代に入る。
 「雷鳥」は新幹線のように速達型と主要駅停車型とに分けることとなり、一部車輌の内装をグレードアップし「スーパー雷鳥」(大阪~富山など)とした。主に県庁所在地間の連絡に徹するため、途中の停車駅は、新大阪・京都・福井・金沢・高岡のみという、当時としては大胆なもので、「白鳥」よりも停車駅が少なくなった。「白鳥」は「雷鳥」ともども食堂車もなくなり、軽食ラウンジ付だった「スーパー雷鳥」に比べて精彩を欠いた。ただし、車輌は「雷鳥」よりはやや上等なものだった。
 「スーパー雷鳥」は、西は神戸へ、臨時列車としても、長野へ、あるいは和倉温泉へ、さらに富山地方鉄道に乗り入れて立山・宇奈月温泉へ、と版図を拡大した。
 「雷鳥」は「スーパー雷鳥」・「白鳥」に次ぐ三番手の特急に成り下がった。ただ、一部の「雷鳥」には「白鳥」「スーパー雷鳥」用のグレードアップ編成が間合いで使用されたのが、救いであった。

 さらなる転機が訪れる。
 関西~北陸間特急の後継となるべき新型車輌が作られた。これが、平成7年から「スーパー雷鳥」に投入された。そして平成9年には、愛称も現在の「サンダーバード」となった。この時、「白鳥」は「雷鳥」と同様の車輌に置き換えられたうえ、停車駅も「雷鳥」なみに増えた。武生や鯖江などにも停まるようになったのである。いよいよ貫祿が失われ、単なる「遠くまで行く雷鳥」になってしまった。
 平成13年には新型車輌の増備に伴い、「スーパー雷鳥」・「白鳥」や大阪~富山・新潟間など運転の「雷鳥」が廃止された。「サンダーバード」は大阪~富山・和倉温泉間、「雷鳥」は大阪~金沢間と運転区間もはっきり分けられた。「雷鳥」が運転される時間帯も、朝夕の混雑時が中心となり、閑散時は運転されなくなった。分かりやすくはなったが、「雷鳥」凋落は決定的となった(「雷鳥」のない時間帯は、「サンダーバード」が「雷鳥」の停車駅もカバーする)。

 こうして常に二番手・三番手の立場を強いられてきた「雷鳥」である。大阪駅などで発車の様子を見ていても、次の「サンダーバード」の自由席に長蛇の列ができるなか、「雷鳥」は空席を残して発車していく、という光景に時々出くわす。「雷鳥」が「サンダーバード」に抜かれることはなく、先発した列車が先着するのだが、皆が綺麗で速い列車を好む。
 JR西日本も、これではいけないと考え、特に夏の多客期には、「雷鳥」に客を誘致して、乗車率を平準化し、「サンダーバード」の混雑を緩和するため、このようなキャンペーンにうってでたのだろう。
 87131215 本来、「雷鳥」がかつての急行のような役割、「サンダーバード」の補完の役割になっていること、そして客室設備や速度に歴然たる差があることから考えても、「雷鳥」を急行に格下げするなり、「雷鳥」限定の割引切符を設定するなりして料金差をつけるのが正道だとは思うが。

 というわけで、「雷鳥御膳」にやっと話が戻る。「雷鳥」の車内でしか購入できない特製だ。
 この期間限定弁当は、金沢市内中心部に店を構える加賀料理の老舗料亭「大友楼」が献立を担当したもので、流石に駅弁の折という制約のなかで、華やかな彩りを見せてくれている。
 おかずのなかでも気に入ったのは、蟹の甲羅焼である。付いているお品書きを見ても、これがメインディッシュ扱いのようだが、甲羅の中に魚のすり身と卵を混ぜたものに人参などの野菜のみじん切りをも練り込んだものが詰められ、それを焼いてあるのである。和風カニグラタンという感じだが、それよりは歯応えがしっかりしていて、蟹の風味がほんのりとすり身とマッチし、美味しい。
 天ぷらは、甘エビ・烏賊・蓮根・薩摩芋と、どれも一口サイズで、べたつかない。冷めても美味しいよう、工夫が施されているのだろう。これらは抹茶塩でいただく。
 その他のおかずも上品である。駅弁の定番である焼鮭にしても、まさに駅弁にありがちなしつこい塩辛さがないし、骨も気にならない。鴨のパストラミは一切れではもの足りないほど。雲丹があまり好きでないわたしも、雲丹を絡ませた烏賊の絶妙な甘みと香りは堪能できた。
 さて、蟹が福井名産であることはすぐにお分かりであろうが、どの辺が加賀料理かというと、天ぷらの薩摩芋、これが代表的な加賀野菜の一つである「五郎島金時」という石川県沿岸部で獲れる品種なのである。
 これらはいいとして、ご飯が白ご飯の他、鱒の押し鮨も二切れ入っているのはどういうわけか。鱒寿司といえば、富山の名産ではないか。
 前述のように、現在の「雷鳥」は富山には行かないのである。北陸三県の顔を立てたのかもしれないが、これでは「雷鳥」の宣伝にはならない。若狭の鯖寿司にしてほしかったところだ。この点だけが残念である。
 まあしかし1200円でこのおかずの種類の多さと味なら、破格のお得値と言えるだろう。87131183 89131762

 掛け紙も、雷鳥号の色彩豊かなイラストが華を添えており、側面には「雷鳥」の説明やヘッドマークもあしらわれている。こういうのを集める趣味はないので捨てたが、写真には撮っておいた。
 掛け紙に折というと、かつては駅弁として当たり前であったが、最近はコンビニ弁当のようなパックのし方が増えてきて、こういう駅弁駅弁した駅弁は珍しくなった。これも懐かしくてよい。
 この弁当は、期間中のほとんどの「雷鳥」で販売されたが、一部、午前中の大阪発列車では販売されなかった。つまり、調整してすぐに金沢で積み込んだものだけをその日のうちに販売している、ということであり、料亭の矜恃がうかがわれるし、安心である。

 「大友楼」は、金沢駅110周年の時にも特製弁当を作っている。83311211 83311203
 JR金沢支社と仲がよさそうである。今後もいろいろな企画で舌を楽しませてくれることを期待しよう。

 「雷鳥」の車輌は、あと数年のうちに新型に全て置き換えられ、廃車されることが発表されている。国鉄製の特急型車輌が国鉄当時の塗装のままで活躍している特急列車としても、もはや少数派になってきている。淋しくはあるが、いつかはくることである。列車名も「サンダーバード」に統一されるのか、「雷鳥」の名のまま新型になるのかはまだ分からないが、最後までしっかり北陸を支えつづけてほしいものだ。

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「あかつき82号」(震災臨時)の記録

 阪神淡路大震災から二カ月足らずの平成7年3月、西九州を訪れた。この旅行自体は震災とは特に関係なかったのだが、長崎から関西に帰ってくるのには当然鉄道不通の影響を受ける。
 その時わたしが乗ったのは、臨時寝台特急「あかつき82号」であった。今や本体の定期「あかつき」も廃止されて久しく、ましてこういう期間限定の臨時列車の記憶は薄れがちになる。その時のことを書き留めておく。

 現在もはや山陽線を通って九州に発着する夜行列車は全くないので、信じられない人もいるかもしれないが、当時は東京と九州を結ぶ寝台特急が三往復、関西と九州を結ぶ寝台特急が三往復、合計六往復も設定されていたのである。このほかに、東京~下関(しものせき)間の列車も一往復あった。
 しかし、それらは神戸付近の線路が不通となったため、全て運休となっていた。そして、これら列車の利用客に便を提供するため、JRは「あかつき81・82号」(京都~長崎・佐世保(させぼ))と「なは81・82号」(新大阪~熊本)の二往復の臨時寝台特急を運行しはじめた。

 このあたりに、寝台列車の需要のありさまが現れている。時代とともに急速に変化、というより衰退した需要がである。
 これらの列車は、不通区間を避けて、大阪~姫路(ひめじ)間で福知山(ふくちやま)線・播但(ばんたん)線を経由して運転された。福知山線・播但線、それに加古川(かこがわ)線は、昼間にも迂回ルートとして活用されていたが、接続駅での乗換えが必要で、迂回ルートをまたいで両方向へ直通運転していたのは、この二往復の臨時寝台特急だけであった。
 新幹線が姫路以西の折返し運転だったように、不通区間をカットした区間運転、つまり姫路以西でのみ運転するかたちをとったとしても、被災地の状況を考えればそれほど文句は出なかったであろうに、迂回してまで新大阪・京都発着としたところは良心的であった。
 東日本大震災では寝台特急「北斗星」が長期にわたって運休したが、だからといって代替列車が設定されることもなかった。阪神淡路大震災当時の寝台特急が、まだ実用的な輸送力を提供していたということだ。
 が、その反面、七往復が運休しているのに臨時寝台特急が二往復だけ、というのは、震災ゆえに旅行を控える人もいたことは計算に入れる必要があるが、単純にいえば五往復分は無ければ無いで済む列車であったことにもなり、寝台特急の凋落傾向のなかにあったとも言える。山陽新幹線博多開業前の昭和四十年台に震災が起きていたとしたら、とてもこんなものでは済まず、姫路発着とか山陰線経由京都発着とか、多数の臨時夜行が運転されたことだろう。

 おそらく急遽運転計画が立てられた臨時列車だからであろう、寝台券を買ったときも、「みどりの窓口」の人は要領を得ないようであった。時刻表に編成も載っていないし、わたしは定期「あかつき」のように個室があるのならそれに乗りたいと思って、そのように所望したのだが、そもそも連結されているのかいないのかが窓口でも分からない。
 駅員さんは、資料を調べたりどこかに電話したりしたが、いっこうに明らかにならないようで、調べてみてあるようなら確保しておく、とのことで、一旦帰宅した。
 その日の夜自宅に電話があって、結局「あかつき82号」は開放式B寝台だけの編成だと分かったので、とりあえずB寝台下段を確保した、これでよければ引き取りに来てほしい、ということだったので、わたしはそれを買った。

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 3月14日火曜日、わたしは駅内外の店でいろんな物を買い込んで、長崎駅の改札を入った。既に「あかつき82号」京都行が入線していた。B寝台車ばかり僅か四輌という、寝台列車としてはずいぶん淋しい編成である。ホームの売店には客が群がっている。何の設備もない列車に面食らって、慌てて買い物をしているのだろう。
「本日、寝台は満席です。寝台券のない方はご乗車いただけません」
 と放送が入る。観光シーズンでもない平日に満席とは意外だが、六往復を二往復に集約した結果でもあり、短い編成だからでもある。
 寝台は四席で一区画だが、わたしの区画は始発駅の長崎で、既に三席が埋まった。わたしは下段が取れていたが、向かいの上下段に入ったのは、地元長崎の老夫婦であった。その老夫婦と、
「よろしくお願いします」
 と挨拶を交わした。

 17時05分に「あかつき82号」は発車した。平常ダイヤであれば、この時間に特急で出発して博多で新幹線に乗り継げば、その日のうちに新大阪に着くことができる。
 が、その山陽新幹線も姫路以東不通のため、このときは無理であった。姫路~大阪の迂回手段はいろいろあったとはいえ、うまく乗り継げるかどうかに不安が残る。だから、直通のこの列車にも人気があるのだろう。 

 長崎17時05分という発車時刻は、定期の寝台特急「さくら」東京行と同じである。姫路までは「さくら」のダイヤで行くのである。同様に、熊本発の「なは82号」も姫路までは東京行「はやぶさ」のダイヤを踏襲していた。
 ただし、停車駅は追加されている。定期「さくら」の大阪までの停車駅は、諫早(いさはや)・肥前鹿島(ひぜんかしま)・肥前山口(やまぐち)・佐賀・鳥栖(とす)・博多(はかた)・小倉(こくら)・門司(もじ)・下関・宇部(うべ)・小郡(おごおり)・徳山(とくやま)・岩国(いわくに)・姫路となっていたが、「あかつき82号」は防府(ほうふ)・柳井(やない)・岡山にも停車する。これは、同様に運休している寝台特急「富士」(南宮崎~東京)と「あさかぜ」(下関~大阪)の停車駅をカバーするためと思われた。姫路には停車しないが、これは「さくら」の姫路は降車を想定した停車だからだろうか。
 一方で、定期「あかつき」が停車する黒崎(くろさき)・福山(ふくやま)・倉敷(くらしき)は追加されていない。「あかつき」は姫路にも停まるのだが。してみると、どうもこの臨時寝台特急は、愛称名に反して、「あかつき」よりも「さくら」など東京発着列車の代替として設定されているらしい。
 それなら、例えば迂回区間経由で東京~岡山などといった臨時寝台列車の運行もあってよさそうだったとも思うが、いろいろな都合でこうなっていたのだろう。

 まだベッドをセットして眠るには早すぎるが、早春だからすぐに日が暮れてきた。本も持ち込んでいるが、退屈である。
 18時27分に肥前山口に着いた。ここで十八分も停車し、佐世保から来た三輌を前に連結する。これで七輌連結となって、何とか幹線を走る列車らしくなったが、それでも普段の「さくら」「あかつき」に比べると淋しい。迂回区間の播但線はローカル線であり、あまり長い編成が入れないからだろう。また、迂回ルートでも加古川線経由の方が距離が短いのに播但線経由となったのも、加古川線はさらに編成輌数の制約が厳しかったからと思われる。

 停車中に、長崎を後に出た特急「かもめ34号」博多行が追いついて来て、先に発車して行く。あちらはJR九州最新の特急車輌で、ビュッフェも営業している。それなら、ここまで、あるいは博多まで、あっちに乗ってきてもよかったか、と後悔する。この「あかつき82号」は夜行列車なのに食堂車も売店もないのだ。定期「さくら」なら食堂車を連結しており、既に食堂営業はしていなかったが、売店として営業し、弁当などを売っていた。テーブルでそれを食べることもできた。が、それもこの列車には連結していない。
 ここで、向かいの老夫婦も持参の弁当を広げたので、安心してわたしも駅弁を食べる。挨拶までした相席の人をほっといて食事するのは気がひける。

