三重から奈良の桃花源へ、生駒付近バス迷路

 「下道バス帰省」の時に、複数のルートがとり得る箇所がいくつもあった。その結果、とれなかった経路が当然ある。その一つが以前に記事にした与喜浦経由であった。バスダイヤの都合で、そこを通る曜日によってルートが変わってくる、というケースが多い。
 この記事では、三重県から奈良県にかけての二箇所を落穂拾いしてみた。そこにはなかなかの発見もあった。

 まず、三重県上野に向かった。上野市(うえのし)で伊賀鉄道を降り、駅の向いにある上野産業会館前(うえのさんぎょうかいかんまえ)からスタートである。ここは、典型的な地方の旧式バスターミナルで、コンビニ風ではなく町の雑貨屋そのものの売店がある。ここでパンとジュースを買って、自動販売機で乗車券を購入する。

 10時55分発の三重交通バス天理駅前行は、一般路線バスとしてはなかなか長距離ながら、ごく普通のノンステップバスであった。上野市内の停留所で客を拾っていき、座席の三分の二ほどが埋まった状態で名阪国道(国道25号バイパス)に乗った。

 この、一気に三重県から奈良県に直通する路線は、下道バス帰省のルートを選定するうえでも魅力的であった。ただ、津方面から上野に出てくるには、名張を経由することになり、これは遠回りになってしまうし、伊勢奥津から名張へのバスの便がかなり僅少で、しかも曜日によってダイヤが大きく異なる。従って、曜日と時間帯次第では名張経由で乗ってもよかったのだが、実際は御杖村経由が最も効率的となったのである。

 名阪国道は、高速道路然としているが、あくまでフリーウェイであるから、下道バス帰省にも使えたはずの路線である。帰省シーズンではあるが、クルマの量はそんなに多くない。
 国道大内(おおうち)・国道七本木(しちほんぎ)、などと「国道」を冠した停留所が続く。もちろん一般道経由のバスに比べれば、停留所間隔はかなり長い。インターチェンジ毎にバス停を設けているようで、その度に一般道に下りて客扱をする。インターチェンジの形状によっては、停留所前の交叉点を使ってUターンし、バイパスに戻ったりする。
 国道治田(こくどうはった)からはバイパスを北に逸れ、一転して集落内の狭い道に分け入る。この治田の集落にはこまめに停留所があり、ほとんどの客はこのあたりで下車した。
 名張川を渡る五月橋(さつきばし)は、バス一台がやっと渡れる幅しかない。対岸で待ってくれていた軽トラにクラクションでお礼して通りすぎる。これで奈良県に入った。派手な門構えと外観の、宿泊施設とも遊興施設ともつかないホテルが緑の山中に突然変異のごとく現れたりする。遅瀬口(おそせぐち)でバイパスの下をくぐり、南側に出る。山添村(やまぞえむら)の中峯山(ちゅうぶさん)のあたりは、いよいよ山深い。ここまでは奈良交通のバスも来ているようで、ポールが並んで立っていたりするが、例によってポールの位置がずれている所もある。バイパスをまっすぐ行く路線だと思い込んでいたので、こういう所を通るのは、意外だ。それも一般道で県境越えとは。
 山添村役場前で、数人の乗車がある。奈良県というか、天理の生活圏に入ったのだろう。山添インターからバイパスに戻ると、後は順調に快走する。国道小倉(おぐら)でも乗車があり、暫く走ると、またバスはインターを降りた。ここは奈良市都祁地区(旧・都祁村)の針(はり)インターである。この針は、バス路線の要衝にもなっていて、榛原からの路線もある。下道バス帰省では、榛原から天理へは桜井経由としたが、これも時間帯によってはこの針経由も考えていたのである。針インターには、「針テラス」というかなり大規模な道の駅が併設されている。各種食堂・ファーストフード・コンビニから温泉施設まである。一日いても飽きそうにない。

 さっきの治田にしても、この針にしても、恐らく地名の語源は「墾(はり)」なのだろう。こんな山中を切り拓いて住みついた古の人々の執念と工夫が偲ばれる。それなりの事情があってのことなのだろう。
 針テラスの中に設けられた針インターのバスストップで乗降はなかったが、バイパスに戻った所にある国道針でおばさんが一人乗る。バイパスは、暫く西方に向かった後、高峰山をぐるりと回る形で北へ大きく曲がり、山の名のとおり、そうとうな標高であるようだ。ピークを過ぎると、相当に湾曲しながら、バイパスは急な下り坂になっていく。反対車線は、険しい登りに車種による速度の差が災いしてか、交通量自体はさほどでないのに、流れが滞っている。その坂の途中で、わたしは胸を衝かれた。
 山並みの隙間から初めはちらちらと、やがて広々と、大和盆地の広がりが少しの霞みを伴いながら見えてきたのである。

 鉄道の場合、日本三大車窓と呼ばれる絶景がある。鉄道はその勾配や曲線などの制約から、非日常的な情景が拡がるような地勢の場所にはなかなか敷くことができない。だからこそ、雄大な車窓風景に稀少価値があるのだろう。北海道の狩勝(かりかち)峠・信州の姨捨(おばすて)・九州の矢岳(やたけ)越え、というのが定説である。いずれも山の上からなだらかな平地を見下ろす、というロケーションであり、それぞれに確かに感動的なのだが、わたしはこれにはちょっと不満である。
 海の国日本であるのだから、海や湖・河川の情景が上位に入ってきてもいいではないか。水は余りにも身近で当たり前すぎて、感動を呼ばないのであろうか。文字どおりの我田引水で言わせていただくと、山陽本線舞子〜朝霧間の明石海峡とそれを隔てた淡路島、もちろん明石海峡大橋を含めてもよいが、とにかくそれなどはなかなかよい。朝霧駅など、「ホームから見える風景」にかけては日本でトップクラスではないか、と思っている。また、湖西線から見る琵琶湖、「湖の水平線」というここでしか見られないものも、もっと珍重されてよい。

 さて、バスの車窓風景について、そういうランキングは聞いたことがない。いろんな趣味の人はいるから、そういうのをとりまとめている人というのもいるのかもしれないが。
 バスは鉄道よりも山峡やら断崖やらいろいろな所へ分け入るし、人家も稀な僻地にまで路線を伸ばしている。鉄道とは比べものにならない絶景がありそうである。

 さっき述べたことと矛盾しそうだが、大和盆地を山から見下ろしながら下っていくこの系統の車窓は、かなり上位に入れてもいいのではないか。鉄道の三大車窓のように、平地を一望にする、というのとは異なり、少しずつ少しずつ開けていくのがよい。
 もしかして、大和地方にこの国の拠点を構えた古の人々は、こうして高峰山を越えて来たのではなかろうか。険しい山道が峠となった所でこの情景を、わたしよりもっとゆっくりとした速度で見開いていったとすれば、ここがまさに桃花源、理想郷に見えたかもしれない。ここになら、都を造って落ち着けそうな気がしたのではないか。そんな勝手な想像をしながら、わたしは車窓に見入った。

 国道櫟本(いちのもと)でバイパスを下り、天理市街に入る。停留所ごとに客が降り、一時間あまりで終点天理駅前に着いた。全区間を乗りとおしたのはわたし一人である。県境の集落同士が割合近く、そこそこ交流もあるために、奈良県側と三重県側の路線を直通運転しており、バイパスを通ることで速達性もある程度はあることから、需要が確保されているのであろう。

 近鉄電車を乗継いで、けいはんな線の学研北生駒駅にやってきた。下道バス帰省ではここから生駒行に乗って俵口阪奈病院前に向かったのだが、これもたまたま旅程の曜日と時間帯が、本数極少のその系統に合ったから、そうなったものである。下手をすると、もっと遠回りせざるを得ないところであった。その遠回りコースを辿ってみる。

 駅前に感じも味もいい喫茶店があるので再訪したいのだが、あいにく時間がない。すぐに奈良交通153系統富雄駅(とみおえき)行が来た。小型ノンステップバスで可愛らしい。駅を出ると、富雄川の両岸に上下車線が分離された幹線道路に出る。そういう道路だから、川を渡る橋がある交叉点ごとに停留所があり、間隔は非常に短い。案内放送が間断ない。奈良交通だから、到着放送もあるのである。
 終点まで乗る予定だったが、一つ手前の富雄駅西口で、全員席を立ったので、わたしもつられて降りた。実質ここが降車場なのだろう。なるほど近鉄の高架に沿って一分も歩けば、駅前広場に出た。恐らく信号を二つほど待ったであろう153系統のバスは、三分近く経ってから広場に姿を見せた。

 ここからは60系統富雄団地循環線に乗り、僅か三分の鳥見町(とりみちょう)二丁目で降りる。

 典型的な新興住宅街で、戸建の家が並ぶ道をぶらぶらと西へ歩くと、またまた阪奈道路の高架が見え、そのインターチェンジと組み合わさった複雑な形状の交叉点に出る。横断歩道をどう渡ればいいのか迷いながらも抜け出すと、左側は帝塚山大学東生駒キャンパスになる。
 東生駒といっても、所在地は生駒市ではなく、奈良市である。富雄とか奈良とかいう名を付けるより、生駒としておいた方が、大阪方面からの学生を集めるのに好都合なのかもしれない。それに、確かに最寄り駅は富雄ではなく東生駒である。そのキャンパスに沿った道に、帝塚山大学前(てづかやまだいがくまえ)停留所がある。
 鳥見町二丁目からは六分ほどの徒歩で着いたから、路線は途切れているものの、乗継ぎと見做せる距離である。

 奥にある帝塚山住宅(てづかやまじゅうたく)から来た74系統東生駒駅行のバスに乗る。通常はこの後大学構内に入って通学生を乗せるのだが、今は夏休みなので寄らない。また僅か四分ほどの乗車で、東生駒北第一公園(ひがしいこまきただいいちこうえん)で下車する。もう東生駒駅近傍の商店街に入っているので、他にも下車客はいるし、目の前にバスの待機所もある。

 別の住宅街から来る63系統生駒駅行に乗換える。その次の東生駒駅を過ぎると、終点生駒駅まで線路に沿ってノンストップだった。快速急行の停まる生駒まで直行して乗換を減らすサービスをする系統らしい。なぜ74系統はそのサービスをしないのかは定かでない。

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まとめ

 ようやく下道バス帰省もゴールしたが、旅程の都合で掟破りした所や、複数のルートがとれる所で捨てた方など、乗り残した路線についても、今後機会があればなるべく乗りに出かけたいと思っている。いつのことになるかは分からないが、それまでそれらの路線が健在であることを願うばかりである。
 
 では、改めてわたしの辿ったことになる路線を以下にまとめておく。もっとこんな便利な系統があるのに、とか、なんでそんな不便な所で乗り換えるのか、とか、特にそれぞれの地元の方やバスマニアの方からはつっこみがありそうだが、わたしの器量の限界ということで、恥を忍んで示しておく次第。【 】内はバス事業者名、( )は系統番号または路線名である。…は徒歩移動を示す。…と一つだけの所は、乗換えのための交叉点や道路を跨ぐ程度の移動、……と二つ続きのところは、相当距離のある徒歩移動である。…がないところは、全く同じ場所での乗り継ぎである。寄り道は含まない。
 なお、あくまで平成19年7~8月にわたしが旅した時のコースである。その後現在までに廃止されたり、他の会社に移管されたり、運転系統・ダイヤ・路線名・愛称などが変更されたりした線、そして名前の変わった停留所もあるが、全て旅の時点のものとして記述している。従って、現在この通りの乗継をすることは不可能であることをご承知おきいただきたい。
 ではどうぞ。 

福井県
【鯖江市】青武台団地~(みらい21豊線)~朝霞…朝霞~(みらい21吉川線)~石田中…
【福井鉄道】小泉~(鯖浦線)~西田中~(福浦線)~福井駅前…
【京福バス】福井駅前京福バスターミナル~(31系統丸岡線)~本丸岡~(87系統永平寺東尋坊線)~JR芦原温泉駅…
【あわら市】JR芦原温泉駅~(コミュニティバス観光コース)~吉崎…
【まちづくり加賀】吉崎蓮如上人記念館~(キャンバス)~

石川県
~ゆのくにの森…
【小松バス】馬場~(粟津A線)~小松駅前…小松駅前~(寺井線)~寺井史跡公園…
【加賀白山バス】寺井史跡公園~(金沢寺井線)~武蔵が辻
【ほくてつバス】武蔵が辻~(87系統)~森本駅前…
【西日本JRバス】森本~(名金線)~

富山県
~福光…

【加越能鉄道】福光駅前四ツ角~

岐阜県
~鳩ヶ谷
【濃飛乗合自動車】鳩ヶ谷~(荘川線)~牧戸
【岐阜乗合自動車】牧戸~(荘川八幡線)~郡上八幡駅~(八幡線)~名鉄岐阜…名鉄岐阜~(おぶさ墨俣線)~墨俣…墨俣~(岐垣線)~結…結~(南濃線)~海津庁舎前
【海津市】文化センター前~(東回り線左廻)~海津苑~(南回り線右廻)~木曽三川公園 …… 

三重県
【桑名市】油島大橋西詰~(K-バス多度北ルート左回り)~多度駅前~(K-バス多度南ルート左回り)~総合運動公園前~(K-バス西部北Aルート)~新西方…マイカル桑名(K-バス西部南Aルート)~キクヤ前…
【八風バス】キクヤ前~(梅戸線)~伊坂台
【四日市市】伊坂台アクセス前~(自主運行バス山城・富洲原線)~山城駅前
【三岐鉄道】山城駅前~(山之一色線)~近鉄四日市駅前…
【三重交通】近鉄四日市~(53系統)~平田町駅…
【鈴鹿市】平田町駅~(C-バス太陽の街・平田線)~中瀬古駅…

【三重交通】サンモール前~(40系統)~津駅前…津駅前~(15系統)~久居駅前~(12系統)~竹原
【津市】竹原~(美杉コミュニティバス丹生俣線)~小津~(飼坂線)~奥津駅前
【三重交通】奥津駅前~(31系統)~

奈良県
~敷津
【御杖村】神末敷津~(御杖ふれあいバス)~掛西口
【奈良交通】掛西口~(27系統)~榛原駅~(1系統)~野依…野依~(70系統)~桜井駅…桜井駅~(62系統)~天理駅…天理駅~(92系統)~県庁前~(260系統)~学研北生駒駅…学研北生駒駅~(189系統)~俵口阪奈中央病院…俵口阪奈中央病院~(96系統)~

大阪府
~田原台センター
【四條畷市】田原台センター~(田原2ルート)~清滝橋
【近鉄バス】清滝橋~(61系統)~塚脇
【京阪バス】塚脇~(21系統)~京阪大和田駅~(14系統)~寝屋川車庫…寝屋川車庫~ (1系統)~京阪守口市駅…京阪守口市駅~(9A系統)~瑞光二丁目…
【大阪市交】瑞光二丁目~(93系統)~十三…
【阪急バス】十三~(18系統)~神崎橋……

兵庫県
【尼崎市交】西川~(18系統)~総合文化センター…
【阪神電気鉄道】尼崎文化センター~(大阪ローカル線)~難波
【阪神バス】難波~(西宮尼崎線)~JR西宮駅…
【阪神電気鉄道】JR西宮駅~(尼崎神戸線)~徳井
【神戸市交】徳井~(36系統)~六甲口…六甲口~(92系統)~加納町三丁目…
【神戸交通振興】加納町三丁目~(山手線)~新開地
【神姫バス】新開地~白川台
【神戸市交】白川台回転地~(70系統)~名谷駅前…
【山陽電気鉄道】名谷駅前~(14系統)~木工センター…学が丘四丁目~(48系統)~垂水駅…垂水駅~(1系統)~歌敷山

ルート地図
(乗継ぎ地点を直線的に結んだもので、バスの実際の走行ルートとは異なります)

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第一日 青武台団地→西田中

 病気治療中であり、主治医ならびに産業医の指導により、宿泊を伴う旅行は禁止である。ただし、慣れた郷里で過ごすために帰省するのであれば、長期間でもよい。
 しかし、わたしは旅行がしたくてしかたない。これまでも乗りつぶしのために日帰りで仙台など強引な旅行をしてきた。この夏も、せっかくの授業のない期間で時間も作りやすいのに、地元で悶々としていたくない。
 それで、わたしは子供のように屁理屈をこねて、なんとか旅行らしい旅行に出るための口実をつくりあげた。それがまさに以前の電チャリ8耐のように「地道に時間をかけて帰省する」という狡猾なやり方だ。

 もう一度電チャリ8耐をやる体力と気力は今のわたしにはないし、同じことを二度やってもしかたない。
 そこで、「路線バスだけを使って福井から神戸まで帰省する」というのはどうであるか。こうすれば、それなりの期間を費やすこともできるし、趣味を満たすこともでき、しかも医師の指示にも背いていない。名案ではないか。
 「外泊届を出しておいて在寮すれば、点呼を受けに行かなくて済む」という学生の発想と変わるところがない。

 そうと決まれば、ルールを決めておかねば旅程が定まらない。以下のように定めよう。わたしが納得できればいいのだから、その場その場で適当な運用にはなると予想されるが。

    1. 運賃を徴収し、誰でも乗ることができる公共交通機関としての路線バスのみを利用する市町村などが自主運行するコミュニティバスの類もOKだが、ショッピングセンターなど各種施設の無料送迎バスは、たとえ路線バスの車輌を使っていても不可である。定期観光バスは法的には路線バスの一種だし、このごろは自由乗降方式の観光バスも増えているので、これらは利用してよい。むろん鉄道やタクシーは利用しない。
    2. 一般道路を走行する路線のみを利用する。高速バスでは地域が感じられなくて面白くないし、鉄道での帰省と大して変わることがなくすぐに到達してしまい、この旅の姑息な目的にも合致しない。ただし、「高速バス」を謳っていても、いわゆる高速道路を通らない系統、あるいは路線末端の一般道路区間のみの乗車なら利用可とする。

 これを大原則として、ルートの選定と旅程の設定にかかるわけだが、鉄道と違ってバスの運行実態はなかなか摑みにくい。昔に比べれば、公式彩図で時刻表や路線図を公開しているバス会社が多くなり、調べやすくはなってきた。が、現地に行ってみると実際の運用は公式発表と異なっていたりする。また、異なる会社同士の絡み合いも複雑で、よく分からなかったりする。多分に行き当たりばったりの要素が強くなる。それも面白いと言えば面白い旅になるだろう。
 が、逆に何でもありになってしまうおそれもあるので、ルートと旅程のルールも定めておく必要がある。

    1. 起点は青武台団地、終点は神戸の(以前仮住まいしていた)歌敷山とする。これは電チャリ8耐との対照のためでもある。
    2. 乗継は同一地点のバス停を原則とするが、必要に応じ徒歩連絡によるある程度離れたバス停相互の乗継も可とする。この場合の徒歩連絡は所要時間十五分程度、距離は一キロ程度を限度とする徒歩旅行ではないので、徒歩連絡の制限は必要である。しかし、大きな駅など、バス乗場が表口と裏口に分かれていたり、「駅前」を名乗るバス停でも駅から相当歩かねばならなかったりする。そういうケースをも想定すると、これくらいまでは許容しないとルートが成立しなくなるおそれがある。
    3. 複数のルートをとれる場合、(1)わたしが乗ったことのない路線・系統を選ぶ (2)直線ルートに近い経路をとる (3)なるべく多くの事業者の路線を利用する (4)趣味的に面白い路線・系統に乗る (5)乗継がスムーズである経路をとる の優先順位で選定する。わたしが面白くないと意味がないので、こういう条件を定めるが、際限ない遠回りになっては何をしているか分からないので、(2)を入れておく。
    4. そうして選定したルートに沿って、その日の初発便で出発し、最終便で到達できる地点までで中断、宿泊する。翌日も中断地点から初発便で出発し、最終便になるまで乗継ぐ、というのを繰り返す。ただしこれは原則である。例えば、初発で出ても途中の接続が悪くて第二便に乗るのと同じ結果になる、という場合は第二便で出発してもいい。そのへんは臨機応変にいこう。
    5. 乗継には公式ダイヤで三十分以上の余裕時間をとることとするこれは、バスの場合渋滞などもあってダイヤの乱れようが鉄道よりもかなり激しいからである。また、乗場の案内も整備されていないことが多く、乗場を探す時間の余裕も必要であるため、こうする。ただし、明らかに相互接続を前提として組まれているダイヤの場合は、この限りでないし、実際に現地ですぐに乗継げた場合は、もちろん乗り進んでよい。

 さあ、それでは何が起きるか、早速出発してみよう。
 青武台団地バス停は鯖江(さばえ)市にあるが、鯖江市から路線バスで脱出することが非常に難しい。コミュニティバス「みらい21(現・つつじバス)」が市内を縦横に走っているが、そのためもあって、路線バスが崩壊状態である。辛くも残った路線を目指さねばならない。

 青武台団地に来ているバス路線は、みらい21豊(ゆたか)線である。初便は7時21分発なので、青武台団地バス停からこれに乗り込めば、いよいよこの旅の始まりである。福井鉄道が受託運行しているが、事業者はあくまで鯖江市である。

 通勤にも日常利用している路線なのでまだ旅の実感はないが、意外と清新な気持ちで小型ノンステップバスに乗り、車窓を観る。鯖江市の南西部を巡る路線だが、集落ごとに客が乗り込む。ぐるっと回って鯖江市の中心部に向かうわけだが、途中で降りる人もいる。小学校の側で降りたのは先生だろうか。女子高生も乗り込んでくる。
 わたしは鯖江市西端の山沿いに近い朝霞(あさか)で降車ボタンを押した。いつもと違う変な所で降りるので、顔見知りの運転手さんが不思議そうにしている。朝霞着は7時44分である。この頃は、バス協会が統一して各社に配っているらしく、どこの会社の路線バスに乗っても、「バスが止まるまで 席を立たないで」というポスターが運転席後ろに貼ってある。わたしなど世代のせいか、このポスターを見るといつも、思わず岩崎宏美さんの「ロマンス」のメロディで件の文句を歌ってしまう。
 確かに慌てて席を立つのは危ないが、今はそんなことを言っている場合ではないのだ。わたしはバスが停まる前に出口に急いだ。

