神戸市バス廃線跡めぐり 舞子編

 鉄道の廃線跡探訪というのは、鉄道趣味のなかのひとつのジャンルとして確立した感があるが、バスの廃線跡を歩く、というのは聞いたことがない。
 線路敷のような遺構が残るわけでなし、その道路をバスが通らなくなる、というだけのことなので、面白みがないからだろう。しかし、廃線から何十年も経ったり、大きく開発が進んだりすると、道路自体が付け替えられたり無くなったりして、そこに路線バスが通っていたことが信じられなくなったりする。
 

 
 今回は、神戸市バスの路線網のなかでも、この半世紀ほどの変貌著しい垂水(たるみ)区、市バスのなかで「舞子(まいこ)線」と呼ばれてきたエリアを辿ってみよう。続篇があるかどうかは未定である。稿末に地図を掲げ、写真の撮影箇所を示したので、適宜参照いただきたい。

 
 出発は、山陽電鉄の舞子公園駅である。JR舞子駅の北側に隣接しており、ともに明石(あかし)海峡大橋のたもとにある。淡路・四国方面への高速バスの乗換駅である。
 駅のすぐ東にあるのは、桜坂(さくらざか)踏切である。そういう名のヒット曲が出た時には少し話題になった(写真1a)。
 踏切の向こう側は駅ビルになっているが、大橋ができる前は踏切の向こうにも坂道が続いていて、JR(国鉄)の駅の北口に至っていた。現在はこのように、クルマの道は踏切の手前で行き止まりである。

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 現在、神戸市バス・山陽バス共同運行の各系統が、JR駅南側の広場から出ている。が、昭和43年にこの広場が整備される前は、バスは山陽の駅の北側から出ていたのである。その痕跡を見つけるのは難しい。

 写真1bは、昭和36年に舞子地区初の本格的な市バス路線として、53系統(山陽舞子~大坪(おおつぼ))が開設されたときから四年間、山陽舞子停留所があったと思われるあたりである。大橋関連の工事が始まる前は、山陽電鉄系列のホテル舞子につながる道路が、舞子公園駅に接して西へ伸びていた。その入口が山陽舞子だったはずだ。
 わたしもここから乗ったことはあるはずなのだが、幼すぎて全く記憶にない。母に抱かれて乗ったのかもしれない。

 昭和40年には、山陽舞子停留所が北方に移転している。これは、バスの発着回数が増えて手狭になったうえに、写真1cのごとく、舞子公園駅を出てすぐに急坂が控えており、ここを運行するのが困難だったためと思われる。つまり、疲れて帰宅しようとする客が、この急坂を歩いて登らねばならなくなったわけで、サービス低下だが、運行側としては、南口ターミナルが完成するまでの暫定措置だったのだろう。

 桜坂踏切の東側の線路沿いは、北に接して駐車場が高い位置に設けられている。ここは、大橋工事前には聖(せい)マリアの園(その)幼稚園があり、その園庭だった(写真2)。幼稚園は工事に伴い移転したが、後で移転先の近くも通るはずである。

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 さて、移転後の山陽舞子停留所は、舞子駅から北へ向かう旧バス道から西へ少し入った所にあったグラウンド(野球場)に仮設された。昭和40年9月のことである。このときには、51系統(山陽舞子~舞子墓園前)、54系統(山陽舞子~多聞(たもん)団地・舞子ゴルフ場など)もここに発着していたはずである。
 元々のバス道のその位置には、峠(とうげ)という停留所があったが、実質的にこの峠が山陽舞子終点の降車場ということになった。峠で客を降ろした後、バスは右折してグラウンドのバスターミナルに入って待機、そして乗車扱していたのである。わたしは父に教え示され、この停留所のポールの文字を見て「峠」という国字を覚えたものである。
 グラウンドの中には、簡単な鉄柵で仕切られただけの乗車ブースが三つ並んでいた。グラウンドだから舗装もされておらず、雨の日はぬかるみの中で行列していたし、バスも泥しぶきで汚れていた。

 この場所は、現在でいうと、ちょうど本四道路がトンネルから出て来たあたりになる。従って、その当時の名残は全くない。地盤は崩されて、橋脚が建てられている。写真3aは、元々のバス道から西へ、移転後の山陽舞子ターミナルへ向けてバスが入って行ったあたりである。今でも西へ入る道がこのようにあるが、これも恐らく当時の道ではなく、付け替えられているのだろう。
 写真3bが、そのグラウンドがあったはずのあたりだが、痕跡は皆無だ。そして写真4は、峠停留所があった所で、道の東側に三菱の社宅が並ぶのは、当時と変わっていない。旧バス道は拡幅され、歩道が歩きやすくなっている。

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 この旧バス道を北へ上っていくと、送信所(そうしんしょ)前(現・東舞子公団住宅前)停留所の交叉点に至る。東西方向に現在の51系統(舞子駅前~舞子台八丁目~県商(けんしょう)前~学園都市駅前)が通っているが、昭和43年までの送信所前は、一大ジャンクションだった。
 51系統は駅から上がってきてここで東へ右折し、県商前・商大前方面に向かっていたし、53・54系統は左折して西へ向かっていた。

