1.地震発生

 車内に入ったとたん異様な雰囲気にたじろいだ。何枚もの窓ガラスが割れ、縦横に貼られたガムテープで応急処置がなされていた。なんとなく薄暗い。高速で走る列車が線路上の雪を巻き上げて窓が割れることはよくある、にしてもこんな車両を営業に供するとは太い神経だ。連休の最終日、車両がフル稼働しているのだろう。気味が悪いからと割れていない窓の横に席を替えてくれるよう、車掌に頼む客もいた。

 成人の日の前日、神戸で人と会った後、わたしは大阪に投宿していたのである。翌火曜日はわたしの研修日、すなわち授業の組まれていない日だった。だが、当時わたしは担任をしていた。担任が平日に学校を留守にすることは、よほどのことがなければ避けるべきである。しかも水曜日の特活は他クラスと合同のかるた大会を予定しており、その準備をする必要もあった。わたしはもう一日神戸でゆっくりしたい気持ちを抑え、戻ることにしたのだ。
 
それで、代休の月曜の昼前、大阪駅から臨時の「雷鳥」に乗り込んだのだった。

 落ち着かない思いを乗せた「雷鳥」は、雪をついて北へ走った。武生に着くと同時にわたしは逃げるように降りた。
 その晩は少し酒を呑んで、居間のホットカーペットの上で毛布を被って就寝した。夜中を回って平成7(1995)年1月17日
になっていた。

 P波を感じた。こんな強いP波は初めてだ。P波がこんなではS波はどうなるのか、と朦朧とした頭で怖れた。頭上にはテレビとビデオの載った棚がある。起き上がる時間はない。わたしはとっさに毛布をたくし上げて頭を覆い、体を丸めた。やはりS波は大きく長かった。幸い機器類が落ちてくることはなく、ビデオテープがいくつか頭を叩いた。
 揺れが収まったところで体を起こす。まだ6時前だ。最近は能登沖の方で地震がよく起こっているようだが、今日のは大きかったな、能登半島で被害が出てるかもしれない、などと思いつつもうひと寝入りした。
 7時に目覚ましが鳴り、タイマーでテレビも点いた。火曜の朝なのでいつも通りWOWOWの『レールウェイストーリー』を見ながら身支度をする。世界の鉄道旅行が鮮明な画質でレポートされていて、人気のある番組であった。朝食を作ってテレビの前に坐る。

 電話が鳴った。神戸の母からであった。声がいつもと違った。
「……食器棚が二つとも倒れてね、中のお皿がみんな割れてしもたわ。納戸の部屋は箪笥が倒れて入れないし、どうしよう」
「……何? さっきの地震、そっちの方なん?」
「何あんた。ニュース見てへんの? こっちは停電してるからテレビも何も映らへんけど、これだけの地震やったら、ニュースで言うてるでしょ」

 わたしはチャンネルを替えた。WOWOW以外は全て地震のニュースをやっていた。姫路(ひめじ)・大阪・宝塚(たからづか)・堺…、と被害の様子が映る。が、神戸のことは言わない。どうなっているのか、と考えかけ、母の話と突き合わせると、神戸は報道機関が入れないほど大変なことになっているのだ、ということに思い至り、身震いがした。
「おじいちゃんとこと連絡がつかへんのよ。どないしてるんやろ…」
 実家と同じ団地内、1.5kmほどのところに祖父母は住んでいた。遠く離れたわたしにどうしようもない。
 
 出勤したわたしは、研究室のテレビとラジオをつけっぱなしにして仕事をした。仕事は何度となく中断する。画面の中でわたしの故郷が無くなろうとしていた。知っている町が、店が、ビルが、崩れて燃えて無になりつつあった。わたしは言葉もなくそれを見つめた。見慣れた神戸の町並みと、炎と煙の映像が、合成しているようにしか見えず、現実に燃えていることを認めたくなかった。
 やっとマスコミが神戸に入れたらしく、市内各地の惨状が伝えられる。繁華街の三宮
(さんのみや)は特に被害が酷い。両親はこれを知らないのである。知らせてやろうと電話しても、こちらからは通じなかった。
 頭を抱えていると、教室主任が心配して来てくださり、大丈夫なの? と声
をかけてくださる。大丈夫かどうかわたしにも分からないので、ありのままを伝える。
「遠慮なく休んでください。授業やなんかは何とでもなるから」
 しかし、状況もよく分からず、交通もマヒしているのに、行っても何もできない。しばらく様子を見る、と答える。二、三日するうち、混乱の中にあっても何らかの秩序ができてくるだろう。
 その後も何人もの先生が見舞いに来てくれた。人と応対していると気が紛れるので、ありがたいことである。

 4限が終わり、終礼のためHRに出向く。明日のかるた大会の組み合わせを発表すると、女子のチームとの対戦に当たったメンバーが狂喜乱舞する。まったく人の気も知らず無邪気なものだ。しかし、考えてみればこの子たちの担任だからこそ昨日のうちに帰ってきたのだ。そうでなければわたしは怪我をしているか、混乱に巻き込まれているか、ともかく大変なことになっていたろう。そう思えばこの子たちに感謝せねばならない。それにこの子たちは朝以来ニュースを見ていないのである。
「ぼくの祖父母の消息がまだ分かりません。午後三時の警察発表で死者は
549人だそうです」
 とわたしが言うと、クラスはどよめき、さすがに神妙な顔になる。死者数は彼らが帰宅した時には二百人ほど増えていたはずである。

 帰宅してからは大阪の大学関係者や神戸の同窓生と連絡を取りあう。情報交換といっても、誰も状況の全貌を把握していないので、お互い要領を得ない。母から再び電話があり、祖父母が無事であると分かった。