 実はここで降りるのは賭でもある。僅か四分接続で吉川(よしかわ)線という別の線に乗り継げるのである。あまりに絶妙すぎるので当てにはしていなかったが、幸い豊線のバスは一分程度の遅れで朝霞に着いたので、思い切って降りた。向かい側の乗場には吉川線を待つらしい人が数人いる。どうやら間に合ったようである。ほどなく7時48分の吉川線がやって来た。

 吉川線はさばえ交通という会社が受託している。貸切用のマイクロバスで、出入口も狭く、段もあるので、婆さんたちの乗り降りに手間取り、困ったことに、バスは遅れていく。この先8時01分の小泉(こいずみ)という停留所で、鯖江市を脱出できる福井鉄道の路線バスに乗り継ぎたいのだが、これまた僅か四分接続なのだ。今度は違う事業者同士なので、停留所位置もずれていると思われ、その位置関係もよく把握していない。定刻に着いてくれないと乗継はおぼつかない。
 以前は福井鉄道が路線バスを運行していた川去地区でも、婆さんが一人二人とどっこいしょとステップを上がる。なんで朝から婆さんがこんなに乗ってくるのか、と思ったが、考えてみると、今日は鯖江市高年大学の開講日である。この便は終点の神明(しんめい)駅で高年大学方面に行く路線に接続している。
 小泉に着く直前、前を赤い名鉄カラーがゆっくり横切って行くのが見えた。福井鉄道バスである。
 一つうまくいけば次は失敗するのが世の常なのであろうか。次のバスは三時間ほど後である。ここで三時間待つのは別にいいのだが、実はそれ以上に、これは後々日程への影響が大きい事態であることは、この後お分かりいただける。

 ちょっと寄り道をした後、小泉より手前の三六(さんろく)町二丁目から福井鉄道バス鯖浦(せいほ)線織田(おた)行に乗る。三六町という地名は、ここに鯖江三十六連隊が置かれていたことに由来する。何かと議論になるあの南京戦にも参加した隊である。
 この鯖浦線は、福井鉄道の神明駅から越前(えちぜん)町の朝日(あさひ)(旧・朝日町)・宮崎(みやざき)(旧・宮崎村)・織田(旧・織田町)の各地区へ向かう路線で、旧・福井鉄道鯖浦線という鉄道線の代替路線でもあるが、鉄道時代と比べて本数も利用客も激減している。そこへ加え、越前町にもコミュニティバスが最近開設され、これとルートが重複しているので、鯖浦線の先行きが大いに心配だ。この便もわたしを含め三人しか乗っていない。
 小泉を11時26分に通って旅のルートに復帰、一本道で西進して、鉄道駅の跡を利用した西田中(にしたなか)のバスターミナルに11時31分に到着した。朝日地区の中心で、鉄道の鯖浦線が西田中止りだった時期には、織田・越前海岸方面へのバスの始発地だった所である。

 朝日地区には以前から福井鉄道・京福電鉄(現在は京福バス)の二社のバス路線があった。が、バス停位置はそれぞれの都合で設けていて、京福のバスはこの福井鉄道バスのターミナルに乗り入れず、数百メートルも北の街路を行き来するだけだった。相互乗継などは全く考慮されておらず、商敵として目を背け合っていた。公共交通同士で客を取り合っている場合ではない時代になって久しいというのに、それが全く是正されないままだったのである。
 しかし今日は、バスターミナルに京福バスのポールも立てられている。越前町コミュニティバスのポールもある。ここをバス乗継の拠点と定める町の施策なのだろう。あまりに遅きに失したが、やらないよりはよい。

 さて、わたしの旅であるが、鯖江市からようやく脱出したので、次は福井県から出て行かねばならない。が、福井県は北陸トンネルを境に嶺北(れいほく)と嶺南(れいなん)と二つの地域に分かれており、バス路線も全く分離していて両地域を結ぶ路線は皆無だ。鯖江からでは路線バスで敦賀(つるが)にも行くことができないわけである。そればかりか、ここ嶺北地域からの出口自体が、いくら探しても一か所しかない。そこしかなければそこへ向かうしかない。
 それにはここから福井方面に行くバスに乗らねばならない。福井鉄道と京福バスとがそれぞれ異なる経路で福井方面行を運行しているが、直線ルートに近いのは福井鉄道の路線である。ところが、この福井鉄道バス福浦(ふくほ)線は、完全な通勤通学用ダイヤで、朝の上りと午後の下りしか運行していない。昼前にして終バスは出た後である。京福バスの便ならまだあるが、これも三時間待ちになるし、それで福井まで進んだとしても、後の乗継ぎがスムーズにいかないため、あまり意味はない。
 従って、第一日はこの西田中で終わりである。あまりにあっけなくてこの先どうなることかと思うが、これが路線バスの現実だ。かえすがえすも小泉での乗りそこねが無念だ。あそこで成功していれば、今日中に福井県を出られていたはずなのだが。

(つづく)

第一日の経路

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第二日 西田中→森本駅前

 二日めは改めて前回の中断地点西田中から出発する。福井鉄道バス福浦線の初便は7時09分だが、今日は土曜なのでこの便は運休のはずである。それで、第二便の8時03分発でスタートとなる。
 はずだったが、西田中バスターミナルの時刻表を見て愕然とした。

 初便は「日祝日運休」のマークが付いているではないか。ならば土曜日は運転していたのだ。早くも自分で決めた初便で出発というルールを破ってしまうこととなった。彩図で調べた時、初便に何やらマークが付いていたので、最近の傾向どおり「土曜休日運休」だと思い込んだのがいけなかった。考えてみると、福浦線の終点近くにある高校は私立なので、週休二日ではないのだ。
 そして、この見間違いは、この後の旅程に短期的には重大な、中期的には比較的大きな影響を及ぼすこととなる。が、長期的には大した問題ではなかった。おかしな言い方だが、実際そうなのだ。

 福浦線は、鯖江市北西部の住宅地をジクザグに走る。鯖江市のコミュニティバスももちろんこの地域を運行しているから、昼間福浦線が走る必要はないのだろう。おそらくこの系統は越前町の補助で運行しているのだろうから、鯖江市域はしかたなく通っているだけと思われる。それにしても、西田中から客はわたし一人で淋しく思っていたところ、鯖江市内の停留所でおじさんが一人乗る。学期中なら高校生がもう少しは乗るのだろうか。
 江尻からは旧国道8号に入ってまっすぐ福井を目指す。このあたりからぽつぽつと客が乗りはじめ、あのおじさんはベル前で降りた。ベルは福井市内屈指のショッピングプラザだが、この辺の店にでも勤めているのだろうか。
 ベル前からは、京福バスも含めてわりあい高頻度に運行されている区間である。とたんに各停留所からの乗車が多くなる。やはりある程度のフリークエンシーがないと、交通機関はあてにされないということだろう。座席の三分の二が埋まった状態で8時46分、福井駅前に到着した。バス自体は田原町(たわらまち)まで北上して終着となるが、わたしはここで降りることにする。

 神戸に向かっているのだから、福井県からは南の滋賀県とか京都府に抜けるべきであるが、この嶺北地域から路線バスではどちらへも抜けられない。東隣の岐阜県にも行けない。行けるのは目的地と正反対の石川県だけである。それも、出口は一つしかない。そこへ向かうため、まず坂井(さかい)市丸岡(まるおか)方面に向かう。
 丸岡市街は北陸本線の丸岡駅とは遠く離れている。そのため、福井と丸岡を結ぶバスは頻繁に運行されている。

 京福バスターミナルは、福井鉄道福井市内線市役所前電停の側にある。コンコースに面したブースに突っ込んだバスの前扉から乗るようになっている、地方都市によくある旧式のターミナルであり、コンコースはひんやりと薄暗い。福井鉄道バスは、共同運行の高速バスと空港バス以外、このターミナルには入れてもらえない。ばかりか、京福バスですら近距離の市内路線はここではなく駅前大通りの路上バス停から発車する。逆に西武百貨店などがあって買い物客で賑わう駅前電車通りには京福の路線バスは入らず、福井鉄道バスと福井市コミュニティバス「すまいる」だけが運行される。「すまいる」は「すまいる」で独自の停留所での乗降となる。
 こうもばらばらでは不便なので、福井駅が高架になったのを機に、駅前広場に総合ターミナルを造る構想にはなっているが、用地取得など困難な面もあり、なかなか進展しない。

 9時10分発の本丸岡(ほんまるおか)行は、ターミナルからの乗車は少ないが、駅前大通りから多数乗車し、座席の半分くらいが埋まった状態で、田原町や福井大学を通っていき、少しずつ降りはじめる。森田(もりた)駅前あたりまでに数人を残して皆が降りてしまった。やはり賑わうのは福井市内にとどまるのである。あとは集落とは微妙に離れた幹線道路をまっすぐ丸岡に向かうのみだ。
 丸岡市街に入ると、城下町に相応しく、狭い道が複雑に入り組む。乗降も再び活発になる。このバスは一応本丸岡が終点ながら、別経路で福井に戻ることになり、連続乗車もできるから、丸岡市内の往来にも利用されているのだ。
 本丸岡バスターミナルに入る直前に、芦原温泉(あわらおんせん)駅行のバスと擦れ違った。これこそがわたしが次に乗りたい系統なのであるが、僅かな差で乗り継げなかったことになる。鉄道駅の跡を利用したターミナルに着いてから時刻表を見ると、わたしが乗ってきたバスは9時48分着、さっきの芦原温泉駅行は9時45分発であった。なんでこんなダイヤにするのかと思うと同時に、福浦線の初便に乗ってれば、との悔いも過る。しかも、次の芦原温泉駅行は12時15分までない。

 古く栄えた城下町といっても、今の基準からいくと、さほどの規模の街ではない。二時間半も時間をつぶすにはどうすればいいのか。
 少し周囲を歩いてみると、ターミナルの隣に坂井市役所の支所がある。おそらく旧丸岡町役場だろう。そこに市営バスの乗場もある。もしかしてこれで丸岡を出られるか、とも思ったが、純粋に旧丸岡町内を巡るのみで、しかも老人障害者限定のバスであった。
 中央商店街とされるらしいあたりへ歩いてみたが、スーパーが二軒隣接しているだけである。周囲に各種の店はあるが、喫茶店などはというと、なぜかカラオケ喫茶ばかりで、扉の佇まいからして、どれも余所者が入れるような雰囲気ではない。元はカラオケスナックだったのが、客の高齢化で宵っ張りが利かなくなり酒も弱くなって喫茶店と化したのであろうか。それとも丸岡の人は歌いながらでないと茶を飲まないのか。国道沿いに出てみても、いくつか飲食店はあるが、営業しているのは、明らかに潰れたコンビニの後を利用したラーメン屋くらいで、長居できそうにない。
 ターミナルの周辺には、線路跡であることが歴然たる空き地が随所にあった。京福電鉄の金津(かなづ)(現・芦原温泉)~東古市(ひがしふるいち)(現・永平寺口(えいへいじぐち))間が廃止されたのは昭和44年である。それ以来活用されぬまま、土地が虚しく放置されているのだ。現存する最古の天守閣を誇るという丸岡城を見に行ってもいいが、荷物をかたげて歩くには暑すぎる日であった。
 結局、福井で有名なソースカツ丼の分店を見つけ、早めの昼を食べることにする。衣のパン粉が細かいのが特徴で、故に油がしつこくなくソースとの絡み具合もよく、大変美味しいのだが、旅の途中で地元の名物を食べんでも、と思う。

 ようやく12時15分の芦原温泉駅行に乗る。このバスは永平寺から来た便で、まさに廃止された電車の代替路線であるが、がら空きである。途中、古めかしい木造風にメイクしたそば屋などを見ながら、12時35分に芦原温泉駅に着く。駅の名は芦原温泉でも、ここは温泉街からは遠く、旧・金津町の中心である。市町村合併であわら市となったので、ようやく駅名と行政区画が一致したことになる。ここで終点であるが、バスはそのまま温泉街や松島(まつしま)水族館を経て東尋坊(とうじんぼう)・三国(みくに)方面に向かう。連続乗車もできるようだ。その意味では観光地を巡る便であるが、それらしい客は少ない。

 昼食は食べてしまったし、金津の街をぶらついても何ということはなく、一時間ほどを無為に過ごした。
 次はあわら市が運行するコミュニティバスに乗って吉崎(よしざき)御坊に向かうことになる。吉崎御坊は福井県の北の端にあたり、ここには石川県の大聖寺(だいしょうじ)からも路線バスの便があって、乗り継げる。そしてそこが福井県嶺北地域からの唯一の出口なのだ。

 13時30分発の「観光コース」と称する便を待つ。コミバスだし、観光コースだから、洒落た小型ノンステップバスなど来るかな、と思っていたら、駅前広場に停まっていた、すこぶる使い古した京福バス塗装の路線タイプの車が着車した。しかも、わたしの他に乗ったのは、クラブ帰りと見える制服の女子高生だけである。
 トリムパークかなづというかなり広く整った運動公園や金津創作の森という小洒落た野外美術館などの観光スポットだけを通り、集落の停留所は通過である。観光地を網羅するために、けっこうな遠回りとなってはいる。それにしても、何度も遠足の企画を立てたりしてこのあたりにも引率にきていながら、こういった施設のあることを知らなかったのは迂闊で、勉強になる。
 13時57分の吉崎で下車する。女子高生はまだ乗っている。北潟(きたがた)湖畔公園あたりまで帰るのだろうか。

 大聖寺方面に向かうバスの停留所は少し離れた所にあるので、わたしは急ぎ足でそこに向かった。14時10分頃に便があるはずだった。途中で県境を跨ぐが、家並みは続いている。
 ところが、バス停に辿り着いてみてわたしは思わずその場に坐り込みそうになった。14時10分の便には「土曜休日運休」のマークが付いているのである。次のバスは二時間後である。しかも、14時10分なら大聖寺駅を越えて山代東口(やましろひがしぐち)まで直通するはずなのに、次の便は大聖寺駅止りで、その後の接続も分からない。土曜日というのは要注意、と思い知ったが、旅に出る前に思い知らねば意味がない。
 しかし、頭をすぐに切り替えた。バスがない以上先には進めないのだから、悩んでもしようがない。それなら、福井県に住んでいながら見学したことのない吉崎御坊をじっくり観光しようではないか。福井県に歩いて戻る。
 蓮如が布教の拠点としたという吉崎御坊だが、田舎の県の端っこの史跡にしては、意外にも見学コースは大変よく整えられていて、各種展示館や庭は、飽きのこないようさまざまな趣向が採り入れられている。蓮如館から入場して、展示物と映画で蓮如と吉崎御坊の歴史を学んだ後、北潟湖に面した「信の庭」を散策するという順路だ。庭にある「信心の溝」の水を手で浚えると、像を元にして機械的に再現された蓮如の声が流れてくる仕掛けである。民話館では、火消し蟹・白鹿の道案内・嫁威し肉付面などと、後付けもほどほどに、と言いたくなるが面白くはある伝説がさまざま紹介される。自然館で周囲の地勢を知り、最後は鳳凰館というカフェを兼ねた休み処に行き着く。全館共通の入場券を持っている客は、ここでドリンク一杯の無料サービスを受けられる。
 わたしもジュースを所望すると、和服で応対する案内嬢が、
「キャンバスでお帰りですか?」
と訊く。
「キャンバス?」

 そう言えば、入場する時にこの鳳凰館の前に「CANBUS」と大書された立て看板のようなものが建てられていたのを目にしたが、わたしは名所案内板か何かかと思って見過ごしていた。
 訊けば、JR加賀温泉(かがおんせん)駅を中心に観光地を巡るバスが運行されていて、それのニックネームがキャンバスだという。次の発車は15時18分とのことで、次の路線バスよりも一時間ほど早い。それならその方が先に進めるし、平日にあったはずの路線バス便と同様、山代方面まで直通する。何より停留所がすぐ前にあってバスで県境を越えられるのが、旅の趣旨からいっても、よい。わたしは迷わずそのキャンバスに乗ることにした。

 キャンバスは、乗り心地のいい新品のノンステップバスで、贅沢にもガイドのお姐さんが乗務している。わたしはお姐さんから一日乗車券を千円で買った。キャンバスの乗車券はこれと二日券の二種類しかないのだ。周囲の観光地をじっくり回ってほしいという趣旨は分かるし、路線バスとのかねあいも採算もあるのだろうが、わたしのように一乗車だけの客に適用する運賃も設定してほしい。
 わたしが渡された路線図をしげしげ見て、
「ゆのくにの森(もり)まで行きたい」
と言うと、お姐さんは、
「ゆのくにの森はもう入場時間は終わってますが、よろしいですか?」
と不安げに言う。
 あの辺を歩いてみたいだけだから、と彼女を安心させ、とにかく乗り続ける。キャンバスは加賀温泉駅を要に8の字状の路線であり、加賀温泉駅で相互乗継できるようはからっている。この便は山代温泉などを巡ってまた加賀温泉駅に戻って終点となるのだが、そのコースはこれがもう終便である。
 わたしの他にも山代温泉に向かう老夫婦が乗っており、日常この便は山代へ泊まり客を送り届ければ実質仕事は終わりなのだろう。山代温泉を出たところで、お姐さんが一人残ったわたしに、
「すいませんが、ちょっと燃料を入れさせていただいてよろしいでしょうか?」
と言う。よろしいも何も、燃料が切れたら走れないのだから、諒承する以外にないではないか。客を乗せたままガソリンを入れるバスも珍しいが、これも体験だ。

 16時48分着の定時に五分ほど遅れてゆのくにの森で降りると、空になったキャンバスは脱兎のごとく去り、ゆのくにの森見学を終えて出てきた客が、駐車場の貸切バスに乗り込んでいる。わたしは、ここから小松までの路線バスに乗継ぐが、一時間ほど待ち時間がある。
 ゆのくにの森は、九谷焼・輪島塗・越前和紙づくりなど、北陸各地の伝統工芸が見学・体験できる、けっこう豊かな設備を整えた所で、これも遠足に好適かもしれない。もう入場時間は終わっているので中は見られないが、向かいにあるパン屋兼営の喫茶店でケーキとコーヒーをいただくと、これがすばらしい味である。内装も落ち着くように配慮され、主人夫婦のもてなしの心が伝わってくるような店である。

 なぜ「ゆのくにの森前」という名にしないのか分からないが、喫茶店から道を渡った所にある馬場(ばば)という停留所から小松(こまつ)駅行の小松バスに乗る。小松バスは直接には北陸鉄道の子会社だが、大きくはやはり名鉄系の会社であるので、白地に赤の名鉄カラーを纏っており、見た目は福井鉄道バスとよく似ている。すぐに粟津(あわづ)の温泉街に入るが、旅館は点在していて意外に広い温泉街である。
 終始わたし一人を乗せていたが、小松市街に入ると、一人二人と乗り込んでくる。小松駅の南西側にけっこう整った商店街が続いているのが分かる。バスは昔からの北国街道でもある本折町(もとおりちょう)の商店街を抜けるが、電線の地中化など、景観と歩き回りに配慮したとり組みがなされている。駅に近づくと、アーケード街も並行しているのが見え、けっこうオーソドックスな繁華街を形成しているようだ。小松というと、駅と空港との往復ばっかりで、街のことを全然知らなかったなあ、と反省する。

 すっかり暗くなったが、バスがある以上は乗り進む。次は寺井(てらい)に向かう。寺井も、丸岡などと同じく、北陸本線の同名の駅と市街とが遠く離れているので、バスが頼りだ。18時50分発の寺井史跡公園行小松バスは、座席が埋まったくらいの乗り具合で発車した。が、小松市街を外れるまでに皆降りてしまう。これが地方のバスのパターンということだ。小松バスの運転手さんに金沢方面への乗継ぎについて訊いた。すると、運転しながら見るのが面倒なのか、物入れから連絡時刻表の紙片を取り出すと、
「どうぞ見てください」
と言う。幸い僅か六分接続で終バス一本前の金沢駅行に乗継げることが分かった。わたしは金沢行の乗場の場所を運転手さんに教えてもらい、バスを降りた。

 寺井史跡公園は、古墳や一向一揆の城の跡を整備したものらしいが、真っ暗では見回しても何も偲びようがないし、時間もない。オレンジ帯の加賀白山(かがはくさん)バスはすぐにやってきた。こんなに接続がスムーズなのは、元々金沢~寺井~小松は一本の路線で、快速便なども運転された北陸鉄道バスの幹線だったのを、寺井で分割した、という歴史による。加賀白山バスも北陸鉄道の子会社である。

 さすがは北陸の中心金沢の近郊で、広い幹線道路を経て白山市の松任(まっとう)市街に入ると、乗降が活発になり、立客も出はじめる。二人席を占領していたわたしも、荷物を膝に乗せた。もう夜だというのに、都心に向かう便に乗ってくる人がやたらに多いのはどういうことか。出で立ちを見ると、浴衣姿が多い。金沢市街に入ると、警備も多く出ている。犀川大橋の歩道は大変な人だかりだ。どうも花火大会らしい。
 中心街の香林坊(こうりんぼう)は東京や大阪の地下街を思わせる人波になっている。それが少し引いてきた武蔵が辻(むさしがつじ)に20時22分に着き、わたしは下車した。

 机上のラフスケジュールでは、さらに乗り換えて今日中に福光(ふくみつ)まで行くつもりをしていた。
 神戸に向かっている以上、太平洋側に南下したいわけだが、あいにく石川県から南隣の岐阜県に直接抜ける路線バスはない。そこで、次はさらに東の富山県へ抜けることになる。ここから西日本JRバスの名金(めいきん)線に乗り換えると、県境を越えて富山県の福光に進める。
 しかし、もう名金線は最終が出た後である。途中までの便もない。しかし、名金線と並行するほくてつバスの路線なら、途中の森本(もりもと)まで行ける。わたしはそれに乗ることにした。