 よく分からないのは、52系統である。交通局史でも神戸市公報でも、52系統の新設時の区間は、西舞子団地(現・南多聞台(みなみたもんだい)二丁目)~送信所下~西舞子団地となっており、循環運転をしていたことになっている。
 この送信所下というのがどこのことなのか、どう循環していたのか、わたしには分からない。単に山陽舞子発着ではなかったのだろうか。移転後の山陽舞子ターミナルに三つのブースしかなかったのは、51・53・54系統の乗り場であって、52系統は乗り入れていなかったのだろうか。はたまたグラウンドのターミナルは、正式名称を送信所下といったのだろうか。お分かりの方には是非ご教示いただきたい。

 ともあれ、写真5abは送信所前交叉点を北から南に向けて撮ったものだ。南西角のミニコープは、当時は二階まである灘神戸(なだこうべ)生協(現・コープこうべ)の立派な店舗であった。二階には食堂もあったと思う。
 生協の下に、短波通信の送信所があったためにそういう停留所名になったそうだ。あまりそんなものを停留所名には採らないと思うのだが、逆に言うと、当時はこの周辺にはそれ以外何もなかったのだろう。その後周囲の宅地化が進むとともに送信所が廃止されたため、現在の名になった。

 写真5cは送信所前交叉点を西に向けて撮ったものである。坂を下った先に、神戸高専の旧校舎が見えていたものだ。
 ここがジャンクションだった頃は、交叉点の東西に、それぞれ東行と西行の乗り場があった。つまり、山陽舞子(峠)行の乗り場は、51系統は東側西行乗り場、53・54系統(もしかして52系統も?)は西側東行乗り場、と二カ所に分散していた。
 もっとも、山陽舞子までは実質一停留所で下り坂だったから、ここから乗る人は少なかったかもしれない。逆方向は、送信所前下車もけっこうあったように覚えている。

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 送信所前で西へ折れた53・54系統(52系統も?)は、現在の51系統のルートを通って、二つ先の停留所、神戸高専前(現・舞子台八丁目)まで坂を下っていた。現在の舞子多聞線の四車線道路がまだできていなかったので、54系統は、神戸高専前からは路地を縫って多聞方面へ向かっていたのである。

 写真6は、現在の舞子台六丁目(大坪)交叉点を東側から見たところである。突き当たりが53系統の大坪終点だったはずだ。
 昭和43年に舞子駅前(南口)のバスターミナルが使用開始、舞子多聞線ができると、51・52・54系統は舞子駅前発着となり、ガードで線路を潜ってこの大坪に出てくるルートに付け替えられ、今に至る。
 大坪停留所は舞子多聞線上に移され、送信所前に代わって52・54系統と51系統との分岐点となった。53系統は51系統に吸収されるかたちで廃止された。

 写真7abは、現在の舞子台八丁目西行(舞子駅前方面行)乗り場と、その向かい側に分岐する狭い路地である。昭和43年までの52・54系統は、この路地に入っていた。
 昭和52年頃までの神戸高専前停留所は、もっと東寄りにあったのだが、その時期に51系統が大坪(現・舞子台六丁目)に停車しなくなった代わり、神戸高専前を西に寄せて乗換の便を図ったのである。
 

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 では、その狭い路地を辿ってみよう。
 7b地点から北に入ったこの道は、すぐに北西へ折れて勾配をぐっと下る(写真8)。写真は坂下から南東に向かって撮ったものだ。
 そこでまた北東へ折れて、ガードレールのある道が川に沿って湾曲していた。現在、川は整備されて側溝となっている(写真9aは南西に向いて)。このあたりに平池(ひらいけ)という停留所があった。
 そこから左、北西に再び折れて今度はまっすぐ進む(写真9bは北西に向いて)。このあたり、バス同士の擦れ違いはかなり苦労したであろう。

 この道の東側は、現在は学園都市に移転した神戸高専のキャンパスであった。その跡地は一部が集合住宅になっているし、さきほどの聖マリアの園幼稚園も移転してきている。

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 写真9bの道を奥へ進むと、舞子小学校前の交叉点に出てくる。写真10aは交叉点の北西から撮ったもの。山陽舞子行のバスは、左前の道に入っていた。この道が9bに至る。

 写真10bは交叉点から北を見たところ。左側に横U字状の道があり、上り坂になっていた。多聞・明舞(めいまい)方面のバスもこの道を上って行ったのだが、舞子多聞線が四車線に拡幅された時に勾配が緩和された。左側に見える墓地の手すり、そして右側の歩道が車道より高くなっているが、これが拡幅前のレベルだと思われる。