 博多を出て二十時頃になると、老夫婦はカーテンを閉めて寝てしまった。わたしには早い時間だし、もう少し起きていたい。幸いわたしの寝台は右側の前向きである。対向列車や駅の観察には都合がよい。
 車内はけっこう人いきれがしてきた感じもする。空いていた寝台も、博多でほぼ埋まった。ただし、わたしの上段は空いたままである。
 門司と下関でそれぞれ機関車の付替えをし、山陽線に進む。ここでおやすみ放送が入り、本州に入ってからの停車駅では、わたしの周囲に人の動きはない。22時41分に徳山を出たところで、わたしも寝ることにした。

 わたしは眠ったままだったが、岡山を2時21分に発車している。その次は大阪まで停まらないが、迂回ルートを通るので、七時間近くもかかる。寝台特急とはいえ、ずいぶん長時間の無停車である。もっともドアが開かないだけであって、運転停車する駅がいくつもあるはずだ。
 神戸方面への連絡を考えると、姫路・三田(さんだ)・宝塚(たからづか)ぐらいには停まってもいい気がするのだが、なぜか停まらない。

 目が醒めると、列車は昨夜と逆向きに走っている。迂回区間の途中、和田山(わだやま)で進行方向替えがあったのである。わたしの直上もカーテンが閉まっている。広島あたりで乗ってきたのであろうか。
 福知山線は乗り慣れているので大体分かるが、柏原(かいばら)あたりを走っているようである。単線に割り込ませたダイヤで、しかも朝ラッシュなので、駅ごとに交換待ちをして、なかなか進まない。
 おはよう放送が入り、朝食弁当の販売の案内もある。途中の丹波大山(たんばおおやま)という小さな駅に運転停車し、そこで弁当販売のワゴンが乗り込んだ。おそらく篠山口(ささやまぐち)の駅弁業者であろう。そういう車内販売があるのは意外なことで、予想していなかったので、わたしは朝食用のパンを買ってある。それを食べる。

 向かいのおじいさんが、
「この辺はもう被災地なんですかね」
 とわたしに訊く。
「もう少し先が、被害の大きかった地域ですね。宝塚を過ぎたら、ブルーシートをかけた家がたくさんありますよ」
 と教えてさしあげる。わたしが言うまでもなく、宝塚あたりで車掌さんの放送が入った。
「阪神淡路大震災で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。窓からも被災された家屋が見えております。一日も早い復興をお祈り申し上げます。また、本日は迂回運転でご不便をおかけいたしますことをお詫びいたします」
 その放送をきっかけにしたように、降り支度を始める人が多くなる。わたしの上の段からも、三十歳台くらいの男性が降りてきて、わたしたちに挨拶し、窓外に目をやった。男性は大阪へ出張とのことで、通路に斜め下を向いて取り付けられている鏡を見ながら髭を剃ると、ぎゅっとネクタイを締めた。この頃、寝台列車にもまだまだビジネス利用があったのである。
 被災地に敬意を表するわけではないだろうが、列車はかなりゆっくり走っている。もう複線区間に入っているとはいえ、列車本数の多い所だから、普通列車を追い抜けないでいるのだろう。

 9時12分、定期「あかつき」に比べると二時間近く遅れて大阪に着く。車内は一気に空いて、この車輌は十人ほどだけになった。十分停車してから発車する。その間に、住吉(すみよし)始発の新快速堅田(かたた)行が着き、先に出て行く。ここから一駅だけ、定期「なは」のダイヤに乗る。
 9時26分新大阪着。ここで、当時はまだ一時間に一本程度しかなかった新幹線「のぞみ」に乗継ぐと、12時24分に東京に着けた。定期「さくら」の東京着は11時29分だから、まずは代替列車の役を果たしていると言えよう。しかし、それらしく新大阪で降りる客はあまり多くない。

 終着京都には9時57分に着いた。観光を始めるにはちょうどいい時間だが、平日なのでそういう客もまた少ない。

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 結局、わたしがこの臨時寝台特急に乗ったのもこの一回限りとなった。
 この旅行から帰ってすぐ、東海道線が4月1日から全線復旧することが決定し発表された。3月限りで臨時寝台特急も運転を終了し、定期列車が再開するわけである。しかし、JRの指定券は一カ月前から発売するので、既に4月16日分までの寝台券を発売してしまっていた。
 
 このため、既に寝台券を買った人には、定期列車の寝台券への発行替えを行い、16日までの「さくら」「はやぶさ」「なは」「あかつき」は、「あかつき81・82号」「なは81・82号」の停車駅を全てカバーするように臨時停車する措置がとられた(写真は、運転再開とそれに伴う措置を知らせるリーフレット)。下り「なは」は、「なは81号」のダイヤに合わせて発車時刻を遅らせるようにもなっていたのである。

 以上が、震災臨時列車としての「あかつき82号」の乗車とその周辺の記録である。
 「あかつき81・82号」を名乗る列車は、それ以前にも多客期の臨時列車として運転されたことがあるが、ブルートレイン最初期の狭い寝台だったので、特急を名乗るに忍びなくなり、やがて急行「雲仙」に格下げされた。これは、震災の前年ごろまでは運転されていたのだが、その後は運転されなくなった。これをみても、震災の頃がちょうど寝台特急の転換点であったようである。

(平成7年3月乗車)

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誰かと乗った播但線

INDEX
 はじめに

 1.上り臨時急行「はしだてビーチ2号」(昭和47年8月)

 2.1.下り特急「はまかぜ2号」のはずが…
 2.2.下り臨時急行「但馬銀嶺3号」
 2.3.八鹿駅と豊岡近辺
 2.4.上り臨時急行「銀嶺」(以上、昭和49年2月)

 3.631列車(昭和51年7月)

 4.629列車・季節急行「但馬6号」(昭和54年8月) 

 おわりに 


はじめに

 播但(ばんたん)線は、兵庫県の中央部を南北に貫き陰陽を結ぶ、姫路(ひめじ)~和田山(わだやま)間のJR線である。
 ローカル線だが、一応昔から急行や特急が運行されてきた。山陰方面へは京都からは山陰本線、大阪からは福知山(ふくちやま)線がメインルートだったが、神戸から行こうとすると播但線になる。山陰の東端部にあたる豊岡(とよおか)や浜坂(はまさか)あたりは兵庫県なので、優等列車によって県都神戸と直結する必要があったのである。

 加えて、和田山で山陰本線に合流した先には、八鹿(ようか)・江原(えばら)といった駅がある。これらは、鉢伏(はちぶせ)や神鍋(かんなべ)にそれぞれ代表される山岳観光地の玄関口である。神戸からそういう高原へ観光旅行に出かけるには、やはり播但線が便利だった。
 だから、播但線は一人で乗ることが少ない線だった。


1.上り臨時急行「はしだてビーチ2号」

 わたしは神戸で生まれ育った。父の里は福知山である。だから、毎年お盆前後には父に連れられて福知山へ泊まりがけで旅行した。そのときのコースは、一旦大阪まで出て福知山線に乗ることが多かった。
 しかし、昭和47年、小学校三年生の夏は、曜日の関係で父の夏休みが長めにとれたのであろう、帰省に旅行をくっつけて、福知山の帰りに天橋立(あまのはしだて)に寄り、父の会社の寮に一泊した。海水浴をするため、帰省の時期もいつもの盆より少し早めにした。
 その天橋立からの帰途が、わたしが播但線に乗った最初であった。

 
 父とわたしは、荷物をまとめて国鉄宮津(みやづ)線(現・北近畿タンゴ鉄道宮津線)天橋立駅のホームに出た。既に青い客車が停まっている。これは、ここ始発の臨時急行「はしだてビーチ2号」である。当時は急行でもエアコンのない車輌がけっこう使われていたのだが、この客車は新型で、冷房が効いていた。わたしは、夏なのにこんな涼しい思いで旅行できることが、信じられなかった。
 せっかくの臨時急行なのに、この車輌には父とわたしの他、数人しか乗っていない。実は、当初の予定では福知山より先に天橋立に行くはずだったのだが、往路の「はしだてビーチ」の指定が取れなかったのである。父も拍子抜けしていたようだが、繁忙期にもエアポケットのような日があるものである。わたしたちは当然四人掛けボックスを独占できた。

 走りだした「はしだてビーチ」は、間もなく丹後山田(たんごやまだ)(現・野田川)で機関車付替えのために停車した。なんでこんなに早く付け替えるのか分からないが、夏のピーク時で車輌もフル稼働し、やりくりが複雑になっていたのかもしれない。父が、ここを起点とする加悦(かや)鉄道のディーゼルカーを指さして教えてくれる。
 この列車に連結されるために待機しているディーゼル機関車が隣のホームに停まっていた。凸形をした機関車である。随分変な形だな、とわたしは思った。しかも前と後ろでボンネット部分の長さが違い、片や三軸、片や二軸の車輪が支えている。それもまた不格好に見えた。毎年のように乗る福知山線の客車を牽くディーゼル機関車は箱型で前面が逆さに傾斜したカッコいい型だったので、それが普通だと思っていた。実際には、ディーゼル機関車は凸形が主流なのだが、そんなことを知るのはもっと後のことだ。
 急行といいながらのんびりと各所で交換待ちなどしながら宮津線を辿り、豊岡(とよおか)で山陰本線に合流する。ここでまた機関車交換である。
 わたしたちが乗ったのは前から二輌めだったので、車内からも機関車の背中がよく見えた。赤い凸形ディーゼル機関車が切り離され、遠ざかっていく。さて、次はどんなのが来るのか、と前を凝視していると、黒く四角い物が近づいてきて、そのまま客車に密着した。目玉のような赤いランプが二つ付いている。何だあれは。鉄道車輌には見えないな、と思っていると、父が事も無げに言った。
「あれ、蒸気機関車みたいやな」
 蒸気機関車の形はもちろん知っていたが、真後ろから見ることはあまりないので、気づかなかった。まさか自分の乗ったこんながら空きの列車を蒸気機関車が牽くなどとは思いもよらないことだった。わたしは仰天し、また昂奮した。

 既に蒸気機関車、つまりSLは、都市部や幹線筋からは姿を消し、地方線区で細々走るだけになっていた。たまに山陽本線などでSLの特別運行が行われることがあり、わたしもそれを見に行ったことがあるが、沿線は大変な人出になった。
 後から知ったところでは、わたしが知っていた箱型のディーゼル機関車は西ドイツ製の高性能車だったが、それだけに扱いが難しかったようで、車軸が折れたりする故障が多発していたらしい。それでその型が配置されている山陰地区では機関車不足が発生し、多客期には半ば引退状態で車庫の奥に眠っていた蒸気機関車を、叩き起こして使わざるを得なかったのである。わたしは幸運にもその運用に当たった。

 蒸気機関車に替わったせいか、「はしだてビーチ」の走りはいよいよのんびりしたように感じられた。播但線に入って生野(いくの)の峠を越える時は、上り坂でほとんど停まりそうなくらいにまで減速した。トンネルに入ると、車内に霧のように煙が流れた。エアコン付の客車だから、ドアも窓も閉め切っているはずなのだが、どこからか侵入してくるらしい。
 姫路平野に出ると、ようやく軽快な走りとなり、姫路駅にすべり込んだ。進行方向が替わるので、ここでまた機関車付替えである。わたしは、あの蒸気機関車が向きを替えて反対側に付くのか、と期待したが、父は冷静に、ここからは電気機関車だろう、と言った。その言葉どおり、今度は青い電気機関車が連結された。そうなってみると、ごく普通の客車列車でしかない。
 が、一本の列車を三種の動力の機関車が寄って集って牽いたわけで、過渡期の貴重な体験ではあった。もちろん、蒸気機関車の牽く列車に乗った、ということは、級友たちへの恰好の土産ないし自慢話となった。


2.1.下り特急「はまかぜ2号」のはずが…

 
 小学校四年生の冬、昭和49年の2月に連休があった。当時はもちろん週休二日は定着していなかったし、振替休日の制度も始まったばかりだったので、二連休でさえ珍しかった。そういうなか、11日の建国記念日が月曜日にあたったのである。半ドンの土曜午後から二日半にわたる旅行が可能となった。
 そういう時期に、わたしが所属していた神戸YMCAの支部で、土曜から月曜まで二泊三日のスノーキャンプが計画されており、わたしはそれに参加することになった。中学生以上が主体となるチームは「スーキャンプ」に行くのだが、わたしたち小学生は、行先はスキー場だが、スキーではなく単なる雪遊びがが目的である。それで「スーキャンプ」と銘打ったのである。スキー板ではなく缶のフタを持参するよう、指示されていた。
 二十人ほどの小学生を引率するのは、正規職員は中年の女性一人だけで、あとはわたしたちが「リーダー」と呼んでいた大学生ボランティア二名のみであった。今から考えると、よくこんな陣容にこんなことを任せるものだ、と思うが、それでいい時代だったのだろう。
 当初、YMCAの所有するバスに乗っていくことになっていたのだが、直前になり、このバスの運転手さんが体調を崩し、バスが使えなくなった。それで急遽播但線経由の列車で移動することになった。思いがけず列車に乗れることになり、わたしは小躍りした。しかも、乗る列車は特急「はまかぜ2号」と聞かされた。わたしは新幹線以外の特急列車にはまだ乗ったことがなかったので、雪よりもそっちの方が楽しみになりさえしたが、連休の兵庫県北部は大雪の予報になっていたので、雪遊びも存分に愉しめそうだ、とその時は思った。
 が、これがまた相当に大変な、しおりに記された予定表とは似ても似つかぬ旅になった。