 18日水曜日には二コマの授業と特活のかるた大会をこなし、教室主任のところに顔を出した。わたしは明後日から神戸に行くことに決めていた。神戸周辺では次第に鉄道が復旧しており、何とかなりそうであった。推薦入試が近づいていたが、教室主任は、こちらでなんとかするから、と、わたしが入試で何の役にあたっているかさえ教えてくれなかった。金曜から火曜まで休みをとることにし、翌日以降の自習課題などの手配をする。明日は買い出しと準備に充てよう、と思う。
 19日木曜日
、わたしは隣の数学の先生に自習課題を託した。すると、快諾してくれたばかりか、荷物をたくさん持てるように、とわざわざ福井の家まで往復して登山用リュックを持ってきてくれた。ありがたく拝借する。放課後の教官会議では、来月の学力入試で明石(あかし)高専の受験者は全国どこの高専でも受験できる、という特別措置が発表された。副担任でもある学科主任に留守中のクラスのことをくれぐれもとお願いする。ラジオからわたしの大学の後輩の名が聞こえた。死者の名前としてである。
 帰宅してから、わたしはたくさん料理を作り、おにぎりを結んだ。そして要りそうなものをリュックと紙袋に詰め込んだ。近所のスーパーで小振りのポリタンクを二つ購入する。が、ミネラルウォーターは無かった。コンビニにも無かった。被災地に送っているに相違なかった。あてにしないで酒屋に行ってみると、そこにはあった。おやじさんになぐさめられながら、あるだけの水を買った。ポリタンクに水を入れ、ペットボトルも入るだけリュックに入れた。料理類は念のため全て冷凍し、朝詰めることにした。

|

2.最初の一往復

 20日金曜日、始発のバスでJR武生(たけふ)駅に向かう。福井鉄道バスは武生駅の前を通るのに、けしからぬことにバス停はない(註・現在は駅前広場に乗り入れている)。わたしは大荷物を背負ってとぼとぼ駅まで歩いた。窓口で加古川(かこがわ)線が動いているかどうかを訊ねたが、確たる答えはなかった。
 今日が最後の通用日である「青春18きっぷ」に日付を入れてもらい、8時30分発の普通長浜
(ながはま)行でまずは敦賀(つるが)へ向かう。南条(なんじょう)からもポリタンクを抱えた人が乗り込んできて敦賀着9時07分。このまま大阪方面へ向かっても、被災地の西端近くにある実家へ行くのは困難である。西側から大きく回り込む必要があった。
 それでわたしは、綾部
(あやべ)までの乗車券と急行券を求め、9時47分発急行「わかさ」小浜(おばま)線廻り京都行に乗りかえた。よく空いた車内に非常時を思わせるものはない。しかし並行する国道27号は両方向とも大渋滞で全く流れていない。被災地の渋滞を避けて日本海廻りに迂回してきた車が集中したのだろう
 綾部着12時19分、わずか二分の接続で普通福知山
(ふくちやま)行に乗り換える。普段なら二分あれば悠々乗り換えられるが、この荷物では地下道への階段を降りるのもこわごわだ。福知山着12時36分、大阪と直結する福知山線のダイヤは乱れているようだった。極限まで荷物を持ったため、自分の弁当などは持っていない。わたしは駅そばを食べ、窓口で加古川線が動いていることを確かめた。加古川線がだめなら、播但(ばんたん)線に廻って姫路に出る必要があったが、なんとかなりそうだ。
 福知山線のホームには快速電車用のクロスシート車6輌連結が停まっていたが、「普通」と書いてあるだけで行き先は掲出されていない。まあたぶんこれだろう、と乗り込み、四人がけを占領する。ホームで駅員と車掌が、
「宝塚っちゅうコマはないんかな」
「ないんですよ」
 と話している。やがて放送が入る。
「福知山線柏原
(かいばら)・谷川(たにかわ)・篠山口(ささやまぐち)・三田(さんだ)方面臨時普通列車宝塚行です。宝塚から先は不通となっております。振替輸送などもございません。13時10分頃発車の見込みです」
 こちらはとりあえず谷川まで行ってくれればいい。

 よく空いた電車で谷川着13時45分。加古川線のホームに移ってみると、2輌連結のディーゼルカーは宝塚方面から乗り換えた客で既に立錐の余地がない。いつもは1輌で走っているローカル線だが、突然迂回ルートとして注目を浴びたのである。終点まで乗るわたしはデッキから押し合いをして中ほどに入った。狭い通路にスーツケースを並べて自分の空間を確保する非常識な若い女性もいて、必ずしも詰まり具合は均等ではない。
 ほどなく走り出したが、前後左右に揺さぶられ、人いきれで窓も曇っていて、ただ運ばれるのみだ。入口付近にいた初老の女性が怒って言う。
「もっと中に詰めてください!」
 中だって詰まっているし、荷物もある。だいたい人が通れる余地を残しておかないと中にいる人が途中で降りられなくなってしまう。みんな無視していると、
「ふん! びくともせんわ」
 と憤然としている。なぜ全体の状況をみてものが言えないのだろうか。通勤ラッシュなど経験したことがないのかもしれない。
 わたしの前の席の人が、「水、水垂れてるよ」と言う。見ると、わたしのリュックのベルトから水が滴っている。この混雑ではどうしようもなく、ベルトがわたしの足許にくるように置き換える。加古川まで決壊しないことを祈るばかりだ。
 西脇市
(にしわきし)で数分停車する。この近くの停留所から明石への急行バスに乗れるはずだが、時刻も分からないし、正常に運行されているかどうかも不明だ。下手に動かない方がいい。粟生(あお)では神戸電鉄に連絡するが、これも乱れているに違いない。姿勢を換えられないので、右足の感覚がなくなってきた。
 加古川には定刻の15時02分に着いた。歩道橋の上でリュックの中身を整理し、口の緩んでいたポリタンクをビニール袋で覆う。足の感覚は戻らない。 

 いよいよ被災地に踏みこむことになる。ここらで今日の宿を確保せねばならない。被災地内と周辺の宿は休業か満室に決まっている。わたしは公衆電話で姫路のホテルに片端から電話した。が、やはりことごとく満室だ。相生
(あいおい)もだめだ。とうとう岡山駅前のホテルに架け、やっと部屋がとれた。
 ここから神戸方面に向かうのだが、JR山陽本線は西明石までしか運転していない。その先の足があるかどうかは分からない。駅前から明石行のバスは出ているが、国道2号は渋滞しているだろう。わたしはタクシーに乗り、山陽
(さんよう)電鉄の山陽高砂(たかさご)駅に行った。山電は山陽明石まで運転されているはずだった。明石まで行けば後はどうにでもなる。タクシーの運転手から、明石付近の路線バスは動いている、との情報を聞き力を得る。
 山電は各駅停車のみ三十分毎の変則ダイヤになっていた。折悪しく上りは出た後で、からっ風のホームで待ちつづけ、山陽明石に着いた時は16時20分頃になっていた。サイレンが四方から鳴り響く明石の街に、一瞬立ちすくむ。駅前からちょうど明舞
(めいまい)団地(明石舞子(まいこ)団地の略)方面行のバスが出るところだった。わたしの実家は明舞団地の北端にある。
 途中のバス道は対向車線が渋滞していた。半ば封鎖された国道を避け、住宅街の道にクルマが溢れてきているのだ。