 ほくてつバスも北陸鉄道の子会社だが、金沢市内に乗り入れている各子会社は皆元と同じ塗装だし、利用者もいちいちどこの会社のバスと意識せずに、元通り「北鉄バス」として利用しているようである。運賃や乗車券も共通である。
 津幡方面に向かう系統の区間便である今町(いままち)行に乗ると、辻々に団扇を手にした地元の人が屯している。どうやらこのあたりからでも花火が見えるらしい。既に打ち上げの音が響いている。
 二十分ほどの乗車で、21時07分頃森本駅前に着いた。客のほとんどはもっと先まで帰るらしく、降車ボタンを押すと運転手さんが意外そうな顔をした。

 今日はここまでである。JRバスの乗場で明朝の時刻を確認しようとしたが、停留所ポールに時刻表は付いておらず、待合室の中に掲げられている。しかし、終バスが出た後なので待合室は施錠され、照明も落とされている。ガラス越しに覗き込んでも、時刻表は読み取れない。

(つづく)

第二日の経路

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第三日 森本→墨俣

 金沢から北へ二つめの駅、 JR森本駅一階の前回は閉まっていた待合室は、今朝はちゃんと開いている。その中で名金線のバスを待つ。
 JRバスだから、厳密には「森本駅前」などではなく、鉄道と同じ「森本」が駅名、というより、鉄道駅と一体のものなのだろうと思うし、実際駅の軒下からバスが出る。昨日のほくてつバスは駅前広場には入らなかった。系列の強みだ。わたしの後から待合室に入ってきたおばさんが、
「汽車にはどこから乗るんですか?」
と訊く。鉄道の改札は階段を上がった二階だ。確かに駅の表札のある脇にバス待合室だから、勘違いもしそうだ。

 金沢から来た福光行の初便は8時50分発である。空でやってきたJRバスは、わたしだけを乗せて出発し、早速にも東方の山を目指す。
 この系統は名金線の名のとおり、かつての国鉄時代は名古屋と金沢とを結ぶ路線であった。映画『さくら』などの題材となった、国鉄バス車掌故・佐藤良二氏の、太平洋と日本海を桜並木で結ぶ、という独力の植樹運動は知られた逸話だが、これはこの路線の沿道に展開したものであった。
 しかし実際に名古屋と金沢を連絡する動脈として機能したわけではなく、沿線の地域地域の輸送が主な役割だった。そういうわけで、昭和五十年台には早々と岐阜富山県境部分から国鉄は撤退してしまった。並行して運行していた名鉄は、その後も「五箇山(ごかやま)号」などと愛称をつけたりして名古屋(名鉄バスセンター)~金沢駅間一日一往復の季節運行を続け、一般道路経由の路線バスとしては日本最長路線、とその道の人々にも珍重されていたが、年々運転期間が短くなり、平成13年ついに力尽き廃止となった。
 それ以来、この桜で彩られたバス道を直通便で乗り通すことはできなくなったが、沿道に観光地が連続することもあってあちこちから各社のバスが乗り入れているため、乗り継いでいくことで何とかそのルートを辿ることはできるし、接続も考慮されたダイヤになっている。だからこそ、わたしもこのルートでやっと太平洋側に向かうことができる。
 岐阜県側のJR東海バスは既にこの線から完全に撤退したため、名金線でJRバスが運行を続けているのは、この金沢~福光間のみである。一応整備された国道304号を走るので、スピードは上々である。このメインルートからいくつかの支線が分岐しているが、利用客の減少に対応して、デマンドシステムを採用するようになった。予め電話やウェブでリクエストがあった場合のみ便を運行したり集落に立ち寄ったりするのである。使う側からすればいちいち予約するのは面倒だが、廃止になるよりはよいだろう。
 曲折する国道を走り抜け、一気に富山県に入る。福光は現在南砺(なんと)市の一角をなすが、その西郊には温泉などの観光施設が点在している。中国の古寺院を模した中国物産館などもある。旧・福光町時代から紹興と友好都市関係が続いているからである。市町村合併などの事情を友好相手に説明するのも、骨が折れることであろう。中心街部分の304号は、「ハミングロード」と呼ばれる商店街になっている。福光では毎夏声楽セミナーが開催されるなど、音楽文化の振興に力を注いでいるので、それに因んだ名のようだ。
 そんな所を走りながら、終点の福光に9時35分着。JR城端(じょうはな)線福光駅の軒下である。

 ここから五箇山方面に向かうバスは加越能(かえつの)鉄道の運行となる。同社の彩図では、高岡から来る荻町行は福光駅には入らず、「福光駅前四ツ角」という停留所を通るように読める。そこで、駅前交叉点まで出て、周囲を歩きまわるが、それらしい乗場が見あたらない。しかたなく駅に戻り、観光案内所を兼ねた売店で、
「白川郷(しらかわごう)へ行くバスはどこから乗るんですか?」
と訊くと、お姐さんは、
「そこですよ」
と駅前広場の一角のポールを指さす。見ると、確かに加越能バスのポールがぽつんと立っている。バスはこういうことがあるから油断ならない。
 次の荻町行は10時31分発である。駅の待合室で時間を過ごし、五分前くらいにポールの前に立つ。しかし、なかなかバスが来ない。高岡市内が渋滞でもしているのだろうか。この先八分待ちの際どい乗継ぎがあるので、不安だ。一応接続便ではあるようだが。

 四分ほど遅れて到着した荻町行は、おばさん二人だけを乗せている。左側最前列の席に坐ったわたしが腕時計と運転席のスタフを見比べてばかりいるからか、運転手さんに、
「どちらまで行かれます?」
と訊かれた。
「鳩ヶ谷(はとがや)で濃飛(のうひ)バスに乗換えたいんですが…」
とおずおず言うと、
「今日はまだ道が込んでないので、多分間に合いますよ。お盆になると大変だけどね」
と言ってくれるが、安心できる答ではない。
 右手には医王山(いおうぜん)が聳えている。スイスと提携して開発されたアローザスキー場やキャンプ場・温泉などもある総合観光地だが、元は天台密教の霊山だそうだ。医王山にも元は国鉄バスが通っていたが、現在は廃止されている。
 国道304号は五箇山トンネルを抜けた所で終わり、高岡から庄川沿いに登って来た156号に合流する。相ノ倉(あいのくら)で乗ってきた一人旅らしい男性は菅沼(すがぬま)で降りた。相ノ倉も菅沼も合掌集落で、それらを巡っているのだろう。合掌村というと岐阜県側の白川郷が有名だが、あそこまで観光地的に整備されてごった返しているのとはまた異なり、この五箇山の方はずっと落ち着いて生活感を漂わせたままに超然と合掌造りの家が道沿いに並んでいて、その意味ではこちらの方が貴重な風情があると言えよう。
 しかし、菅沼を過ぎるとすぐに場違いなインターチェンジにさしかかる。東海北陸自動車道の五箇山インターである。狭苦しい山間に造ったので、いよいよややこしい構造であたりを薄暗くしている。この高速道路のおかげで156号の渋滞も緩和されているのだろうから文句は言えないが。
 富山県側最後の集落である西赤尾(にしあかお)からも一人乗車があり、大したトンネルもないまま地形に忠実に県境を越える。分水嶺は県境とずれているので、沿う川は依然庄川である。椿原のダム湖沿いのトンネルを抜けると、白川村に入る。行政上の中心地に近い鳩ヶ谷の八幡神社で、濃飛バスのデラックスな観光タイプのバスが発車待ちしている。そのバスに向かって、運転手さんが指を一本立てて合図する。乗継客が一人いるよ、ということだ。

 デラックスなのも道理で、これは高山行の予約制指定席高速バスである。が、わたしは途中の荘川(しょうかわ)で降りることにしていて、そこまでは一般道路を通るのでこの旅に活用できる。JR東海バスが撤退したことでこの先牧戸(まきど)までの一般路線バスが無くなったため、この高速バスが区間利用を認めるようになったのである。車掌さんは、わたしが予約をしていないと訊くと、区間客用予備席らしい最後列に坐るよう指示した。
 わたしだけを乗せて鳩ヶ谷12時05分に出発、間もなく荻町合掌集落にさしかかる。ここは見学したことがあるので、今回ただ通りすぎることに痛痒はないが、あの時とは様子が変わっている。
 以前は156号が集落を貫いていて、沿道の店や駐車場に出入りする車が流れを止め、渋滞も激しかった。しかし現在は、集落を回避するバイパスが完成していて、そのバイパスから直接入れるせせらぎ駐車場というのが整備されている。路線バスもそこで乗降するようになった。この大規模な駐車場兼バス停を散策の拠点として、観光客はここで自家用車やバスを降り、徒歩で集落を見回るように改まっている。また、集落を見わたせる展望台へはこの駐車場からシャトルバスが運行される。集落内に極力クルマを入れなくていいように工夫されているのだ。
 この高山行高速バスも、せせらぎ駐車場でほぼ満席となる。家族連れやフランス人らしい外国人の団体客も交えて一気に車内は騒がしくなった。
 平瀬(ひらせ)温泉を過ぎると、御母衣(みぼろ)ダムが見えてくる。地元の猛反対を排して建設された、日本有数のロックフィルダム、つまり岩石を地道に積み上げて造ったダムである。よくぞこれだけ積んだものだと、ピラミッドをひっくり返したようなその姿を思わず見上げてしまうし、何でこれが水圧で崩れないのかも不思議だが、コンクリートのダムと異なり、どこか自然にフィットした手づくり感が、ダム特有の威圧的な頑固さを和らげている。団体客のカメラ係を自認するらしいおばさんが通路を行き来してシャッターを押し、車掌さんに叱られている。
 このダム建設にまつわる伝説的エピソードの一つが荘川桜である。ダム湖に沈む場所にあった樹齢三百五十年にも及ぶ二本の桜の名木を山腹に移植する一大プロジェクトが企図された。というのも、桜は環境の変化に非常に弱い樹であって、まして大古木の移植には最高の農学技術を結集する必要があったからである。移植された桜が花を開いた昭和四十五年春、水没地域の元住民たちは樹の下で涙したという。それ以来この樹は「荘川桜」と呼ばれて旧・荘川村のシンボルとなり、先述の佐藤良二氏のとり組みのきっかけにもなった。現在は高山市に編入されたが、やっぱり荘川というと桜である。
 それはいいが、その荘川桜のある所にある停留所が「荘川桜公園前(しょうかわざくらこうえんまえ)」、さらに牧戸から高山方面に折れた先に「荘川の里(さと)」、「そばの郷(さと)荘川」という停留所もアナウンスされる。「桜(さくら)の郷(さと)荘川」で降りる予定のわたしは気が気でない。それぞれにそういう名の観光施設があるので合わせて付けているのだろうが、こんな余所者を惑わせる停留所名は再考するべきではないか。

 乗るときに車掌さんに伝えてあったから、もちろん13時03分着の桜の郷荘川で降ろしてもらえはした。「桜の郷荘川」というのは、道の駅の名前なのであり、その構内でバスが停まった。そしてここが接続する郡上八幡方面への岐阜バスの始発点でもある。
 ここで軽い昼食をとるが、けしからぬことにごみ箱が設置されていない。地球環境の美名を借りた怠慢であり、許しがたいが、これはまた別に論じよう。
 ともかくも13時20分発郡上八幡(ぐじょうはちまん)行に乗り込む。

 郡上八幡行は、わたしだけを乗せ、今高山行が来た道を牧戸まで戻る。牧戸で乗継いでもよかったわけだが、ここは旧国鉄バスの駅を使った小規模なバスターミナルがある他は、特に何もない。
 ゴルフ場などを見ながら山を登り、ひるがの高原に着く。ここには大規模なドライブインがあって、前に通ったときは満車の賑わいであったが、今日はひっそりしている。東海北陸自動車道のひるがの高原サービスエリアに機能を取って代わられたのであろう。
 ここがやっと分水嶺である。道沿いの川は長良川になり、ここからは郡上市に入る。大日岳の山腹をひどく曲折しながら下りていくと、北濃(ほくのう)である。
 北濃は長良川鉄道越美南(えつみなん)線の終点であり、暫くぶりに鉄道の便のある場所まで来た。長良川鉄道は、元は国鉄の路線だった第三セクターで、右側に立つ毘沙門岳の北麓を回って九頭竜湖まで線路を敷き、越美北線とつなげて岐阜と福井とを結ぶ越美線とする計画になっていた。故に越美南線という線名が付いているが、今や実現の見込みはまずない。
 北濃長滝(ほくのうながたき)では立派な道の駅が見え、このあたりから客が乗りはじめる。まもなく白鳥(しろとり)の街、これも久しぶりに「街」と言える所にさしかかる。右手の油坂(あぶらざか)峠を越えればほんの数キロで福井県大野市である。この峠を越すJR東海バス路線も、数年前に廃止された。あれが残っていたら、こんな遠回りをする必要はなかったのだが。
 白鳥を出ると、並行する長良川鉄道は対岸に渡ったりするが、バスは一貫して左岸を行き、つかず離れず走る。大和(やまと)庁舎前付近の大和地区は、古今伝授をコンセプトとしており、和歌から工芸まで扱うフィールドミュージアムという面白い施設が山沿いに設けられている。
 郡上八幡インターの近くに八幡営業所停留所があった。ここは次に乗る岐阜方面行の始発地なのだが、明らかに町外れなので、このまま終点まで乗って行くことにした。すると、バスは八幡の市街を遠巻きにするようにバイパスを走り、新中坪(しんなかつぼ)住宅前から市街の方向に折れた。そして城下町プラザのバスターミナルで転回すると、ここから市街を抜けて駅まで行くのかと思ったら、また新中坪住宅前まで戻り、山沿いのバイパスをぐるっと迂回して、やはり町外れの郡上八幡駅前で、定刻よりやや遅れて15時10分頃終着となり追い出された。狐に摘まれたようだが、駅待合室にあった観光案内パンフレットなどを見て、事情が分かった。

 市街は道が狭く曲折しているため、できるだけクルマや大型バスを市街に入れないように、バイパスが整備されたのである。そして市街観光の中心として城下町プラザを整備し、バイパスからそこまでの一本道だけクルマを通すようにしたわけだ。市街内の往来のためには「まめバス」と呼ばれる小型バスが運行され、地元客や観光客の便を図っている。白川郷と同様、なかなか理に適った交通政策である。
 わたしもまめバスに乗って城下町プラザに戻った。「うだつ」に代表される古来の建造法を今に伝える街並みを散策してからコーヒーなど飲む。大きな土産物屋があると思ったら、土産物だけでなく、肉や野菜から惣菜まで売っている。生活と観光の融合した珍しいタイプの店である。郡上和紙の製品も売っている。和紙といえば美濃かと思ったが、このあたりでも作るらしい。
 現在は郡上踊りの期間に入っているので、通りはごった返している。郡上踊りは新旧の盆を挟んだ二月近い長期にわたっており、時期時期で開催されるイベントの地区や規模が変わるので、交通規制やバス路線の変更は日によって目まぐるしく異なり、告知の掲示も複雑である。こういう情報は現地でないと分からないが、幸い今日は路線変更はなく、ダイヤどおりの運行である。

 城下町プラザ発16時31分のJR岐阜行に乗る。バス乗場には多くの人が待っていたが、これに乗り込んだのはわたし一人である。他の人は岐阜や名古屋に帰る高速バス、もしくは買物帰りのまめバスの客のようであった。
 八幡からも、長良川鉄道と並行する。バス道は川に沿って蛇行するが、線路は相変わらず長良川を何度も渡る。鉄道はカーブや勾配の制限が大きいので、そうなるのであろう。鉄道を敷くというのは大変なことである。
 両側に山が迫っているが、ちょっとした平地が開けた所に美並(みなみ)の町がある。そこで156号は初めて長良川を右岸に渡る。対岸にはみなみ子宝(こだから)温泉という駅がある。ここには駅と直結した日本まん真ん中温泉という施設が設けられているそうで、近くに子安(こやす)神社という子授けの社があることと、人口重心がこのあたりであることに因むらしいが、だからといって、温泉につかれば子に恵まれることになるのかどうかは、怪しいと思われる。浴室内には列車の発車時刻が近づいたことを知らせる信号機などもあって、長良川鉄道と連携した施設のようだ。第三セクターだから地元自治体と密着するのだろうが、いずれにしても、この岐阜バスは温泉施設を無視して対岸を行くのみだ。
 間もなく美濃市域に入り、狭い道を縫って美濃市駅前に入る。切り返して、次に美濃という壮大な名前の停留所がある。ここは、かつて岐阜と結ぶ名鉄美濃町線(徹明町(てつめいちょう)~新関(しんせき)~美濃)の終点美濃駅があった場所である。現在も駅舎と往時の車輌数輌が保存されているのが見える。このバスは156号に戻ってそれを直行するので、関市街には入らず、線路跡とは一旦別れる。
 関市の西端には百年公園という県制百年を記念して造られた公園がある。バスは遠くそれを望みながら岐阜市へ入っていく。
 岩田(いわた)あたりまで来ると、また美濃町線の廃線跡が右側に並行するようになる。LRTとして復活させようという動きも一部にあり、そのせいか、線路敷もそのままである。架線は取り払われているが、ディーゼルカーくらい走ってきそうに見える。北一色(きたいしき)からは、美濃町線はこのバス道の上を路面単線軌道で走っていた。軌道を埋めて舗装し直した痕がはっきり分かるが、単線が撤去されたくらいでは道幅がぐんと拡がるわけでもない。むしろ中途半端な車線幅になっているようである。
 市街の中心に近い徹明町で左折し、ほどなく名鉄岐阜に18時20分着。ここの道も一昨年まで岐阜市内線の電車が走っていたのだが、岐阜は路面電車に冷淡なのか、あまり行政の支援もないまま全廃となった。

 岐阜大学に通う卒業生を呼び出して夕食にする。折角だから彼のような世代があまり行かないタイプの店で、しかもある程度腹が保つ料理で、と考えるとなかなか店の選択が難しい。結局ホテルの最上階にある気軽な割烹店で歓談し、大学近くにあるアパートに帰る終バスに間に合うよう、送り出した。

 岐阜まで来たら、次は西の滋賀県に抜けようとするのが、まず考えるところである。滋賀県の湖国(ここく)バスの路線が、伊吹山(いぶきやま)から県境を越えて関ヶ原(せきがはら)まで来るには来ている。
 しかし、意外にも滋賀県に入ってからがつながらない。湖北の木之本(きのもと)から湖西の高島(たかしま)市にバスで行くことができないのである。かつては国鉄バスが縦横に路線網を拡げていた地域だが、JR湖西線が便利になったこともあってとうに撤退し、路線を引き継いだ湖国バス、これは近江鉄道の子会社だが、その路線も衰退しつづけているようだ。市町境の山を歩いて越えればつながらなくはないのだが、山登りするにせよ長大トンネルを歩くにせよ、一、二時間はかかり、ルールに抵触するし旅の趣旨を外れる。高島市にさえ入れれば、鯖街道を運行するバスで京都に出られるのだが。
 では湖東側は、といえば、こちらはさらに絶望的で、路線バスは鉄道駅と周辺地域とを各個結ぶだけで、ぶつ切りになっていて、米原(まいばら)から彦根(ひこね)にさえ行けない。

 かくして滋賀県に入ってしまうと袋小路となるので、三重県を通らねばならない。当初わたしは、岐阜県から三重県に直接抜ける路線がないので、名古屋を回るしかないな、と思っていた。
 しかし、地図と路線図を詳細に見比べてみると、活路が開けた。県境は若干の徒歩連絡になるが、岐阜と三重の接点をどうにか見いだすことができたのである。その接点に向かう路線は、大学へ行く路線より遅くまで運行されている。もう遅い時間だが、進めるだけ進んでおこう。

 名鉄岐阜からおぶさ墨俣(すのまた)線に乗る。岐阜の中心街を経由しておぶさと墨俣とを結ぶ系統だが、恐らく市内で客はすっかり入れ換わるのであろう。しかし市街が広いので、どこで系統を切るというわけにもいかず、本来二系統であるものを、直通運行しているものである。地方の中都市にはしばしば見られる運行形態だ。
 二十一時を過ぎるとさすがに客は少なく、学園地区や商工地区でも乗り降りのないまま、大垣市墨俣地区(旧・墨俣町)の中心、墨俣に終着した。

 この先のバスはもうないので、今日は墨俣でおひらきとなる。

(つづく)

第三日の経路

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第四日 墨俣→伊坂台

 第三日の中断地点、墨俣へ向かうには、結局は岐阜から前回乗ったのと同じおぶさ墨俣線で行くのが順路となる。そういう意味では前回名鉄岐阜で中断したのと結果的には同じことであるが、その日のバスのある限り行けるところまで行く、というルールなので、こういう手戻りは承知のうえの行程になる。
 今日は土曜日で、この後乗る予定の南濃(なんのう)線が土休ダイヤでは一日三往復しかなく、十時を過ぎてからの初便となるので、割合ゆっくり出発すればよい。わたしは名鉄岐阜8時55分の墨俣行に乗った。終点の墨俣では、五分接続で先に進む岐垣(ぎえん)線に接続するはずである。が、そううまくはいかなかった。