 高速道路も整備されていない当時、スキーバスの類はまだなく、自家用車もさして普及しておらず、宅配便もないから、スキー客は大荷物を持って列車に乗るのが当たり前であった。シーズン真っ只中に出現した2.5連休の初日にスキー場に向かう列車、直前に指定券など取れるわけがなく、わたしたちは自由席に乗ることになった。
 学校が昼にひけてから集合したわたしたちは、車中で食べる弁当をリュックに入れて、夕方の明石(あかし)駅に向かった。晩ご飯がお弁当、というのも小学生にはなかなかないことなので、痛快な気分であった。

 ホームに上がってみると、もう一目でスキーに行くと分かる人たちでごった返していた。明石は神戸の西隣の都市だが、神戸市域は東西にかなり長いので、神戸市西部在住の人も、「はまかぜ」に乗ろうとなると、明石駅に集まって来る。当時、明石に停まる特急は「はまかぜ」だけであった。

 「はまかぜ」は、昭和47年新幹線岡山開業と同時に運行を開始した、播但線経由の特急である。大阪と山陰とを結ぶ特急列車は、福知山線経由の「まつかぜ」が従来からあった。「はまかぜ」は実質的に「まつかぜ」の増発で、車輌も共通であった。福知山線経由にしなかったのは、同線の線路容量に余裕がなかったのと、先述のとおり神戸での利用をフォローする意図があったものと思われる。
 当初の「はまかぜ」は、一日2往復で、うち1往復では食堂車も営業していた。現在は3往復に増発され車輌も新しくなったものの、編成は短くなりもちろん食堂車もない。

 それにしても人が多い。そのうち、わたしたちを打ちのめすアナウンスがホームに流れた。

「「はまかぜ2号」鳥取行をお待ちのお客様にお知らせいたします。「はまかぜ2号」は、ただ今三(さん)ノ宮(みや)駅を超満員で発車しております。当駅からのご乗車は、難しいものと思われます。恐れ入りますが、後に続いております、臨時急行「但馬銀嶺(たじまぎんれい)3号」江原行にご乗車くださいますよう、お願い申し上げます。「はまかぜ」号の特急券で、そのまま「但馬銀嶺」号の自由席にご乗車いただけます」
 ホームにいる人たちがどよめいた。しかし、深刻な表情の人や駅員に文句を言うような人はいない。皆、遊びに行くのだから、気分も昂っていたのだろう。わあ、すごいことになってきたぞ、というように笑っている人が多い。
 一方、わたしたちのリーダーは、決断が早かった。

 なんと、今ここで、夕食の弁当を食べるよう、わたしたちに指示したのである。
「リーダー、本気?」
 と思わずわたしは訊ねた。リーダーは、本気だ、とわたしたちを人の少ないホーム西端に移動させた。あまり時間はない。わたしたちは地べたに敷物を広げ、その上に腰を下ろし、弁当のふたを取った。北側には神姫バスのターミナルが見下ろせた。寒風の吹く二月の夜だが、わたしは楽しくてしようがなかった。ひっきりなしに行き交う電車とバスを間近に眺め、友達と品評しながら弁当を食べたのだから。弁当の主菜が牛肉と糸蒟蒻の大和煮であったことまで確と覚えている。

 そうしているうち、問題の「はまかぜ2号」鳥取行が入ってきた。食事を終えようとしていたわたしたちは、一斉に列車に目をやった。超満員 という言葉を初めて聞いたわたしたちは、それがどんな状態であるのか、見きわめてやろう、と意気込んでいたのだ。列車がホームに姿を見せ、その車内が待っている人の目に映ると、喚声があがった。
 なるほど、車内はもう全く空間がないようだった。通路に立つ人が座席に覆い被さるような姿勢で体を傾けていた。ドアは一応開いたが、それだけでデッキに詰まった人がホームにこぼれそうになる。そのデッキで押し合いながら中に入る人も多少いたが、大半の待ち客は車内を見ただけで、これでは乗れない、と諦め、苦笑しながら身を引いた。ドアは何度か開けたり閉めたりを繰り返した後、駅員さんが客の背中を押し込んでやっと完全に閉じた。
 恐らく、指定券を持っていた人も、明石からでは乗り込めなかった、あるいは乗れはしても自分の席まで辿り着けなかったのではないか。心なしか重たげに列車が排気ガスを吹かした。
 ここまで込んだ列車を見たことがないわたしたちは、これが超満員というものか、と感心し、このキャンプの間、超満員 はわたしたちの流行語となった。低く長い警笛を鳴らし、ゆっくりホームを離れる「はまかぜ2号」の人の顔が蝟集した窓に向け、手や帽子や箸やいろんな物を振って見送った。

2.2.下り臨時急行「但馬銀嶺3号」

 この昭和48年度の冬ダイヤを収録した時刻表を、残念ながらわたしは持っていない。しかし、その前後の年の復刻版を見ると、だいたいこの年のダイヤも類推はできる。明石駅の発車時刻でみると、「はまかぜ2号」の僅か九分後に「但馬銀嶺3号」が出ることになっている。
 が、わたしの朧げな記憶では、「はまかぜ」が出た後の待ち時間は、二~三十分はあったような気がするのである。「はまかぜ」が三ノ宮を出てから弁当を食べ始め、低学年の子も含めて「但馬銀嶺」が来るまでにきちんと食べ終えたのだ。わたしも食べ終わってからホームで友達とかなり遊んでいた気がする。
 この年だけダイヤが異なっていたのか、あるいはダイヤがこの時点で既に乱れていたのか。そのへんははっきりしない。単に、昂奮状態にあったわたしの時間感覚が麻痺していただけである可能性も高い。

 やがて「但馬銀嶺3号」が入ってきた。これは客車列車で、12系と呼ばれる青く新しい客車が使われていた。先の「はしだてビーチ」と同じ車輌である。しかし、牽いていた機関車が何であったか、全く記憶にない。その時はもう客車の込み具合に関心が偏していたのだろう。
 その混雑度は、幸い「はまかぜ」に比べれば緩やかであった。座席はもちろん全部埋まっていたが、立っている人の間に隙間があり、客車の窓を通して列車の向こう側が見えた。わたしたちは何輌かに分かれ、それぞれのデッキに数人ずつ陣取った。子供だから立っていてもそれほど苦にならず、元気にしゃべりはじめた。

 姫路で機関車付替えをするのも「はしだてビーチ」と同様だ。暫く停車する。前方の車輌に乗っていた職員さんがホームを歩いてわたしたちの様子を見に来、前はもっと空いている、と告げた。わたしたちはすぐさま移動を決断し、ホームに駆け出た。わたしははしゃぐあまり手ぶらで走りだしてしまった。後から追ってきたリーダーに、リュックと拳固をちょうだいしたが、移った先のデッキでは、交替でリュックを床に置いて腰掛けることができた。
 列車がこれまでと逆向きに走りだし、いよいよ播但線に入った。速度は目立って落ちた。単に非電化の単線に入ったから、というわけではなさそうだった。明らかにダイヤが乱れていて、交換駅ごとに長く停まり、ただいま○分の遅れで××を発車しました、という車内放送がかかるたび、その分数が増していく。このあたりはまだ雪が積もっていないが、和田山方面からの対向列車が軒並み遅れているらしい。また停まってドアが開き、リーダーが顔を出して駅名標を見た。
「福崎(ふくさき)ゆうたら、まだ姫路やないか」
 と嘆息するリーダーの独り言が聞こえた。

 寺前(てらまえ)から山越えの区間に入り、生野に出た。但馬の国まで来ると線路際は真っ白である。また列車は停まってしまった。雑談もしりとりもネタが尽きて飽きてきた。
 無聊を託つわたしたちのいるデッキから扉ごしに客室内が見えた。ガラスのすぐ向こうに立っている若い女性が、さっきから毛糸を編み棒で操りながら、マフラーか何かを編んでいる。リーダーが言った。
「あの糸を分けてもらって、あやとりをしようか」
 しかし、それには女性に交渉しないといけない。リーダーは、くじで当たった者が女性に頼むことにしよう、と提案、いや、わたしたちにすればリーダーの言は命令であった。果たしてわたしが当たりを引いた。

 後から考えれば、男子大学生であるリーダーよりも子供に言わせる方が何かと好都合な場面であり、そのリーダーとわたしは普段の体操教室などでよく知った仲である。わたしが年齢の割にきちんとしたしゃべり方をする子供であることも、リーダーは分かっていたはずだ。
 リーダーのつくったくじには、何らかの操作が加えられていた可能性が高い。

 ともかく恐る恐る扉を開け、わたしは女性に総意を告げた。
 意外にあっけなく承諾が得られたが、どうやって糸を切るかが問題であった。女性は鋏を持っていないようで、太い毛糸を犬歯に挟んでものすごい形相で噛み切ろうとしたりし、わたしをたじろがせた。幸い、リーダーがリュックの中からナイフを探し出した。

 播但線から山陰本線に入る和田山に着いたときは、二十三時を回っていたと思う。定刻ならとうに終着江原に着いていなければならない時刻である。しかし、和田山でまた長い間停まった。夜の闇の中に白が浮かび、隣にあるはずの線路はすっかり埋もれていた。そんな状態も初めて見るものだった。
 車内放送が入った。八鹿から鉢伏山、江原から神鍋山に向かうバスのダイヤは、大雪のため相当乱れている、この列車も遅れたため、豊岡行最終列車に接続できない、この列車は江原に終着後、回送となって豊岡に向かう予定だったが、豊岡まで普通列車として営業運転を延長する。そういう主旨の放送であった。
 結局、八鹿に着いたのは、二十三時四十分頃であった。わたしたちはあまり大きくない駅舎を抜け、やっと駅前広場に出た。そこにもまた、列車内に負けるとも劣らぬ渾沌があった。

2.3.八鹿駅と豊岡近辺

 見わたすかぎり、と言っても、子供のわたしたちには見わたすことさえ困難なのだが、群衆が溢れかえってざわめいているのである。先着した「はまかぜ2号」、さらにその前に福知山線廻りで来た別の急行が着いており、それらの客が、駅からスキー場に向かえないままそこに滞留しているようであった。
 駅舎の向かい側左手には、全但(ぜんたん)バスのターミナルがあり、「鉢伏」という方向幕を掲げたバスが二台停まっている。一台めには既に満杯の客が乗っていたが、なかなか発車しない。早く二台めに乗せろ、と大声を挙げる客もいた。駅舎に面したタクシー乗場に、タクシーは十分に一台程度しか現れなかった。タクシーが駅前広場に入ってくるたびに拍手が起きた。が、よく見ていると、二台めと四台めのタクシーは同じナンバーであった。バスがようやくチェーンの音も賑やかに発車していき、二台めのバスがすぐに満員になる。

 バスとタクシーを待つ列が、もつれ合うようになっていて、最後尾がどこなのかも分からず、どちらもいつ乗れるのか分からぬありさまだ。大きなホテルからは、その名を側面に大書したマイクロバスが迎えに来ており、宿泊客を乗せるとさっさと出て行く。それに乗り込んだ人が、選ばれた高貴な人のように見えた。わたしたちの宿はスキー場の民宿だから、そんなものはない。
 駅舎のそばにわたしたちを固めておいて、リーダーが情報収集に動いた。

 包み込むように堆い雪をいよいよ目前にした小学生が、じっとしているわけがない。限られたスペースで小規模な雪合戦や雪像作りが始まった。この駅前広場で雪と戯れたわたしたちにとって、このスノーキャンプの目的は、早くも達せられたようなものだった。
 
 そのうち、日付が変わった。こんな駅頭で日の変わり目を迎えるなど、わたしたちにとっては十分に昂奮する事態である。
 列車の音がしたので改札口に行ってそれを眺めたが、その時間に来たのは貨物列車であった。こんな時間まで列車が走ることに感心した。いや、時刻表を好んで読んだ結果知識としてはあったが、自分の眼で確認できたのが感動的だ。
 改札口の上の発車案内は、上りが京都行、下りが出雲市(いずもし)行の、それぞれ普通列車であった。発車時刻はいずれも二時少し前、両者は二分か三分しか違わなかった。これも、山陰本線にそういう夜行普通列車があることは知っていたが、ほんとに走ってるんだ、と思ったことである。その上下列車がこの八鹿で交換することには、初めて気づいた。
 しかし、さすがにそれらの発着を見ることはできなかった。

 駅前の交番に備付けのスピーカーが告げた。八鹿から鉢伏へ向かう途中の国道9号上で、マイクロバスが横転して道を塞いでいる、という。名を聞けば、さっき迎えに来ていたホテルのバスであった。羨ましく眺めたあのバスが、とわたしたちは顔を見合わせた。
 しかし国道が通行止となると、鉢伏に向かうのはいよいよ難しくなったわけである。どうするのか、と思っていると、リーダーらがどのように探し交渉したのか、八鹿市街のホテルだったか旅館だったかにわたしたちは入ることになった。さすがに朦朧としている低学年の子らとその荷物を手分けして背負ったり提げたりし、わたしたちは雪を踏みしめ二転三起しつつ移動した。
 その宿のことは何も覚えていない。わたしも、荷物を置くや布団に倒れ込んだのであろう。

 そんなことがあった翌日なので、二日めの日曜日、わたしたちが始動したのは昼近くになってからであった。全但バスで豊岡に移動したのは確かだ。どこか見学したように思うし、昼食もとったはずだが、あまり記憶がない。
 ただ、昼食の席に、この日の朝神戸を発った職員が応援に駆けつけ合流したことを覚えている。今考えると、応援というよりも、予定外の交通費や宿泊費の支出に、リーダーらの手持ちが少なくなったのを補充しに来たのではないか、と思う。ATMなどない時代だ。
 夕方になると、これも急遽交渉してくれたものと思われるが、豊岡市内の但馬文教府という県立の施設に入った。現在はやっていないようだが、当時は宿泊も受け付けていたらしい。
 そこで、大きなガラス窓から降り続く雪を見つつ、夕食をとった。どのような手配の結果なのか、アコーディオンで弾き語りをするおじさんが現れ、「但馬恋しや」なるご当地ソングを聴かせてくれた。
 リーダーの部屋割に従って荷物を運び込んだ。男子全員とリーダー一人、十人あまりが一室に固まった。わたしたちは、空だった押入れの下段を列車に見立て、全員が押し合いながら入り、超満員です、などとアナウンスの真似をしながら襖を閉める「はまかぜごっこ」に興じた。研修にも使う部屋なので、和室には場違いな黒板が部屋に備えつけられていた。それへの落書きも、わたしたちの娯楽となった。