 実家の玄関を開けると母が、
「もう、来たらあかんて言うてるのに」
 とわたしを迎え入れた。さっき電気が通じたところだ、といい、ホットプレートで簡単な夕食を作ろうとしていたが、ご飯類はもちろんない。わたしのおにぎりや水は歓迎された。手頃な大きさのポリタンクも重宝するようであった。水の配給はあっても容器がなくて取りにいけず、風呂の残り湯を細々使っていたのだ。飲み水はほんとうに足りなかったが、水分を摂るとトイレの回数が多くなり、ますます水を使うので、どのみち飲む量は控えなければならなかった。
 必要なものを書き出してもらう。すぐ買えるものは明日持って来、そうでないものは一度福井に戻って買い込んでくることにする。泊まっていけと言われたが、最初からその気はない。わたしが泊まったのでは、食べ物や水を余計に消費することになり、何をしているのか分からない。
 荷物を片づけるのに、上の階の人に世話になったので、お寿司か何かを差し入れられないか、と母が言う。被災地では寿司など無縁の食べ物であった。わたしは、何とか探してみる、と言った。

 来る時の三倍以上の時間をかけてバスで明石に出た。山電で山陽姫路、そこからは新幹線が動いていた。臨時の「ひかり」に乗り、岡山着20時54分。

 21日土曜日は朝八時過ぎに岡山を出て、姫路で降りた。駅前の商店街を覗くと、開店準備をしている寿司屋があった。わたしは事情を話して無理をお願いし、折詰を七つ作ってもらった。自動販売機で缶のお茶を買い込んだ。
 姫路駅前に「神戸市民に愛の手を」と書いた箱を抱いた若い女性が立っている。団体名も趣旨も何も書いておらず、女性は募金を呼びかけるでもなく、ガムを噛んでいる。震災後はこういう手合いをよく見かけた。悪銭を何に使ったのだろうか。
 JR山陽本線の臨時普通西明石行に乗る。西明石から明石まではバスが増発されていることを、昨晩確かめた。西明石からの明石市営バスは、やはり国道2号の渋滞に呑まれた。前からも後ろからも頻繁に緊急自動車が現れ、車幅の大きいバスは、そのたびに路肩に停車して道を譲った。緊急自動車の後ろにちゃっかり随いていく不心得な一般車両も散見した。
 明石駅の一つ手前のバス停でバスは停まった。運転手は、
「この先ここまで以上の時間がかかります。お急ぎの方は降りてください。前の交叉点を左に入れば駅はすぐです」
 と言った。わたしたちはぞろぞろと下車した。駅前の交叉点はクルマが輻輳してえらいことになっている。それなのに、クラクションを鳴らすクルマは全くない。それが感慨でもあり異様でもあった。と、わたしは自らの足の異状に気づいた。歩こうとすると右足が酷く痛んだ。昨日の加古川線が響いているようだ。びっこをひいていると、隣を歩いていたおばさんが、「怪我したの?」と訊ねた。

 両親宅の分の水は、わたしが小学校からもらってきた。長野県の給水車だった。
 母がぽつりと、
「子供は産んどくもんやね」
 と言う。昨日私の作ってきたおにぎりを食べながら泣けてきたそうだ。わたしだけでも他の地域にいてよかった、と思う。福井から持ってきたミネラルウォーターは祖父母の家に届けることにし、団地内を30分ほど歩いた。祖父母ともに九十近い高齢であり、そのせいかどうか呑気なもので、食事など二、三日摂らなくても平気なようだった。それでも気は心、母が詰めた折を置いていく。
 どうせバスも時間がかかるので、明石駅まで一時間ほど歩いた。途中、全壊した木造家屋を初めて見た。団地内は新しい建物が多いので、あまり崩れたりはしていなかったのだ。じろじろ見るわけにはいかないが、その家に思いの詰まった人のことを思うと、痛ましい。

 いったん福井に戻ることにするが、わたしはトイレに行きたくなった。だが、明石駅付近は断水している。西明石駅のトイレが使えることは昨日確かめた。片道三十分ほどかけ、バスの待ち時間を含めると一時間二十分かけて小用を足してきた。
 大阪方面へは裏六甲
(うらろっこう)を迂回すれば何とか行けることが、昨日のニュースで分かっていた。明石駅からバスで西神(せいしん)中央駅に、さらに乗り継いで栄(さかえ)駅前に着いたのは17時50分ころだった。十人ほどが降りる。降り際に先頭の客が運転士に、「栄の駅はどこですか?」
 と訊ねる。
「横断歩道を渡って右へ少し行った所です」
 との答えだ。わたしたちは一列になって歩きはじめた。
 ところが五分歩いても十分歩いても駅に着かない。列は次第にばらける。こんなに離れて「駅前」とはおかしい。最後尾のわたしは途中で踵を返した。他の人ははるか前方だ。栄駅前バス停まで十分もかかって戻ってくる。そこから左へものの三十メートルほどのところが神戸電鉄栄駅の入口だった。大いに憤慨しつつ駅に入る。
 電車はなかなか来ない。新大阪21時57分に乗れなければ今日中に福井には帰れない。わたしは不安になってきた。そうでなくても時間が読めないのだ。
 三十分ほど待たされて、18時55分頃に臨時普通が来た。ともかくもそれに乗り、鈴蘭台
(すずらんだい)で乗り換える。ところが、乗り換えた電車の放送が
「栄・三木
(みき)方面粟生行です」
 と言う。ここから南、神戸市街に向かう線が不通で、ここで折返し運転になっているため、普段とホームの使い方が違う。危ないところだ。五分ほど待つと目指す三田行が来た。これでぐったりと移動し、二十時頃三田に着いた。