 岐垣線という名前から考えても、元は岐阜と大垣を結んでいたのであろうが、現在は、墨俣より少し岐阜寄りの、流通センターが始発地となっている。流通センターから墨俣までの間に少しだけ岐阜市をかすめはするので、岐垣線の名は嘘ではない。
 それはいいとして、墨俣の回転地でわたしを降ろしたおぶさ墨俣線のバスは、さっさとバックして待機所に入ってしまう。が、岐垣線の乗場が見あたらない。きょときょとしていると、大垣行のバスがわたしの目の前をさっと通り過ぎた。かと思うと、二百メートルほども先の方に停まり、すぐ発車していくのが見えた。三分ほど歩いてその地点まで行ってみると、そこが岐垣線の墨俣停留所であった。同じ会社なのに乗継の便は考えられていないのである。あるいは、慣れた地元の人はもっと手前の適当な停留所で乗り継ぐのかもしれない。こういうことは現地に来てみないと分からないし、だからこそ乗継に余裕時間をみてあるのだが、何か悔しい。
 次の大垣行は三十分後である。わたしはバス停の屋根付きベンチに腰を下ろすと、つい眠り込んでしまった。このところ、飲んでいる薬の加減で、昼間に突然眠りに落ちることがある。
「バス来ましたよー」
親切なおばさんの声で我に返り、慌てて礼を言って既に中扉を開けているバスに乗る。

 ここ墨俣は、秀吉が一夜城を建てたことで知られる、長良川河畔の地だ。旧・墨俣町は一時期、日本一面積の小さい町であったこともあるという。しかし、現在は大垣市に編入され、その飛地となっている。かわいらしい飛地だから、墨俣の次の停留所、東安(とうあん)中学校前はもう隣の安八(あんぱち)町である。そのまた次の結(むすぶ)で、大垣から来る南濃線に乗り換えることになるが、待ち時間がかなりあるし、結のあたりはあまり何もないので、もう少し乗り進んで大垣市内に入り、平和堂アルプラザに近い大垣鶴見町(おおがきつるみちょう)で降りてみた。
 平和堂などに来ると福井に戻ってきたような気がするが、待ち時間を潰すにはここがよかろう。

 大垣鶴見町にやってきた10時58分、本日初便の南濃線は、さっきわたしが乗った岐垣線が大垣からそのまま折り返してきた同じ車、同じ運転手さんであった。再び安八町に入り、結で南に折れると、本来の旅のルートに戻る。
 四人ほどの客を乗せ、安八町の中心に近づくにつれて、バス道は狭くなっていく。擦れ違いに難渋しながらもバスは南進する。道沿いに家や事業所は連なっていて、それなりに需要がありそうに思うが、停留所の間隔は四百~六百メートルと長く、昔ながらの、乗りたけりゃここまで出てこい、という姿勢のままである。もっと間隔を詰めれば乗りやすくなる人が多いはずなのに、と思う。これは、中京地区の名鉄系バスに乗ると、よく感じることだ。しかも、安八町のコミュニティバスのポールが並んで立っている停留所が多く、まともに競合していることがうかがわれる。
 安八町役場前では、幹線道路である県道大垣一宮線と交叉する。この道には名阪近鉄(めいはんきんてつ)バスが運行されているが、相互連絡などはせず、てんでに走るのみである。ここからの経路はいよいよややこしく、四つ辻に来たときに、まさかあの道には行かないよな、と思ったまさにその一番狭い道にぐいぐい突っ込んでいく。路上に車を停めて談笑しているおばさんが、バスを見て慌てて移動させたりする。
 相変わらず眠気のするわたしは、安八町を出るあたりで少しうとうとしたようだが、気がついてみると、バスは異様な場所を走っている。道路だけが周囲の田圃や家より高い。まるで川の堤防のようだが、両側とも川ではない。これは、明らかに旧輪中の堤を道路に転用したものだろう。既に輪之内(わのうち)町に入っていて、楡俣(にれまた)あたりを走っているようだ。
 輪之内という名はもちろん輪中の内側の意である。明治時代まで幾度かかかった治水によって完全に分流させられるまで、木曽・長良・揖斐の三川が網の目のように混線しており、堤に囲まれた輪中が数多くあったが、輪之内町はまさにそのただ中にあった地域である。こうして廃堤の上から眺めおろすと、そこここに残る細い水路と相まって、複雑な輪中の地形がよく摑める。狭い道の鮮やかな走行といい、廃止するには惜しい路線である。

 と言うのも実は、この岐阜バス南濃線は、今年九月いっぱいでの廃線が先頃発表されたばかりなのだ。
 大垣から海津方面に向かうのに、岐阜バスと名阪近鉄バスとどちらの路線に乗ろうか迷った。より直線に近い短絡コースは岐阜バスだが、事業者のバリエーションを増やす意味では、名阪近鉄バスも組み入れたい気がする。本数もそちらが多い。しかし、廃止の話を聞いたもので、間違いなく最初で最後の乗車になる岐阜バスの方を選ぶことにしたのだった。
 さっきの岐垣線も、十月からは名阪近鉄バスに移譲されることになっており、大垣発着のバス路線は名阪近鉄バスに一元化される。

 輪之内町内の各集落をくまなく回るため、南濃線は狭い地方道をジグザグに走る。ここでも、輪之内の文化会館やイオンタウンを経由して大垣や羽島(はしま)と直結する路線を走らせているのは、名阪近鉄バスである。
 南部の海松新田(みるしんでん)を過ぎると、海津(かいづ)市に入る。海津は岐阜県南端の町で、木曽川と揖斐川とに挟まれている。海津市内は、この岐阜バスと名阪近鉄バスに加えて、市営コミュニティバス、さらには隣の羽島市が運営する「広域バス」なるものまで乗り入れてきて、いよいよバス路線は混沌としている。それぞれの運行本数は多くないし、使いこなすのは頭が要りそうだが、そのはざまを縫うようにして走る岐阜バスの客はもはやわたし一人になった。廃線もむべなるかなではあるのだが、やはり割り切れなさをおぼえる。
 わたしの地元もそうだが、本来公共交通を補完するために運行されるはずのコミュニティバスの類が路線バスを駆逐してしまう、という本末転倒の現象が各地で見うけられる。両者の役割分担も連携も半端なままにやろうとするから、そうなるのである。路線バスは、幹線道路をまっすぐ他地域と結ぶことに徹して拠点停留所でコミュニティバスとの乗継を図る。もしくは、地域内では路線バスもコミュニティバスの路線網とダイヤに組み入れて運賃や乗車券などの扱いも含め一体化してしまう。いずれかの途をとらなければ、廃止される路線バスは今後も出つづけるであろう。
 南濃線を11時45分の海津庁舎前で下車する。南濃線は次の歴史民俗資料館前が終点だが、ここの方が市営バスへの乗継が便利で確実なのだ。わたしを降ろして空になったバスの運転手さんも降りてきた。わたしと目が合ってちょっとばつの悪い顔をしてから、自動販売機で缶ジュースを買ってバスに戻った。

 ここで四十分あまりの待ち合わせなので、昼食を済ませたい。適当な店があるかどうか心配だったが、市役所の向かいにこぎれいなイタリア料理店があった。
 地方の店だから気取りはなく、お茶だけ飲みに来る人もいればコース料理を頼む人もいる。わたしは和風パスタのセットメニューを注文したが、パスタの味付けもデザートのケーキもなかなかのものである。ただ、二階で子供会の会合をやっているようで、料理の出方が遅く、慌ただしい食事になったのが惜しい。是非もう一度ゆっくり食べに来たい店だが、死ぬまでにもう一度海津に来ることがあるだろうか。

 12時29分発の海津市営バスは、マイクロバスながらよく整備された新車である。「東回り」と表示されたバスは、木曽川側を南下する。東方に望まれる木曽川の堤は、宝暦の薩摩藩による治水の折に松の木が植えられ、千本松原と呼ばれる史跡になっている。
 一人になったわたしに歳とった運転手さんが、
「どこまで行かれますか」
と訊く。案内放送や降車ボタンなどはないのだ。このバスは医師会病院行であるが、わたしは一つ手前の海津苑(かいづえん)で降りる。12時40分着。

 海津苑というのは温泉を中心とした保養施設のことで、一時間以上の待ち時間もあるし、折角だから汗を流すことにする。手拭いばかりか石鹸も買わせる抜け目のない施設で、古くて狭かったが、隣に新しい建物が建設中で、いずれ立派なものができるようだ。とりあえず気持ちよく上がってきたが、効能書を見ると、女性に効くものがほとんどである。
 もうすることも居場所もないので館を出て、向かいの喫茶店に入ると、実質温泉の休憩・食事場所を兼ねた店であることが一目で分かる。顔見知りの常連客ばかり多いうらぶれた店であった。もう昼食は済ませたし、メニューを見てミックスジュースを注文する。と、カウンターの婆さんが「今はできん」と首を振る。昼時の常連さんの世話に忙しくて、一見の客のために果物を刻んでいられないらしい。そういう店だと割り切ることにして、アイスカフェオレは、と訊くと、できるという。これなら出来合いのパックからグラスに注いで氷を浮かべるだけだろう。それでも、カフェオレにはお茶請けのおかきが付いていた。

 海津苑から今度は14時02分発市営バス南回り線に乗る。
「三川(さんせん)公園に行きますね」
というわたしの質問には生返事だけして、運転手さんは常連のお婆さんが乗らないのを気にして温泉の玄関を覗き込んだりしている。
 バスは、海津市の、つまり岐阜県の南の先っぽ、油島(あぶらじま)まできた。四方でなく三方を水に囲まれただけの地形でも「島」と表現する地名は各地に見られるようだ。その油島の中央部にある木曽三川公園に14時12分に着く。下車し、公園の中に入ってみる。他にもクルマで訪れた観光客がぱらぱらと散策している。

 三川公園というのは、木曽・長良・揖斐川が接近して流れている旧輪中地域に散在する公園施設を総称する名のようだが、この油島に公園センターが置かれている。
 今日は暑すぎるが、気候が良ければ腰を下ろしてくつろげる広大な芝生もあり、輪中に暮らしていた民衆が洪水から身を守るための智恵が結集した、当時の典型的な農家が再現された物も展示されている。展望タワーやレストランもあり、その入口のビジターセンターで展示物を見ながら、輪中の勉強をした。なかなかしっかりした観光施設なのだが、交通の便が悪いのは惜しい。
 西側の川向こうはもう三重県桑名(くわな)市である。対岸に桑名市のコミュニティバスの路線が来ているはずで、六百メートルほどの橋を渡るだけなので、常識的な徒歩連絡の範囲と見做せよう。
 三川公園を高架で横切っている幹線道路を西へ、油島大橋を渡りながら時々立ち止まって川を見下ろす。三川公園センターから南にも、長良川と揖斐川を隔てる堤が続いていて、その上は県道として利用されているのが見える。けっこうクルマも通っているようだ。後で地図を見ると、堤は十キロほども続いたのち国道1号にぶつかることが分かる。その間に集落もなく交叉・合流する道路もないから、走りやすいのだろう。
 橋は、小さな大江川(おおえがわ)をまず渡る。大江川は海津市内を転流してきた輪中名残の水路だが、揖斐川に合流しそうでいてなかなか合流せず北側からずっと並行している。橋の南方でやっと合流するのが見える。「三重県」と書いた看板を過ぎたあたりには揖斐川の中州があり、木がこんもり繁っていて蝉がやかましいので、中州というよりこれこそ島の感じだ。かくして一体幾つの川を渡っているのかよく分からぬ油島大橋も、西詰に近づいてきた。
 欄干ごしにバス停のポールを探したが、それらしいものが見つからない。道路は堤防から緩い坂で地平に下っていく。下りきったところにバスベイ状の拡がりが見えるので、そこまで歩いてみたが、停留所ではないようである。そこで地平の道を川の方に戻ってみると、橋の下に身を隠すように、油島大橋西詰停留所のポールがあった。これでは見つからないはずだし、西詰と言われても、ここから橋に登るのは一仕事である。橋から堤に直接下りる階段でも造っておいてほしかった。

 バスはどっちから来るのだろう、とどきまぎ待っていると、派手な塗装の小型ノンステップバスが北側からのんびりやってきた。K-バスと呼ばれる桑名市のコミュニティバスで、多度北(たどきた)ルートと呼ばれる路線である。15時33分発だがやや遅れている。客は誰も乗っていない。きれいに区画整理された上之郷(かみのごう)の田園地帯をまっすぐ西に向かったが、多度の町中に入ると道が狭くなり、クルマと譲り合う。15時43分に近鉄養老(ようろう)線(現・養老鉄道)の多度(たど)駅前に着いた。

 多度は、北伊勢神宮とも呼ばれる多度大社で知られる町で、元は多度町であったが、現在は桑名市の一部になった。多度大社はなかなか社格の高い神社で、昔伊勢参りをした人は必ずここにも立ち寄って参詣するほどであったという。少年たちが馬を駆って急坂を駆け上る「上げ馬神事」がよくニュース映像で出るが、あれはこの神社の行事である。成功した少年は地元のヒーローになるらしい。
 次に乗るのは16時00分発の多度南ルートである。ここまで乗ってきた北ルートのバスがそのまま運用されるのかと思ったら、そのバスは別の系統となって去ってしまう。駅前では地元ラジオ局の取材クルーが歩いている人を呼び止めて、懸賞ゲームか何かをやっている。が、わたしには声をかけない。余所者であることが一目で分かるのだろうか。

 定刻きっちりに多度南ルートのバスが来た。今度も客はわたしだけだ。このルートはまず多度地区西部の山沿いを大きく巡る。猪飼(いかい)あたりで乗ってきたおやじさんは、見慣れぬわたしが乗っているのがよほど気に入らぬのか、始終わたしをじろじろ睨んでいる。御衣野(みぞの)を過ぎると、富士通の工場があるくらいであまり人の住んでいそうにない地区を南へ三キロほども飛ばし、総合運動公園前に16時17分に着いた。ここでK-バス西部北(せいぶきた)ルートに乗り換える。
 多度南ルートは、ここからまた延々北へ御衣野まで戻った後、多度の東方を回って多度駅に帰る。察するに、旧多度町コミュニティバスとして運行していたものを、桑名市への編入に際して、桑名市コミュニティバスと路線を一体化させるため、無理矢理循環ルートをここまで引っ張ってきたのではないか。しかし、そのおかげでわたしの旅のルートも南へつなげることができる。
 連絡するといっても、次のバスは一時間ほど待たねば来ない。周囲には十数面ものテニスコートやいろんなスポーツ施設があるが、時間を潰す所といえば、交叉点に建つコンビニしかないので、そこで立ち読みなどする。

 バス停に戻って待っていると、高速タイプのバスがやってきて、運転手さんがわたしを意外そうに、乗らないよね、という顔をして見、減速だけして通過した。この東側に拡がる陽(ひ)だまりの丘(おか)団地と名古屋とを結ぶ高速バスらしい。
 続いてわたしが乗る17時15分の西部北Aルートの車が来た。この路線は新興住宅地を巡るためか、数人の乗客がある。陽だまりの丘・松(まつ)の木(き)の住宅街には三重交通バスの路線も来ているが、このコミュニティバスは、狭い路地にまで入っていって住民の便を図っている。高校生などが次々乗ってくる。
 さらに南に向かうため、マイカル桑名で乗り換えるつもりでいたところ、一つ手前の新西方(しんにしかた)という回転地を兼ねた乗継所に17時32分に着くと、暫く時間調整をする、と言う。マイカルはもう目の前に見えている。マイカルで買物するらしい客は皆降りてしまうので、わたしも続いた。こういう事情も地元に来てみないと分からない。

 マイカルを少しだけ覗き、今度はマイカル桑名停留所から17時52分発西部南(せいぶみなみ)Aルートのバスに乗る。マイカル帰りの主婦や中学生で満席になる。男子中学生たちは甲高い声で談笑し、華やかである。「~できへん」というような関西風の表現も聞かれ、三重県が名目上近畿地方であることを思い出させる。
 バスは西方インターから高速道路然としたフリーウェイに乗る。コミュニティバスにしては珍しい道を行くが、これはあくまで国道258号のバイパスであって高速道路ではないので、わたしの旅のルールには触れない。次の西別所(にしべっしょ)インターで県道に移るが、この県道もまた立派なフリーウェイだ。こういう小型のバスも、その気になれば随分スピードが出るものだな、と思っていると、きぼうが丘(おか)団地という住宅地に入って、やはり狭い道を一周する。路線バスの方は団地の入口にあたる県道上に停留所があるだけなので、コミュニティバスらしいいい住民サービスになっている。
 県道に戻ってさらに西進すると、名阪桑名インター口の停留所である。流石に名阪には入らず、蓮花寺(れんげじ)の旧来の市街に入っていく。三岐(さんぎ)鉄道北勢(ほくせい)線の踏切を越え、夏祭の準備に忙しい町の一角にあるキクヤ前で、18時09分に下車した。ここからさらに南に向かう八風(はっぷう)バスの路線と並行するので、ここで乗り継ぐ。キクヤとは何なのかと思っていたら、中規模の老舗らしい食品スーパーであった。周囲には古びた服飾店などが並んで、かつては地域の拠点商業地区だったことがうかがわれる。

 三重県の路線バスはもちろん三重交通がそのほとんどを運行しているが、なぜか桑名駅と桑名西(にし)高校などを結ぶ路線群は、八風バスという会社が担当している。もっともこれも三重交通の関連会社ではあるようで、貸切バスや高速バスが主な業務だ。
 これから乗ろうとする八風バスの梅戸(うめど)線は、桑名市南端の住宅街の足であるが、一部の便が市境を越えて四日市市北端の伊坂台(いさかだい)に乗り入れている。それで、この旅が四日市エリアに進む手段として使えるのである。

 キクヤ前発18時43分の梅戸線は、ここから南へ員弁(いなべ)川を渡り、その南岸の集落を進む。新興住宅地の正和台(せいわだい)に入り、そこから南へ低い山を越えた所が伊坂台であった。公園で夏祭が行われている。
 この先に乗るべき路線はもう便がないので、今日はここで旅を中断するのだが、この後がとんでもないことになった。

 次に乗る四日市市自主運行バスの停留所に伊坂台アクセス前というのがあり、多分八風バスの伊坂台と同じ場所にあるのだろう、と踏んでいたが、それはそのとおりであった。ただ、「アクセス」というのが多分住宅地中央のショッピングセンターか何かで、タクシーでも待っているかもしれない、それに乗って帰ればいい、くらいに簡単に考えていたのだが、アクセスは単に沿道にある精密機器会社の名前だった。何でそんなものを停留所名にするのか知らないが、付近にあるのはコンビニと若干の飲食店だけである。
 もう桑名駅方面に向かう八風バスの便もないので、タクシーを呼ばねばならないが、新しい街だから公衆電話などはない。とりあえずコンビニに入って買物などしていると、外が突然の夕立になり、激しい雷雨に店から出られなくなった。しかも、たくさんの浴衣姿の中高生がこのコンビニに避難してきた。夏祭に来ていて雨宿りの場がないのだろう。店内は大変な混雑で、買物しない者も屯してふざけ合っている。あまり柄のよくない者もいて、店長も処置なしと諦め顔で店内を見まわしている。
 やや小降りになったので、湿度の高い店内から外へ出て、ケータイで四日市市のタクシー会社を検索し、上から順番に架けてみる。一社めにつながって、
「タクシーをお願いしたいんですが」
と言うと、
「あのー、うちは介護タクシーなんです」
と答えられた。しかたなく二社めに架けると、話し中で出ない。三回架け直してもつながらない。三社めにつながったので、
「伊坂台のアクセスの…」
と言うと、
「ああ、伊坂台、そっちの方は車がないの。無理」
と切られた。四社めに架けようとすると、何とケータイの電源が勝手に切れた。電池切れらしく、電源を入れ直しても入らなくなった。夕立の間にあたりは真っ暗になっている。

 これは本当に困った事態だ。伊坂台で野宿するわけにもいかない。とにかくこうなれば伊坂台を脱出する残された方法はただ一つ、八風バス梅戸線の、桑名駅方面とは反対の奥に向かう終バスに乗ることしかない。それで事態は好転するのか暗転するのか、見通しがつかないが、伊坂台にいてもしょうがないので、そのバスに一か八か乗ることにする。いつどこで夕食が摂れるかも覚束ないので、コンビニでおむすびを買っておく。
 とにかく19時55分の南金井(みなみかない)行は来た。折角越えた峠をまた越えて、桑名市に戻るが、一体どこで降りればいいのだろう。バスが赤尾台(あこおだい)の住宅街を抜けると、客はわたしだけになり、いよいよ田舎道に入って、周囲も見えなくなる。タクシーが呼べそうな場所からどんどん遠ざかっていく気がする。
 心細く思ううち、バスは念仏橋(ねんぶつばし)という嫌な名の停留所を過ぎ、西へどんどん飛ばす。もう桑名市域を出て東員(とういん)町に入っている。右手遥か遠くに街の灯が浮かんでいるようだが、とても歩ける距離ではない。バスは、古い街道らしい狭い道に入っていった。国道365号の標識が立っている。
 電チャリ8耐の時、進退窮まったのも、国道365号の県境の山だった。365号は石川県の加賀市から福井・滋賀と通って三重県の四日市市まで通じている。このルートを忠実に辿ってくる人などいないだろうが、とにかくわたしは365号とそりが合わないようである。