 明けると最終日、建国記念の日となる。飛び込みで宿泊したわたしたちは、部屋を早々に明け渡さねばならなかった。その日施設で結婚式が行われることになっており、わたしたちの泊まった部屋は花嫁さんの控室になる、とのことであった。
 わたしはふと思いついて、黒板に見も知らぬ花嫁さんへの祝辞を書いた。部屋のメンバー全員が、わたしに倣った。
 荷物を持ってロビーに集まったが、帰りの列車は午後だし、かといっていよいよ深まる雪に、どこへも行きようがない。
 わたしたちは施設の庭へ出た。丘の上にある施設なので、雪に覆われた坂道が庭から始まっていた。それはまるでゲレンデのように見えた。わたしはまたもや頭の中で回路がつながった気がして、自分のリュックから缶のフタを取り出した。それを尻に敷いて橇のようにすると、面白いように滑る。そんなわたしを見て、瞬く間に全員が同じ行動をとる。

 わたしはそのように、独自の発想力や企画力を発揮し、しかもそれを即行動に移す子供だった。それは既存の規範や常識に全くとらわれないものだった。思えば、後に研究者となる資質の萌芽があったとも言える。もっとも、浅慮や勇み足によって、こっぴどく叱られることもしばしばであった。この点も今もあんまり変わっていない。

 橇の遊びを堪能すると、昼になった。荷物を取りにロビーに戻ると、ウェディングマーチが大音量で響いた。角隠しがわたしたちの目の前をしずしず通りすぎた。
 食事の後、タクシーに分乗して豊岡駅に向かった。

2.4.上り臨時急行「銀嶺」

 帰りに乗ることにして団体券を用意してあったのは、臨時急行「銀嶺」大阪行であった。この「銀嶺」は、季節列車である急行「但馬3号」に併結される列車である。「但馬3号」は姫路止りだが、「銀嶺」の編成だけが大阪まで行くのである。これに乗って明石まで帰る。
 一昨日乗ったのが「但馬銀嶺」、これから乗るのがただの「銀嶺」、ということで頭が混乱しそうだったが、豊岡駅のホームに入ってきたディーゼルカーの長い編成を見ると、確かに前の方が「但馬」、後ろの車輌には「銀嶺」の愛称板がドア脇に入っていた。足し算して「但馬銀嶺」なのか、とわたしは変に納得した。
 「銀嶺」は城崎始発だが、既に自由席車は満席であった。わたしたちはまだ空いていた指定席車にとりあえず坐った。次の江原でもその席の人は乗って来なかったが、八鹿で席を譲り通路に立たねばならなかった。そればかりか、どんどん人が入ってきて、通路はぎゅうぎゅう詰めになった。わたしたちは車輌の中央部で互いの姿も見えにくくなったまま揺られた。

 姫路に着いたのは夕方になってからだが、降りる人はいない。それは当然で、姫路で降りるつもりの人は、最初から「但馬3号」の車輌に乗っているのだ。身動きとれないまま、切り離しと進行方向替えの数分間、停車したまま待つことになる。
 が、ここで、リーダーはこの旅何度めか、そして最後となる大胆な英断を下した。何となれば、このまま明石まで行ったとして、この混雑ではうまく降りられるかどうか、覚束ない。明石での停車時間は僅かであるはずだ。

 リーダーらは、四人掛けボックスに坐っているお客さんに手短かに事情を話し、窓を全開してもらった。幸いこのディーゼルカーの窓は、区切りの横桟がなく、一枚のガラスを上げることで全開できた。
 そして、一人のリーダーが窓からホームに出、車内のリーダーと協力してわたしたちのリュックをどんどん窓からホームに運び出す。次に低学年の子を同様にホームへリレーする。最後にわたしたち三・四年生が順に、自ら着座客の膝の間から足掛け上がりのようにして窓側のテーブルに足を載せ、鴨居に手をかけて身を乗り出した。ところを、リーダーが抱き取ってくれる。
 周囲のお客さんも、面白がって手を貸してくれた。ホームで点呼をとって全員がいることを確かめると、去る車窓に頭を下げながら手を振った。どこまでも予定が崩れる旅行であった。

 わたしもあちこち鉄道で旅してきたが、窓から乗降したのはこの時だけである。戦中の買出し列車、戦後の混乱期などはそれも普通のことだったそうだが、そんなムードがまだどこかに残存していたのだろうか。
 昨今の鉄道車輌は、そもそも窓が開かなかったり、開いても人が出入りできるほどの大きな開き方にはならないものがほとんどである。

 姫路で普通電車に乗り換えて、無事明石に戻った。わたしたちほぼ全員が風邪をひいて喉ががらがらであった。
 が、このスノーキャンプがつらい旅行だったという印象は、全くなかった。夜中まで駅前で過ごしたことや、窓から降りたことやは、やはり鉄道好きの友達への恰好の武勇伝となった。スノーなどという要素がどこへいったのかは、どうでもよかった。
 


3.631列車

 中学校に入ると、わたしは郷土史研究の部活に入った。中学生としては渋いテーマの部だが、運動が苦手で社会科が好きだったわたしには、ちょうどよかった。顧問の先生も熱心な方だった。
 この部では、長期休業になるたびに、「実地踏査」と称する旅行に出かけた。日帰りがほとんどだったが、夏休みには一泊になることもあった。
 入部して初めての実地踏査となる昭和51年8月の実地踏査は、竹田(たけだ)城跡の見学であった。

 わたしたちは、明石に集合し、普通電車で姫路に向かった。ここから播但線に乗る。
 旧型客車の列車に、わたしたち、特に鉄道に興味があるわけでもない部員までが、けっこうテンションを上げた。

 何といっても、客車列車は一気に旅行気分にしてくれるからである。

 旧型客車とは、出入口ドアが手動で、それを入ったデッキからもう一つドアを開けて車室内に入るタイプの客車である。四人掛けのボックスが並んでいるのが普通だった。出入口ドアは開けっ放しで走ることも珍しくなかった。子供同士で乗ったときはスリルを味わうため、座席が空いていてもデッキに立ったりすることもあった。塗装は茶色のと青色のとがランダムに混結されていて、わたしたちは些かでも上等に見える青い客車に好んで乗った。
 この当時、神戸あたりの東海道本線・山陽本線ではもう旧型客車の普通列車にはお目にかかれなくなっていたが、亜幹線やローカル線に入ると、旧型客車はまだあたりまえのように走っていた。播但線だけではなく、山陰本線・福知山線などでも、旧型客車は普通列車の主力であった。ちょっと遠出しようとなると、旧型客車に出会うわけである。

 乗ったのは姫路8時29分発の和田山行631列車だったと思われる。竹田は終点和田山の一つ手前の駅で、10時16分着であった。
 わたしたちは、駅の裏手にある登山口から山登りを始めた。登山口には地元の人が用意してくれたらしい、木の枝を折った手づくりの杖が缶に差してあった。一人一人それを持ち、一本道を辿る。登山道は比較的広く整備されていたが、傾斜はきつかった。途中に「○合目」と記した道標が立っており、励みになった。

 竹田城は、虎伏山(とらふすやま)の山頂に位置する典型的な山城である。室町時代の築城と言われ、戦国時代には再三繰り返された但馬と播磨(はりま)の小競り合いの、但馬側の基地になった。現存する山城としては、かなりの規模を誇り、石垣が完全な形で残っている。
 山頂に石垣を礎とする遺構が広がるさまを、ペルーのマチュピチュ遺跡に擬する人もいる。
 長年、地味な遺跡でしかなかったが、ここ数年になって、アニメからの連想で「天空の城」などと呼ばれるようになり、訪れる客が激増し、あれよあれよという間に付近随一の観光地に急成長した。
 もちろん、昭和51年当時は、夏休みとはいえ、山に人影はほとんどなかった。

 猛暑の平日に、他に登山する人に出会うことはなかった。はあはあ言いながら頂上に着いたわたしたちは、石垣に腰掛けて弁当を食べた。円山(まるやま)川とそれに沿った町並みがジオラマのように見えた。播但線の線路を「はまかぜ1号」が走って行くさまが小さな蟲のようだ。
 昼食後は、城の調査を始めた。といっても、石垣の寸法などを巻尺を二人でぴんと伸ばして測量したり、形状をスケッチしたり、熱心に作業しているのは顧問の先生と先輩たちであり、わたしたち一年坊主はそれを見学していればよかった。しかし、日陰もなく暑いなかでただ見学するのも飽きてくるので、鬼ごっこなどが始まる。
 竹田城にはクルマで登れる道もあり、城跡の少し下には駐車場もあった。何となくそこに集まったわたしたちは、そのままクルマの道を歩いて下山しはじめた。が、アスファルトが照り返して木の陰もない道は、却って辛かったし、杖も返せなくなった。麓に着くや、雑貨屋に飛び込んでジュースを求めた。

 帰りの列車は、竹田15時17分発の姫路行で、これはディーゼルカーなのであまり面白くなく、エンジンの熱で蒸しかえるような車内で、わたしたちは眠った。


 
4.629列車・季節急行「但馬6号」

 この部の夏季実地踏査では、昭和54年にも播但線を利用した。わたしはもう高校生になっていたが、OB参加である。この年は一泊旅行で、出石の町外れにある民宿に泊まったはずである。
 往路に乗ったのは、629列車で、列車番号は替わっているが、ダイヤはほぼ前回の631列車と同じである。この年もまだ旧型客車だったが、三年前と様子が違ったのは、ロングシートに改造された車輌が連結されていたことである。ローカル線とはいえ、朝ラッシュには乗客が集中し、詰め込みのきかないボックスシートでは捌ききれなくなっていたらしい。8時29分発の下りだから、朝ラッシュピークの列車の折返しなのだ。
 それにしても、旧型客車とロングシートというのはいくらなんでもミスマッチである。デッキからデッキまで、二十メートル近いロングシートに沿って吊革が揺れている。播但線や同じ姫路を起点とする姫新(きしん)線には、ディーゼルカーにも同様の改造車があった。
 わたしたちの前に停まったのがそういう車輌だったが、わたしは、こんな車輌に乗っても旅の気分が出ない、と敬遠し、後輩と二人で隣のボックスシート車に移ったが、顧問の先生は珍しがってロングシート車に乗り込んだ。大勢でしゃべりながら行くには、それもまた好都合なのであった。
 途中の砥堀(とほり)駅は通過した。この駅はディーゼルカーだけが停まり、客車列車は普通列車でも通過するのである。ホームが短かったり両側の駅との間隔が短かったり勾配の途中にあったりする小駅は、普通列車にも冷淡に通過されることが、この頃まではあたりまえに各地で行われていた。急加速や坂道発進が客車列車は特に苦手なのである。
 甘地(あまじ)のアナウンスが入ると、隣の車輌からどっと笑いが起きた。「甘っちょろい」を縮めた「あまち!」が顧問の先生が生徒を叱るときの口癖だったからである。わたしのボックスはというと、後輩と二人で対向列車や駅を評定しているので、鉄道や地理に興味がある、とみたのだろう。向かいのボックスの地元客らしいおじさんが、寺前の駅名は固有名詞ではなく単に寺の前にあるという意味なのだ、などと教えてくれた。
 わたしたちは9時53分着の生野で降りることになっていた。一つ手前の長谷(はせ)で、駅名標の次の駅名に「いくの」を見つけた気の早い後輩が、いそいそと荷物を下ろしてデッキに向かうのが連結部ごしに見えた。しかし、勝手を知ったわたしは悠然と車窓の渓谷を眺めている。長谷から生野までは、一駅だが十分はかかるのだ。

 生野駅の構内は、配線の都合で珍しく右側通行になっている。わたしたちの乗った下り列車は、表口の駅舎に面したホームに停車した。
 ここから生野銀山の見学に出かけたのだが、後輩である部長の立てたプランは、張り切りすぎたこともあってちょっと無理があった。駅から銀山までの距離をきちんと調べていなかったのである。バスで行くべき距離をわたしたちはとぼとぼと歩き続けねばならなかった。生野から乗るべき列車を予定より一本遅らせることにしたが、それでさえ銀山の遺構の内部を巡る時間はなくなり、入口の資料館を見学するに留めた。

 駅に戻って13時52分発の和田山行に乗る。これはディーゼルカーである。
 次の新井(にい)に停まると、鉄道好きの後輩がそわそわして窓からあたりを見わたしている。顧問の先生が、どうしたのか、と訊くと、「一円電車」の跡を探している、と言う。

 「一円電車」とは、この西方の山中にある明延(あけのべ)鉱山と神木畑(みこばた)選鉱所とを結んでいた鉱山鉄道である。非鉄金属の輸送が主な使命だが、そのついでに人を乗せる客車も連結していた。旅客輸送で利益を上げる意志も必要もなく、便宜上の運賃を1円と設定していたため、そう渾名されていた。
 明延と神木畑の間の軌道はこの時も現役であったが、さらに昔は、神木畑から新井に鉱物を運び出す軌道もあったという。しかしそれは早期に道路整備が成ったため、昭和32年に廃止されている。後輩が探していたのはその痕跡であったが、廃止から二十年以上を経過し、一目見てそれとわかる名残はないようであった。