 JR福知山線は、今日は既に大阪まで復旧している。橋上の改札前には大勢の駅員が出て手作業で切符を売っていた。券売機は長蛇の列なので、彼らの一人に、
「鯖江まで」
 と言う。
「サザエ?」
「鯖江」
「寒河江
(さがえ)?」
「鯖江」
「どこらですかね」
「北陸線の福井の手前です」
「あーサバエね。特急券は?」
「何に乗るか分からないからいいです」
 何とか切符を手にした。わたしが釣りを受け取るのを待ちきれずに、次の客が、
「岡場
(おかば)
「オカバ? どこのオカバ?」
「神戸の岡場ですよ」
「それは神戸電鉄です。そこの階段降りて左側」
 とわたしが口添えする。売る方も買う方も普段と勝手が違い、大変である。

 今度三田を発車するのは20時16分の普通大阪行であるが、この普通を途中で追い抜く特急「エーデル鳥取」が続いており、僅か四分だが大阪に早く着く。これだと大阪で長野行急行「ちくま」にぎりぎり駆け込めるかもしれず、少なくとも後続の米原(まいばら)行「びわこライナー」には乗れ、そうなれば新幹線に乗らなくても済むはずであった。しかし放送で、「エーデル鳥取」はかなり遅れている、という。迂回乗車の客で混雑してダイヤが乱れていた。しかたなく普通に乗ったが、これも遅れ気味だし、込んでいた。客はみんなぼさぼさの髪に大荷物を背負い、いちように黙り込んでいた。
 遅れたまま大阪に着く。人波を泳いで隣のホームに移った。「びわこライナー」がタッチの差で出て行ってしまった。
 こうなれば新大阪から新幹線に乗るしかない。21時57分発最終の「こだま494号」名古屋行は、普段なら広島始発だが、今日はもちろんここ始発の暫定ダイヤだ。車輌はいつもどおり二階建ての個室付きである。ともあれ何とか乗り込めてよかった。
 ところが発車した後、車内放送が、
「京都まで徐行運転を行いますので、十分程度遅れる見込みです」
 と言う。米原での接続時間は七分しかないはずだ。
 慌てて車掌室へ行って訊く。。
「米原から最終の「加越(かえつ)」に乗りたいんですが、接続待ちをしてもらえますか」
 車掌はしかめっ面で答えた。
「そんなの分かりませんよ、どうなるか」
 同じ立場の客が後ろにも数人来て、やりとりを聞いていた。わたしは全権大使となった。
「分かりませんじゃないでしょう。待ってもらわないと今日中に帰れないんだから、手配してください」
「訊いてはみますが、会社が違うのでちょっとね」
 わたしの感情が一気に吹き出した。
「どうゆうことやそれは! 会社が違うことなんか客に関係ないやろ! おまえら東海やから地震なんかどうでもええんか。東海道新幹線が潰れんでよかったと思とんねやろけどな。こっちはどんな思いして新大阪まで辿り着いとう思てけつかんのじゃ!」
 ながらく鉄道で旅行しているわたしだが、鉄道員をこんなに激しく怒鳴りつけたのはこの時だけである。神戸弁で言わねばならない気がしていた。後ろの客が口々にわたしに加勢してくれた。
 憤然と席に戻ると、ほどなくその車掌の声で放送が入った。
「北陸線方面お越しの方にお知らせいたします。米原駅で「加越9号」金沢行がこの列車の接続待ちをいたしております」
 しかし、運転士に連絡がいったのかどうか、「こだま」は京都を出ると轟然ぶっとばしはじめ、米原着は四分遅れまで回復し、脱兎のごとく乗り換えた客を乗せ、「加越9号」は定刻22時44分に米原を発車した。鯖江着23時41分。

|

3.代替バスと町並み

 22日の日曜日は福井で買い出しをした。リクエストのあったカップ麺や水の要らないシャンプーなどを買い込み、料理とともにリュックに詰めた。

 
23日月曜日
、再び神戸に向かう。また初発のバスで家を出て、武生8時13分発の「雷鳥16号」大阪行に乗る。被災地に向かうらしい人を含めて混雑している。昨日から阪神間で不通になっている鉄道の代替バスが運転を始めた、と報じられていた。それで東側から入ってもどうにかなるだろう、と思い、大阪行に乗ったわけだ。
 大阪に近づくと、
「神戸方面は震災のため不通区間がございますので予めご諒承ください。神戸方面へは5番線から各駅に停まります新快速甲子園口
(こうしえんぐち)行ご乗車のうえ、代替バスにお乗り換えください。姫路方面迂回乗車される方は、快速福知山行……」
 と丁寧な案内がある。しかしわたしは改札を出て昼食を仕入れ、阪神電車の梅田駅に行った。
 阪神も甲子園までしか開通していなかった。代替バスの運行状況は分からないが、行けばどうにかなりそうだ。特急は運休しているので、急行で甲子園に着いたのが十時四十五分頃である。

 普段は甲子園球場に向かう列ができる駅前広場が、代替バスの行列の場所になっていた。用便を済ませ覚悟を決めて、広場を縦に何往復もしている列の後ろに並んだ。バスは十分に一台くらいの割合で発車するようであった。行列があまりに長いので、バスが着いた時でなく、少し遅れたタイミングで列が進んだ。わたしが乗れたのは十一時五十分頃だった。むろん車内は超満員である。
 甲子園付近の生活道路を縫って走るうちは順調だったが、国道2号に出たとたんに渋滞になった。誰も口に出して不平は言わないが、なぜ代替バスの専用レーンを設置しないのか、と思う。この国道2号にはかつて阪神国道線という路面電車が走っていた。あれが残っていたら、百人力だったのに、とも思った。じりじりと芦屋市内を抜け、神戸市東灘
(ひがしなだ)区に入る。道路沿いは古くからの市街地なので、壊れた家が多い。亡くなった人も多いのだろう。窓の外を見るほどに心ふさがる。ブラウン管の中の景色が、現実のものとして今眼前にあった。