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 舞子多聞線の拡幅は昭和45年頃ではなかったかと思うが、それまでは、二車線、それもかなり狭く湾曲した道であった。バス同士はどちらかが停まらないと擦れ違えなかったし、奥の団地地区で造成が続いていたためダンプも行き交っていて、それとの離合は難渋を極めた。バスの運転手さんが金槌でサイドミラーの角度を変えてやっと擦れ違ったこともあった。

 その旧道が一部形を留めている。細道(ほそみち)(現・舞子坂(まいこざか)一丁目)停留所付近では旧道が側道として残り、地元の人の往来や駐車に使われている(写真11の右側の道。北向きに撮影)。この道がかつてはバス道だったのだ。
 写真12aはその側道の部分を北端から南に向いて撮ったもの、写真12bはそこから北に向いている。ここから北は旧道の一部が歩道になっている。歩道にしては車道から離れているのはそのためだ。

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 昭和42年には、52系統が明舞団地を循環する経路(山陽舞子~狩口台(かりぐちだい)~西舞子団地~山陽舞子)に変更された。
 一方循環だが、午前と午後とで循環方向を変えるという当時としては画期的な運行方式が採られた。現在、団地の系統では同様の方式が多いが、パイオニアは52系統であった。

 その52系統の新たな分岐点となったのが、奥(おく)の池(いけ)(現・舞子坂三丁目)の交叉点である。午後の便はここで左折した。

 写真13は、その左折した先から奥の池交叉点を望んでいる。このあたりに停留所(舞子中学校前?)があったように記憶する。
 そこでバスを降りたことがある気がするのだが、曖昧である。そういう記録がどこを見てもないので、無かったのかもしれない。

 この道を明舞団地の方へ進むと、明舞センター北側の交叉点に出る。交叉点の手前に、狩口台という停留所があった(これは確かだ)。写真14aの付近である。

 この道は、昭和43年に国鉄朝霧(あさぎり)駅が開業し、52系統もそこへ乗り入れて経路変更(舞子駅前~西舞子団地~朝霧駅前)したため、バス道ではなくなった。
 しかし、昭和47年頃と思うが、西舞子団地付近の道路工事に伴い、一カ月ほどの間、52系統が変則運行(舞子駅前~狩口台~明舞北センター)となったことがあり、一時的にバス道と狩口台停留所が復活していた。
 その後は営業車の運行はないが、朝霧駅と車庫との間を回送するバスが、このように今でも通ることがある。

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 廃線跡というのとは違うが、やはり一時的にバスが運行されたと思われる道がこの付近にある。
 写真15は、明舞センター停留所の北側の跨道橋から南側の跨道橋を望んだところである。
 平成17年の阪神淡路大震災の後、これらの跨道橋が崩落する危険がある、として、下のバス道が安全確認と応急補修が済むまでの三日間ほどであったか、通行止になった。そのため、ここを通る50・52・55・58の各系統、それに明石市営バスは、迂回運行を強いられ、明舞センター停留所は休止となった。
 その迂回路となったのが、狩口台停留所跡から南に伸びる、明舞センタービルの裏側を通る道(写真14b)ではないかと思う。これも実見したわけではないので定かでないのだが、恐らく、ということである。

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 循環運転していた昭和42~43年の52系統は、現在の明舞センター北の交叉点から南多聞台(現・南多聞台七丁目)を経て、明舞北センター(当時はまだ停留所は無かった)の交叉点を右に折れ、西舞子団地に至っていた。
 西舞子団地からは長く曲がりくねった坂道、現在も50・52系統が上り下りしている道を辿って、西岡橋(にしおかばし)に出てきていた。

 西岡橋を渡って、現在はそのまままっすぐ舞子多聞線にぶつかって交叉点となる。写真16は、交叉点の突き当たりからその西岡橋と坂道を望んだものである。

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 橋と交叉点とを結ぶ部分の道は、昭和47年頃になってから新設された。それまでは、52系統は、橋を渡った所で突き当たりなので、そこを右折して狭い道に入っていた。

 写真17aが、西岡橋のたもとからその狭い道を写したものだ。
 なお、川の向こう側の柵のある道は、古くはマイクロバス時代の54系統が通っていたのではないかと思うのだが、これも確信はない。
 写真17bは、その狭い道を、舞子多聞線の方から撮ったものである。バス一台が通れば幅いっぱいのこの道が、バス道だったのである。
 この道の中ほどに、52系統の西岡橋停留所があった。悪いことに、昭和47年までの52系統は、この西岡橋で両方向のバスが出会うことが多いダイヤだった。 舞子駅・朝霧駅双方で電車に接続して出発すると、そうなったようだ。ちょっとタイミングがずれたら楽に擦れ違えるのに、よりによってここで難渋しながら離合していたのだ。もちろんその頃はツーマン運行だった。
 突き当たりを突っ切る道が開通して、ようやく52系統は現在の経路となり、ワンマン化された。
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 昭和47年、舞子線の完全ワンマン化と同時に、舞子線の乗車料金が均一になったように記憶している。それまでは区間制で、舞子駅前から52系統だと、西岡橋までは1区、明舞団地に入ると2区だった。昭和45年頃の料金では、1区が20円、2区が30円だったと思う。
 整理券や乗車券の発行はなく、申告制で運賃を支払っていた。ワンマンカーは前乗り先払い、ツーマンカーは中乗り後払いと不統一だった。
 舞子線に残っていた狭隘区間は、この西岡橋付近と、後に見る多聞台~舞子ゴルフ場、それに51系統の県商前~商大前間であった。