 青倉を過ぎると、左の窓に竹田城の石垣を見上げることができる。わたしは窓からそれを指し示し、集まった後輩たちに、自分で調査したかのような顔で、解説を聞かせた。

 翌日までに出石城や日和山(ひよりやま)を見学し、帰りは豊岡から14時50分発急行「但馬6号」姫路行に乗った。六年前にあの「銀嶺」を併結していた列車である。あの時は3号を名乗っていたが、この間に国鉄列車の号数は下り奇数・上り偶数に改められたので、上りの三本めは6号となったのである。
 「但馬6号」は季節列車で、夏休み期間中は毎日運転されていたのだが、姫路までしか行かないせいか、がら空きであった。わたしたちは一輌を借り切ったようなかたちで、はしゃぎながら帰途を愉しんだ。


おわりに 

 その後も、父と福知山に出かけるときに播但線を利用することがあった。父には大阪から福知山線に乗る、という発想しかしなかったのだが、姫路発9時46分の季節急行「但馬3号」を利用することで、朝ご飯を食べてから神戸の家を出ても、昼どきには福知山に着ける、と分かり、わたしが進言したからである。
 しかもそれで帰りを福知山線経由にすれば、乗車券もぐるっと一周するルートになり、同じ道を往復するより安上がりになった。
 高校生にもなると、この種のことについては父よりわたしの方が長けるようになっていたのである。そしてそれ以後は、播但線にも一人で乗る機会が増えていくことになる。

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広島県の懐かしい電車たち

 平成23年秋、広島に出かけた。
 広島の市内電車は日本最大規模であり、最新の低床車から、他都市の中古車まで、車種も多様である。
 この現役市電と対照的に、モータリゼーションの勢いたけなわの頃、ひっそり廃止されたのが呉(くれ)の市電である。

 呉市電の車輌が、呉ポートピアという遊園地に保存されているので、それを見に行った。

 「呉ポートピア」は、恐らく開園当時は人気を博したのだと思う。園内に存続する諸施設がなんとなくそれを伝えているし、近傍を走るJR呉線に新駅が設けられたことでも分かる。
 今はそれほど賑わいはなく、広さが目立っている。それでも、屋台風の店がいくつか並び、郊外のオアシスという感じにはなっている。
 その片隅に、呉市電が比較的いい状態で保存されていた(写真下)

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 このように、柵などはなくて、電車の側まで行けるばかりか、中扉が開いていて、車内にも入れる。
 入ってみると、営業に就いていた頃の掲示物がそのまま残されている。が、よく見ると、署名は呉市交通局ではなく、伊予鉄道となっている(写真下の左)。この車輌は、呉市電廃止後伊予鉄道に譲渡され、松山の市内電車として走っていたのである。二度めの引退をして呉に帰還したわけだ。外側の塗装は、呉時代のものに戻されている。
 運転席にも入れ、各種ハンドルを回したりすることも可能である(写真下の右)。 

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 電車をひととおり見た後に、改めて外の案内板を見ると、呉市電の説明の他、かつての運転系統図が掲げられている(写真下)。市バスと一括した図であり、中央あたりに象を呑んだウワバミのような形で描かれている黒い線が市電路線である。

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 わたしと入れ違いに、数人の若い男女のグループががやがや電車に入っていき、いろいろ遊んでいる。女性が運転席に下がっているロープを引っ張ると、驚いたことに、屋根の上のZパンタグラフが畳んだり開いたりする。女性はそれに気づいていない。
 そんな所まで可動状態のまま展示されているとは、おおらかであるが、管理をきちんとしないと、傷んでしまいそうである。

 その後、呉の市街地に行き、市電のメインルートの跡を市バスで辿ってみた。系統図の黒線からもうかがえるが、呉の地形は山が海に突き出すようになっているもので、呉と広地区を結ぶ街路は、海岸線に沿って進むことはできず、内陸へ大きく迂回して山を越えている。バスもそこを通って行ったが、電車が走っていたとは思えないほどの急勾配で上下した。
 この呉市バスも、この平成23年度末で営業を終え、路線は広島電鉄に移譲される。市電をも擁しつつ続いてきた市営交通も、終焉を迎えるのである。市営バスとしては珍しく、広島までの高速バスなども運行していて、なかなか意欲的だと思ったのだが(写真下の左は、広島バスセンターに着車した高速バス「クレアライン」。右は広(ひろ)交叉点のノンステップ車) 。

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 さて、今度は広島市に行く。ここは現役の電車が見られる。
 紙屋町(かみやちょう)と原爆ドーム前の間で眺めていると、飽きることなく電車が通り過ぎるのを愉しめる。下の写真は、修学旅行の生徒を満載した貸切電車である。新幹線で着いて、原爆ドーム・平和公園見学に向かうのであろう。

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 続いて広電(ひろでん)西広島に行ってみる。以前は狭苦しい駅だったが、拡張整備されて、現在は7番線まである堂々たるターミナル駅である。路面電車の発着するターミナルとしては、本邦最大規模かもしれない。
 3号線の電車が入って来た。これは元京都市電の車輌である(写真下)。京都市電は、わたしも現役時代数回乗ったので、今だに走っているのは嬉しい。

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 この他にも各地の電車が広島に集結している。元大阪市電も元神戸市電もあるので、京阪神の電車が同じ軌道を走るという面白みもある。
 神戸出身のわたしとしては、やはり神戸市電の姿が見たいわけだが、四十年ほど前に二十九輌も譲渡されてきた元神戸市電も、新型車輌に圧され、現在は僅か二輌しか残っていない。京都や大阪の電車が今も多数走っているのに比べて、待遇が悪いのではないか、と僻んでしまうが、中扉の幅が狭く、カードリーダーなど取り付けると、ラッシュ時の乗降に難が出てしまうことが災いしたようだ。

 運用がどうなっているかよく分からないので、朝ラッシュなら古い電車も動くだろう、とあたりをつけて、八丁堀(はっちょうぼり)で電車を待っていると、元神戸市電の570形が1号線としてやって来た(写真下)。前日は3号線で見かけたから、運用は特に固定はしていないようだ。
 この570形は、神戸時代のままの塗色で走っている。神戸市電のシンボルカラーである緑の濃淡である。鉄道車輌に黒や茶以外の色彩を採用したのは、神戸市電がわが国で最初であるが、その時の緑を残している現役車輌は、この一輌だけとなってしまった。

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 早速乗ってみる。走りはしっかりしているし、カードリーダーなど近代的な機器も取り付けられている。が、座席のデザインなどに、古き時代を感じる(写真下)。この車輌は車体更新はなされているが、走り装置は大正時代に造られたもののはずで、よく頑張って走っているものである(写真下の右は宇品(うじな)一丁目付近の570形1号線)

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 なお、今回の広島行では出会えなかったのだが、もう一輌、元神戸市電の車輌が在籍している。1150形と呼ばれるものであるが、これは今後に期することにする。

 さて、ついでであるが、7・8号線が発着する横川(よこがわ)駅の前には、古めかしいバスが展示してある。この横川と可部(かべ)との間が、日本の路線バス最初の運行区間なので、それを記念したものである。呉市電とは対照的に、ガラス張りの檻に入れられている(写真下)。イベント時などには公開されるのだろうか。

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(平成23年11月訪問)

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最後の「雷鳥」を見送る

 いつも書くように、最終日のお別れ乗車などは性に合わないもので、避けているのだが、「雷鳥」だけはあまりに身近な列車ということもあり、ちょっと特別である。最終列車に乗ろうという気にはならないが、駅で見送るくらいのことはしてもいいのか、と思う。

 平成23年3月11日が「雷鳥」の最終日である。出勤前、わたしは上り最終列車となる「雷鳥8号」の時刻に合わせて鯖江(さばえ)駅に出かけた。福井や金沢のような主要駅はかなり大変な騒ぎになるだろう、と予想したからである。こぢんまりした停車駅の方が列車を落ち着いて間近で見られるはずだ。
 そして、結果的には、鯖江駅に行ったことが別の意味でも大正解だったのである。

 「雷鳥」が着く数分前に入場券で改札を入った。上りホームはそれほど混雑していないようだ。明らかに「雷鳥」を見に来た鉄道マニアが二十人ほどうろつき、あとは普通に実用的に「雷鳥」に乗ろうとしている客が各号車に数人ずつの列を作っている。
 何やらかぶりもののキャラクターもホームにいる。これは鯖江市のマスコットキャラ「ちかもんくん」で、鯖江駅職員有志とともに、「雷鳥」の見送りに来ているのである。
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 跨線橋を渡りながら線路を見下ろすと、直江津方から国鉄特急色の編成が接近してくるではないか。あれ、まだ「雷鳥」の到着には時刻が早い、おかしいな、と眼を凝らすと、どうも先頭車がボンネット、ということは、かつて急行「能登」などに使われていた489系と呼ばれる電車である。JRがファンサービスで最終日の「雷鳥」にボンネットを充てたのか? などと一瞬思ったが、それではパノラマグリーン目当ての人が怒りそうだ。しかも、この489系は上り本線である3番線ではなく、中線の2番線に入ってくる様子だ。
 明らかに「雷鳥」でない489系はいったい何しに来たのか。とりあえず、わたしも周囲の人も、2番線に停車した489系をカメラに収めた。前面はびっしりと雪が付着している。

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 隣でカメラを構えた人が、
「ヘッドマークが雪で隠れたのが惜しいですねえ」
 と話しかけてきた。
「まあ、どうせ「臨時」ですけどね」
 わたしが応じる。
 せっかくなので、489系もいろいろ見て回る。側面方向幕は「団体専用」となっているが、車内に客の姿はないし、ドアも開かない。団体臨時列車の送り込み回送らしい。それが他でもない鯖江駅で「雷鳥8号」を待避してくれたのである。幸運であった。

 思いがけない前座を楽しむうち、いよいよ3番線に「となりのトトロ」が流れはじめる。鯖江駅の到着メロディは、地元発祥のマリンバによる映画音楽なのである。
「特急「雷鳥」号は、本日をもちまして運行を終了いたします。長年にわたるご利用、まことにありがとうございました」
 今日だけのアナウンスも女性駅員により添えられる。皆が先頭の停止位置付近に集まってくるが、それほどの人数ではないので、黄色い点字ブロックに沿って一列になれば、撮影に支障はない。

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 乗っている客も、隣に489系がいることに驚いている様子である。1号車のデッキから飛び出し、ホーム端まで行って「並び」を撮り、駆け戻ってくる勇者もいる。
 そのデッキから、知っている顔が降りてきた。わたしの前任校の教え子で、今は同業同好の人である。この人はわたしとは対照的に、最終列車とか一番列車とかが大好きなので、年度末で忙しかろうに、わざわざ休みをとって乗りに来たのである。489系のことは、さっきこの人のケータイにメールで知らせたのだが、間に合っただろうか。二言三言言葉を交わしただけで笛が鳴り、車内に戻っていく。
 現在の同僚のなかにも鉄の人がいて、最終日の「雷鳥」に乗る、と仰有っていたはずだが、車内に留まっているのか、姿は見あたらない。
 素早く客室内に入ったかの人と、窓越しに手を振り合う。こちら側の窓は大半の人が489系を撮るためにカメラやケータイをホームに向けており、相当多くの映像にわたしが映り込んでしまったであろう。申し訳ないことであるが、ホームではどこにも逃げようがない。もちろん、わたしを含め、皆がボンネットの先頭付近には立たないようにして、車内からの撮影に配慮はしている。これはマニアの仁義である。
 ホームを離れていくいかにも国鉄特急の標準である先頭形状も撮って、489系越しに去っていく「雷鳥」を眺めた。489系も感慨深げに見送っているかのようだ(写真左の右ではよく分からないと思うが、489系のはるか前方に、右へカーブして去っていく「雷鳥」が小さく小さく映っている)

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 なお、「雷鳥」だけでなく、北陸線の福井近辺では、普通電車も全て新型に替わったので、国鉄型の車輌がほとんど見られなくなった。旧いボックスシートは結構好きだったので、残念である。写真はいずれも3月に福井駅で撮影したものである。

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 夜にやって来る下り最終「雷鳥33号」も見に行こうか、と思ったりしたが、ご承知のように、この日の午後東日本大震災が発生したため、それどころではなくなった。「雷鳥33号」は一応運行されたようだが、金沢駅での到着セレモニー、それに翌日に予定されていたダイヤ改正関連の各種セレモニーも、ほとんどが中止になったとのことである。
 しかし、その後市内各所で配布された鯖江市広報の4月号は、「雷鳥8号」と489系が並んだ写真が、その表紙を飾っていた。

(平成23年3月訪問)

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あの日のプラレール

 現在四十歳台以下の、子供の頃電車好きだった男性は、プラレールで遊んだことのある人が多いだろう。
 このごろは、「プラレール博」と題する展示会が全国あちこちを持ち回りで開催されている。子供が観たり遊んだり作ったりするのが主眼の展示会だが、「プラレールの歴史を見る」などという趣旨のコーナーが設けられていることが多い。わたしなどは、広大な会場のなかでそのコーナーさえ見れば気が済むのだが、先日行われていた展示会を、時間があったのでちょっと覗いてみることにした。

 ところが、会場に着いてみると、当日券販売の窓口に、ものすごい列が伸びている。二十分待ちだという。しかも、場内が混雑しているので、当日券での入場を制限しており、買ってもすぐには入れないという。これではいつまでかかるか分からない。プラレールごときのためにそんなに待つのもばかばかしいので、諦めて帰ろうと思ったのだが。

 会場の向かい側にローソンがある。その中のLoppiで前売券を販売していたのではなかったか。Loppiの前に列などはない。わたしはあっという間に当日券より安い前売券を購入し、行列を尻目にさっさと入場した。
 もぎりのお姐さんから、「お土産」として入場者全員に配られる、N700系新幹線の中間車一輌が渡された。魂胆の分かりやすい「お土産」である。これを家族連れの子供にも渡しているのだ。なかなか残酷なことをする。
 ともあれ、歴史コーナーへ直行する。