 代替バスが国道2号を外れて山手幹線に入ると、幾分流れがよくなった。途中阪神の駅と対応するバス停に停まっていく。歩道に置かれた粗末なポールが「駅」であり、駅員というか何というかが車掌鞄を提げて立っていて、手作業で切符を売り、帽子で集札している。郡家(ぐんげ)のバス停に着くと、歩道の係員がハンドマイクで、
「阪神御影(みかげ)ー、阪神御影です。ご乗車ありがとうございました」
 と叫ぶ。バスが着くたびこれでは周囲の住民は騒がしくてしかたないだろうが、みんな避難所に行って留守なのかもしれない。かなりの人が下車し、車内に空間ができる。しかし、ここから本来の阪神御影駅へは2kmほども歩かねばならない。
 阪神だけでなく阪急やJRの代替バスともひっきりなしにすれ違う。阪神には近鉄バス、阪急には西鉄バス、JRには神姫(しんき)バスがそれぞれ応援に来ているようであった。それぞれ普段のつきあいが現れていて面白い。よくこれだけのバスが湧いてきたものだ、と思うが、逆に震災のため運行できない路線もあってうまく車両需給のバランスがとれているのかもしれない。神戸市バスの緑のボディともすれ違う。と、車内から「あ、市バス走ってる!」と声があがる。この状況のもと、神戸のバスが走る姿は何となく心強いものである。
 市街の中心部に近づくにつれ、渋滞が激しくなり、布引(ぬのびき)交叉点を過ぎたところで全く動かなくなった。十分ほど待ったところで、痺れをきらした客が、ここで降ろしてくれ、と運転手に言った。しぶしぶドアが開き、わたしも便乗して降りた。半数以上の客が降りたろうか。ここは新神戸駅の近くである。当初代替バスの終点の三宮からここまで歩き戻るつもりでいたから、もっけの幸いである。時計は十三時五十分になっていた。

 ここから西への交通手段はまだないので、やはり裏六甲を廻らねばならない。が、ここから北へ向かう北神(ほくしん)急行電鉄が運転を再開していた。地下の新神戸駅に下りると、天津甘栗の屋台がでていた。被災地でこんなすぐ食べられるものが売られているのは初めて見た。土産に一袋買う。
 ホームで立ったままおにぎりを食べ、北神急行に乗れば、八分で六甲連山をくぐって谷上(たにがみ)に着く。一昨日と逆のルートで神戸電鉄を鈴蘭台で乗り継ぎ、押部谷(おしべだに)に降りた。バスで西神中央駅へ。市営地下鉄も一部区間が再開していたので、それに乗って伊川谷(いかわだに)、そこからバスに乗り換えて実家に着いた。十六時を過ぎていたから、結局20日と所要時間は変わらない。やっぱり代替バスは使えないな、と思った。
 
 わたしの持ってきたカップのきつねうどんを食べた母は、
「このごろはインスタントでも美味しくなってるんやね」
 と言った。普段こんなものは間違っても食べない母である。容器をそのまま捨てられるのがありがたいようだった。皿にラップを被せて繰り返し使う、という口コミで広まった被災地の知恵に母も従っていた。わたしは買ってきた紙コップと紙皿をプレゼントし、ふと思い至って呟いた。
「橋はどうなってるのかな」
 福井に移り住む前、明石で独り暮らしをしていた部屋からは、明石海峡が一望にできた。明石海峡大橋が次第に組上がっていくのを毎日楽しみに眺めていたが、完成を見届けずに福井に越したのは心残りであった。あの橋が地震でどうなったのか、何も報じられていないということは、大したことはないのだろうか。両親とも橋のことは何も知らなかった。
 それから、あれはどうなった、これはどうなった、と評定したが、分からないことが多かった。わたしが、
「お墓は?」
 と訊くと、両親とも絶句した。墓には気が廻らなかったようだ。わたしの家の墓は、鵯越(ひよどりごえ)の市営墓園にある。市から何も連絡がないから、墓石が倒れてはいないのだろう。それとも市も墓園などに構っている暇がないのだろうか。
 しかしそれよりもわたしが気がかりなのは「明日の手形」であった。昭和四十八年に、市制五十年を記念して当時市内に住んでいた子どもたちの手形を粘土板に圧したものを集めてモニュメントにし、東(ひがし)遊園地に設置してあったのである。わたしも抽籤に当たって、そこに手形を残していた。自分が神戸っ子である、それが証のような気がしていた。
「三宮やから、崩れてしもたかな…」
 そうあってほしくなかったが、そうとしか思えなかった。そう考えた時、改めて故郷が消えたことを実感せざるを得なかった。長らく見に行っていなかったが、見ておけばよかった。

 JR山陽本線は西側から須磨(すま)まで開通していたので、最寄り駅の朝霧(あさぎり)から西明石行電車に乗れた。西明石から網干(あぼし)行、姫路から新幹線「ひかり」で岡山に着いて投宿。

 
24日火曜
はもう実家には寄らず、福井に直帰する。代替バスは懲りたので、迂回乗車で帰る。明日は出勤せねばならないので、冒険は禁物である。
 岡山発7時56分の臨時「こだま」に乗り、ちょうど三十分で姫路に着く。ここから播但線で北上するのが迂のメインルートだ。播但線ホームは例によって長蛇の列である。直行の快速も後続しているが、わたしは比較的空いていると思われる10時05分の普通列車に乗ることにした。まだ足は痛いし、立つのはもう嫌である。幸いちょうど座席が埋まる程度の乗りであった。急行型ディーゼルカー4輌という、昼間の播但線としては破格の編成で、11時56分に和田山(わだやま)に着く。すぐに山陰本線の上り福知山行普通が来たのでそれに乗り、福知山で下車して昼食。わたしはここから小浜線経由で帰る方が近いのだが、遺憾ながら小浜線は迂回ルートとして認められていない。わたしは指定席の空いていた特急「あさしお6号」京都行に乗ることにした。「あさしお6号」は十分遅れの13時45分に発車し、京都から新幹線、米原から「加越」に乗り継いで、夕方福井に着いた。