 南大社(みなみおおやしろ)という停留所を過ぎた。この梅戸線は、三岐鉄道の二本の並行する鉄道線、北勢線と三岐線との間を走っているはずで、しかもこの二本の鉄道線は、西へ行くほどその幅が狭まっていたことを思い出した。さらに北勢線には北大社(きたおおやしろ)という駅があったような気がする。なら、この辺で降りたら、その駅まで歩けるのではないか。
 わたしは直ちに降車ボタンを押した。アナウンスは、
「次のフリー停留所でお降りの方は、ボタンでお知らせください」
と言う。この後も三重県内でフリー停留所なるものと時々出会ったが、普通の停留所とどう違うのか、よく分からない。が、今はそんなことはいいから、ともかく降りよう。
 フリー停留所のすぐ脇に、欄干に擬宝珠の載った小さな橋が架かっていた。大社という停留所名からしても、恐らく神社への参詣道なのだろう。そういう観光地なら周辺地図か何かもどこかにあるだろう、と橋を渡ってみると、そこに梅戸線とは別のバス停ポールが立っているではないか。
 目を凝らして見ると、東員町コミュニティバス「オレンジバス」なる路線の乗場である。これの便があれば言うことなしだったが、二十時を過ぎるとさすがにもう終便が出た後だ。しかし、バス停には時刻表だけでなく、コミュニティバス全線の路線図が、それも、実際の道路の形状に忠実に書かれている。これは今日乗ってきたK-バスも皆そうであった。これは、乗らない徒歩旅の者にとっても無言の道しるべとなってくれ、大変助かる。この路線は北勢線の東員という駅に通じていることが分かる。それなら、このバス道を辿って東員駅まで歩くこともできそうだ。
 わたしはようやく生きた心地がして歩き始めた。中央大橋で員弁川を渡ると次の停留所があり、ここでも路線図で道を確かめる。バス道はここで右へ曲がるようだ。広大なスポーツ公園の脇を通って東員町役場の前に出る。土曜というのにこんな時間まで仕事をしているのか、またはイベントでもあったのか、役場から続々クルマが出てくる。が、道を歩く人など他におらず、クルマの中から怪訝な視線が刺さる。
 さらに北に折れると、前方に駅らしき灯が砂漠のオアシスのように近づいてきた。わたしの足は速くなった。東員駅はきれいなビルになっている近代的な駅だ。後で調べると、かつての北大社駅を桑名寄りに移転してできた新しい駅なのであった。幸い間もなく西桑名行の電車が来る。
 わたしはホームのベンチでほっと息をついておむすびを食べ、水を飲んだ。この付近でも夏祭をやっているらしく、盆踊りの太鼓の音がどこかから響いてくる。その音の中、西桑名行のライトが近づいてきた。そのヘッドライトは明るく巨大に見え、可愛いナローゲージの電車の姿のはずが、横綱の土俵入りを見るような頼もしさを感じた。 

(つづく)

第四日の経路

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第五日 伊坂台アクセス前→竹原

 前回は野宿まで覚悟したところ、九死に一生と言うと大げさだが、バス旅の途中でバス路線に救われた。これも縁というものかもしれない。
 まあ、後から反省してみても、19時頃に伊坂台にいる人間がその日のうちに公共交通だけを使って桑名方面に帰る方途として、あれがベストに近かったと思う。あのフリー停留所で降りたのはヤマ勘であるが、旅の場数を踏むことで地理感覚が研ぎ澄まされた結果である、と誰が誉めてくれることでもないので、自讃しておくことにしよう。後で地図をみると、フリー停留所からは逆方向に歩いて三岐線の北勢中央公園駅に向かった方が若干近かったようではあるが、それはもはやどちらでもよい結果論である。 

 旅を再開するため伊坂台に向かうにあたり、暗闇の中でわたしに光明を与え導いてくれた東員町のオレンジバスに表敬したくなった。せめて一回分の運賃を奉納して謝意を表したい。幸い今日はどう頑張っても津市内で足止めになることが分かっているので、時間に余裕はある。それで、西桑名から三岐鉄道北勢線の電車に再び乗った。

 北勢線はナローゲージ、すなわちレール幅が762mmしかない、いわゆる軽便鉄道の生き残りである。比較的最近まで近鉄の支線であったが、合理化の一環で地元の三岐鉄道に払い下げられた。小さいながら座席の坐り心地のいい車輌が右に左に急カーブをきる。北勢線は、サイズが小さいと何かと身軽なのか、東員駅もそうであったが、近鉄時代から、沿線事情に合わせて割合小まめに駅の改廃や移転を繰り返してきたので、車窓からその痕跡を観察したりするのも面白い。
 東員町に入ってすぐの穴太(あのう)の駅にわたしは降り立った。

 8時58分にオレンジバスの東西線の便がある。第四日の帰りに辿ったのは南北線のバス道なので、違う系統だが、いずれにしても三岐鉄道が受託していて、名のとおりオレンジに塗られたきれいなマイクロバスである。ここは東西線の東の終端部にあたっており、南へ進んで員弁川を渡り、中上(なかがみ)地区を一周すると、十分もかからず念仏橋で終着となる。ここでも前回利用した八風バス梅戸線に連絡している。

 やがてやってきた梅戸線の伊坂台回り桑名駅前行に乗り、前回と逆のルートで乗り進む。不安な暗闇を走った前回と同じ路線なのに、朝の赤尾台は爽やかな住宅街である。9時34分に伊坂台に着く。

 しかし、今日のスタートとなる次の路線は伊坂台アクセス前発11時09分までない。前回の印象のよろしくない伊坂台で一時間半も時間潰しをしなければならない。が、歩くうち、一軒の喫茶店を見つけた。普通の住宅の一階を改造した素朴な店で、近所の常連が顔を見せてはモーニングを頼む。わたしがコーヒーだけを注文すると、店主のおばさんは拍子抜けした表情をしつつも、愛想よくお茶請けのおかきや南京豆と一緒に運んできてくれた。この近辺では喫茶店の飲み物にはお茶請けをつけるのが習慣らしい。

 時間が来て、四日市市自主運行バス山城(やまじょう)・富洲原(とみすはら)線という長ったらしい名前の路線の山城駅前行が来た。やはりマイクロバスで三岐鉄道の受託である。元は路線バスだったのであろう。
 わたしが乗ると、運転手さんが、
「山城行ですよ」
と念を押す。富田駅やショッピングセンターがある町中へ向かうのは逆方向だからである。
 伊坂台団地を出はずれると、すぐに東名阪自動車道と伊勢湾岸自動車道とが分岐する四日市ジャンクションである。高速道路に沿って三岐線に近い千代田(ちよだ)まで南下、西へ転じる。古い集落と田園地帯を縫って走り、乗客一名のまま三岐線の山城駅前に11時23分着。

 駅の近くにスーパーがあったので、そこで買物がてら涼をとる。そうでもしないとやってられない好天である。山城駅は小さな駅ながら周囲に新興住宅地があるためか、ちゃんと駅員が常駐している。わたしは電車にも乗らないのに待合室でサンドイッチなど食べながらバスを待たせてもらう罪滅ぼしに、隣の暁(あかつき)学園前までの切符を記念に窓口で買った。昔ながらの硬券である。
 時刻表に書かれている本数は少ないが、踏切はよく鳴る。セメント運搬の貨物列車の比重が高い私鉄である。

 山城駅前発12時00分発の三岐鉄道バス山之一色(やまのいっしき)線近鉄四日市駅前行に乗る。これは通常の路線バスである。わたしの他、三岐線電車から降りてきた客がバスに乗り継ぐ。この人たちが四日市まで行くとは思えないので、途中の住宅地に帰るのだろう。
 バスは駅を出ると、あさけが丘(おか)・八千代台(やちよだい)と似たようなよくある新興住宅地を巡っては客を乗せたり降ろしたりするので、昼食を摂ったばかりのわたしはもったいなくも朦朧としてしまった。あの国道365号とも交わったはずだが、記憶にない。
 気がつくと、既にバスは四日市市の中心市街地に入っていて、広い街路を走っている。市立病院・文化会館などと都会らしい施設を見ながら、近鉄四日市駅前に12時43分に着いた。

 こんな大都市の真ん中で時間待ちをするのは、この旅には珍しいことだ。わたしは駅前商店街をぶらついたり、近鉄百貨店でポロシャツを買ったりしながら都会の肌触りを楽しんだ。
 四日市は近鉄とJRの駅が一キロちょっと離れている。国鉄時代にここを歩いて乗り継いだこともあるが、広大な中央通を歩いていくとだんだん車通りも人通りも少なくなっていき、すっかり途切れたところが国鉄駅だったのに驚いたものである。その昔は、桑名・津・松阪といった三重県内の主要駅同様、四日市でも近鉄が国鉄駅に乗り入れていたのだが、戦後十年ほどした頃、スピードアップと増客のために近鉄が四日市市内の経路を見なおし、独自のターミナル駅を構えた、という経緯がある。
 現在のJR駅付近はどうなっているのだろう。以前ほどの落差はないのではないかと思うが、いずれにせよ近鉄駅付近が最も賑わっていることに変わりない。

 今度は三重交通のバスに乗る。三岐鉄道バスと同じバスターミナルから出るのだが、こちらの停留所名は「近鉄四日市」と呼び捨てである。近鉄グループの一員だから身内の気やすさなのだろうか。
 平田町(ひらたちょう)駅行のバスはターミナルを出た。53系統と系統番号が付いているのも都会らしさである。平田町は近鉄鈴鹿(すずか)線の終点で、電車では乗り換えないと行けない。国道1号に出ると、街中を南下していく。天下の東海道を行くのだから、三重交通としても幹線の一つなのだろう。客も座席を埋める程度には乗っている。
 四キロほど来た所で国道から右にそれ、旧道と思しき片側一車線の道に入っていく。すぐに追分(おいわけ)駅前という停留所がある。追分は近鉄内部(うつべ)線の駅だ。内部線も北勢線と同じくナローゲージである。この先終点内部駅までこのバス路線と並行するが、四日市の都市規模が鉄道とバスを両立させるのか、この線は現在も近鉄経営のままである。内部駅前から国道1号に戻り、采女(うねめ)の峠を越える。采女とは変わった地名だが、朝廷で食事の世話をした下働きの女官のことで、このあたりから出た采女の話が古事記にあるのだという。
 ここからは鈴鹿市に入って、石薬師(いしやくし)地区である。石薬師には、蒲桜という品種がよく分からない珍しい桜の木があり、天然記念物になっているという。同じ鈴鹿市内の白子(しろこ)には年中花をつける不断桜というのもあるそうで、鈴鹿と桜は何かと縁が深いようだ。
 国道1号はJR関西本線を乗り越え、加佐登(かさど)駅を望んで国道加佐登の停留所がある。近くには加佐登神社があり、日本武尊の終焉地と言われる。そういう地は他にもあるようだが。バスは庄野(しょうの)から鈴鹿川を渡って鈴鹿市街に入る。イオン・マイカルの大規模なショッピングプラザであるベルシティの前を左折して14時11分、平田町駅に着く。

 ここからは、また鈴鹿市コミュニティバスであるC-バスというのに乗る。三重県のコミュニティバスはこういうネーミングをするらしい。
 太陽(たいよう)の街(まち)・平田線はベルシティが始発である。平田町駅付近に、時間を潰す所もこれといってないので、今来た方角へ何となくぶらついてみるが、ベルシティまでは六百メートルほどもあって、しんどい。途中に旭化成(あさひかせい)という停留所があったので、そこから乗ることにする。南側一帯が旭化成の工場なのである。

 14時44分の太陽の街方面行は、買物帰りの主婦と高校生で満席近い。市内を南へまっすぐ向かい、鈴鹿ハイツという住宅街の中に入って行き、多くの客を降ろす。お母さんに抱かれた男の子が、お母さんの肩ごしに頼りなく手を振りながら降りていく。坐ったまま無愛想にケータイを見ていた男子高校生がにこり破顔して男の子に手を振り返すと、またすぐ仏頂面でケータイに俯く。
 鈴鹿サーキットを中心とする一大リゾートゾーンへはもちろん路線バスが通じているから、このC-バスはそこを東に避けて稲生(いのう)高校の脇を抜け、F1マートというスーパーの前で他の路線と交叉して連絡する。五祝(いわい)といういわくありげな名の地区を抜けて西に折れ、太陽の街の住宅街に入る。
 この太陽の街は、鈴鹿市の南端で、津市に接しているため、津市方面へのバスもある。伊坂台もそうであったように、地域の境目に接している住宅街が、この旅のルートをつないでいくポイントとなる傾向がみえてきている。団地の玄関口にあたる伊勢鉄道の中瀬古(なかせご)駅の駅前広場に入ったので、ここで15時15分に下車。

 伊勢鉄道は元国鉄伊勢線だった第三セクター鉄道で、名古屋から伊勢・南紀方面への特急・快速列車のショートカットルートとして重要な役割を果たしているが、地域輸送の面では、完全に並行している近鉄に全く歯が立たず、一輌ワンマンのディーゼルカーが行き来するのみである。そんな駅でもベンチとトイレくらいはあり、利用させてもらう。

 津駅行の路線バスはまた三重交通である。しかし、路線バスのほうは駅前広場には入らず、その脇の路上にある停留所の名は「サンモール前」で、団地中央のショッピングゾーンからとっている。近鉄系のバスはJR系の鉄道駅など眼中にない。三重交通も一応伊勢鉄道の株主ではあるはずなのだが。
 太陽の街からの路線バスは大体最寄りの近鉄千里(ちさと)駅までを連絡するのみなのだが、一日数本だけ津駅まで直通する便がある。恐らく出入庫の関係かと思うが、そのうちの一本が15時39分に出る。路線バスといっても、小型のノンステップで、ここまで乗ってきたC-バスと大きさは変わらない。
 バスは鈴鹿国際大学の前を通って隣の河芸(かわげ)町に入り、千里ヶ丘(ちさとがおか)の団地で数人を乗せ、海に近い千里駅前に入る。ここの海岸はマリーナ河芸(かわげ)という大規模なマリーナと付設の公園がある。ここからは参宮街道とも呼ばれる国道23号を一路津に向かう。伊勢上野(いせうえの)という停留所を通るが、伊勢鉄道の伊勢上野駅とは全く別の場所である。
 がら空きのまま走っていたバスだが、津市に入って三重大学の前に来ると、突然学生らしい多くの客が乗り込んでさわがしくなった。ここまで来ると、おそらくこの街道にも多くの系統が集まって幹線をなしているのだろう。そこへ小型バスが来たので皆面食らっているようである。上浜(かみはま)町の交叉点で直進したところ、立っていた女子学生の一人が友達に、
「なーんや、このバスここ曲がってくれやんのやなあ」
と不満そうに言う。ここを左折すると、六百メートルほどでサティがある。言い回しが紀州の方言に近くなってきている。
 ほどなく駅前のターミナルに入り、16時12分着。

 津は四日市と異なり、JRと近鉄とが同じ駅で改札内もつながっている。近鉄はホーム一面を割り当てられているだけだが、やはり乗降客は近鉄が多いようである。また、津駅は津の中心街とはちょっとずれた位置にあり、市役所などがある市街の中心は二キロほど南になる。そこには近鉄の津新町(つしんまち)駅があるが、JRは線路が通るだけで駅はない。

 さて、三重県を少しずつ南下してきた旅であるが、奈良県に県境を跨ぐことを考えると、津市南部の美杉(みすぎ)地区(旧・美杉町)か伊賀(いが)市かどちらかに向かわねばならない。そのいずれかからしか路線バスで奈良県につながらない。名張(なばり)市からも県境を越える三重交通の路線はあるが、そこには奈良県側からの路線が来ていない。
 伊賀に行こうとすると、結局美杉を通った後、名張へ出て伊賀上野(うえの)へ、と大きく北上せねばならない。直線に近い形で奈良へ抜けるのは美杉からということになる。美杉方面へのバスの始発地は久居(ひさい)駅であるから、まずそこへ行こう。榊原(さかきばら)温泉方面へ行く系統が久居を通る。

 16時40分発の榊原車庫前行は、二人だけの客を乗せて出発した。榊原温泉は、『枕草子』でも言及されているほどの由緒ある名泉である。近鉄にも榊原温泉口という駅はあるが、温泉からはかなり遠く、結局バス連絡となる。同駅はむしろ関西方面からの温泉乗換駅ということになるらしく、三重県側からはこのバスで直接行くのが簡単なのであろう。
 再び海岸側の参宮街道に出て南に向かう。右手の線路を隔てて県庁が建つ。長い橋で安濃(あのう)川を渡ると、銀行やホテルなどが両側に立ち並ぶ本格的な中心市街が延々続く。ちょっと九州の宮崎に似た感じがする街のつくりである。そこに設けられている停留所群から次々と客が乗り込み、立客まで出た。
 津駅から三キロほども来てようやく市街が途切れてきた西阿漕(にしあこぎ)で街道を外れて西に向かう。JRにも阿漕駅がある。歌枕としても親しまれ、現在も使われる「あこぎだ」という形容動詞の語源ともなった阿漕平次伝説の舞台、阿漕ヶ浦(あこぎがうら)がここである。
 ここからは近鉄名古屋線の線路沿いに、古くからの集落に利便を提供しつつ、いつか久居地区(旧・久居市)に入っている。街の規模の割に立派な駅前広場になっている久居駅に17時02分に着く。一志(いちし)地区(旧・一志町)の室(むろ)の口(くち)行や美杉地区の竹原(たけはら)行のバスが、もう隣でドアを開けてこのバスからの乗継客を待っている。

 竹原行バスは、最近見かけることの少なくなった古いタイプの大型路線バス車輌である。久居の古めかしい街並を抜けると、まっすぐ南西へと地方道を行き、川合高岡(かわいたかおか)に至る。
 川合高岡は、近鉄大阪線の駅がある所である。一時、近鉄は川合高岡と久居とを結ぶ路線を敷こうとして動いたことがある。大阪線と名古屋線とを短絡して名阪特急のスピードアップを図るためである。しかし用地取得に手間取ったため断念し、現在でも名阪特急は南方の分岐点である伊勢中川(なかがわ)を経由して運転されている。もっとも、古く戦前には久居と白山(はくさん)地区の伊勢川口(かわぐち)とを結ぶナローゲージの蒸気鉄道(中勢(ちゅうせい)鉄道)があったこともあるので、その跡を活かせなかったのかとも思うが、とにかくその夢破れた区間をバスは辿ってきたわけである。
 またここは一志地区の中心地でもある。すぐ近くにはJR名松(めいしょう)線の一志駅もある。名松線は国鉄時代から廃止が噂されつづけている超ローカル線である。名のとおり松阪(まつさか)から名張までを結ぼうとしたが、果たせずに途中の伊勢奥津(おきつ)で止まったままである。既に近鉄が頻繁に運行されている名張と松阪とを結ぶことに、それほどの意義があるようにも思えないし、津と直結する近鉄がある脇で松阪と連絡しても、なかなか商売はしにくいのであろう。
 ここからは大体名松線に沿って走るが、途中の道、特に白山地区に入ってからの集落の内部に入る部分は非常に狭く、バスが通ると行き違いも困難である。が、交通量もそこそこあるにも関わらず、道幅の狭い部分に来ると、不思議に対向車が来なくなる。たまに出会って右往左往しながら道を譲るのは、愛知ナンバーのクルマであった。地元の人は一日数回しか通らないバスの時刻を心得ていて、その時にクルマを出さないようにしているのだろうか。ともかく、この道路事情では、名松線も簡単にバス転換というわけにはいかず、故に存続しているのであろう。
 白山地区の中心関ノ宮(せきのみや)で、乗っていた客が皆降りてわたし一人になる。家城(いえき)まで来ると、近くに一志病院があるからか、老夫婦が乗り込む。
 対岸の名松線とともに、なかなかの美しい渓流である雲出川(くもずがわ)に沿い、山を抜けると、美杉地区の玄関口、終点の竹原である。

 ここから先に路線バスはなく、津市が運行するコミュニティバスで進むことになるが、今日の便はもうないので、旅はこの竹原で中断である。

(つづく) 

第五日の経路

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第六日 竹原→野依

 柄にもなくマクドナルドでシェイクを吸いながら、わたしは小銭入れを確認している。バス旅では小銭、特に百円玉はいくらあっても多すぎない必需品だ。バスに両替機はあるといっても、これがよく詰まるし、紙幣に皺や汚れがあると受け付けてくれなかったりし、後ろの乗客の冷たい視線を浴びながら汗をかかねばならない。この頃はプリペイドカードを売り出しているバス会社も多いのだが、この旅のようにいろんな会社のバスを乗り継ぐ時は現金払いが主になる。
 それで、バス以外の支払いはできるだけ紙幣を出してお釣りをもらい、小銭入れを目一杯膨らませるようにしている。マクドナルドの払いももちろん千円札だったが、それでも今日は百円玉が二十個ほどしか残っていない。バス旅では二十個でも心許ない。

 ここは久居駅ビルのショッピングセンターである。地方駅でよく見る小規模なものだが、館内にはテナントが撤退した痕の空間が目立つ。郊外型のショッピングセンターに圧されているのだろう。マクドナルドにだけ若い世代が出入りしている。
 第五日の中断地点竹原に向かうのに、できれば近鉄榊原温泉口からバスに乗るとか、JR名松線を利用するとか、目先を変えたかったのだが、待ち時間などのロスが大きすぎ、結局は前回乗った久居駅からのバスにもう一回乗る羽目になったのである。今日は要注意の土曜だが、この先美杉地区のバスの時刻が限られているので、朝のゆとりはある。間もなく11時30分発の竹原行が出る。

 竹原終点は、「ひといきつきたいふるさと美杉」という看板が立った、ちょっとした広場で、美杉地区の玄関口として整備されているようであった。屋根のついたバス乗場やベンチ・自動販売機・トイレなどが設けられ、名松線伊勢竹原(いせたけはら)駅の駅前広場も兼ねている。バイク旅行者もここに入ってきてエンジンを停めては日陰で一憩している。
 美杉地区にはここを起点とする津市のコミュニティバスが何系統かあるが、県境に近い奥津(おきつ)方面には二とおりのルートがとれる。一つはJR名松線に沿って行く川上(かわかみ)線、もう一つは丹生俣(にゅうまた)線と飼坂(かいさか)線を乗継ぐルートだ。前者は直通で便利だが、ここ竹原でもむこうの奥津でも中途半端な待ち時間に悩まねばならない。それなら、乗換えの不便に堪えても、未踏の地を行く丹生俣線に乗ってみよう。
 12時46分発の丹生俣行を待つのは、わたしの他、おばさん二人である。運行を受託している三重交通の小型バスが来てドアを開ける。運転手さんが大声で、
「丹生俣へ乗るんかな」
と訊く。わたしたち三人がこもごも肯くと、
「病院行ってくるさかいに、待ってなあ」
と言い残してバスは去っていく。丹生俣線の起終点は、さっき通ってきた家城駅近くの一志病院である。

