第一日

 「しらさぎ2号」が米原に着くと、降りた客のほとんどが新幹線のホームに向かう。そのほとんどが上りホームに下りていくが、ぼくは人影少ない下りホームに下りる。ほどなく8時17分発の「ひかり179号」が入線する。二階建てのグリーン車に席を占める。東海道山陽新幹線の二階建て車両は来月で引退することになっている。それがあるからわざわざ早起きしてこの列車を選んだのである。二階建て車両を使った「ひかり」はもはや一往復しか残っておらず、それもあと一週間の命である。バブルを象徴するような豪華新幹線車両は登場時には大変な人気を得たものだが、もはや役目を終えたのである。二階建ての眺望を名残惜しく味わい、11時46分、小倉着。
 小倉からはこれも残り少なくなった国鉄メイクの特急車両で運転される「にちりん9号」宮崎空港行に乗る。宮崎というのは、JRには扱いにくそうな都市である。宮崎までの日豊本線が曲がりくねっているので、勝負を投げている感がある。博多~宮崎間の直通特急すら一日二往復(うち一往復は夜行)しかなくそれも5時間半もかかるので、福岡~宮崎間の単に上がって下りるだけの航空路は賑わっている。この「にちりん」も小倉が始発であり、多客期なのに空いている。
 17時11分、宮崎着。バスでシーガイアのホテルに至り、投宿。家族連れでいっぱいである。

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第二日

 宮崎から朝の普通列車で鹿児島に向かう。宮崎から都城までは、「原野」と呼ぶにふさわしい鬱蒼とした山間を行く。南国のイメージとは違う、人の手の入らない森林を縫って走る。
 鹿児島から乗る予定のフェリーは夕方に出るのに、朝早くから出発したのは、どうしても知覧に寄りたかったからである。この普通列車は西鹿児島に11時09分に着く。知覧方面行のバスは駅前を11時17分に出る。そのバスに乗らないと、フェリーの出航までに鹿児島に戻れない。少々きわどいので、列車が遅れないよう祈るばかりだ。
 都城からはまた山間を行き、トンネルが連続する。霧島神宮を過ぎ、トンネルを抜けると、突如眼下に国分の市街がひろがり、明るい陽が差す。眠気が吹っ飛ぶ思いだ。
 それはいいのだが、十一時五分を過ぎたのに、鹿児島にも着かない。遅れているというアナウンスもなく、気が揉める。11時09分に鹿児島に着く。ぼくともあろう者が、時刻表を見間違えたようだ。終点の西鹿児島に着いたのは11時13分であった。
 さあ大変だ。西鹿児島駅の駅前広場は新幹線の開業を控えて工事中であり、しかもかなり広い。荷物をロッカーに預けていきたかったが、そんな余裕はなく、重い荷物をかたげて駅前広場をひた走る。バスがどの乗場から出るかも知らないのだ。バスターミナルに着くと各ブースの行先案内を慌てて確認するが、知覧方面の文字はどこにもない。そのうちに発車時刻を過ぎてしまう。バスの姿もない。
 呆然として筋向かいのダイエーの方にのろのろと歩いていく。と、ダイエーの角を曲がろうとしているバスが「知覧・観音入口」の方向幕を出している。知らないうちにどこの乗場から出たのか。と思ったら、バスが角を曲がった先のバス停に停まるのが見えるではないか。どのくらい乗る客がいるのか。ぼくは弾かれたようにバスを追って走った。数人の客がバスに吸い込まれていく。バスが右の方向指示を出した。まだバスの後部まで30メートルはある。懸命に走る。最後の客がステップに上がろうとしている。

 こういう時の走り方のコツは、車道に下りて、サイドミラーの視界に入ることである。動きかけたバスは停まってくれた。けっこう混雑した車内に席を得、体を沈める。一気に疲れが出て、少し眠る。山を越えている気配だけが何となく体に伝わる。
 辺りが開けるような感じがして、道もまっすぐになった。
「次は、武家屋敷入口、武家屋敷入口です。The next stop is Chiran samurai house」
突然入った、ローカルバスに似つかわしからぬ英語のアナウンスに、乗っていた観光客の失笑が漏れる。 
 武家屋敷といっても、南国らしい作りである。石積みの垣に囲まれ、常緑樹に彩られた枯山水がしつらえられた庭が、涼しげな気分を演出する。この武家屋敷群ゆえ、知覧は「薩摩の小京都」の異名をとるという。街路樹には暖地広葉樹のイヌマキが使われ、電柱は立っていない。景観に気を遣っているようだ。
 やがてバスは終点の特攻観音入口に到着した。ここでは英語のアナウンスはなかった。