 すっかり授業を休んでしまったので、この週は振替で忙しかった。各クラスの授業で、被災地の様子を話した。
 また、JTBに出かけ、今後の宿を確保した。事前の予約だと、姫路のホテルにも空きがあった。しかし大阪は、場末のホテルの風呂のない部屋しか取れなかった。週末は土日で一往復だけすることにした。

 
28日土曜
は午前中買い出しをして、昼から出かけた。この頃にはリュックをいっぱいにする必要はなくなっていた。
 武生から15時19分発「雷鳥34号」に乗り、新大阪で17時57分発特急「北近畿13号」城崎(きのさき)行に乗り継いだ。臨時停車駅の谷川で降り、再び加古川線に乗る。三輌に増結されていたし、他の代替ルートもできて客が分散したためか、全員坐れる程度の込み具合であった。加古川から山陽本線に乗って姫路着21時53分。警備員がロビーのソファでごろ寝している酷いホテルに投宿。

 
29日日曜
、姫路10時05分発臨時快速須磨行で出発。もちろん先日の店で寿司折を仕入れている。わたしは終点の須磨まで行ってみることにした。
 舞子に近づくと、明石海峡大橋の工事現場が見える。
「こんなもの造るから地震が起きるのよ」
 窓際に立っていた初老の女性が誰に言うともなく外を睨んだ。
「要らないわよ、こんな橋」
 工事と地震に因果関係があるのかどうか知らないが、穏やかな同意が流れる電車を、揺るぎない橋脚は傲然と見下ろしていた。海を見つめる限り、何事の不思議もなかった。

 須磨からは普通電車で引き返し、朝霧で下車。バスで実家へ。
 震災直後の譲り合いや助け合いが影を潜めはじめているらしかった。日本語が分からないふりをして配給の列に割り込む外国人、自分の家は何ともないのに水と食べ物がただで支給されるからとわざわざ避難所に移り住む一家、人の性は非常時にこそ現れるようだった。
 やはりいろいろな意味で故郷神戸は崩壊していた。

 帰りはバスで学園都市に出て、市営地下鉄に乗る。地下鉄は板宿
(いたやど)止りで、ここから市バスが連絡している。普段は三宮行の系統だが、神戸駅前止りになっていた。神戸駅前から三宮行の市バスに乗り継ぐが、経路が変更されていた。やはり三宮に近づくと渋滞で動かなくなったので、異人館街に近い中山手(なかやまて)三丁目で下車、三宮まで歩くことにする。有名な中華料理店が無残に潰れている。
 よく知っている道なのに、いつもと勝手が違う。無意識に目印にしていた建物や看板などが無くなっているので、初めての道のようだ。記憶を手繰ってそれらを脳裏に復元しつつ、道を辿る。突然頭を何かが掠め、右肩に強く当たったと思うと、後ろでガシャンと大きな音がした。肩の痛みに思わずしゃがみ込み、振り返ってみると、エアコンの室外機が落ちていた。道沿いの傾いたビルから落ちてきたらしかった。
 
 地震の後、神戸の中心街である三宮に来るのは初めてであった。崩壊した交通センタービル、焼け焦げたセンタープラザ、損壊したそごう百貨店などは、ニュース映像として何度も見ていた。だが、ブラウン管の中の映像は、どこか作り物のような感じがした。そう思いたかったのだ。わたしが馴染んだあの平和で賑々しい三宮がほんとうは他のどこかにあるような気がしていた。
 しかし、今わたしの前の三宮は、苛立たしいほど映像のとおりだった。やっぱりこれが三宮なのだ。わたしの懐かしい街は、もうどこにもないのだ。学生の頃通った漫画専門の書店も、友人と粘って議論を交わしたカフェテリアも、初めてパソコンに触った電器店も、もうないのだ。これから復興したとしても、元の通りにはならず、わたしの知らない街になるのだ。それが口惜しかった。駅前の歩道橋から周囲をしばし眺め、わたしは嘆息した。同じような想いからか、立ち尽くしている人が歩道橋にはたくさんいた。
 
一昨日から国道43号に代替バス専用レーンが設けられ、運行がスムーズになった、と新聞に出ていたので、乗ってみることにする。
 JR三(さん)ノ宮(みや)駅前の国道沿いに何列も行列ができている。JR・阪神・阪急それぞれの代替バスの切符を買う列とバスに乗る列、6種類の列があるので間違えないようにしないといけない。わたしは「阪神最後尾」と書いた札をもった係員の所に並んだ。三社で打ち合わせたわけでもないのに、自然と乗り場や行列の棲み分けができたそうである。発車待ちしているバスは色とりどり、全国から応援に駆けつけているので、バス博覧会でも開いているようである。行先表示も「大学会館経由乃美尾(のみお)」「博多(はかた)駅バスセンター」などと現地のままの車も多い。それにしても、道沿いのビルは歩道側に傾いている。ロープは張ってあるが、倒れてきたらひとたまりもない。
 行列は長いが、バスは次々に来るようであった。しかし、もう少しでわたしの番という時になり、係員が、
「この後しばらくバスは来ません。お急ぎの方は、お立ちいただきますが、このバスに乗ってください」
 という。わたしの前後の人が列から離脱して満員のバスに乗り込んだ。阪神の路線バス用の車両であった。しかし体にダメージを負ったわたしは、待ってでも坐る方を選んだ。
 係員の言葉に反して次のバスは三分ほどで来た。近鉄バスの観光用車両で、わたしは非常口の横ながらリクライニングシートに身を沈めることができた。
 阪神は既に東灘区内の青木(おおぎ)まで開通していたので、バスも青木行だ。ただし、青木駅は住宅密集地にあるため、降り場から駅まで少し歩かねばならない。最も被害の大きかった地域の一つを歩くのである。その道沿いに、