 51系統は昭和43年までは商大前(現・星陵高校前)折返しが大半で、一部が舞子墓園前に足を伸ばす、というかたちであった。
 この終点付近には、神戸商科大学(現・兵庫県立大学経済および経営学部)・星陵高校・神戸商業高校(県商)と三つの県立学校が並んでいたが、真ん中の星陵の前の道が、急勾配かつ狭隘だったのである。ワンマン運転は困難なので、43年の一部ワンマン化の際、ワンマンカーだけは県商前折返しとなり、ここに転回用のスペースが設けられた。
 が、この昭和47年の舞子線全面ワンマン化の際に、県商前以北が廃止となったのである。その後も早朝の県商前発初発便のみ、山陽バスの回送車がこの狭隘区間を通って送り込まれていたが、営業運転はなかった。
 それが、平成10年になって、この区間が拡幅され、星陵高校前の交叉点も改良されたため、営業運転が可能となり、51系統がここを通って学園都市駅前まで延長された。だから、同区間は「廃線跡」とはならない。もっとも、51系統の県商前以北は市バス車輌の運行はない(営業上は市バスと山陽バスの共同運行なのだが)ので、市バスとしては廃線跡という見方もできる。  

 西岡橋付近に戻る。ここには、舞子線各系統の他に、もう一系統乗り入れていた。
 70系統(神戸駅南口~神明(しんめい)多聞)がそれである。昭和41年に運行開始した系統だが、現在山陽バスが運行している、垂水区と三宮を結ぶ高速バスの先駆けとなるような存在だったと言えよう。
 その終点、神明多聞停留所が、西岡橋停留所の東方、現在ラーメン店やコンビニのあるあたりに設けられていた(写真18の道路の向い側が、神明多聞停留所があったあたり)
 回転所も兼ねていたのだが、この土地はやがて売却されたようだ。

 その後は西岡橋の多聞・明舞方面行乗り場の僅か二十メートルほど西に、神明多聞のポールが立った(写真19の郵便局の前あたりが、移転後の神明多聞停留所があった所。焼肉店の向こう側に、写真17bの地点がある)

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 回転地が無くなった後の70系統の神明多聞降車場は、西岡橋の舞子駅前方面行乗り場を使用していた。
 ここで空になったバスは、ここから写真13・14の道を通ってはるばる朝霧駅北側にあった操車場まで回送して折返していた。

 結局70系統は昭和47年に廃止された。山陽バスで成功している都心連絡バスがなぜ伸びなかったか、理由はいろいろありそうである。高速道路や自動車専用道でなく旧神明経由だったこと、その神明道路の慢性的な渋滞、神明多聞という中途半端な所が終点で団地内で乗降できなかったこと、などである。

 さきほども述べた初代54系統(舞子駅前~山陽西舞子~舞子ゴルフ場)は、山田川(やまだがわ)沿いの道を運行していたのではないかと思うが、写真20のような道を、ほんとうにマイクロバスとはいえ運転できたのかどうか、どうもよく分からない。 

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 54系統の経路をさらに奥に辿り、多聞団地に入る。

 写真21は、多聞団地センターから南西側の坂道を写したところである。
 この道は、多聞団地口停留所と多聞団地センター停留所とを短絡するルートだが、ここもかつては54系統の営業運転が行われていた。

 54系統は、多聞団地内で環状線をなしていて、多聞団地循環、多聞団地センター折返、舞子ゴルフ場発着など、多数のバリエーションがあった。循環便は「多聞団地」の方向幕を出していた。
 昭和47年にはこの道の営業を止め、54系統は舞子駅前~公団住宅前~多聞団地センターの単純な往復に統一され、運用が効率化するとともに、ワンマン化を完了した。乗車料金も均一となった。この道は回送車の経路になった。

 写真に見えているバス停ポールは、山陽バス高速線の多聞台中央公園停留所である。この線の開設で、この道も「バス道」に復帰したのである。

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 昭和47年で舞子ゴルフ場発着がなくなったのだが、それが分岐していたのは多聞台停留所である。

 写真22aが現在の多聞台停留所で、その先に右へ入っていく坂道が見えている。これが舞子ゴルフ場行のバスが入って行った道と思われる。写真22bは、その坂道を見上げたところだ。これを昇ってみる。
 舞子ゴルフ場はとっくに閉鎖され、跡地は舞多聞の住宅地として開発された。だから、舞子ゴルフ場停留所の付近は跡形ないのだが、たぶん写真23のあたりにあったのだろう。
 この細い坂道の運行がなくなったことで、54系統も完全にワンマン化できたわけである。もっとも、その頃導入されたワンマン専用車にも「舞子ゴルフ場」の方向幕が入っているのを見たから、廃止は急転直下だったのかもしれない。