 折返してきた丹生俣行に乗り込むと、バスはいきなり急峻なつづら折りを登りはじめる。君ヶ野(きみがの)ダムの堰堤が目前に聳え立った。湾曲はしていないが微妙な険しさの傾斜を見せている、すこぶる形よい堰堤だ。そしてその堰堤中腹の水門から勢いよく放水されているさまは、人工的な美を超えてどこか官能的でさえある。
 ダム湖まで登りきってみると、狭い道路に沿って桜の木が多く植わっている。季節にはきれいになることだろう。湖岸は五メートルほど地肌が見えているが、放水しているからには、渇水状態ではないのだろう。
 湖水に見とれていると、おばさん二人は大声で世間話を始める。顔見知りらしく、一人は買物帰り、もう一人は大阪から里帰りしてきた人で、積もる話も多そうである。そこへ運転手さんが大きな声で、
「何のお話ですかあ?」
と割り込む。運転手の方から雑談に入ってくるとは珍しい。三人で地元の噂話を始めた。どこそこの畑は荒れ放題だが後継者がいない、どこそこの雑貨屋は最近閉めた、というような景気の悪い話が多い。やはりアクセントは東京式に、語彙や文法は紀州に近い、折衷型の方言である。
 ダム湖が尽きると八手俣(はてまた)川は石がごろごろとした渓流になる。これも人智を越えた力と年月を感じさせて心洗われる眺めだ。ところどころに釣り人の姿もある。左手から合流する細い道があり、標識に「松阪方面」とあるが、こんな道を辿っていく松阪へ行く人はいるのだろうか。
 竹原から八キロほども入ってきたろうか、下之川(しものかわ)は診療所やJAもあるちょっとした集落で、地元のおばさんはここで降りる。
 下之川からの道はいよいよ狭くなり、走れども停留所はさっぱりない。対向車はたまにしか来ないが、互いにおどおどと行違い場所を探しながら行き交う。山肌から垂れた木の蔓がバスのサイドミラーに絡みつきそうになり、運転手さんは
「ああ畜生」
などと言いながら、ハンドルとギアを小刻みに操作して慎重にほどくと、再び前進に転じた。道沿いの枝や蔓などというものは、クルマに繰り返し触れることで自然に伸びが止まるものだが、この道を行く大型車などこの丹生俣線のバスくらいしかないのだろう。
 やっと行き着いた次の集落下多気(しもたげ)にある北畠(きたばたけ)神社前で大阪帰りのおばさんが降りた。伊勢国司だった北畠氏は、こんな山奥に館を構えていたのである。
 わたしが後ろの席から、
「道の駅は小津(こづ)で降りればいいですか?」
と叫ぶように訊くと、
「小津だと行き過ぎるから、近くで降ろしてあげる」
と大声の答えが返って、国道368号と交叉する信号の所で停留所でもないのに停めてくれた。13時30分頃である。運賃は700円で、コミュニティバスとしては随分な値段だ。あの悪路をこれだけの距離楽しませてくれたのだから、安いと思わねばならない。が、わたしの百円玉は一気に減る。

 この乗換地点近くに道の駅があることは地図を見てチェックしてあったが、クルマの人のための施設なので、徒歩で道の駅のある丘に登るのはなかなか大儀であった。
 道の駅美杉は純木造の落ち着く建物で、椎茸やらアマゴやら杉材の玩具やら、いろいろ土産物を売っていて、見るだけでも楽しい。「サルもびっくり」と大書された商品があるので近寄ってみると、猿だけでなく猪にも鹿にも効果がある、と手書きの説明が添えられていて、どうも地元の発明マニアが考案した害獣撃退装置らしい。が、いくら観察してみてもどういう原理で撃退するのか、分からない。鯛焼き大の鯛の形をした落雁も売っている。こんな大きな落雁は初めて見たが、舌も歯も疲れそうである。
 わたしはアイスクリームなど買って百円玉を多少補充し、カフェの木製テーブルに着いてそれを食べ、付近の観光案内パンフレットに目を通したりした。
 丘を下って八手俣川沿いに戻り、上流へ少し歩いてみると、この辺はもう川底の石も小さくなり、優しくせせらいでいる。その音を楽しみつつぶらつくと、小津の停留所があった。間もなく14時37分発の飼坂線奥津駅行が来る。

 やってきた飼坂線は、さっきのバスが丹生俣から折返して来たものであった。手を挙げると、あの大声の運転手さんが笑顔で停めてくれる。飼坂線はあの交叉点から368号線を西へ直行する。よく整備された道路なので、先程とはうってかわって飛ばす。実は奥津駅での乗継時間が五分しかないので心配だったのだが、この分なら大丈夫だ。
 そう思ったのに、奥津で妙な展開が待っていた。

 わたしが、
「いくらですか」
と訊くと、運転手さんは、
「さあ、いくらもらえばよかったかなあ」
などと言うのである。手許の運賃表に飼坂線の運賃が載っていないらしい。運転手さんと二人で車内じゅうを探して回るが、他の線のはあっても、飼坂線の運賃表はどこにも掲示されていない。次に乗る名張行の発車時刻が迫ってくる。運転手さんは、
「あもしかしてこの下にあるかな」
と言いつつ、貼られている川上線の運賃表をびりびりと破く。そんなことをしていいのか、と驚くが、そこにもない。運転席後ろの「バスが止まるまで 席を立たないで」のポスターを外してみると、やっとその下から飼坂線の運賃表が現れた。
「こんなとこ乗る人おらんさかいねー」
と恐縮する運転手さんに300円払って降りる。飼坂線は、丹生俣に着いたバスを奥津駅始発の別系統に送り込むための回送のようなものらしい。

 駆け足で前に停まっている名張駅前行の三重交通バスに乗り移る。伊勢奥津駅前は狭く、バスが横に並んで停まるスペースさえないので、縦に並んでいる。名松線が果たせなかった名張への連絡を代わりに務めている系統で、一日に数本しかないので、今日の行程はこの系統が軸になっている。奥津も名張も三重県なのだが、途中でちょっとだけ奈良県御杖(みつえ)村をかすめる区間がある。それを利用してわたしの旅は奈良県に進むわけである。

 14時50分発の名張行は、同じ14時50分着の名松線列車に接続している。しかし、列車が着いても誰も乗継ぐ客はなく、わたしだけを乗せて発車した。やはり国道368号を西へ辿るが、この道は昔から伊勢本街道と呼ばれていた、大和から伊勢へ通じる由緒ある街道である。その旧道と新道を出入りしながら伊勢地川(いせじがわ)を遡る。県境を越えてちょっとした平地に出た所が敷津(しきつ)であった。15時05分着、ここで降りる。

 ここは奈良県御杖村の東端で、国道368号と369号とが別れる交叉点である。ここにも道の駅伊勢本街道御杖がある。二時間近い待ち時間をそこで過ごそうと思う。
 この道の駅には「姫石(ひめし)の湯」なる温泉施設が併設されているので、早速入浴してみることにする。名前からしても、ここも海津と同様女性にご利益がありそうではある。しかし入ってみれば、サウナから露天風呂・打たせ湯・ジェットバスなど、風呂だけでもかなり整った設備があり、肌がすべすべになる。
 すっかり気持ちよくなり、休憩所で大画面のテレビを観たりざるそばを食べたりしながら、座敷机に地図を開いて今後のルートを検討していると、どこかの親爺が無神経にもわたしとテレビとの間にどっかと腰を下ろす。他に空いていてテレビが見える机はいくらでもある。何を考えているのかと思っていると、ややあって親爺はテレビを見ながら畳に寝ころんでしまう。そしてそんなことをしながら、わたしの方をたまにちらと見たりもするのである。わたしと話したいのならとっとと話しかけてくればいいし、こういうのが一番苛々するので、わたしはわざと大きな音を立てて地図を片づけ、そばのざるを返却口に戻すと、隣の座敷机に改めて坐って地図を拡げた。そんなわたしを親爺が不思議そうに見ている。

 恐らくはこの道の駅のせいであろう、店じまいした料理屋が交叉点脇にあり、その前の駐車場跡がこれから乗る御杖村の村営バス、「御杖ふれあいバス」の神末(こうずえ)敷津停留所であった。神末は敷津を含むこのあたりの大字の名である。16時54分発の掛西口(かけにしぐち)行マイクロバスは既にドアを開けているので、老運転手さんに一声かけて乗り込んだ。このふれあいバスは、名張から来る三重交通便に接続している。わたしのように奥津側から乗継ぐなどは流れに反しているのだろう。わたしの旅のコースこそ昔ながらの伊勢本街道そのままなのだが。そして、ふれあいバスの側にミニバンも一台停まっている。
 やがて名張から来た敷津止りの三重交通バスが隣に到着したが、四人の女子中学生が車内からなかなか出てこない。一旦出てきては運転手に呼ばれてまた車内に入ったりしている。一人やっと終わると次の子が同じことを繰り返したりする。そのせいで、後ろのおばさん二人がいっこうに降りられずにいる。
 やっと降りた四人は待っていたミニバンに乗り込んだ。ミニバンの運転席の女性は、四人のうちの誰かのおかあさんで、名張に遊びに行ってきた子らを代表して迎えに来たのであろう。それなら、子供達がまごついているのに何で出て来もしないのか。ようやく降りられたおばさん二人はこのふれあいバスに乗り込んできた。
 おばさんたちの話を漏れ聞いたところでは、中学生たちは千円札を両替して出てきた千円分の硬貨をお釣りだと思って全部持って降りようとし、運賃を入れろと言われて今度はその硬貨を全部料金箱に入れてしまった、というようなことらしい。いかに田舎の子とはいえ、中学生にもなって、自分がいくら払わねばならない状況にあり、手許にいくらあるのか、なんてことくらいを確認して自分で判断もつかないとは、間の抜けた子らであるし、親も同様だ。おかげでふれあいバスの発車は五分以上遅れた。

 バスは、国道からそれて、神末川を遡る。これ以上狭くできないほどの道をゆっくりゆっくり登っていき、神末上村(こうずえかみむら)で名張から乗ってきたおばさん二人を降ろすと、橋のたもとを利用して二、三度切り返し、同じ道をゆっくり引き返す。その後も狭い旧道をたどたどしく走りながら集落を回っていく。御杖村の中心部である菅野(すがの)も通るが、乗る人はない。菅野には天照大神・春日大神・八幡神・熊野神の四大神を祀る四社神社があり、ここが伊勢神宮のルーツとする伝承もあるという。他にも村内には土屋原(つちやはら)と桃俣(ももまた)の二箇所に春日神社がある。
 その桃俣を過ぎるともう御杖の集落は終わりで、バスは369号の新道を飛ばして大きなS字カーブを下ると、村域を出て隣の曽爾村(そにむら)に入り、17時36分、終点掛西口に着く。

 掛西口は名張からの三重交通バス、宇陀(うだ)市からの奈良交通バス、両方と連絡する要衝である。といっても、ガソリンスタンドの裏の旧道に、各社の停留所ポールが並んでいるだけである。三重交通だけは「掛西」という停留所名だ。曽爾村は三重・奈良両県の都市に路線バスが通じているわけだから、まずは便利な所だ。自前の村営バスしかない御杖村は、差が大きくて気の毒である。ふれあいバスも、おそらく以前は奈良交通の路線だったのだろうが。
 敷津と違い、ここ掛西口は時間を潰すべき施設などは何もない。青蓮寺川(しょうれんじがわ)を挟んで新道と旧道が静かに並行し、時折クルマが通るだけだ。新道の川沿いにささやかな公園があったのでそこのトイレを使ったが、ベンチを覆った四阿は、日が大きく傾いているので、この時間は全く日除けの用をなしていない。ここも安住の地とは言えない。
 新道を少し曽爾村の中心に向かって歩いてみる。前に聳える古光山の山腹に見事に植林された杉の木が整然とわたしを圧倒する。四方の山々から降る蝉の声が、否応なく独りであることを知らせてくる。バスのエンジン音が聞こえたので、しまったまた時刻を見違えたか、と身を竦めそうになるが、対岸の旧道を行くのは反対方向の奈良交通バスだった。新道がほどなくトンネルに入ってしまうので、その手前で橋を渡り、掛の集落から村役場の方へ旧道をぶらぶら行く。道の片側には勢いよく流れる溝というか水路があり、川のようにしかとした流れの音が響き続ける。
 「曾爾長野(そにながの)」という停留所があった。立っているのは奈良交通のポールだけで、三重交通の停留所はもう少し先の「長野」である。例に洩れず、両社で停留所位置がずれている。この奥にあるの両社線の乗継地点である停留所名も、奈良交通が「曾爾村役場前」、三重交通が「曽爾役場前」と表記も名称も微妙に異なる。同じ近鉄系のバス会社同士というのに、こんな鄙びた山村の路地でそんな意地を張り合わんでも、と嘆息するが、ともかくここ曾爾長野から乗ることにしよう。ここは狭い路地の四つ角になっていて、従って水路も四つ辻だ。流れが合わさっては別れる激しいが頼もしい水音が間断ない。それを聞いていると、ここでは水が全てを仕切っているかのような錯覚にとらわれる。道端の美容院に立っている赤青白の回転灯が、もちろん電気で動いているに決まっているのだが、この水の流れに合わせて回っているかに見える。

 曾爾村役場前から折返して来たバスが右へ左へ揺れながらこっちに近づいてきた。18時05分発の榛原(はいばら)駅行である。中扉から乗る時にICOCAをタッチさせるとピッと音がした。ICOCAは、JR西日本が発行しているタッチ式のICカード乗車券である。奈良交通の路線バスは全車がICカード対応になっている。ここまで来れば関西圏であり、この先のバスでは大概ICOCAかスルッとKANSAIカードかどちらかが使える。やっと小銭の心配がなくなった。
 誰も乗っていないのは淋しいが、奈良交通は停留所案内のアナウンスが、「次は○○です」という通常のもののほか、停留所に近づいた時にもう一度「○○です」と入る。これは、地図を拡げて指で辿りつつ車窓を見ているわたしにとっては、分かりやすくてありがたい。わたしだけのために運転手さんは放送ボタンを押し続ける。他の会社の倍の回数押さねばならず、大変である。
 榛原駅行は、地方路線のパターンどおり、最初の集落山粕(やまかす)に来ると369号を外れて旧道に入るが、三重交通は国道を直進し、ここでも停留所位置がずれてくる。奈良県に入ると沿道の家の軒の張り方が大きくなったようである。寺のように貫祿のある屋根が多いのである。それだけに、バスは軒に車体をぶつけぬよう、用心深くハンドルを左右に切る。同じ道幅でもよりテクニックを要する地域のようであった。
 集落が尽きてやっと新道に戻った所が山粕西口で、このすぐ近くに三重交通の終点山粕西がある。とやかく言いながらも長らくお世話になってきた三重交通のエリアとも、ここでお別れである。その山粕西口でようやく女性が一人乗った。この先は集落らしい集落はないので、バスは安心して新しく開通した長いトンネルを抜け、宇陀市に入る。北へ別れる県道は室生寺(むろうじ)に通じている。
 宇陀市は、旧・榛原町(はいばらちょう)・菟田野町(うたのちょう)・大宇陀町(おおうだちょう)・室生村(むろうむら)の四町村が合併した新しい市なので、まだ市街が融合しているとは言い難いが、一応榛原が市の中心をなしている。榛原に近づいた内牧(うちのまき)や自明(じみょう)あたりで数人の客が乗って、18時57分に榛原駅着。

 ここからはいずれにせよ天理(てんり)方面に向かうことになる。宇陀から天理へまっすぐ行く道路はなく、四辺形のいずれか二辺を通ることになる。北の奈良市都祁(つげ)地区(旧・都祁村)を回るか、西の桜井(さくらい)を回るか、という選択だ。地図上の距離は都祁経由が近いが、よく見ると都祁から天理へは相当曲がりくねった山道を下ることになり、道のりは長そうだ。桜井回りがスムーズに行ける。西回りのルートをとろう。山は散々乗ったので、平坦地を進みたい気もある。

 榛原駅から桜井方面へは直通の系統はなく、それぞれ与喜浦(よきうら)と野依(のより)で乗り継ぐことになる二つのルートがある。前者が直線コースに近いし、長谷寺に近い与喜浦からは桜井市コミュニティバスに接続するので事業者のバリエーションという点からも旅のルールに適う。与喜浦という字面まで好ましく、いいことずくめなのだが、残念ながら、ここ榛原から与喜浦まで行く系統は一日一本午後にしか便がなく、今日の便はもう出た後で、明日の便を待つのは時間のロスが大きすぎる。それで、やむなく野依経由を選ぶことにする。
 大宇陀行のバスに乗れば、十分ほどで野依である。ここが桜井方面への道の分かれる所だが、もう桜井行のバスはないので、今日はこの野依までで旅を終わることとなる。

(つづく)

第六日の経路

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第七日 野依→難波

 大体毎日のように同じ自縄自縛になってきているが、第六日の中断地点である野依へは、やっぱり榛原駅から再び大宇陀行に乗るのが手早い。この先の路線の本数が少ないので、初便で出る必要はなく、ややゆっくりスタートするのもいつもどおりだ。
 前回は夜だったし、次の桜井方面の乗場を確認せずに引き返したのだが、改めて野依に降りてみると、ここは国道166号と370号とが交叉しつつしばらく並行しようとする、複雑な形状の大きな交叉点であり、しかも大宇陀行の停留所は交叉点の東かなり手前になっていた。桜井方面は西方向に向かうことになり、交叉点を跨いで西にけっこう歩いた先にあった。信号待ちを除いてもたっぷり四分は歩かされた。
 どうせ待ち時間も十分にあるし、交叉点付近にはパチンコ屋くらいしかないので、南へ歩いてみると、ほどなくコンビニの前に内原(うちはら)という停留所があった。ここは両系統の合流後だから当然同じ停留所に発着する。最初からここまで乗ればよかった。それにしても、この旅はコンビニと道の駅に待ち時間を救われどおしだ。

 内原発10時57分の桜井駅行が菟田野・大宇陀方面から来た。二人しか乗っていない。野依を左折すると、女寄峠(めよりとうげ)にかかる。高い山ではないし道はいいが、なかなか鬱蒼とはしている。峠を越すと桜井市に入る。
 この山の中腹には、考古学的にも特異な構造の石室を持つ花山塚(はなやまづか)古墳群があるという。さらにまっすぐ下りていくと、忍坂(おっさか)の集落である。ここには、現存最古の三尊石仏を保存する石位寺(いしいでら)がある。この石仏の実物を一目見た者はあまりの美しさに呆然とする、と言われるほどの良い造作で、額田王が願主と伝えられる。
 こうした古の時代の史跡が無造作に次々現れるところは、古都奈良に近づいてきたことを示している。この後もこの感じが当分続くことになる。
 桜井駅の裏手にあたる街並みに入ると、下りる人も出てくる。降車ボタンが押されると、「確認メロディ」のあと、「次、停まります」とアナウンスが入るのだが、これが次停留所の案内や停留所到着案内と重なり合って、聴き取りにくくうるさい。もう少し工夫できないものだろうか。
 桜井駅南口着11時20分。

 天理方面行のバスは北口の近鉄側から出るので、駅のトイレを借りて北側に移る。JRの駅舎の方が新しく頑丈そうだが、人の出入りが多いのは近鉄のほうだ。
 待ち時間があるので、近鉄駅構内の店で早めの昼食を摂ることにする。駅構内の改札脇という立地からくるイメージを裏切るかなり本格的な和食店があり、雰囲気もよかった。あっさり済まそうとだし巻定食を注文したところ、だし巻三切れの他に、鶏の唐揚三ピースと野菜サラダを盛った皿も付いている。どうみてもこっちが主菜に見えるのだが、よほどだし巻が売り物になっているのだろうか。確かに味も舌触りも一級に属する、ぬくぬくのだし巻ではあった。

 お腹はすこぶる満足し、12時00分発の天理駅行に乗る。
 駅で乗った客は少ないが、桜井市の中心部を通るとほぼ満席になる。桜井と天理の間は、JRの本数が少なく近鉄は二回の乗換を要するうえ、桜井駅が市街の中心からやや離れているので、この系統も利用価値があるようだ。この車輌は新しいタイプだからか、降車ボタンの確認アナウンスは、次停留所案内が終わるのを待ってから流れるようになっていて、聴きやすい。ちゃんと改善がなされつつある過渡期だったのだ。
 国道169号を北へ向かうと、三輪明神(みわみょうじん)参道口を通る。もちろん神社まで行く別系統もあるが、大きな鳥居が参詣客を迎えて門前町のムードを盛り立てている。末社も周囲に数多い。そして三輪だけに沿道には素麺の工場や店が異常に多くなる。大和川(やまとがわ)上流がなした肥沃な平野は、この付近を麦の産地たらしめたようである。箸中(はしなか)停留所の右手にある箸墓(はしはか)古墳は、卑弥呼の墓とも言われる巨大な遺跡だが、その向かい側にも大きな素麺工場がある。
 JRを乗り越えて東側に出ると、相撲神社(すもうじんじゃ)口という停留所がある。一キロほど東に入ると、相撲の始祖野見宿禰が当麻蹴速と天覧相撲をとった場所という相撲神社がある。
 このあたりから天理市に入り、右に景行天皇陵を見る。市街に入っていくと、「帰参者用」と記された宿泊所が点在している。天理教の本部を訪れる信者が泊まるのだろう。街行く人の何割ほどが信者なのだろう、と思う。
 12時29分に天理駅に着いた。桜井駅でタッチさせたはずのICOCAがここでは反応せず、運転手さんが手入力で運賃を引き落とす。

 ここでも少々待ち時間があるため、喫茶店でもと探すが、駅舎の中にそれらしい店がない。JRの駅に近鉄がT字状に突っ込んで終着しており、天理教関係の団体列車が発着するために、大規模な駅なのだが、駅内の店はあまり景気がよくないようであった。駅の裏手側に身を隠すように小さな喫茶店があるのを見つけた。