 
 いきなりもう、涙が出るほどの懐かしさがこみあげた。昔遊んだタイプの電車がぞろぞろ並んでいる。

 わたしがプラレールで大々的に遊んでいたのは、三歳くらいから小学校三年生くらいまでだったろうか。四畳半に一周させるくらいのレールがあったと思う。「電動車」一輌と「付随車」二輌の三輌編成が基本であったが、わざわざ電池を入れて自動走行させるのは、特別気合の入ったときだけであり、大抵は「付随車」二輌編成を手で動かしていた。面倒なときは、レールも敷かず、絨毯の上を直接走らせた。

 また、小学校低学年の頃、仲よくしていた同級生に、プラレールの相当なマニアがいた。週に一度くらいは、彼の家に好き者が集まって、プラレール遊びに興じていた。そこには、各種車輌の他、複線レール、高架橋、大きな駅に四つ股ポイントまで、何でも揃っていた。現代の品揃えとはくらべものにならないのだが、当時のラインナップをほぼ網羅していた。彼の部屋は、毎日学校から帰ると同時にレイアウトが敷設されるのである。
 プラレールのバリエーションがあるからその子とつきあっていた、と言っては彼に失礼だろうが、そういう一面は確かにあった。
 面白いのは、集まった数人の子が、それぞれそのレイアウトを自分なりの設定で何らかの路線や駅に見立て、てんでに走らせていたことである。それでも一緒に遊んでいる楽しさがあった。他人の歌などろくに聴かずに曲選びに専心し、順番が来たときだけ歌う、という昨今のカラオケに通じるものがある。
 それでも、各人が車内放送を「口演」していたので、お互いがどういう想定で運行しているかは分かった。たまに友達の快速とわたしの各駅停車が同じ駅に到着するなどということになると、目配せをして「相互接続」した。

 そんな頃に馴染んでいた車輌や憧れていた車輌が多数並んでいる。 

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 真ん中に停まっている三輌編成は、「ちょうとっきゅう ひかりごう」の最初期タイプのモデルで、もちろん0系を模しているのだが、なぜかスカートとボンネットカバーの色が赤である。当時のプラレール車輌はさほどのリアリティーは追求していなかったし、子供としてもそれで満足していた。もちろん現在の新幹線車輌は、各タイプが実物そのままの色で発売されている。
 これはわたしは持っていたが、件の同級生の家にはなかった。それで、これを持って遊びに行きたかったのだが、母は持出しを許してくれなかった。友達のと自分のとが見分けがつかなくなり、トラブルの原因になるから、というのが理由だが、わたしたちのこだわりの眼で見れば、絶対に見分けられるのに、とわたしは不満であった。

 「ちょうとっきゅう ひかりごう」の上方に、黒い機関車が二輌の貨車を牽いている編成がある。これもわたしは持っていたが、古くてかっこ悪いので、あまり出番はなかった。貨物列車の最初期タイプである。
 その上に少し見えている「ブルートレイン」や、右側にちょっと姿を見せている「ちんちんでんしゃ」は、後から出てきた車種で、欲しいとは思ったものの、買ってもらえないうち、わたしの方がプラレールを卒業してしまった。
 「ちょうとっきゅう ひかりごう」の手前に見えているのは、「パノラマとっきゅう」で、小田急ロマンスカーと名鉄パノラマカーを足して二で割ったようなスタイルと塗色であった。関西に住んでいたわたしはいずれもよく知らなかったので、欲しいと思わなかった。

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 左に目を移すと、緑とオレンジに塗り分けられた編成がある。これは、「かいそくでんしゃ」である。単色の電車しか持っていなかったわたしには、憧れの車種だった。同級生はこれを持っていたので、羨ましかった。これ、関東でも「かいそくでんしゃ」の名で売られていたのだろうか。関東では、この色の電車がその名ではぴんとこないと思うのだが、いろんな資料を見る限り、関東で「しょうなんでんしゃ」とか「ちゅうきょりでんしゃ」とかの名で売られていた、ということはないようだ。関西限定商品なのか。色は113系の湘南色そのままだが、車体のデザインは後の「でんしゃ」と同じ103系タイプである。
 その左側に見えているのは、「とっきゅうでんしゃ」である。181系などのボンネット型特急電車がモデルであるが、初期としては珍しくリアルなスタイルである。が、よく見ると、中間車は「ちょうとっきゅう ひかりごう」と色違いの同型である。赤塗装なのはそのへんにも理由があるのだろうか。

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 そして、こうして三編成並んでいるのが、もっともプレーンな「でんしゃ」で、この三色ともわたしは持っていた。やはりこれがいちばん懐かしい。103系がモデルのようである。後方に見える銀色の電車は、地下鉄乗入れ車を想定したらしい「ニューでんしゃ」である。これは同級生の家にあった。
 子供の想像力と妥協力は柔軟で、わたしは国鉄を想定して遊ぶときは、赤色が各駅停車(当時は茶色の72系が主力だったのでそれのつもり)、黄色が快速電車(湘南色113系のつもり)、緑色が新快速(横須賀色113系のつもり)となったし、私鉄バージョンでは、赤が山陽電車(当時の山陽電車はクリーム色と紺色の塗り分けだったので似ても似つかないが、なぜかその設定だった)、緑が阪神普通用ジェットカー、黄が阪神特急となった。それを聞いた父が、「阪急はないのか?」とわたしに訊いたが、阪急にはほとんど乗ったことがなかったので、興味もなく設定の必要がなかった。その他、これら「でんしゃ」は、単行でバスに変身したりすることもあった。

 小学校高学年になると、プラレールでなくダイヤブロックで電車を作り、マジックなどで色を塗って走らせるようになったし、やがてHOゲージの模型を買ってもらったりもした。同級生の部屋に敷かれるのも、プラレールではなくNゲージの線路に替わっていった。
 そうなってから、たまたま他の用で押入れを開けた時に、埃を被ったプラレールの箱を見つけ、「でんしゃ」を取り出して走らせてみたことがある。しかし、車輪のキイキイ軋む音があまりに耳について、遊びに集中できず、すぐ飽きて放り出してしまった。小さい頃は、そんな音など気にも留めず、何時間も走らせていたのに、意識は変わるものだ、と子供ながらに感じた。
 
 
 しかし、プラレール初期の顧客が親の世代になり、子供の頃に果たせなかった大レイアウトの夢を実現するため、車輌やレールを買い込んだり、自分の子供と共同作業でレイアウトを組み立てたりするような傾向がでてきている、と聞く。
 会場にもそんな客があちこちにいたようである。

(平成22年8月執筆)

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静かに眠る夢空間

INDEX
1.夢空間の誕生まで
2.夢空間への乗車
3.夢空間引退
4.三郷での保存展示
5.おわりに


1.夢空間の誕生まで
 「夢空間」というのは、JR東日本が製造・所有して運行していた豪華版客車である。平成元年に開催された「横浜博」に合わせて展示され、その後営業に就いた。定期運用はなかったが、臨時・団体列車としてたびたびその姿が見られた。
 造られたのは三輌で、それぞれ「デラックス・スリーパー」「ラウンジカー」「ダイニングカー」と名づけられた。従前の言い方では、要するに「個室寝台車」「ロビーカー」「食堂車」であるが、それぞれをうんと豪華にしたものである。

 こういう車輌が造られたのには、時代背景があった。

 その前々年に国鉄が分割民営化されてJRが発足し、前年に開通したのが青函トンネルと瀬戸大橋をそれぞれ含む線である。経営はばらばらになったが線路は全てがつながった、という少々皮肉な一大変化があって、何かと鉄道が注目を浴びていたのである。
 そして、特に青函トンネルを経由する寝台特急「北斗星」が新設されたことは大きな話題であった。国鉄~JRは、今どきこんな列車を走らせても閑古鳥が鳴くのではないか、と不安にかられながら運行を準備したという。何にしろ、既に本州~北海道の輸送は航空機が90パーセントを超えるシェアで圧倒していたのである。
 しかし、そういう半分やけくそというか諦めというか、そういう気持ちが、おりからのバブル景気とも相俟って、遊びの心につながった。どうせ乗ってもらえそうにないなら、輸送力確保という国鉄黄金時代の発想を離れ、旅のゆとりを提供する豪華列車に仕立てることしよう、ということになった。また、せっかく分割したのだから、JR東日本と北海道とで一往復ずつ運行し、その設備やサービスを競い合おう、とばかり、別々に車輌の改造を行ったのである。

 ところが、運転開始してみると、青函トンネルも「北斗星」も大人気を博し、「北斗星」の寝台券、特に個室寝台のそれは、プラチナチケットと呼ばれるほど取りにくい切符となった。こんな人気寝台列車の出来は、まさに高度成長以来であった。二往復の定期便に加え、臨時便がかなりの日数運転され、やがて定期便が三往復に増発されることも決まった。
 衰退しつつあるかに見えた寝台列車に、新たな方向が見えたことを受け、次世代の寝台列車はどのようなものか、を提案したのがこの「夢空間」だったのである。当然、それはさらなる豪華化という方向となった。JR西日本は同時期に同様のコンセプトに基づく「トワイライトエクスプレス」車輌を改造によって産み出し、「夢空間」は後の「カシオペア」にそのコンセプトをつなぎ渡した。


2.夢空間への乗車
 「デラックススリーパー」は、一輌に僅か三室の個室しかなく、それぞれにバス・トイレが付いていた。「北斗星」のA寝台個室にはシャワーがあったが、バスが付いた個室はわが国で初めてだった。
 「ラウンジカー」にはピアノやバーカウンターが備えられ、ゴージャスなソファでくつろげるようになっていた。欧州の寝台列車、とりわけあの「オリエント急行」あたりをイメージした車輌と言えよう。
 「ダイニングカー」は、通常最後尾に連結されることになり、大きな窓から三方向に展望のきくレストランであった。客席は少ないが、個室もあった。

 こういうユニークな豪華車輌、わたしの好みにばっちり適合するのだから、乗ろうとするのは当然で、実際何度か「夢空間」の連結された寝台特急に乗ったことがある。ただ、これがなかなか難しい。
 たまの臨時運行しかないし、日程と切符の確保が難しいのである。で、結局乗ったのは六回だけである。以下のようなラインナップになった。聞き慣れない列車名や、最近では見られない運行区間が多く、そうした点を含め、鉄道趣味的にも面白いことになる。(「列車名」運行区間:乗車時期)

「夢空間金沢」金沢→(北陸・上越線経由)→上野:平成6年2月
「夢空間北斗星82号」札幌→(千歳・室蘭・函館・東北線経由)→上野:平成9年7月
「夢空間あきた」弘前→(奥羽・羽越・上越線経由)→上野:平成9年8月
「北斗星トマムサホロ」新宿→(東北・函館・室蘭・石勝線経由)→新得:平成10年3月
「東京夢物語」大阪→(湖西・北陸・上越線経由)→上野(乗車は大宮まで):平成13年11月
「神戸夢物語」上野→(上越・北陸・湖西線経由)→神戸:平成14年4月

 いずれも、「デラックス・スリーパー」の個室は取れず(というより、高くて手が出なかった、と言う方が正確かもしれない)、泊まるのは一般車輌の寝台や個室に甘んじた。

 「夢空間金沢」は、初めて乗る「夢空間」連結列車に湧き立つような期待とともに出発した。開放B寝台の上段しか取れなかったが、乗ってみると空席も多く、検札に来た車掌さんが別区画の下段に替えてくれた。
 夕食は「ダイニングカー」でディナーをとった(事前予約はなく、車内で係員が回って予約をとっていた)。せっかくの食堂車なのに、魚津か黒部あたりの駅で長時分停車して普通列車にも抜かれ、ディナーの間中停まったままだった。給仕にはその方が都合がいいだろうが。朝食はどうしたか、よく覚えていない。

 「夢空間北斗星82号」は、他の「北斗星」でも全く支障はなかったが、ちょうど旅行する日に運転していたので、A個室を奮発した。ただし、2人用のツインデラックスなので、二人分の特急・寝台料金を払ってのシングルユースで、その割にロイヤルのようなシャワールームなどもないので、費用対効果比は低かった。

 「夢空間あきた」は、五能線の観光臨時快速「リゾートしらかみ」に試乗した帰りを利用して乗った。
 この時も開放B寝台だったが、地元青森の自称有力者のおじさんと相席になった。このおじさんは、気難しくはあるが話好きで、気兼ねも退屈もしなかった。ディナーも朝食も「ダイニングカー」で一緒に食べたが、和食メニューがないことにおじさんは大いに憤慨した。かなり口を極めて罵ったのだが、食堂車の係員に、
「ご満足いただけましたか?」
 と訊かれると、あっさり、
「美味しかった」
 と答えていた。その他、当時の盛岡における新幹線と特急「はつかり」の乗換の不便さに関しておじさんとわたしは意気投合した。
 自分は有名政治家とも通じているから、こんな列車のサービスくらいすぐに変える力がある、帰ったらすぐに動く、というおじさんの豪語を聞きながら呑んだ。おつまみの鴨のローストと、ミニロビーの自販機で求めた缶ビールとは、おじさんが奢ってくれた。
 朝食も一緒に食堂車でとった後、上野でおじさんと別れ、わたしは東海道新幹線に乗って帰った。その際に100系「ひかり」の二階建食堂車で昼を食べたから、三食連続食堂車となった。こんな贅沢は、後にも先にもこの時だけである。

 「北斗星トマムサホロ」は、スキー客用の臨時で、この時もA個室ツインデラックスのシングルユースで乗った。新得着は正午近かったはずで、大いにのんびりできた。
 北へ向かう夜行のほとんどが上野始発のところ、新宿から出るのがちょっと新鮮だったし、室蘭本線の沼ノ端~追分間という、現在は定期の「北斗星」はおろか優等列車が全く運行していない区間を走るのも、痛快な気分だった。この区間は、戦前には道東・道北へのメインルートだったので、今でも堂々たる複線なのである。
 やはりディナーは「ダイニングカー」でとったが、食後のコーヒーを、
「ラウンジカーの方で召し上がりますか?」
 と勧められ、運んでもらった。自動演奏のピアノを聴きながらいただくコーヒーの気分は、日本の列車とは思えない。
 なお、サービスは前回の「夢空間あきた」の時と別段変わっていなかった。