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 思いの外長い文章になってしまった。何しろ幼いころや生まれる前のことを書いているので、記憶違い、思い違い、誤った推測など多々あると思う。お気づきの点があれば、ご教示願えれば幸いである。

 これで舞子線の廃線跡めぐりを終了するが、他の地区の記事を書くかどうかは未定である。 

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未来バスの課題~ 両備バス「ソラビ」に乗る

 岡山の両備バスが、未来バスなるものを運行している。
 路線バスにとっての未来の理想像を提案するものらしい。例によって、と言っては失礼だが、水戸岡鋭治氏のデザインである。
 ともかく乗ってみよう。 

 

 岡山駅前のバスターミナルで未来バスを待ち受けたが、時間になってもなかなか姿を現さない。
 同社の彩図などによると、未来バスは「ソラビ」という愛称がついており、岡山~西大寺間を一日に三往復しているようだ。西大寺からのバスがもう着く時刻になっているのだが、途中の道が込んでいるのだろうか。

 しかたなく、ひっきりなしに出入りするバスを眺める。岡山電気軌道、下電バス、中鉄バスなど、多数の会社が入っている。台数としては両備バスが最も多いようだ。各社の社名から分かるように、鉄道を運行している、あるいはかつて運行していた会社のバスが少なくない。この両備バスにしても、元は西大寺鉄道という社名だったが、バスが営業の主体になったためか、現在の社名になった。
 客を降ろして入庫するバス、出庫してきたバス、いずれも回送だが、「すみません 回送中です」という腰の低い電光方向表示を出している。

 やっと「ソラビ」らしいバスがターミナルに入って来た。低床で、屋根に何やら装備しているから、ずいぶんずんぐりとして重心低く地を這うがごとく、バランスが悪そうに見える。10x101370_2
 折返し発車まで五分ほどしかないので、乗り場に着いて乗降を同時に扱うのかと思ったら、乗り場を行き過ぎて先のブースで降車を扱い、待機場に移動してしまった。僅かであっても息を抜く時間が欲しいのだろうか。

 ようやく「ソラビ」が乗り場にやって来た。ボディは全体に白なのだが、前から見ると黒っぽい。白を基調としながら、白で軽薄になりすぎないよう、グレーや黒でアクセントをつける手法は、水戸岡デザインらしい特徴だ。10x101363_2JR九州の特急電車、岡山電気軌道の路面電車にある水戸岡車輌とも通じるものがある。

 車内に入ってみると、内装は白というよりベージュが基調であろうか。斬新なデザインではあるが、まず見わたしての印象は、座席数が少ない、ということである。ラッシュには対応できそうになく、「ソラビ」の運行が昼間が中心になっているのが分かる気がする。
 タイヤハウスの上は、通常のバスなら、ちょっと坐りにくい座席を無理やり設置しているが、この「ソラビ」はそんな半端な席は拒否し、赤ちゃん用のサークルのような物を取り付けて、中にぬいぐるみを坐らせている。これは子供連れには喜ばれそうだが、それよりも坐りたい、という人もいそうである。
 わたしは、中扉のすぐ後ろ、くまちゃんの前の席に腰掛けたが、この座席の幅は、一人で坐るにはかなり広いが、二人には狭すぎる。以前神戸市バスにあった親子シートに似ているが、あれは不評で廃止になったはずだ。妙な幅のシートは、下手をするとトラブルの種にもなりかねない。ただ、クッションは固すぎず柔らかすぎず、坐り心地がよい。10x101364_2 10x101361_2 10x101460_2
 前のタイヤハウスと中扉との間は、右側がロングシート、左側が一人掛けの前向きシートとなっている。ロングシートは波打ったような形になっていたりして、いずれも従来の路線バスになかった形状の座席である。

 車内の照明は、LEDであり、これは屋根にある太陽電池が電源である。また、空気清浄機が車内に取り付けられている。
 窓には紫外線防止フィルムが貼られていて、ゆえにブラインドの類はない。ただこれも、JR西日本の新快速車輌で試行したところ、不評のため、結局ブラインドを取り付けた、という経緯があり、心配ではある。
 運転手の確認用に、車載カメラを四台も装備しており、いろいろな角度からの立体的な映像がモニターに映るようになっている。
 災害時などには緊急車輌にバッテリーの電気を供給するなど、連携して救難にあたれるように工夫した設計にもなっている。10x101362
 こうした技術的な特長が分かるのは、車内にモニターがあって、繰返しこのバスの解説をしてくれるからである。

 さて、実際西大寺行として発車してみると、都心のターミナルである天満屋で、満席になってしまった。通常のバスなら坐れる人も、立たねばならない。本来座席でない所に腰掛けている人もいたりして、どうも課題がありそうである。