 奈良市に向かってさらに北上する系統に乗ることになるが、奈良・天理間の系統は、44・47・50・82・92・93・192と七系統もある。どれに乗ればいいのかと思うが、よくよく系統図を見ると、これらの違いは、奈良駅止りであるか、その少し先の市庁方面まで行くか、また途中で憩(いこい)の家(いえ)病院、及びその外来棟、そして奈良東(ならひがし)病院に寄り道するかしないかの組み合わせによるらしく、途中経路のほとんどは同じである。普通なら一つの系統の枝系統としてもよさそうな程度の違いではないかと思うし、なのにこの飛び飛びの系統番号はどういうものであろうか。会社ごとに流儀もあろうが、なかなか余所者には分かりにくい。要するにどれでも早く来たのに乗ればいいとやっと理解し、13時02分の92系統に乗る。
 駅前通りを東に向かってから左折すると、右側に神社の社殿を多数繋ぎ合わせて組み立てたような巨大な建造物がある。一目で宗教絡みと分かる建物だが、これが憩の家病院であった。ここで乗降する人も多く、信頼は厚いようだ。その北側にも同じ外観の建物が隣接しているので、これも病棟かと思ったら、天理教校学園の校舎だった。その向かいの道西側にある外来棟に乗り入れ、ここでも乗降がある。外来棟はごく普通の近代的なデザインのビルである。
 シャープの開発センターが山の手にある櫟本(いちのもと)を過ぎ、奈良市に入った。国道169号が建て込む市街に入ってきつい逆S字カーブを描くと、住宅街、文教地区、そして左に奈良ホテル、右に広大な奈良公園、車窓は目まぐるしく移り変わる。13時36分の県庁前で下車。

 興福寺の境内を散歩したり、久しぶりに煎餅を買って鹿と戯れたりしていると、すぐに待ち時間が過ぎた。昔の鹿は煎餅を貰ったら二度お辞儀をしたものだが、この頃の若い鹿は妙に世馴れて礼儀を知らないようだ。

 県庁前発13時57分の学研北生駒駅(がっけんきたいこま)行が高畑町(たかばたけちょう)から来た。260系統という大きな系統番号は、比較的新しい路線ということなのだろうか。都市部にしてはなかなか長距離の系統ではある。来たのは大型の三扉車であった。広い中扉から乗るのだろうと思って踏み出すと、中扉には「260系統の入口は後ろです→」という貼紙がある。しかたなく後ろに移動する間に後から来た親爺に先に乗られる。
 次の近鉄奈良駅でたくさんの乗車がある。近鉄奈良駅はいうまでもなく県随一のバスターミナルでもあるが、県庁前で乗換えたのは、乗場を探す手間が要らないからである。
 発車しかけたバスの中扉をどんどん叩くお婆さんがいる。
「後ろからお乗りください」
と放送したが、なぜか前扉の方へ来る。運転手さんは前扉を開けて、
「後ろから乗って」
と叫んだが、お婆さんは委細構わず開いた前扉のステップを上がって、
「市役所に行くの?」
と大声で訊く。運転手さんが肯くと、お婆さんはそのまま前扉から乗ってしまった。それを見て乗客たちはどっと笑う。何で笑うところなのか、わたしには分からない。
 近鉄奈良線の南側の道を西進、新大宮(しんおおみや)駅を過ぎた、都心よりかなり西寄りに市役所があり、その西に大手スーパーがある。平城宮跡の入口を北に見て、いつか阪奈道路と呼ばれるフリーウェイになっている。大きなゴルフ場の中のインターチェンジでそこから北へ折れ、何故にか「やすらぎの道」と呼ばれる街路を北上する。右手奥の住宅街には東洋にこだわった美術館である大和文華館があるという。左手に帝塚山(てづかやま)学園のキャンパスが広がり、学園前駅北口広場に入って暫し時間待ちする。思ったほど客は入れ替わらない。
 大団地の道を行き、神武天皇像などもある大渕池(おおぶちいけ)公園の中を通る。ここは神武天皇金鵄神話の地なのだそうだ。それに因み、御岳信仰の本拠地である大和本宮がここに設けられている。
 登美ヶ丘(とみがおか)地区に入ったバスは、ほとんどの客を降ろした後、主要道から住宅街に折れ、公民館近くのロータリーで転回する。ここに西登美ヶ丘(にしとみがおか)五丁目停留所があり、おじさんがバスを待っているが、既に同じ学研北生駒駅行のバスが先に停まろうとしているので、このバスは乗客なしとして先行車を追い越しロータリーを出ようとした。
 すると、おじさんが追いすがってきてドアを叩く。乗り込んできた威勢のいいおじさんは運転手さんに物凄い剣幕で食ってかかりはじめた。
「こらお前は何で行ってまうんじゃ! 待っとるもんおるやないか」
「前のバスにお乗りになると思いまして」
「勝手に決めんな! しっかり仕事せんかお前は」
「すいませんでした。気ぃつきませんで」
「ほんま高畑行一時間に一本しかないのに、置いてかれたらたまらんわ」
「高畑? 行きませんよ。逆です」
「へ? ほんまかいな」
「これ、北生駒行ですわ」
「そら間違いましたわ。降ろしてもらえますか」
「ええ、そこの交叉点とこで降りてください。今度からよう見て乗ってくださいねえ」
「えらいすんません。お願いします」
 これほど鮮やかに立場が逆転する口論も珍しい。バスが元の主要道に出たところでおじさんを降ろした。が、おじさんはバス停に向かう様子もなくうろうろしている。何なのであろうか。
 バスは生駒市に入って真弓(まゆみ)地区を行く。左手に森が見える真弓山長弓寺(ちょうきゅうじ)が由来の地名らしい。本堂が国宝に指定されている、八世紀建立の古い寺である。
 ほどなくけいはんな線の学研北生駒駅に着いた。14時47分着。

 駅近くのとても活気があってムードのよい喫茶店で待ち時間を過ごす。駅の側には元から奈良交通の北大和(きたやまと)営業所があり、そのためにこの駅中心の路線を運用しやすそうだ。

 学研北生駒駅発15時32分発の189系統生駒駅行に乗る。実はこの系統の本数が極端に少ないため、今日のスケジュールはこの便に合わせて組んだのだ。前の便から九時間も開いているが、乗るのはわたし一人だ。この系統は一転して前扉を開けた。行先を訊かれ、運賃を手入力で引き落とされる。降りるときにはタッチしなくていいらしい。
 暫く住宅街を走った後、磐船(いわふね)街道と呼ばれる狭く古い街道に折れる。バイパスができているので交通量は多くないが、大きなバスは難渋している。生駒台(いこまだい)の住宅街の北側の道に入ると、乗る客が出はじめる。わたしは生駒駅の二キロほど手前の俵口阪奈中央病院(たわらぐちはんなちゅうおうびょういん)で中扉から降り、反対側の停留所に渡る。

 すぐに生駒駅からの田原台(たわらだい)一丁目行が来る。この系統はやはり前扉から乗るが、乗るときにステップ脇のリーダーにICOCAをタッチさせるよう、言われる。降りる時はやはり前扉の料金箱に付いているリーダーにタッチさせるのだそうだ。同じバス会社で地域も近いのに、なぜかくも乗降方式がばらばらなのか、不思議だ。
 喜里(きり)が丘(おか)一丁目停留所のそばには学習塾があり、そこから帰る女子中学生二人連れが、駆け込んで来る。一人めがカードをタッチさせたのにつられてか、二人めは現金を料金箱に入れてしまう。運転手さんは、
「このバス後払いやからね、降りる時これ入れて」
と黄色い紙片をその子に渡した。女の子は、よく分からへんけど、という表情で受け取る。支払い済み証明書のようなものであろうか。とにもかくにも、乗降方式が複雑だからこういう手間がかかるのではないかと思うし、さっきの189系統でもわたしはその黄色い紙を受け取るべきではなかったのか。そんなものはもらわなかったが。わたしもよく分からん。バスは坂を登って田原台団地に入る。
 田原台は四條畷(しじょうなわて)市東端の住宅街だ。従ってこの系統は奈良交通ながら大阪府に越境することになる。そして、四條畷市のコミュニティバスと路線が接しているのでこの旅のルートに活用したわけだ。
 バスは、田原台の南部をぐるっと回った後、その西端まで行って田原台九丁目西のロータリーで転回する。コミュニティバスのポールも立っているが、こちらは緑風台(りょくふうだい)という全然違う名前であり、ここでも余所者を惑わせる困った齟齬がみられる。他にも、同じ名前の停留所が両者で別の位置にあったりもする。
 バスは田原台の中心部に戻る。あの女の子と一緒に田原台センターで降りた。センターと言いながら、小さなスーパーがあるだけで、あたりを歩いてみても何もない。トイレもないので、我慢する。
 ただ、このバス道の片側の歩道は、二車線の車道よりも広くとられていて、その真ん中には農業用水を利用したらしい水路まで設けられている。緩い坂なので渓流を模したせせらぎも演出され、涼しげだ。無味乾燥になりがちの新興住宅にささやかながら潤いを与えるいい思いつきである。

 田原台センターから乗った四條畷市コミュニティバスは、京阪バスが受託していたが、京阪バスの塗装そのままであるばかりか、スルッとKANSAIカードまでちゃんと使えた。これはコミュニティバスとしては珍しいことである。
 バスは田原台の各停留所でけっこう客を乗せていくと、山道にかかった。清滝街道の旧道を右転左転していく。逢坂(おうさか)で高校生がどっと乗り込み、小さいバスは満員になる。この近くには私立の中高があり、府民の森むろいけ園地の入口でもある。
 わたしは彼らを掻き分け、次の清滝(きよたき)で降りた。

 このままコミュニティバスに乗っていても、この先の塚脇(つかわき)へは行くのだが、できるだけ多くの事業者のバスに乗る、というルールを満たすため、敢えて降りたのである。ここからは四条畷(しじょうなわて)駅と清滝団地や大阪電通大とを結ぶ近鉄バスの路線が並行している。海津で名阪近鉄バスを泣いて無視してしまったので、せめてここの近鉄バスは乗っておきたい。

 しかし乗ってみればもちろんありふれたバスであって、何ということもなく、近鉄バスは小さな神社の入口にある塚脇に16時57分に着いた。四条畷駅の北方にある停留所だ。
 さきほどから厳密に書き分けていることにお気づきの読者もおられるかもしれない。市名は「四條畷」、駅名は「四条畷」なのである。しかも、四条畷駅は四條畷市内でなく、隣の大東市にある、という複雑なことになっている。

 さて、実はこの時間は全く絶妙のタイミングなのである。四条畷駅から西方に向かう京阪バスは、京阪大和田(おおわだ)駅行が頻繁に運転されているのだが、なぜかこの系統のうち一日たった三本、しかも平日ダイヤに限って、さらに西の京阪守口市(もりぐちし)駅まで足を伸ばしてくれるのである。大和田から守口市まではまるきり鉄道線と並行することになるので、なんでこんな便があるのか分からないが、とにかくわたしにとっては恰好の便である。その便の一本が間もなくやってくるはずである。あの奈良交通189系統からこの京阪守口市駅行にと、稀少な便同士がうまく繋がる乗継になることが分かった時、わたしは痛快さに北叟笑んだ。それで今日の旅程がわざわざ平日になるようにしくんだのである。

 それなのに、時間になって塚脇に近づいてきた京阪バスの行先は「大和田駅」と表示されているではないか。大和田行の後に守口市行が続行しているのだろうか。しかし停留所の時刻表を確認しても、その様子はない。始発の四条畷駅を出たばかりだから、一本前の大和田行が遅れている、ということもあり得ない。
 もしかしたら、一日三本だけなので、行先を「守口市」と表示すると大和田方面への系統であることが分かりにくくなる、という配慮から敢えて大和田と表示しているのかもしれない。あるいは時刻表には守口市行と書いてあるが、正式には大和田で系統が分かれていて連続乗車も認めているということかもしれない…、いろいろ考えてわたしはその大和田行に乗り込むことにした。時刻表や彩図での発表と実際の運用とがずれていることが、路線バスについては珍しくないのはこれまでに見てきたとおりである。
 バスはそこそこの客を乗せ、広い169号を西に進み、巣本(すもと)から町中の狭い道に分け入り、やはり狭い駅前広場しかない下町の駅、京阪大和田駅に着いた。

 しかし、運転手さんに訊ねても、ここが終点で先には行かないし接続もない、と言う。しかたなく下車して、三つほど並んだブースの右端のものに「守口市駅行」の時刻表を見つけ、見てみたが、まさにこの時刻に便がある。おかしいな、と首を傾げかけて、時刻表の横に貼ってある小さな紙片に凍りついた。
 お盆期間につき今日まで土曜ダイヤで運転する、と記されていたのである。何たることだ。油断であった。鉄道やバスがお盆に特別ダイヤとなるのは珍しいことではないが、それも大体15日の終戦記念日までで、16日以降は平常に戻る。現にここまで乗ってきた奈良交通も近鉄バスも平日ダイヤであった。京阪バス沿線はお盆休みが長いのであろうか。
 あいにく、大和田始発の守口市方面、という系統もないので、別の経路を考えねばならない。幸い、京都方面への逆戻りになるが、寝屋川市(ねやがわし)駅行の系統がある。寝屋川から守口市方面行に乗継ぐしかない。それなら四條畷から直接寝屋川に向かう系統もあるので、初めからそれに乗った方がよかったのだが、しかたない。

 また下町をごそごそと走る生活感ある寝屋川市駅行で北上し、途中の寝屋川車庫で下車する。ここが守口方面行の分岐点だ。寝屋川からの守口方面の系統は経由地が少しずつ異なる四本があるが、奈良交通の場合と違い、1~4系統と続き番号になっていて分かりやすい。ほどなくやってきた1系統に乗り込む。
 途中各系統が連絡したり折返したりする仁和寺(にわじ)の小規模な回転地で少し時間待ちした後、町中に入り、鳥飼大橋(とりがいおおはし)の南の大日(だいにち)で大阪モノレールをくぐった。モノレールの大日駅とは離れているが、おそらくこの停留所が先にあったのだろう。久しぶりの国道1号を横切り、京阪守口市駅の大きなターミナルに着いて、無様な寄り道が終わった。

 これから乗るJR吹田(すいた)行の9A系統が既にブースに着いている。わたしは走って乗り換えた。都市部に来ると運転本数が多いので、待ち時間を楽しむ余裕がないのが残念である。旅程はスムーズに進んでよいのだが。
 9A系統は国道1号を少し西へ行った後、内環状線に右折し、豊里大橋(とよさとおおはし)を渡る。地図上で直線コースを描いてみると、ここで淀川を渡るのが最適、となって、この9A系統に乗ることを選んだのだ。この道は大阪市バスも運行されていて、例によって停留所位置は同じだったりずれていたりいろいろである。豊里小学校前は、地下鉄今里筋線の派手なオレンジに塗られた駅入口の目の前にあるのに、なぜか市バスも含めて「地下鉄だいどう豊里」という名前にはなっていない。ここで乗継ぐ客は少ないのだろうか。
 わたしは賑やかな交叉点にある瑞光(ずいこう)二丁目で降りた。ここで市バスに乗継ぐのだが、残念ながらここがまた京阪バスと市バスの停留所位置が随分離れていた。次まで乗ればよかったと思いつつ、市バスの乗場を探す。

 ここは阪急京都線上新庄(かみしんじょう)駅に近く、市バスの系統も上新庄駅行の他、大阪駅前行などがある便利な所だが、わたしは天の邪鬼に93系統歌島橋(うたじまばし)バスターミナル行に乗った。淀川の右岸沿いに走り、堤防のすぐ脇を行く区間もある。
 大阪駅前行は長柄橋(ながらばし)で左折して淀川を渡るが、93系統は依然まっすぐ西へ向かう。左手には新梅田(しんうめだ)の高層ビル群、右手には新大阪駅付近のホテル群のきらびやかな照明が夕空に浮かび、その間を伊丹(いたみ)に下りようとする飛行機が低空飛行していく。
 淀川区役所前で目の前に阪急の線路がある。それをくぐるガードもあるが、これは東行一方通行のようで、この歌島橋行は細い脇道に左折し、淀川の堤防に接した狭いガードで注意深く阪急の西側に出ると、今度は右折して路地に入る。市営バスには珍しく、いかがわしい店のネオンなど煌めく妖しい路地だ。そこを抜けて大通りに戻ったところが十三(じゅうそう)の停留所であった。ここで降りる。

 十三もまた、駅を中心に各事業者・系統の乗場が相当に分散している。三百メートル以上も歩いて阪急バスの乗場に行き着く。
 ここからは梅田から来る加島(かしま)駅方面行のバスが頻繁に運転されているが、そのうち一時間に二本ほどが尼崎市の西川(にしかわ)・塚口(つかぐち)方面まで直通する。わたしもその西川行に乗って途中の神崎橋(かんざきばし)で降り、同名の停留所から尼崎(あまがさき)市バスに乗継ぐつもりである。
 大型のノンステップバスはちょうど席が埋まった状態で、いい乗り具合だ。このバスだけでなく、擦れ違う梅田方面行も、夜なのにけっこう乗っている。この路線は市バスも運行していて、これはかつての無軌条電車(トロリーバス)の代替系統なのだが、とにかく両方合わせると、三~六分の短い間隔でバスが来ることになる。つくづく乗り物はフリークエンシーが重要なのだと思う。
 阪急バスの神崎橋は橋を渡った先にあるのか、手前にあるのか。神崎川(かんざきがわ)の向こうが尼崎市なので、先にあって欲しかったが、期待に反して手前で降ろされ、バスは次の西川終点へと去って行った。

 詮なく真っ黒な川面を眺めながら、歩いて神崎橋を渡る。これで最後の府県境を越えていよいよ兵庫県に入った。左側にはJR神戸線、右側には新幹線の貫祿ある橋梁が見え、時折電車が通りすぎていく。
 渡り終えると、歩行者は堤から地平に下りなければならない構造になっている。尼崎市バスの神崎橋停留所を探さねばならないのだが、見晴らしがきかない。うろついていると、車道に上がる階段があった。階段上にプラットホームのようなものがあり、バス停のポールのような物も見える気がする。これが目指す停留所に違いない。わたしはほっとして階段を上がった。
 ところが、上がってみると確かに尼崎市バスのポールが立っているものの、停留所名は西川であった。しかも、並んで阪急バスのポールも立っている。だったら、さっきの阪急バスにここ西川まで乗ればよかったのだ。またしてやられたが、では尼崎市バスの神崎橋はどこなのであるか。もう夜なので探索しようとは思わないが。
 ベンチに掛けて待っていると、おじさんが階段を上がってきた。当然バスを待つのかと思ったら、わたしを胡散臭そうに見下ろすと、そのまま通りすぎ、反対側の階段から地平に下りて行った。何しに来たのだろう。

 阪神尼崎行の尼崎市バスは、市の中心部に向かうのに、意外にも多くの客を乗せている。戸ノ内(とのうち)始発だが、途中で阪急園田(そのだ)を経由してきているから、そこからの帰宅客だろう。彼らは途中の停留所で降り、すっかり空いてJR尼崎駅に寄る。ここでまた若干の帰宅客を乗せ、南へ向かう。国道2号に行き当たる直前の総合文化センターで降りる。

 ここからは国道2号を運行する阪神電鉄のバスで西を目指す。こちらの停留所名は尼崎文化センターである。時刻表を見ると、バスは出たばかりで、二十分近く待たねばならないように見えたが、国道2号はけっこう渋滞する。で、もしやと思っていると、期待どおり遅れていた阪神甲子園(こうしえん)行が近づいてくるのが見えた。野田(のだ)阪神前から来た系統なので、大阪市内が込んでいたのだろう。この系統は「大阪ローカル線」という変な名前が付いている。大阪市へ足を伸ばす路線は、阪神系バスからみればローカルなのであろうか。確かに阪神系バスの主要なエリアは西宮(にしのみや)市内と尼崎から宝塚(たからづか)にかけての地域である。路線図など見ると、一般向けには、分かりやすく野田甲子園線と案内しているようだが。

 この大阪ローカル線で国道2号を西進し、ほんの七分ほどで難波(なにわ)に着き、下車する。ここから、国道2号を南へ外れる系統に乗りたいのだが、これがまた日に数本しかない閑散路線である。今日の便はもちろんもうないので、ここで中断となる。
 難波の停留所前には塾帰りらしい中高生が異様に多く坐っていて、皆たこ焼きやイカ焼きのようなものを食べている。威勢よく繁盛している粉物の店があった。 

つづく

第七日の経路

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第八日 難波→歌敷山

 第七日に降りた難波の停留所で、あまりに皆が美味しそうに食べていたのを思い出し、気になってわたしもたこ焼きを注文してみた。ソースまたはしょうゆ味をベースに、マヨネーズ・青海苔・鰹節の有無などトッピングにかなりわがままが言え、その分注文は面倒だ。あつあつをへぎに入れて包んでくれるが、猫舌のわたしはとても食べられないので、バッグにしまいこむ。

 難波難波と書いていると、大阪ミナミの難波(なんば)のようだが、そんな所は通らないのであって、ここはあくまで兵庫県尼崎市の難波(なにわ)バス停である。ここからだと、阪神電鉄のバス尼崎神戸線に乗れば、国道2号を直行して一気に神戸市まで入れるのであるが、このあたりは大阪湾の海岸線が北にせりあがるのに連れ、国道2号も北に弧を描き、やや遠回りになる。それに、わたしは尼崎神戸線に何度も乗ったことがある。
 そこで、乗ったことがなく、直線コースに近い海岸回りをゆく、阪神バス西宮尼崎線という系統に乗ることにした。ここでも表記を厳密にしているが、尼崎神戸線は阪神電鉄の直営、西宮尼崎線は子会社の阪神バスの路線である。バスの色も運賃などの扱いも一体であるのは金沢地区などと同じであるが、とにかく事業者のバリエーションも増えることになる。
 ところがこの西宮尼崎線というのが、一日僅か三往復しかない淋しいダイヤで、難波発11時23分が初便であるため、これに照準を合わせて難波にやってきたわけだ。 