 「東京夢物語」は、関西方面の観光キャンペーンに伴って運転された臨時列車である。大阪駅で、15時台に、「上野行」の列車が出る、というのも珍しかった。東京と関西とを結ぶ列車が北陸・上越線経由で運転されたのは、JR東海の路線を経由しないですむからだろう。通る会社の数が増えるほど、調整の手間もかさむ。それに、途中宮内で進行方向替えがあるので、上下列車とも、発車時には「夢空間」車輌を最後尾にできる余得もある。さらに言えば、意外に思う向きもあろうが、東海道経由と北陸・上越経由と、東京までの距離はそんなに変わらないのである。
 この時は、シャワーを使用したのだが、わたしの予約したシャワー時間中、ずっと今庄に長時分停車していた。揺れなくてシャワーが浴びやすいかと思いきや、今庄はカーブ上にある駅なので、傾いたまま停まったのに閉口した。床が坂になって不安定なのはまだしも、排水孔が坂上の方に来たので、シャワーの湯が溜まり続け、脱衣所に漏れ出しそうになるのは困った。
 ディナーを「ダイニングカー」でとったのはもちろんだが、遺憾ながら朝食の案内が全くなかった。しかるべき時間帯に「ダイニングカー」を覗くと、ツアー客にサンドイッチを供するのに係員はてんてこまいであった。わたしは7時14分着の大宮で降りて食事をとった。

 「神戸夢物語」も同様の列車であるが、これがわたしにとって最後の「夢空間」利用となった。乗ったときはそうなるとは思わなかったが。
 故郷の神戸に、日本一の豪華車輌(を連結した列車)から降り立つのは、昔の急行「津軽」が「出世列車」と呼ばれたのと同じ感覚で、なんとなく錦を飾るような気分になった。そのため、神戸が近づくとわざわざ「ラウンジカー」に荷物を持って移動し、そこからホームに降りたのである。もっともわたしが降りるのを誰が見ているわけでもなく、列車自体も大阪でほとんどの客が降りてしまい、がら空きになっていて、わたしと列車に集まったのは、称賛や羨望ではなく奇異の眼であった。神戸着8時06分という時刻も、いささか早過ぎる気がする。せっかくの「夢空間」だから、ゆっくりさせてほしかった。


3.夢空間引退
 このようにいろいろと思い出深い「夢空間」だが、とにかく年によりシーズンにより、さまざまな臨時列車に連結され、まさに神出鬼没のつかみどころない車輌であった。そのなかで東日本エリアから外れた所に住むわたしが六回も機会を捕捉できたのは、上出来と感謝せねばならないだろう。
 またそのうちに乗れれば、と思っていたら、とんでもない情報が入ってきた。

 「夢空間」が平成二十年春をもって引退する、との情報が伝わってきたのである。
 もっと古い寝台車がまだまだ活躍しているなか、意外であったし、もったいないと思ったが、わたしなどが意見を言えることでもない。豪華寝台列車では客を呼びにくくなったのかもしれないし、三輌ともオリジナリティーの強すぎる特殊車輌なので、整備にもコストがかかるのだろう。
 わたしも、旅行禁止だったりしたため、お別れ乗車に行くこともかなわなかった。
 「夢空間」は解体されてしまうのか。


4.三郷での保存展示
 案じていたら今度は、「ダイニングカー」と「ラウンジカー」は保存展示されるらしい、という話が聞こえた。
 展示されているのは、武蔵野線新三郷駅に隣接した大規模ショッピングセンター「ららぽーと新三郷」である。ここは、JRの貨物操車場の跡地に建てられているので、その縁で保存場所に選ばれたらしい。

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 先日、そこを訪れた。二輌が連結されているのかと思ったら、そのスペースがなかったのか、意外にもそれぞれ全く別の場所にあったし、展示のし方も全く異なった。

 「ダイニングカー」は、駅からは遠い駐車場のはずれのような所に、通常の静態保存のあり方で展示されていた。周囲は柵で囲われ、車内に入ったり車体に触れたりすることはできない。窓越しに中を見ようとしても、床面が高いこともあり、よく見えなかった。それでも、特徴あるスタイルの展望窓は懐かしかった。

 「ラウンジカー」は、新三郷駅から人工地盤で道路を渡ってすぐの所から見下ろせた。
 模擬ホームが設けられ、そこに停車しているかのように「ラウンジカー」があった。このホームには自由に出入りできるので、車体に触れることもできる。動く必要がないので、転落防止も考えてか、車体とホームとの間が非常に狭い。そして、単に側に寄れるだけではなかった。103161160 103161180 103161060_2

 このホームは、フードコートとつながっていて、なんとラウンジカーの内部はフードコートの客席の一部として使われているのである。フードコートの営業時間中は、車輌のドアが開けられ、車内に自由に出入りできる。
 そこでわたしは早速フードコートにある讃岐うどんの店で適当なうどんを作って、車内で食べることにした。
 この豪華車輌でうどんを食べるのはそぐわない。列車として営業していたころは、ソファにフリルのついたカバーが掛けられていたと思うが、それはなく、紫のレザーがむき出しで、内装とも合っていない。103161171 103161163 しかも、腰を落ち着けてものを食べているのはわたしだけで、多くは子供連れなどが車内を観ながら通り抜けるばかりであった。四歳くらいの男の子が、わたしとうどんを指さして、お父さんに、
「こんな所で食べていいの?」
 と小声で訊いた。子供に気を遣わせて申し訳ない。
 いろいろと言いたいことはでてくるが、ないものねだりをしてはきりがない。ここまで開放的に展示してくれているとは、過分である。

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 満足して、「ららぽーと」の中を歩いて、書店に立ち寄ると、わたしの地元を拠点とする書店が入っていたので、ちょっと驚いた。

 
 さて、残りの「デラックス・スリーパー」はどこへ行ったのか。公式な発表は何もないのだが、現在のところ、尾久の車輌基地に留置されているのが東北線列車の窓から見える。大宮の鉄道博物館が拡張されたあかつきには、展示車輌に加わるのではないか、と噂されてもいるが、あくまで噂である。
 どうせ博物館に収蔵されるのなら、三輌を連結した形で、と思うのだが、新三郷の二輌が今更動くとも思えず、これもどうなるか分からない。


 
5.おわりに
 寝台列車のカンフル剤の役目を果たし、文字どおりわたしたちに夢を与えてくれた「夢空間」が、もう線路を走ることはないだろう。そして、寝台列車は今度こそ存亡の危機に曝されている。次代の寝台列車の姿が見えないなか、あの頃の楽しい夢の跡が残っていることは、嬉しい。
 なかなか捕まえることのできなかった「夢空間」が、今は新三郷に行けば確実に会えるようになった。譬えは悪いが、ミステリーによく出てくる、恋する相手を自分のものにするために殺す犯人の心理が分かる気がする。わたしは、今後も機会あるごとに新三郷に夢を見に行くことになるだろう。

(新三郷へは平成22年3月訪問)

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余部鉄橋架け替え中の様子

 橋脚の高さでは日本一という鉄道橋、兵庫県香美町の余部(あまるべ)鉄橋が、現在架け替え工事中である。間もなく明治以来の橋は見られなくなる。

 余部鉄橋は、JR山陰本線上にある。本線とは名ばかりで、毎時一本あるかないかの普通列車が細々走るローカル線なのだが、ここが鉄橋人気で数年前から結構賑わっている。
 ところで、このアマルベという地名の表記は、けっこうゆれている。こんな辺鄙な土地でしかも観光地なのに表記が一定しないのには、事情がある。

 ともあれ現地へ行ってみよう。
 わたしは、餘部(あまるべ)を通る山陰線の下り普通列車に乗るべく、城崎温泉(きのさきおんせん)にやって来た。
 城崎温泉の駅は、元は城崎という名だったが、平成17年に改称された。旧・城崎町が豊岡市と一体になったのを機に、というのが改称理由だが、これは理由になっていないだろう。やはり温泉地であることをアピールする意図があったと推測される。
 しかし、全国的に見ても、由緒ある第一級の温泉地の駅は「温泉」が付かないのが普通である。言わざれど温泉なのは自明だからだ。熱海(あたみ)・白浜(しらはま)・別府(べっぷ)・指宿(いぶすき)・登別(のぼりべつ)など、いずれも地名だけでのそっけない駅名である。こういう改称は自ら二級になり下がるものではないのだろうか。
 そうは言っても、温泉としての城崎の知名度も落ちてきているのかもしれない。志賀直哉の「城の崎にて」も、今の若い世代に必読の書というわけでもないだろう。

 途中、香住(かすみ)を通る。香住は特急の終着駅になるほどの駅 なのに、駅員は一名のみで、駅舎は薄暗くひっそりしている。ホームや改札口の発車案内は、今でもパタパタ式だ。これは昭和五十~六十年台頃の国鉄標準仕様である。久しぶりに見た(写真右)98121760

 香住の次の鎧(よろい)は、無人駅ながら行き違い可能な構造になっている。98121585
 このあたりから西の浜坂(はまさか)にかけての日本海岸は、柱状節理によって形成された海食崖や洞窟が連続した名勝となっており、但馬御火浦(たじまみほのうら)と総称される。鎧は、近くにある鎧の袖(そで)と呼ばれるその名のとおりの形をした天然記念物たる断崖に由来した地名である。ホームには、御火浦の西端にある釣鐘洞門(つりがねどうもん)の石碑も建っている(写真左)。これらを見るには、陸路よりも、香住からの遊覧船が便利だ。
 鎧を過ぎると、山の中を通りながらもだんだん高度が増し、海がちらちらしはじめて、高い橋を渡るムードが漲ってくる。

 山国の長いトンネルを抜けると、鉄橋だった。昼の底が青くなった。橋上で列車がスピードを落とした。ほとんどの客が席を立って、ガラス窓にケータイを構えた。

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 ここから写した写真は、ことわらなければ、列車から撮ったとはとても思えないであろう(写真左は鉄橋にかかってすぐの列車から俯瞰した写真。国道178号が横切っている。右は鉄橋の西端近くから直下を撮ったもの。左側に集落へ下りる山道が見える)。 
 余部鉄橋を渡り終えた列車は、すぐ餘部に停まった。こんな所に停まっても、周囲は山である。集落は鉄橋の下だ。それでも、その昔は余部の人にとって貴重な駅だったろう。しかし今、多くの人が下車するが、観光客ばかりである。地元の人はクルマに乗るのだろう。わたしも降りる。
 架け替え工事中なのでフェンスが張りめぐらされている。踏切を渡ると、集落に下りていく道がある。工事の都合で通常の道とは異なる仮道だが、いずれにせよまるで登山道のような険しさである。降客は一列になって、黙々と下って行く。途中で斜めに鉄橋を見上げられる所があり、お決まりのように皆が立ち止まってカメラを向ける。現在の橋の向こう側に、新しい橋脚が見える(写真左はフェンスに囲まれた餘部駅ホーム。中は駅構内の踏切脇から見た鉄橋上の線路。右は山道の途中から写した鉄橋)

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 下りきって余部の集落に入った所に、余部鉄橋の案内表示がある(写真左は集落に下りる急な山道。滑り止めはあるが、油断すると転げ落ちそうだ。右は山道の入口にある表示。なぜアトムがいるかは不明)

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 浜に出てみる。家並みの間の、人が擦れ違うのがやっとという狭さの路地をすり抜けることになる。最近まで観光地でも何でもなかったので、受入態勢はそれほど万全ではなく、住民の生活の狭間を歩かねばならないのは申し訳ない。
 橋の下を国道178号がくぐっている。国道沿いに駐車場やトイレが設置されているが、いかにも急ごしらえである。橋が架け替わってしまうと、ブームも去るかもしれず、様子見というところだろうか。予備知識なく通りかかったクルマが、人が集まっているのを見て思わず停まってみたりしている。鉄橋の直下あたりには喫茶店がある。集落だけではとても商売はたちいかないだろうから、これは鉄橋観光の恩恵らしい。
 このあたりの海岸は、但馬御火浦のなかでもちょっと峻険さが中休みする部分にあたり、ごく狭いながら砂浜もある。ささやかなせせらぎが海に流れ込んでいる(写真左の左は可愛らしい小川の河口。左の右は堤防から見上げた鉄橋)

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 波をBGMに鉄橋を見上げると、やはり大きい。といっても、目の前にある集落の家との縮尺の違いがよく分からない。高い建物がないから、比較が難しい。

 皆が駐車場や堤防から鉄橋に向けてカメラを掲げる。まもなく上り普通列車が来るのである。餘部駅の発車時刻表は、駐車場の案内板に記されている。
 少し遅れているようで、なかなか来ない。皆が焦れだした頃に、駅の踏切の音が微かに聞こえてきた。巧まざる演出である。何百メートルも離れているのに、障碍物がないからか、警報音も列車のエンジン音も、ちゃんと聞こえる。
 月並みな表現だが、やはり中空を行く、という言葉しか出てこない。有名な映画の自転車が飛ぶシーンを思い出す。満月をバックに列車を見たら面白いかもしれない(写真左の左は餘部駅を出発した上り列車。鉄橋のスケールに遠近感が狂い、家の屋根から屋根へ移る模型のようにも見える。写真左の右はその列車が鎧寄りのトンネルに入っていくところ。工事のクレーンとの組み合わせは今だけの風景だ)