 この路線は、かつての西大寺鉄道の運行区間を代替する路線だが、十~二十分毎に運行しているにもかかわらず、乗降は盛んである。両備バスとしては幹線の部類に入るようだ。
 調べてみると、西大寺鉄道が廃止されたのは、単に新たに開通した国鉄赤穂線との競合を避けるためであり、経営は苦しくなかったらしい。元来需要の旺盛な区間なのであろう。

 常時席が埋まる程度の客を乗せたまま、西大寺バスターミナルに到着した。やはり十分程度遅れている。岡山と西大寺の市街で、流れの悪い所がいくらかあったのである。10x101480 10x101490
 ターミナルは、元の西大寺駅を整備したものである。発着ブースや待合室は新しい建物だが、乗務員の詰所は旧駅の建物をそのまま使っているようで、鉄道駅のムードがよく残っている。
 わたしが最後にイコカをタッチさせて下車すると、「ソラビ」は直ちに「すみません 回送中です」の表示に換わり、車庫に引き上げて行った。10x10146210x101461

 ターミナルビルの側には、西大寺鉄道の車輌と転轍機が保存展示されている。状態はいいようであった。  

(平成22年10月乗車/平成23年2月執筆)

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全電動バス 奈良で試乗

 昨秋、奈良市で電気のみを動力とするバスを用いた社会実験が実施されたので、阪急の臨時直通の往路便と復路便のインターバルを利用して行ってみることにした。ハイブリッドのバスは既に多く走っているが、全電動というのは珍しい。

 昭和五十年前後であったか、各都市の市バスなどで電気バスが流行したことがあったが、あれと今回の電気バスは何が違うのか、実のところわたしには分かっていない。
 ただ、往時の電気バスは、とにかく充電に時間がかかり、バッテリーも重く、速度も出ず、と使い勝手の悪さばかり伝えられ、数年で引退したように記憶している。
 それで、どんなものか見てみたくなった。

 
 ところが、困ったことに行楽シーズン休日の奈良は、大渋滞が発生していた。かなりタイトな予定を組んでいたので、焦らざるを得ない。

 電気バスは、奈良県庁と奈良市役所の間をエキジビション運行するという。わたしは、JR奈良駅から路線バスでまず県庁に向かった。県庁は、奈良公園などのある観光ゾーンの入口あたりに位置する。そこへ向かうバス道は、広いのにびっしりとクルマが埋めており、なかなか進まない。そうしているうちに電気バスの県庁出発の時刻を過ぎてしまう。が、わたしは焦らなかった。電気バスもこの渋滞の中にいるはずで、遅れているだろう。
 ところが、わたしの乗ったバスを、見慣れない赤いボディが追い越していくではないか。これこそ目指す電気バスだ(写真右は、近鉄奈良駅付近を行く路線バスのフロントガラス越しに撮った、電気バスの背中)9y081364
 何やらステッカーが派手にやたら貼りまわされている。想像したよりかなり小さい車体である。ノンストップのシャトル運行であるのをいいことに、流れのいい追越車線を先に進んでしまった。
 わたしは電気バスを目で追いながら県庁前で下車し、電気バスが入って行った中庭へ小走りに向かった。急がないと折返し発車してしまって写真が撮れない。

 
 しかし案ずることはなかった。電気バスだから、充電しないと折返せないのである。さっきの軽快な走りと対照的に、殊勝に電気を蓄えているバスがそこにいた。
 県庁側の乗場には「奈良公園前」という少々誇大気味の名前が付けられ、期間限定運行なのに、しっかりしたポールも立っている。このバスを開発した早稲田大学のスタッフもいて、説明や案内をしている。熊谷ナンバーなのは、研究がなされているのは本庄キャンパス、ということだろう(写真左はバス停表示と、県庁で時間待ちする電気バス)
 9y081464 9y081481 一時間毎の運行で、発車直後から次便の整理券を配布する、という案内になっていたはずだが、ダイヤが大幅に乱れているためか、乗ろうとする人は数人しかいず、スタッフの方に、どうぞ、と促され、わたしも車内に入ることができた。時間の余裕がないし、乗るのに並ばねばならないようなら、見るだけにしておこう、と考えていたのだが。ただし、充電にまだ時間がかかるので、十数分後の発車、とのことだった。
 車内は狭く、三方シートだった。大阪市の「赤バス」をひと回り小さくした感じだ。わたしは席に荷物を置いて、一旦外に出た。

 ドアは一カ所だけで、それも戸袋の要らないプラグドアが採用されている。小さいボディに最大限客席を設けるためであろう。今のところ、一般道路を走る実用的なバスとしてはこの大きさが限界ということなのだろうが、じゃあ昔の電気バス、あれは普通のバスの大きさだったはずだが、あれは何だったのか、と思う。
 充電は、電動歯ブラシのように非接触でできる。コードを繋いだりはせず、大きな電池の片割れの上にお尻が来るように停まるだけで、勝手に充電が始まるのだ。運転席脇には充電状態を示すディスプレイが外付けされており、充電率の数字が上がりつつある。60%台を推移しているが、測ってみると、0.5%上がるのに、約20秒かかっている。となると、フル充電するにはトータルで、ええと、まあ、…かなりかかるということである(写真右の左は出入口のドア。右の中は電池の上に後部を乗せた状態。右の右は運転席の機器類で、手前の台にバッテリー関係の表示がある)9y0814639y081461 9y081460