 難波の西行き乗場に来る系統は多数あり、ほとんどが国道2号を西進するものだが、この先を左折して海岸方面に向かう系統が二つだけある。よりによってその二つの系統のバスが続けて来た。まず尼崎スポーツの森(もり)行を、待っていた客全員が見送る。その次に、例の西宮尼崎線の海岸回り阪神西宮行が空っぽで来る。「出屋敷(でやしき)・浜甲子園(はまこうしえん)回り」という丸形の表示板を前面に付けて誤乗を防いではいる。これにわたしと、もう一人意外にも、おばさんが乗り込んだ。
 バスが南に折れると、おばさんが急にそわそわしはじめる。が、おばさん特有のパターンと異なり、運転手さんやわたしに何か訊くでもなく一人で考えている。乗り間違ったんですか、などとこちらから失礼なことを訊くわけにはいかない。次は出屋敷、というアナウンスがかかると、おばさんは即座に降車ボタンを押し、機敏にバスを降りると、あたりの様子をうかがっている。市バスに乗り換えるか、阪神電車で尼崎に一駅戻って出なおすか、と考えているのだろう。珍しくなかなか自立心のあるおばさんだ。
 わたし一人になったバスは、さらに南に向かう。前を行く尼崎スポーツの森行は途中の高洲(たかす)までずっとこのバスの前を走っている。どちらも本数は僅少なのに、こんなに接近した時刻を設定しなくてもよさそうなものである。
 さて、この系統が行くのは、元は阪神電鉄が出屋敷から海岸沿いを大きく回って西宮市の今津(いまづ)までを結ぶ鉄道線を開通させようと画策していた区間でもある。阪急と阪神とが路線拡充競争で鎬を削っていた時期に、自社防衛のために計画されたが、戦争を挟んで状況も変わり、全線建設は断念された。しかし戦前のうちに、一部区間は開業にこぎ着けている。出屋敷~高洲間も、尼崎海岸(あまがさきかいがん)線という呼び名で鉄道線が運行されていた所だ。出屋敷から路面電車タイプの小さな電車が高洲を経て東浜(ひがしはま)までを往復し、港湾工場地帯への足となっていたのだが、昭和三十七年までに全線廃止となった。
 高洲から西に曲がると道意(どい)あたり、今も工場地区である。この地域は、主に市バスのエリアらしく、そのポールが随所に見えるが、一日三往復の阪神バスを待つ人は誰もいない。先述のような経緯からくる意地もあって、阪神はこの系統を運行しているのかもしれないが、利用状況はこのとおりで、建設しなくて正解とも言えるが、とにかくそういう鉄道の廃線跡や計画線沿いを走る、という意味でも、この系統は趣味的に面白い。
 結局、市境の武庫川(むこがわ)を渡るまで、誤乗でない客はわたし一人だった。わたしも広義において誤乗といえるかもしれない。西宮市最初の停留所東鳴尾(ひがしなるお)でやっと老夫婦が本来の客として乗込んでくる。阪神武庫川線東鳴尾駅の側だが、甲子園や西宮に行こうとすると、このバスが乗換なしで便利なのだろう。その次の鳴尾消防署前からは、武庫川団地から来る系統群に合流し埋没するので、ごく普通に西宮市中心街に向かう客が乗ってくるようになる。ほとんど存在意義のない便である。
 ららぽーと甲子園南でかなりの乗降がある。ららぽーとは、かつてここにあった阪神パークという遊園地の跡地にできた巨大なショッピングセンターである。阪神パークにはわたしも小学生の時遠足で来たことがあり、人間の好奇心によってのみ生を享けさせられたヒョウとライオンの間の子「レオポン」が力ない眼であたりを見つめていた姿が印象に残っている。新しいテーマパークに圧され、関西の私鉄経営の伝統ある遊園地は次々閉園している。阪神パークの場合は、阪神淡路大震災の被害を受けたことも大きかった。
 ほどなくバスは阪神甲子園のバスターミナルに入る。ここで折返すかたちになるので、まず北行ブースで降車客を扱い、道路を横断し南行ブースに移って客を乗せる。連続乗車するのは、ららぽーと甲子園南で乗ったおばさんとわたしの二人だけだ。
 ここから南方の浜甲子園に向かう。この道は、かつて路面電車の阪神電鉄甲子園線が走っていた道であるが、それにしては狭い気がする。歩道をお揃いの法被などを身につけた団体が埋めつくしながら球場に向かってもぞもぞ進んでいる。誘導するバスガイドさんが掲げた旗には「63号車」などとあり、相当な大応援団だ。沿道には高校野球やタイガースのグッズ、それに弁当やスナック・飲物を売る店が軒や屋台を連ねて縁日のようになっている。停留所二つ分そんな光景が続き、浜甲子園に着く。
 突き当たりが広大なバス駐車場となっていて、高校野球の応援に来た各校の借上バスが待機する。停留所脇には、バス停にしては立派な待合所や切符売場跡と思しき窓口などがあり、甲子園線浜甲子園電停の跡だと分かる。戦後、廃止されるまでの間、ここが甲子園線の終点だったのである。球場との間に甲子園線電車を復活してシャトル運転すると、喜ばれるかもしれない。
 バスはここから西へ曲がり、浜甲子園の住宅街を進んだ後、再び北に折れた所が南甲子園小学校前、ここでも結構乗降がある。戦前の甲子園線電車はこの付近の中津浜(なかつのはま)まで運行されていた。浜甲子園~中津浜もやはり、先述の海岸回りの線の一環として開通した区間であった。久寿川(くすがわ)駅の南方にあたる巽町(たつみちょう)・西谷町(にしたにちょう)あたりは大規模な電器店やスーパーが建って一大商業地帯になっている。昔は中小の工場が建ち並んでいた地区と察せられる。
 さらに北上すると今津駅である。ここには阪神の駅に突き当たるように阪急今津線が終着しており、連絡通路で結ばれた一体の高架駅になっている。この阪急今津線がこれより浜側に延びるのを阻止するための海岸回り線計画だったわけである。因縁の区間を辿り終えたわけだが、そのせいかどうか、阪急と阪神が経営統合した現在にあっても、停留所名は「阪神今津駅前」とわざわざ阪神だけを冠している。
 阪急今津線の高架に背を向けて西進し、南側からまっすぐJR西宮駅前の広場へ12時05分に乗り入れた。わたしはここで降りた。

 広場のベンチに坐り、バッグからたこ焼きを出して昼食代わりにする。ふわふわと舌でとろける生地が美味しいが、買って一時間近く経つのにまだ舌が辛い熱さだ。具に蒟蒻が入っているのがよい。兵庫県のたこ焼きたる物、こうでないといけない。

 JR西宮駅前からは、ようやく阪神電鉄の尼崎神戸線に乗ることになる。
 国道2号の野田(のだ)~東神戸(ひがしこうべ)(現・敏馬(みぬめ)バス停付近)間にも、かつて阪神の路面電車である国道線、通称国道電車が運行され、本線を補完していた。しかし、これも一種の企業防衛のために開通させたようなものであり、本線との二重投資であることは否めなかった。大阪側も神戸側も、市電に接続はしていたものの、都心の梅田や三宮には直通運転していなかったため、都心直結の自社バスに客を奪われる有様で、位置づけが曖昧ではあった。末期の国道電車は、昼間四十八分間隔というやる気のない状態で、ついに昭和五十年までに全線が廃止されたのであった。
 その国道線の機能を承継併呑したバス系統がこの尼崎神戸線である。梅田や野田ではなく尼崎が始発地となったのは、大阪市内の渋滞があまりに酷くて定時運行が困難なために、大阪ローカル線(野田~甲子園)と系統を分割したからである。
 その大阪ローカル線の阪神杭瀬(くいせ)駅北以東の大阪市内区間は、渋滞の上に、大阪市バスや、近年はJR東西線とも競合するため、今も乗客減の一途を辿っている。平成十九年八月のダイヤ改正ではついに大減便が断行され、昼間約二時間毎という、国道電車時代以上の、そして都市部の幹線道路のバスとしてはかなりの閑散路線に落ちぶれている。
 尼崎神戸線はそこまでの惨状ではないけれども、なお長距離路線なので、ダイヤの乱れは日常のことで、時刻表はあてにならない。十二分間隔とそこそこの本数はあるので、とにかく乗場で待ってみて、来たら乗るほかない。

 税関前(ぜいかんまえ)行が来たので乗り込み、国道2号を西へ進む。税関というのは神戸税関のことである。成熟した市街地を行くので、客の乗りはよく、常にほぼ満席でありつつ、乗降も盛んである。夙川(しゅくがわ)・芦屋川(あしやがわ)と長い坂を登っては天井川を渡り、また下りる。ダイヤを調整するためか、各車の運転手さんが車庫の操車係と無線連絡を頻りに取り合って、現在位置や乗車率などの情報交換をしているのが聞こえる。
 芦屋市を走り抜け、津知(つじ)を過ぎると、市街は連続しているものの、神戸市東灘(ひがしなだ)区に入る。阪神淡路大震災でも被害の大きかった地域で、復興住宅らしい新しいマンションが沿道に多い。東灘区役所前で六甲ライナーをくぐる手前左側は、名門の灘中・高の校門である。そこから数人の男の子が連れ立って出てくる。が、私服だし中学生にしては幼い感じだ。オープンスクールでもやっているのだろうか。
 このあたりからは神戸市バスもこの国道2号を運行するようになるが、ご多聞に漏れず、ここでも停留所の位置や名称にずれがある。「住吉(すみよし)駅前」は両者揃って停留所があるが、その次の「住吉宮西(すみよしみやにし)」は阪神だけが停まる。その次は市バスだけの「中御影(なかみかげ)」、そして阪神だけの「阪神御影駅北」、という調子である。その先の「上石屋(うえいしや)」は市バスの方は「御影公会堂前」という名だが同じ場所だ。この御影公会堂の食堂は、公共施設の供食コーナーという枠を超え、一流の洋食店として評判高い珍しい存在である。石屋川を渡り、やっと両者の場所と名前とが一致した「徳井(とくい)」で下車した。

 このあたりからの海岸は、今度は南へ張り出していくので、内陸部の山手を行く方が短絡になる。そこでこの徳井で山手(やまて)幹線を経由する市バス90系統に乗換えて都心部の加納町(かのうちょう)三丁目まで進もうと思ったのである。しかし、90系統は一時間に一本程度しかなく、かなり待ち時間がある。止むなく途中で乗換えて行くことにし、続けてやってきた36系統鶴甲団地(つるかぶとだんち)行に乗り込む。

 36系統は阪神御影始発で、JR六甲道(ろっこうみち)駅を経て六甲山麓の住宅街、そして神戸大学のキャンパスへ登る足である。坂の街神戸では、南北方向のバス路線は市民の強い味方だ。しかしわたしは山にかかる手前、山手幹線と交わる六甲口(ろっこうぐち)で降りた。

 ほどなく92系統三宮神社(さんのみやじんじゃ)行が来る。この山手幹線のバス道もまた、神戸市電が走っていた道路で、古くからの市街地を行くのでお年寄りの乗車が多い。途中、水道管を敷設した上を商店街にしたという水道筋(すいどうすじ)を右に見ながら走る。灘区の中心繁華街で、乗降も多い。
 王子公園(おうじこうえん)駅の南で阪急神戸線をくぐると、右手に王子動物園がある。SLが保存されているのも望める。動物園の西側には煉瓦造りの情趣ある建物がある。これは元は関西学院のチャペルとして造られた物だが、その後いろいろ転用され、現在は神戸文学館となって、神戸に縁のある作家に関する資料が展示されている。西宮の上(うえ)が原(はら)などにキャンパスを構えている関西学院は、昭和初期まではここにあったのである。「関西学院発祥地」という石碑が建っているのも見える。
 新神戸駅に近い布引(ぬのびき)を過ぎると道が込みはじめ、三宮駅北方の加納町三丁目に着く。

 ここから西の山手幹線は、市営地下鉄山手(やまて)線も通っているということで、一旦市バスの路線が廃止された。しかし、沿線の要望に応えてバス路線が復活した。ただし、市の直営ではなく、神戸交通振興という第三セクターの運行である。市街中心部の観光地を巡る「シティーループ」というバスを運行している会社でもある。塗色は違うが、車輌は市バスのお下がりだし、運転手さんも市バスの退職者が多い。
 新神戸駅から来た14時12分の山手(やまて)線湊川公園(みなとがわこうえん)方面行は、数人の客だけを乗せている。山手線には三宮始発便もあり、そちらはもう少し込み合うようだ。県民会館前を過ぎたところで左手に古風な煉瓦造りの、しかし真新しい建物が見える。阪神淡路大震災で崩壊し、再建された神戸栄光教会である。県庁にも面した街の真ん中にこういう物があるのはまさに神戸の絵だ。下山手(しもやまて)七丁目では最も乗降が多い。ここは地下鉄の県庁前からも大倉山(おおくらやま)からも中途半端に遠いからであろう。
 コンサートホール・体育館・図書館などが集まる文化ゾーンである大倉山を過ぎ、楠町(くすのきちょう)六丁目から有馬(ありま)街道を南下する。楠町とは、右側にある湊川神社が、湊川の戦いに敗れた楠正成を祀っていることに因む町名である。すぐに西へ折れて新開地(しんかいち)に14時27分に着く。ここで乗り換えだ。

 神戸市の市街地から西郊に向かうバス路線はいくつかあるが、ルールに照らして14時57分発白川台(しらかわだい)行の神姫(しんき)バスに乗る。中距離用の二扉リクライニングシート車が来た。以前は各社で比較的長距離の路線にこのタイプのバスが投入されていたが、最近は減ってきて、この旅でも初めてだ。
 市バスとのかねあいからか、市街地内では急行運転をおこない、湊川公園西口・夢野町(ゆめのちょう)二丁目と停まると、次はもう須磨(すま)区北部の白川台団地までノンストップだ。西神戸有料道路を通ってニュータウンに入っていく。降車ボタンが押されると、
「はい、白川台三丁目、お停めいたします」
と運転手さんがマイクで応答する。喚呼は間違いを防ぐのにいい。お停めいたします、という言い回しは、馬鹿丁寧でちょっと違和感があったが、考えてみれば「次、停まります」という一般的な表現よりは正確かもしれない。
 バスは15時12分、白川台の回転地で終着となった。

 この回転地から市バス70系統名谷(みょうだに)駅前行が発車する。もともとただの回転地だったが、本来の乗場から回転地で待機しているバスが見えているのに乗せてくれない、という利用者の不満に応えるかたちで、回転地で乗車できるようになった。従来からの乗場でも乗れるが、大抵の人は回転地で乗り、坐って発車を待つようになった。
 こういう痒い所に手が届くような細かいサービスをするようになったのは、この70系統を担当する市バス落合(おちあい)営業所の運行管理が神姫バスに委託されるようになってからである。公営ではなかなかそういう発想はできない。バスは神戸市の緑の車体だが、運転手さんは神姫バスの社員である。だから懇切なマイク案内も先のバス同様に柔らかく行われる。
 須磨ニュータウンの北部を貫通する系統なので、頻繁に運転されていて、よく利用もされているようだ。十分足らずで須磨ニュータウンの中枢、市営地下鉄名谷駅に着く。

 ここからは垂水(たるみ)へ山陽電鉄バスが通じている。直通もあるしいろんな乗り継ぎ方もあるが、一番先に来た14系統学(まなび)が丘(おか)行に乗る。新たに開発された地域の、よく整備された道路をスムーズに走って垂水区に入る。中山(なかやま)から西へ入ると、左前方に巨大な垂水ジャンクションが威容を見せている。第二神明道路・阪神高速・山陽自動車道から神戸淡路鳴門自動車道に入るための設備だが、いろんな方面からいろんな方面への取り付け道路が幾重もの環となってとぐろを巻いている。何度この中を通り、地図を何度見ても、全体構造がよく分からない。
 幅員は余裕がありながら起伏の激しい道を通って、木工(もっこう)センターで降りる。

 交叉点を左に入った所にある停留所は学が丘四丁目と別の名になっている。48系統の垂水駅行が来た。垂水区西部である舞子(まいこ)地区では、山陽電鉄バスの路線は、全て市バスとの共同運行になっている。この系統も全便が山陽電鉄の運行であるにも関わらず、なぜか共同運行の扱いで、市バスの乗車券類も使える。いろんな利権があってそうなっているらしいが、わたしにはよく分からない。逆に全便市バスが運行しているのに共同運行扱い、という系統もある。48系統はちょうど共同運行エリアと山陽電鉄独自エリアの境目あたりを走る。
 星陵(せいりょう)高校前からは、商大筋(しょうだいすじ)と呼ばれる道に入る。かつて星陵高校の北側に、現在は学園都市に移転した神戸商科大学のキャンパスがあったからそう呼ばれる。
 この商大筋は、狭隘で知られた道であった。狭いバス道はこの旅でも随所に見てきたが、以前の商大筋は、ただ狭いだけでなく輻輳のし方が例をみないものだったのである。片側車線がバスの幅より狭いような酷い道を、双方向とも多数のクルマがひっきりなしに通り、バス自身も頻繁運転していたため、ここを運行するバス運転手は神業の主と讃えられ、近年までツーマン運行されていたほどだ。車掌さんが窓から首を出して「オライ、オーライ」の声をかけながらの側方・後方確認と指示、下車しての脇道や沿道施設へのバック誘導、果ては後続車の整理までこなして、どうにか運転されていたのだ。
 それが最近になってかなり大がかりな道路整備・拡幅が行われ、運行がスムーズになったところである。ワンマン化もされ、趣味的には変哲のない路線になってしまったが、地元のためにはよかった。
 ここでも坂道のため、バスへの依存度が高く、停留所毎に客が増えていった。こういう高低差が大きく適当に高校や大学も散在する新旧の住宅街ばかりを運行しているので、山陽電鉄は、鉄道部門はともかくとして、バス部門では日本有数の優良企業である。満員で垂水駅に着いた。

 長かった旅もとうとう最後のバスになる。系統番号も1系統と気持ちがよい締めくくりだ。歌敷山(うたしきやま)中学校方面行の循環便は、もちろん内地研究期間中は毎日のように乗った路線だ。車輌もダイヤもそう変わっていないが、あれから駅前再開発が進み、この駅前広場がバスターミナルとして整備され、高架下の薄暗い乗場から移転してきた。もっともわたしは雨風を凌げてベンチも十分にあった旧乗場の方が好きだったが。
 この系統のバスは、車体長が短い特注版である。それほど狭く曲折した道を走るということだ。わたしは最後部の窓際の座席に坐った。隣に詰めてきたおばはんが、買物袋を自分の横に置いてわたしに圧しつける。おばはんという人種はこういうことを少しも悪いと思わないらしい。こういうおばはんの存在もあの頃と同じだが、揚げ物でも買ったのか、熱くてしょうがないので、その旨をおばはんに告げると、膨れっ面で睨みつけられた。わたしは何か悪いことをしたろうか。
 やがて小さいがゆえもありまたまた通路まで満員になったバスは出発し、垂水駅西方の戦前からの住宅地、だからお年寄りも多く住んでいる地域へと登っていく。五色山口(ごしきやまぐち)は、垂水随一の史跡五色山古墳の近くだ。
 次の霞ケ丘(かすみがおか)交番前は、以前は「交番所前」という名前だった。山陽電鉄バスの停留所名は、かつて固有名詞をつけない施設名というパターンがけっこう多かった。市場(いちば)前・中学校前・幼稚園前・クラブ前・ゴルフ場…、といった具合である。これはなかなかお洒落だとわたしは思っていたが、分かりにくいからか、最近になってその多くに固有名詞が付くようになったのは、ちょっと残念だ。
 霞ケ丘交番前から北へ折れると道はもっと狭く、一方通行になる。電柱がやけに目の前を過ぎていく。停留所でバスが停まると、追い抜くスペースも全くないから、後続車もおとなしく待っている。バスはハザードランプを出して発車する。東霞ケ丘で左折すると、バスが通ったら人も自転車も遠慮せねばならないようないよいよ狭い幅になり、ここには神業が今も生きているし、こういう道だから一方循環で運行されているわけだ。愛徳学園(あいとくがくえん)前、ここも元はただの学園前だったが、そこからはもはやバスの幅きっちりの車道になる。少しでも油断すると脱輪しそうで、沿道の家の植え込みの枝が、バスの窓枠をぱんぱんぱんと叩いて過ぎる。歌敷山中学校前でかなり客が入れ替わり、わたしも席を立って前の方に行っておく。停留所の前の狭苦しい交叉点では、通りかかった歩行者や自転車が、しかるべき場所で待っている。下手な場所にいるとバスが左折できないことを、地元の人はよく心得ているのだ。
 最後の一停留所間となった。狭い道と空いたバスの連続だったこの旅のしめくくりは、これ以上狭くしようがない道で、しかし満員で活気のあるバスによってなされようとしている。鉄道やマイカーで賄いきれないバスの大切な役割を主張しながら、最後のバスは一気に坂を下る。
 歌敷山で下車。わたしもバスが発車するまで電柱の影で待つ。この作法も懐かしい。

 ここまで来たついでなので、わたしが寓居していたマンションの前まで行ってみた。わたしがいた部屋のベランダには、ピンク色の子供用バスタオルが干してあった。長い旅が終わった。
 歌敷山には半世紀近い昔まで、山陽電鉄の駅があった。現在もどことなく駅前のムードを残す踏切から西へ坂を下れば数分でJR舞子駅である。坂からは明石海峡大橋の全容が見上げられる。たこ焼き以来すっかり腹も空いたので、舞子駅の駅ビル二階にある肉屋でコロッケを買って食べた。じゃがいもの皮を少しばかり残して擦り潰し、豚ミンチに甘辛く味をつけたその製法は、まさに子供の頃から親しんだ「垂水のコロッケ」の味わいだった。

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第八日の経路

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