「阪神の乗客へ 被災者をじろじろ見るな!」

と大書された看板が立っていた。

 青木から阪神の急行で野田
(のだ)まで行き、地下鉄に乗り換えて阿波座(あわざ)のホテルに泊まった。バス無しの部屋ということだったので、汗と埃を落とせないのかと思っていたが、シャワーは付いていた。冬ならこれで十分だ。
 翌朝は早起きして大阪7時05分発の「スーパー雷鳥サンダーバード1号」に乗って福井に戻り、そのまま授業した。本来ならこの列車は神戸始発なのであった。

|

4.神戸との再会

 その週は休まず授業をした。そうそう年休を使うわけにもいかなかった。そう思っていると、文部省から通達が来ており、震災に伴って家族の援助などで休暇をとる必要がある場合、職務に専念することを免除する(いわゆる職専免)制度を適用する、とのことであった。これは幸いなこと、と早速申請し、年休四日分が戻ってきた。その申請書類を見た校長から直々にお見舞いの電話をいただいた。さらに、教室の皆さんからのお見舞金が届いた。ほんとうにありがたいことだ。
 
 次の週末は、
2月5日土曜
の朝から出かけた。「雷鳥」系の特急は込んでいるのが分かっているから、避けることにした。武生発10時20分の「雷鳥20号」が案の定満員で出て行くのを見送り、わたしは10時25分発「きらめき2号」米原行に乗った。米原から新幹線「こだま」で新大阪へ。新大阪から臨時普通芦屋行で大阪に移動し、福知山線のホームに移った。
 中国縦貫道経由で三田と姫路を結ぶバスが運行開始したそうなので、そのルートで姫路までいくことにしたのである。このバスは当初新大阪~姫路間を運行することになっていたが、初日のバスが中国縦貫道の大渋滞で目的地に着けなかったため、三田発着に改められたそうだ。
 快速用のクロスシート車6輌連結が「普通/新三田」の表示で入ってきた。こんな列車は時刻表には乗っていない。迂回乗車用の臨時便らしかった。せっかくの増発だが、ほとんど客が乗らないまま三田に着いた。バスは少し遅れて発車したが、中国縦貫道は幸い空いており、定刻より十分早く十六時頃には姫路駅に着いた。ゆっくりと買い物と休養をして姫路泊。

 
6日の日曜
は、姫路9時45分発の臨時快速神戸行で出発する。
 被災地西側からのJR山陽本線は、神戸まで開通していた。中心部の三宮までは達していないが、「神戸」駅まで行ける、というのは、イメージとしてもかなり違った。今度も神戸まで行ってみることにしよう。

 臨時快速神戸行は、須磨を過ぎて新開通区間に入ると、走り方が異様になった。本来複々線の線路を複線分しか使っていないのだが、場所によって使える状態にある線路が違うので、特設のポイントやカーブで左右に進路を振りながら進む。そのたび減速がかかり、足許をとられてふらつきながら歩くかのようである。
 浜側から二番めの線路を走っていた電車は、次の鷹取(たかとり)の手前で、ポイントを左にたてつづけに二つ渡り、一番山側の線路に移る。鷹取の仮設ホームを通過すると、次の新長田(しんながた)駅はホームが完全に崩壊したため、普通電車も停車できなくなっている。そのホーム跡の高架下をくぐる線路で浜側に出る。被害、特に火災の酷かった長田区に入っていて、線路の両側はまさに焼け野原である。赤茶け、あるいは黒く炭化した燃え残りがどこまでも空しく広がり、ねじ曲がった鉄骨だけが辛うじて建つビルの残骸がぽつんぽつんと聳えている。歴史の教科書で見た空襲後の写真のままである。
 車内は込んでいるのに、静まり返っている。窓外のあまりの光景に誰も等しく言葉を失っているのだ。ここにどれだけの人の生活があり、命があったのか。そんな重さが人を黙らせている。人々の思いも知らぬげにやけに見通しがいいのが恨めしい被災地であった。この電車から見た景色と車内の雰囲気をわたしは生涯忘れないであろう。電車はまたポイントを渡って本来の線路に戻り、兵庫(ひょうご)に停車する。
 10時45分頃神戸に着く。「こうべー、こうべです」というアナウンスが懐かしかった。JRはここで終点だが、どうにか中心街まで鉄道で行けるようにはなっていた。
 神戸高速鉄道は、神戸市内に乗り入れる四つの私鉄(阪神・阪急・山陽電鉄・神戸電鉄)のターミナルがばらばらであった不便を解消するために昭和四十三年に開通した第三セクターの元祖ともいうべき鉄道で、線路だけがあって独自の車輌は持っていない。乗り入れ各社の車輌で営業しているわけであり、路線のほとんどが地下なので、文字通りのトンネル会社である。
 神戸高速鉄道もやはり震災で全線不通となった。もちろん神戸高速鉄道の線路自体も被害を受けてはいるのだが、それよりも、乗り入れてくる各社の路線が寸断されたので、走らせてもしかたなかったのである。
 しかし今回、たまたま地下線に取り残されていた車輌を使って、可能な区間だけでも営業することになった。JRなどとネットワークを形成しようというわけである。
 高速神戸から臨時普通阪神三宮行に乗る。山陽電鉄の車輌だ。JRから乗り換えた客ですし詰めである。途中元町(もとまち)で半分ほど降り、ここからは阪神電鉄の路線となって一駅進むと終点の三宮である。ここから先はまだ不通だ。
 わたしは近辺の店を見てまわった。両親から、三宮でどこの店が残ったのか、どこの店が営業しているのか、見てきてほしいと言われていたのである。
 アーケードが焼け落ちたセンター街などを歩いた後、手近なバス停から市バスに乗って神戸駅に至り、また不安げにさまよい走るJRの普通電車で朝霧へ、そしてバスで実家に行った。

 「明日の手形」はどうなってたか、と母に訊かれた。そういえば見るのを忘れていた。崩れたならもう片づけられているだろうし、そのまま放置されているのなら、そんなもの見たくもなかった。無意識に避けているのだろう。

 その日はバスで垂水(たるみ)に出、既に滝(たき)の茶屋(ちゃや)まで開通して特急運転を再開していた山陽電車で姫路に戻った。

 翌
7日月曜
は姫路8時00分の播但線急行「但馬(たじま)1号」鳥取行で帰途についた。迂回ルートの特急・急行の自由席には乗車券のみで乗れる特例になっていた。和田山着9時13分。
 和田山は普段はひっそりと静かな田舎の駅であるが、迂回ルートの乗換駅となったため、時ならぬ人出となっていた。必ずしも接続がよくないため、駅周辺の商店、それに駅弁も大増収になったことだろう。震災の思わぬ経済効果だ。本来迂回ルートの途中下車はできないルールになっていたが、待ち時間に改札を出入りするのは黙認されていた。駅としても、大勢の客にホームに屯されても困るのだろう。わたしも四十分以上ある待ち時間に外に出て気分転換した。
 9時57分発の特急「あさしお4号」で京都へ。そこから「雷鳥」で福井に戻る。