 運転手さんが乗り込み、ディスプレイを覗き込むと、
「80%になったら行くわ。向こうで充電したらいけるやろ」
と係員に告げている。

 
 その80%がやっと達成され、いよいよ発車である。
 音もなく、という形容が文字どおりあてはまる、まことに静かな加速である。静かすぎて危険なのが問題になるのはよく分かる。
 県庁の中庭を出て大通りに出ようとすると、歩道を横切ることになる。歩いている観光客が何人も、このバスにカメラを向けている。
 やはり渋滞気味の西行き車線に右折したが、加減速や走行は、クルマの流れに乗るのに全く支障がなかった。車体が小さい分、一般の路線バスよりすばしこいのも道理である。乗り心地も問題ない。

 
 十五分ほどかかって、西側の折返点である奈良市役所の駐車場に着いた。こちらには子供連れなど、ちょうどバスの席が埋まりそうなくらいの待ち客があった。
 ここから近鉄奈良駅まで路線バスで戻る予定にしていたが、どれだけかかるか分からない。わたしは十分ほど歩いて最寄りの新大宮駅から電車に乗ることにした。

(平成22年3月執筆)

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電車・バス兼用レーン

 標題の件については、以前から構想はあり、わたしも公式彩図の方のエッセイなどで提唱していたことなのだが、ようやく具体化に向けて動きが出てきた。

 福井市のメインストリートであるフェニックス通りを走る路線バスについて、福井鉄道軌道敷上を運行させ、定時運転と運転時分の短縮を図る策が福井市から出された。もちろん、法律的・技術的にも可能な策である。ただ、実行するには、解決するべき問題も多い。

 フェニックス通りは、バスレーンを確保するために、無理矢理片側三車線にしている。バスレーンは当然最も歩道よりの車線を充てているが、幅員に余裕がなく、路上駐停車や交叉点で左折するクルマが、路線バスと干渉してしまうため、バスレーンが機能しにくい。また、電車は電車で右折車と干渉して交叉点通過に時間がかかっている。
 そこで、軌道敷を電車バス兼用の専用レーンとして、車線の幅を広くとり、交叉点での右折レーンも設けて、右折車と電車との干渉も防ごうというのである。公共交通を同じレーンにまとめるのは大変理に適ったなやり方であり、いいことである。渋滞時には緊急自動車の走行スペースとしても使える。
 停留所は、交叉点の出口側に電車バス共用の安全地帯を設け、このスペースを入口側で右折車線とする。このことにより、現在幅が狭くて危険な電停の安全地帯(安全地帯が危険というのもマンガのようだが、それが現実だ)も、現在の倍の幅に拡げることができるのだという。こうすれば、停留所で待っていれば電車でもバスでも来た方に乗ればいいわけで、フリークエンシーが飛躍的に向上する。

 名古屋では、基幹バスと称するシステムが実用化されている。バスレーンを道路中央にもってきて、安全地帯を停留所とするものである。これを聞いた時、大方の鉄道マニアは「今になってこんなことするんだったら、なんで市電廃止したんだよ」とつっこんだことと思うが、まさにバスを路面電車的に運行するわけである。この方式だと、駐車車輌や左折車との干渉は防げるはずが、あまりうまくいっていないようである。ラインやカラーだけで車線が区別されているので、一般車の誤進入や違反乗入れが跡を絶たないのである。それではと名古屋では基幹バスを発展させたガイドウェイバスも開業した。これは渋滞区間でバスの走路を完全に道路と分離して高架に上げてしまったものだが、これはクルマとの干渉はなくなるものの、高架や停留所のインフラが大がかりになるし、高架部分は鉄道扱いになるので、法律的にも何かと面倒だ(ガイドウェイバスの運転士はバス・鉄道両方の運転免許を持たないといけなかったりする)。
 福井の計画は、基幹バスの簡易な発展改良形と言えよう。軌道敷であれば、一般車も流石に乗入れを躊躇するだろう。海外の類似例では、レール間を敢えて舗装せず、大型車だけが走れるようにしているのだそうである。インフラの整備も、現有の施設を活かして使うから、ガイドウェイバスに比べればはるかに安上がりだし、あくまで路上なので、バスは法律的にも従来のバス扱いでいける。