 特攻平和会館までは広い駐車場を横切って歩いていかねばならない仕組みになっている。その通路の脇には土産物や飲食物の店が並んで客を呼び込んでいる。「ホタル」というレストランも見える。気分が白ける。
 しかし館内に展示されている特攻隊員の絶筆を読むにつけ、心を衝かれる。自分のことよりも、残していく家族の精神的な負担が少しでも軽くなることだけを考えながら綴った文章に、命の力を考えさせられる。自らの運命を得心するまでの葛藤を思うとき、時代に対する怒りを覚えた。それらを読んだ後では、普段接している学生や卒業生と同年代の隊員たちの顔写真を正視することはとてもできず、急ぎ足で会館を出た。彼らを称賛する気にも憐れむ気にもならない。ただ哀しいのみであった。

 帰りのバスは猛暑に配慮してか、10分も早く停留所に付けてくれた。と思いきや、すぐ発車した。バスをちょっと待機所にでも移動するのか、と思ったら、ぐいぐいスピードを上げ、次の停留所の案内が流れた。
「26分発じゃないんですか?」
運転士に尋ねた。運転士はスタフを確認し、
「あ、間違った。すいませーん。もう一回戻りまーす」
とブレーキを踏んだ。

 鹿児島新港の待合室には何もない。ジュースの自動販売機すらない。あるのは五軒の売店だけであるが、五軒の品揃えも婆さんの腰の曲がり具合も見事に同じであった。ドリフのコントのセットを見るようだ。
 出航が近づくにつれ、大きな荷物を抱えた客が続々集まる。今日の「フェリーあかつき」は満席、と切符売場に貼紙がある。ぼくも二等船室しか取れなかった。
 乗船してみると、多客期の臨戦態勢である。本来ロビーである広間やレストランの中にも畳が敷かれ、臨時二等席として毛布と枕がびっしり並んでいる。ぼくの指定された席は通常の二等船室だったが、これ以上は詰められないほど客が詰め込まれることになっているようだった。ジグソーパズルよろしく、うまく向かいの人と足と足を互い違いに伸ばしてやっと寝られるのであった。長身のぼくは不利である。隣の人との境界も、あるようなないような、微妙な心理によってテリトリーが決まるのであった。
 当然ロビーの椅子は撤去され、レストランも営業しない。フロントで弁当などを販売するのみである。味気ない船旅だ。
 これが北海道方面のフェリーなら、どんなに込んだとしてもこのようにサービスレベルも落とさないし、客を本来の定員以上に詰め込んだりもしない。
 これは、船という交通手段の重みの違いなのだろう。北海道方面は、フェリーが満員でもいくらでも他の手段に逃げることができる。しかし南西諸島へは、少なくとも安価な交通手段としてはフェリーしかないのだ。小型の飛行機が一日二~三便しか通わないような島にも寄港する。だから、乗りたい人がいるなら限界まで乗せる、という使命感を感じた。こんな船にぼくのようなどうでもいい旅行者が割り込むのが申しわけなくなってきた。
 二十一時になると、船室は消灯となる。寝るしかなかった。

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第三日

 夜中に二、三度眼を醒ましたような気がするが、まずはよく寝た。
 5時20分に奄美大島の名瀬港に入港した。デッキに出て港付近を眺める。島というと辺鄙な印象があるが、闇の中をバスやタクシーが行き来し、ビルが建ち並ぶ普通の市街地であり、大島つむぎを連想させる情緒はない。ただ、平地の幅は狭く、手の届きそうなところに山のシルエットがある。三百人くらいの船客が下船したが、その半分ほど乗りこんだのは意外だった。島相互の行き来もけっこうあるのだろうか。

 三十分ほどの碇泊で名瀬を出港すると、空が漆黒から紺になってきた。穏やかな天気だ。涼やかな微風が、海面に網目模様を描いている。と、船の真後ろの山の向こうから、いま太陽が出た。見る間に光の筋が水面を船に追いすがってきた。フィルターでも差し込んだかのごとく、突然空が青になった。次の瞬間、海が青くなった。こんなに素早い夜から昼への転換は初めてである。
 海の青さは藍でも流したような、純粋な青だ。これほど青い海を見るのも初めてだ。デッキの人たちも思い思いに海を画像に収めている。

 9時00分には徳之島の亀徳港に着く。フェリーターミナルはささやかな建物である。陽差しが強くなってきた。出迎えの人と下船客が派手に抱き合っている。感情表現がストレートになってきた。
 沖永良部島に近づいてくると、島が時雨れているようだ。雨が上がると、普通と逆さまの、つまり上に開いた半円の虹が島にかかった。急いでカメラを取り出してファインダーを覗いたが、その時には虹は消えていた。11時35分に着いた沖永良部島の和泊港にはターミナルビルはなく、ベンチの上にコンクリートの屋根が付いた、吹きっさらしの待合所があるだけである。地方の駅のようだ。その中から客がばらばらと出てきて列を作り、船に乗り込む。
 港に寄るたび、顔だちがくっきりして肌が浅黒く体毛が濃い、一目で南方系と分かる人の船客に占める割合が高くなってゆく。試合帰りと思われる中高生の団体も何校も乗っているが、彼らの顔も南方系だ。男子高校生の多くは、せっかくの凛々しい太い眉をわざわざ剃って細くしている。女子の方がむしろ眉を逞しく温存しているようだ。
 13時45分、与論島に着くと、ここの港には掘っ建て小屋のような切符売場以外何もない。もはやこれはバス停である。客は小屋の横に並び、手を額に翳して接岸を待っている。