 
11日の土曜日
は、昼過ぎに家を出、鯖江から長浜まで普通電車、そこから臨時新快速芦屋行に乗った。芦屋で臨時普通住吉(すみよし)行に乗り継ぎ、代替バスで三ノ宮へ、さらに運行を開始していたJRシャトルバスで神戸駅へ、そしてまたJRの電車で朝霧、という本来の経路に近いルートで実家へ。
 地震後初めて実家で泊まった。ようやく実家も全てのライフラインが復旧した。周辺の商店も品薄ではあるものの営業を再開しはじめていた。つまり、わざわざ宿をとらなくてもよくなったのである。
 翌
12日の日曜
は、山電や阪急の代替バスを利用して大阪に出、「スーパー雷鳥」で帰った。

 次の週末は、学力入試のため福井を離れられなかった。ちょうど物資を運ぶ必要がなくなった時期だったのは好都合だった。
 
2月25日土曜
は、宝塚から有馬(ありま)へ山越えするルートが案外速い、という噂を聞いて、辿ってみたが、渋滞もあって、それほど効率がよくなかった。この日も実家に泊まった。
 
26日の日曜
は、市営地下鉄名谷(みょうだに)駅前のデパートが営業を再開した、というので、母とタクシーで出かけた。中の凬月堂(ふうげつどう)で教室の皆さんへお返しのお菓子を購入する。母と別れてバスで須磨へ出、そこからJRに乗った。西側からのJRは三ノ宮を通り越して灘(なだ)まで開通し、不通区間は住吉~灘間の二駅間のみとなっていた。短区間になったので待たずとも代替バスはいくらでもやってきた。
 住吉駅は、比較的長期間にわたって鉄道と代替バスの接続駅となっていたので、乗換の便が十分に考えられていた。普段はホームから駅の外に出るには、階段を上がり、跨線橋上にある改札を通らなければならない構造だが、この時はホーム外側の線路の上に板を渡し、階段を昇り降りせずに駅前広場とホームとが行き来できるようにしてあり、臨時の改札口も設けられていた。新快速は住吉始発で運転されるようになっていたので、それに乗って福井への帰途についた。
 
 それからしばらく神戸には足を向けなかった。幸いその必要もないようだった。リュックもお返しした。微妙な時期なので、お見舞いの返礼のお菓子は、クラスの学生の成績が確定するのを待って、先生方にお渡しした。
 年度末の指導が終わったこともあり、一応ひといきついて、わたしは三日間ほどの日程で関東方面の乗りつぶしに出かけたりした。
 
 彼岸と盆の墓参りはいったん実家を訪ね、両親と一緒に行くのがいつものことだった。が、現在の交通事情では、一日でそれをするのは難しく、わたしも連続した日程がとれなかった。そこで、
3月20日の月曜日
に日帰りで独り墓参りだけすることにし、しばらくぶりに神戸に入ることにした。
 いつしか次の青春18きっぷのシーズンが始まっていた。長いようで早い地震からの日々だった。地震直後は、全面復旧に二、三年はかかる、とされていた鉄道各線だが、前倒しになり半年程度で大方が運転再開できる、と伝えられるようになっていた。特にJRは、間もなくの四月初頭から全線で運転再開のはこびとなっていた。
 三ヶ月たらずでJRが復旧したから、と地震の被害が大したことはなかったかのように思われがちだ。しかし、JR東海道・山陽線は、わが国の主に貨物輸送の大動脈ということで、多くの関係者の献身による突貫工事により最優先で復旧した結果であることを忘れてはならないであろう。
 加えて、この3月20日は地下鉄サリン事件の発生した日でもあった。震災一辺倒だったマスコミの関心は一斉にそちらに向けられ、良くも悪くも報道が神戸から退いていくことになる。それは震災が終わったことでは全くないのだが、結果的には他地方の人にそのような印象を与えてしまうことになった。わたしはあの宗教まがいの団体に、この意味で悪印象を持っている。
 
 鯖江を早朝に出て、普通列車を乗り継ぎ、大阪へ。梅田から阪急で西宮北口
(にしのみやきたぐち)に至り、代替バスで御影へ、そこからまた阪急電車に乗って三宮で降りた。JRで神戸に行き、バスで鵯越へ。
 義経の逆落としで有名な鵯越だが、実際どこにあったのかははっきりしていない。地名としては残っているが、一
(いち)ノ谷(たに)から離れすぎているのである。その鵯越に神戸市営の墓園がある。ともかくも家族が無事であったことを先祖に感謝する。
 神戸電鉄とその代替バス、神戸高速と乗り継いで、三宮に出た。ふとわたしは「明日の手形」の場所を見に行く気になった。
 舗装がひび割れて段差だらけになった歩道を南へ急ぐ。市役所の前を過ぎると、仮設住宅の建設が進む東遊園地である。「明日の手形」は入り口からすぐのところにあるはずだ。
 
 意外にもそれは元のままの姿でそこにあった。補修された形跡はあるが、モニュメントはしっかり聳えていた。わたしは駆け寄り、自分の手形を探した。幸い手の届くところに見つかったそれと、わたしは向き合った。
 今のわたしより二回り小さい手は、周囲の手形と比べても、弱々しく浅かった。しかしその脇に釘で掘られた名前は、字の横棒が思い切り長く深く刻んであった。確かにわたしがいた。若かった両親に見守られ、無邪気に過ごしていたあの頃のわたしが、わたしの中に一度に戻ってきた。そして今まで抑えていた故郷への感情が堰を切った。
 合わない手形に自分の手を圧し当てたまま、わたしは俯き、しゃがみ込んだ。街に佇んで泣いている人間など、今の神戸では珍しくないのが、ありがたかった。
 ここにだけは、わたしの神戸があった。

(了)

|