 現在、電車とバスとで停留所の位置や名称が不統一なので、恐らくはバスの方に統一することになる。電停が増設されるのは便利である。電停の間隔が現在よりかなり短くなるが、現在の路面電車タイプの低床車輌だと、加減速性能もいいから、問題ないだろう。旧型の高床車輌は急行運用に限定すればよい。
 バスが走る分軌道敷の傷みも激しくなるだろう。フェニックス通りを運行するバスの大半は京福バス(福鉄バスもごく一部あり)なので、軌道敷の保守費用をどこがどのように分担するか、という問題も出てくる。
 バスが軌道敷から左折する事態も発生するので、バス専用信号機を設けたりして交叉点の信号の流れが複雑にしなければならない。両端の田原町や木田四ツ辻では、一般車の誤進入を防ぎ、しかもバスはスムーズに軌道敷に入れるような工夫を講じないといけない。前例のないことなので、公安との調整に手間取りそうだ。
 大名町交叉点で、出口側に停留所をもっていくとなると、市役所前電停を大改造しないといけない。せっかく地下道と直結している南行ホームを放棄することになり、少々もったいない。
 また、クルマの流れがスムーズになると、却って電車バスの利用が減る、というジレンマもある。

 問題は山積しているものの、福井でバスの遅れと言えば、ほとんどがこの福井都心部で発生している。その意味で、やってみる価値はある。できれば、木田四ツ辻~ベル前の専用軌道も舗装して電車バス専用道路にした方がいいと思うほどである。この区間のバス道もラッシュ時の渋滞が深刻だからである。
 もし成功すれば、他都市のLRT導入計画などの後押しにもなるだろう。福井がその先駆けになることを期待したい。

(平成19年7月執筆)

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クルマ社会に完敗

 クルマに乗れないわたしが、公共交通のすばらしさをやせ我慢も含めて力説している日常だが、先日ばかりはわたしが負けを認めざるを得なかった。
 仕事で市内や周辺に点在する用務先を次々回らねばならなかったのだ。つまり営業活動である。公共交通が強いのは拠点から拠点への移動であり、この時のような移動には向かない。タクシーを一日借り上げれば簡単だが、費用から考えてもなかなかそうもいかないから、バスや鉄道を駆使することになるが、これが手間である。公共交通を乗り継いで回ること自体は、わたしには苦にならないのだが、そういうこと以外の弊害もあることに気付かされる。

 この日の移動スケジュールは以下のごとくであった。実際はいろんな都合で細かい部分が変わったのだが、まあだいたいはこのとおりに移動した。

西鯖江 8:37 (福井鉄道急行電車) 8:42 神明/ 9:00頃 (タクシー) 9:10頃 越前町役場前 9:30 (越前町コミュニティバス環状ルート左回り) 9:45 葛野 … 9:50頃 〈用務先1〉 10:05頃 … 泰澄の杜 10:14 (越前町コミュニティバス環状ルート右回り) 10:29 西田中 … 10:35頃 〈用務先2〉 10:50頃 … 西田中本通り 11:00 (福井鉄道バス福浦線) 11:18 浅水駅前 /浅水 11:24 (福井鉄道普通電車) 11:38 西鯖江/ 〈昼食・休憩〉 13:00頃 (タクシー) 13:10頃 〈用務先3〉13:25頃 … 北中山公民館 13:43  (鯖江市コミュニティバス中河・北中山線) 14:01 JR鯖江駅

 朝一番から昼過ぎまでかけ、これだけ乗り歩いて、訪問した用務先は三つだけなのである。クルマなら午前中だけで五つほどこなせるだろう。待ち時間などのロスも大きいので、その間働いた方が効率的だ。
 体一つで乗り歩くならどうということはないが、用務先に届ける書類の他、高専に戻ってからの仕事に必要な資料もバッグに入れて持ち歩くわけで、これは肩に食い込んでかなり辛い。 公共交通を乗り継ぐ時に歩く距離というのは案外長いのである。もっとも書類のほうはだんだん減っていくのだが、いずれにしても最後はほうほうの体であった。
 そしてもっと深刻な問題が起こった。この日は小雨が降っていた(北陸は空梅雨なのだが、わたしが外回りをする日になると雨が降ることになっている)のである。雨の中を傘をさして歩くと、いかにバッグの中でも、湿気が伝わってしまう。それに、歩いているうちに中の荷物が擦れ合い、先方に届けるべき書類やそれを入れた封筒が皺になったり折れたりし、失礼な状態で渡さねばならなくなる。何とか湿気が伝わらないよう、他の本などで書類を挟んだりしたが、それでも少しは湿ってしまった。内ポケットに入れた名刺も、最後の学校では汗の湿気が伝わって、少々曲がっている。
 都市部であれば、暑い中はおたがいさま、ということで大目に見てもらえるが、地方では、先方もよもやわたしがバスや徒歩で来るとは思っていないだろうから、そういうことへの不審の念もあろう。
 これでは営業の用をなさない。来年は頑丈なアタッシェケースでも買わないといけないか。机上のプランニングが実践でうまくいくとは限らない好例であり、またわたし自身が職場のお荷物である役立たずだということがまた一つ明らかになったのであった。

(平成18年7月執筆)

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