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 さきほどから、鉄橋と集落は「余部」、駅は「餘部」、と書き分けていることにお気づきであろう。これが正式の表記である。
 駅よりも鉄橋が先にあり、自然に地名の「余部」が鉄橋の名になった。その後、余部地区から駅設置の要望が出た。それはそうだろう。頭の上をこれ見よがしに煤煙と騒音を降らせて走る汽車を毎日見ていれば、乗せろと言いたくもなる。餘部駅の開業は昭和34年で、山陰線の駅としては比較的新しい。
 それで鉄橋のたもとに駅ができたのだが、同じ兵庫県の姫新線には、既に余部(よべ)駅があった。紛らわしいから、という理由で、当時の国鉄は地元でも使われていない旧字体の「餘部」の表記を採った。戦後であるから、一般的には旧字体を新字体に改めつつあった時代にあってである。国鉄らしいせせこましい処理である。
 駅ができたのが今の時代だとしたら、「あまるべ」「たじま余部」「余部鉄橋」などという駅名にしたのではないかと思う。

 さて、余部の集落の足としては、山陰線以外にも、国道178号を運行する全但バスの路線があった。これなら山道の登り降りも必要ないのだが、いずこも同じ事情で、近年になって廃止された。代わって香美町営バスが運行を始めた。
 堤防沿いにバス停があるが、これの名称は「あまるべ浜」である。「余部」も「餘部」も読みにくいと思ったのか、地元とJRを両成敗したのか、平仮名表記になっている。しかも、現在も「全但バス」と標示されたままである。僅か一日三往復の運行なので、余部鉄橋のアクセスとしては積極的に告知されていない。多くの観光客がいたのに、いずこへともなく消えてしまい、町営バスに乗ったのはわたし一人だった。
 やってきた町営バスは、ジャンボタクシータイプの小型だった。定員は10人である。なるほどこれでは観光客に乗られては困る。受託しているのは全但バスだったから、バス停の標示もあながち間違いではない(写真左は駐車場に掲げられた案内板。餘部駅の表記が入り乱れている。中は町営バスのあまるべ浜停留所。右は香住駅前に到着した香美町営バスの全但バス車)

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 終点の香住駅まで客はわたし一人だったが、汗ばんだわたしをみて、老境にある運転手さんは、ぎんぎんにクーラーをかけてくれた。

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(平成21年8月訪問)

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三木鉄道の跡

 三木鉄道(みきてつどう)は、かつて兵庫県にあった第三セクター鉄道である。昨年3月限りで営業を廃止した。
 神戸出身のわたしにとって、ロケーションとしては極めて身近な所にある路線であった。三木方面に出かけた回数など、数えきれない。しかし、初めて乗ったのは、神戸を離れてからであり、全国鉄道の乗りつぶしを目指さなかったら、乗らずじまいだったかもしれない。

 それは、わたしの動線と路線とが全く合っていなかったからである。県都神戸から三木に出かけるには、出発地にもよるが、神戸電鉄で行く、神姫バスの直通急行バスに乗る、あるいは、明石(あかし)か西神中央(せいしんちゅうおう)まで電車で行き、バスに乗り継ぐ、という経路になる。大阪からも同様であるし、三木の人が都市部に出るにしても同じだ。
 では、三木鉄道は何のためにあったのか。

 三木鉄道は、加古川沿いに敷かれていた播州鉄道の支線として、大正期に開通した路線である。加古川沿いの路線となったのは、加古川水運を鉄道で代替するためである。後に播丹鉄道という別会社に譲渡され、さらに戦時中に国鉄に買収された。
 この旧播州鉄道の路線群は、本体の加古川(かこがわ)~谷川(たにかわ)間がJR西日本加古川線となって残っているが、支線のうち高砂(たかさご)線と鍛冶屋(かじや)線は廃止、北条(ほうじょう)線、そして三木(みき)線が第三セクター化され、それぞれ北条鉄道(ほうじょうてつどう)・三木鉄道となったのである。
 元々が貨物輸送のための鉄道であり、旅客の流れに合わせる気などなかったわけである。加古川線は、神戸を中心とした扇の端を辿るように走っているうえ、沿線の三木・小野(おの)・社(やしろ)・西脇(にしわき)といった町の中心部をことごとく避けて通っている。これでは客が大して乗るはずはない。「本線」がこれでは、その支線はもっと景気が悪くなる道理で、従って国鉄末期のローカル線廃止リストに支線群が残らず載ってしまった。

 三木鉄道はJR加古川線の加古川から三つめの駅、厄神(やくじん)からまっすぐ東へ向かい、三木(みき)に至る路線であった。第三セクター化されても、経営は好転しなかった。国鉄時代は加古川線と直通運転もしていたのに、別会社となったことで、全て厄神乗換になったばかりか、運賃も打切計算で割高になった。
 こういう杓子定規は全国いたるところにあり、何とかがんばって存続している第三セクター鉄道も多い。が、三木鉄道は路線総延長がわずか6.6キロという小規模な路線でもあり、都市と直結もしておらず、三木駅も三木市中心部にある神戸電鉄(こうべでんてつ)の三木駅からは少し離れていた。これでは工夫しようにも、限度がある。ディーゼルカーの小型軽量化、ワンマン運転、駅の増設などをしてみた。しかし抜本的な改善とはならなかったばかりか、皮肉にもそれらの工夫は、バスで代替した方が効率的であることを実証するようなものでもあった。

 筆頭株主である三木市の財政再建のため、三木鉄道は廃止されることとなった。それが発表されてから、改めて一度乗りに行った。乗りつぶしの時は、廃止など想定しておらず、とにかく乗ればいい、という意識しかなく、子細に観察していない。

 厄神では、JR加古川線の電車から中間改札もなくホームを渡って直接三木鉄道の車輌に乗り込む。加古川線もワンマン運転で無人駅も多いため、加古川駅の中間改札で精算し精算済証を電車の運賃箱に入れて降りることになるのである。82101695
 廃止が近いため、ほぼ全てのボックスに客がいたが、普段はこんなではないだろう。途中駅での乗降も少なく、絶えず自動車道路が並行しており、バス転換を阻むものは何もない、という感じである。しかも、駅を増設したため駅間距離が短く、リクエストストップではないので全ての駅にいちいち停まらねばならない。ディーゼルカーなので加減速もそんなによくない。
 すぐに三木に着いた(写真右は、三木駅に留置されていた車輌)

 三木駅では、多くの人が記念写真を撮っている。三木鉄道唯一の有人駅なので、撮りがいがあるのはここくらいである。駅前には廃止を告げる看板が立ち、使われなくなって久しい貨物ホーム跡は、自転車置場として活用されていて、わりあい原形をとどめる(写真左の左はその看板。左の右は貨物ホームと留置車)82101685 82101661
 しかし、木が多用されている出札口・改札口の古めかしい佇まいはどうだ。わたしが国鉄・JR乗りつぶしに励んでいた昭和末期・平成初頭頃のローカル線を思わせる。JRに引き継がれた路線は、その後リニューアルされたりして面影が薄くなったが、三木駅はJR以上に国鉄の香りを残していた。レトロ調にしよう、などという意図なしに(写真右)82101681 82101662
 わたしは、懐かしいそのムードを楽しみつつ惜しみつつ、徒歩で駅を去り、市街地に向かった。

 

 さて、三木鉄道の廃止後は、神姫バスが、代替バスを運行するようになった。神姫バスも地元のよしみでいちおう三木鉄道に出資はしていたのである。
 その後どうなったのか、廃止後半年ほど経ってから見にいってみた。

 またまた厄神駅で電車を降り、今度は駅の外に出る。てっきりバスは駅前から出るものと思ったが、駅前広場のようなものは形成されていない。以前、水害で加古川線の厄神~粟生(あお)間が不通になった時、代行バスがホームにつながる改札口に横着けした記憶があるのだが。
 案内看板に従って、三分ほども歩いたところに代替バスの乗場兼転回場が設けられていた。駅前は立て込んでいるからだろうが、転回はともかく、乗降は駅前で扱えないのであろうか。これでは鉄道時代以上に乗継ぎがしんどくなっている。その時はそう思った(写真左は厄神駅の乗場に着車しようとする代替バス。後方は加古川線の線路)8y161194
 やってきたバスは、小型のノンステップであった。座席定員はディーゼルカーの三分の一にも満たないが、それでこと足りるのであろう。運転本数は、昼間一時間毎、朝夕は間隔が縮まる。鉄道時代とだいたい同じである。ただ、鉄道時代同様三木駅で折返す便は朝の数便のみで、ほとんどの便はそのさらに東方の恵比須(えびす)駅発着となっている。

 わたし一人だけを乗せたバスは、線路跡に沿って東に向かいはじめた。ほぼ直線でアップダウンも少ないので、快適なドライブである。停留所の数も、三木鉄道時代から若干増えたという程度である。
 そんななか、石野中(いしのなか)でおばさんが一人乗ってきた。さらに東這田(ひがしほうだ)でも一人。買物に行くような感じである。
 三木鉄道三木駅前(みきてつどうみきえきまえ)に着いた。三木鉄道の廃止代替バスにこんな名の停留所があるのは奇異だが、なぜかこうなっている。踏切跡を渡って回り込んでみると、駅舎は現役時代と同様に建っており、「駅前広場」には客待ちのタクシーまでいる。客待ちというより無線待ちなのかもしれないが、とにかく列車が来ないことを除けば、廃止前と何も変わっていない。だから、停留所名もこれでいいのかもしれない。あるいは、「三木鉄道三木駅」は、「遺跡」の名前という感覚なのだろうか(写真右は三木駅跡。バス車内から撮影したので、少し傾いている)8y161295
 確かなのは、このバスも三木鉄道三木駅前での乗降がゼロだったことである。二人のおばさんのうち一人は市街中心部の三木本町(みきほんまち)で、もう一人は市役所前(しやくしょまえ)で降りた。またわたし一人になった。
 程なく神戸電鉄恵比須駅のよく整備された駅前広場に入り、終着となる。ここからは神戸電鉄はもちろん、神姫バス自身もここ始発の三ノ宮(さんのみや)行直通快速便を運行しており、乗継ぎができる。
 要するに、この系統は、旧三木鉄道沿線から三木市街中心部、あるいは乗継いで神戸方面に行くのが便利なように運行されているのである。西の終点が厄神であるのは、三木鉄道代替という名目のためなのだろう。

 このように、不本意な地理条件を与えられて、ぎりぎりまで踏ん張った三木鉄道である。
 三木鉄道が所有していた三輌のディーゼルカーは、廃止後も保管されて引き取り手を募っていたが、それぞれ北条鉄道・樽見鉄道(たるみてつどう)・ひたちなか海浜鉄道(かいひんてつどう)と奇しくも全て第三セクター鉄道に譲渡が決まり、幸い全車スクラップを免れた(ひたちなか海浜鉄道に行った車輌は、「湊のミキティ」などと綽名されているらしい)。
 こういうささやかな鉄道がこの地にあったことを、ちょっと記憶の隅にとどめたい。  

(平成20年11月訪問)

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鉄道忌避伝説 上

 福井県の丸岡は、それなりの城下町であったにも関わらず、北陸本線が通っていない。丸岡駅はあるが、もともとの城下町からは遠く離れている。
 鯖江も、旧北陸街道沿いに開けていた旧来の市街からみると、JRの駅はかなりのはずれに位置しており、市街を貫通して中心部に駅を作った方が便利なのに、妙なルートになっている。

 これらの事態をみて、その理由は何だと考えるか。だいたい読者が思い浮かべる理由は共通ではないだろうか。そう、わたしも同様に考えた。

 丸岡の場合、北陸本線(この区間は明治30年開通)のルート選定にあたって、丸岡の街の人々が鉄道を忌避したためであり、後に街が鉄道からとり残されたことを憾みとした地元で設立された丸岡鉄道によって、北陸本線や三国芦原電鉄(現・えちぜん鉄道三国芦原線)と連絡する鉄道路線が建設された、という理解である。
 鯖江もまた同じような鉄道忌避の結果なのであろう。 

 全国随所に、主にJRの路線が古くから栄えていた街を避けて通っていたり、街の中心部を外れた所に駅を設けていたりする例がみられる。これは、鉄道黎明期に街の人々が鉄道開通に危機感と嫌悪感を抱き、街を鉄道が通ることに反対する運動をし、ルート変更を余儀なくされた結果である、というのが、学校でも習い、土地土地の歴史を語るうえでもよく説明される理由ではないだろうか。これがいわゆる「鉄道忌避伝説」である。
 鉄道忌避の理由は、宿場町が寂れてしまう、蒸気機関車の火の粉が飛んできて火事になる、騒音や振動の問題、余所の土地の人間に気軽に入って来られては街の治安が悪化する、などさまざまなものが語り伝えられている。
 わたしたちが、鉄道忌避運動があったため、ということを、冒頭のような事態の理由として信じているのは、教科書に代表される諸文献に、鉄道忌避運動が「史実」として載せられているからである。

 しかし、少し考えれば分かることであるが、わが国に鉄道がなかった時代ならともかく、明治5年に鉄道が開業してみれば、その輸送機関としての優れた力や、鉄道が街を栄えさせる余技が、すみやかに全国に伝わったはずである。先述のような忌避理由が杞憂であったりそれを補って余りあるメリットがあったりすることも、遅くとも明治十年代には実証的に知れわたっていたであろう。
 それなのに、全国各地の幹線が整備される明治の中後期や大正時代になってなお、鉄道忌避運動が各地で起きたとするのは、不自然である。「宿場町が寂れる」に至っては、鉄道がその宿場町を通ろうが通るまいが、その鉄道の敷設自体を阻止しない限り起きる事態であることは、冷静に考えればすぐ分かる。

 以前教科書で通説として学んだ内容が、研究の進展によって変わってしまった、ということがよく報じられるようである。理科だと冥王星の問題が典型だし、社会科の教科書で言うと、鎌倉幕府が開設されたのは1192年ではなかった、とか、江戸時代の日本は鎖国などしていなかった、といった具合のことがTVなどで紹介される。
 「鉄道忌避伝説」に関しても、同様のことを喝破した本がある。「下」ではそれをご紹介しよう。

(平成19年8月執筆)

 「下」(メインブログ『まるよし講読』に収載)につづく

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