 船は与論島を後にした。デッキの地べたに坐り、空と海をぼんやり眺める。人いきれの船室は息が詰まるのだ。
 風が出てきた。かつては国境だった海峡を、船は何事の不思議なく滑って行く。沖縄本島の北端が船の真横に来た。船尾の方を振り向くと、与論島はまだ見えている。途中ケータイが圏外になることもなかった。そして、白波の列は与論島まで連なっている。空を見上げて目を見開いた。編隊を組んで本土に向かって飛び帰ってゆく戦闘機の幻影が見えた気がした。

 沖縄本島北部の本部港を出ると、最終地の那覇が近い。下船口に客が集まってくる。南方系の人々の顔を見わたすと、ぼくの知り合いによく似た人が何人もいる。同じ宿舎に住む人、コンビを組んだ同僚、大学の後輩の女の子、……、そうかあの人たちは南方系とくくることができたのだったか、と納得する。それでもここは日本である。

 那覇港ではタクシーの客引きが激しい。ぼくは最初から乗る気だからよいのだが。タクシーは片側四車線の広い国道に左折した。どの車線もクルマが連なっている。那覇名物の大渋滞である。苛々するが、これがあるからモノレールが造られ、ぼくが沖縄に来られたのだから、恨むべきではない。左折で合流するのも一苦労の渋滞なのに、運転手は、そこから僅か百メートルほど先にある次の信号の右折車線に入るという芸当を見せてくれた。いよいよ明日はモノレール。

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第四日

 ホテルの近くにモノレールの駅があるはずだ。
 信じる方向に歩く。が、モノレールの線路はなかなか現れない。那覇の街は思いの外複雑な地形で、山あり谷あり川あり、次第に方向が分からなくなってくる。朝なのにじりじりと肌が焦げそうに暑い。コンビニに入り、地図を立ち読みし、念のため女性店員にも道順を尋ねた。お礼がわりにおにぎりとお茶を求める。が、おにぎりが何度やってもレジを通らない。店員はラベルをしげしげ眺め、
「あ、これたった今販売期限過ぎたさー」
 時計を見ると、九時一分だ。
「じゃ、新しいのに替えてもらえる?」
「それが同じ物の在庫がないんで、これ、差し上げます。急に傷むもんでもないから早めに食べてください」

 教わった道順で歩いていく。しかし、路地はまがりくねって上下する。またわからなくなってくるが、何とかあの角を曲がれば駅があるはず、と確信の持てる地点まで来た。角を曲がってみると、さっきのコンビニだった。

 結局ホテルを出てから三十分以上経って、やっとモノレールに乗れた。上下ホームにそれぞれガードマンが立ち、ホームの柵にもたれないように、など客に注意している。電車が着くと、メガホンを持ち、「降りる方が優先です」などと言う。どの駅も同じ態勢だった。車内は込んでいる。
 西の終点である那覇空港に行く。日本最西端の駅である。土産物を買って、再びモノレールに乗る。次の赤嶺が日本最南端の駅である。国場川を渡りながらカーブし、川沿いの壺川となる。見下ろす民家の屋根の形が本土とは違う。赤瓦で葺かれた屋根の天辺から四隅に向かってしっかりとした太い梁、というのかが踏ん張って台風から家を守っている。旭橋からは久茂地川の上に線路が設置されている。既成の市街地に安価に鉄道を敷こうとすると、道路や川の上を利用できるモノレールとなるのだ。
 「安里屋ユンタ」の安里を過ぎると、次第に郊外丘陵地帯の住宅街に入っていく。せっかく右側に首里城の全容が見えるのに、モノレールはそれを避けるように左にカーブし、終点首里に着いた。首里城へはここから20分近くも歩かねばならないという。ここの町名は首里ではないし、少々あざとい命名である。陽差しのなかを首里城に向かう。
 琉球王朝最大の遺跡である首里城の造りを見ていると、本土とシナとに挟まれて揺れ動いた歴史を感じる。日本と言えば日本、異国と言えば異国というこのムードをいかに表現するべきか。日本から出たことのないぼくではあるが、領土とか国境とかいうものはしょせん時勢にもとづくバランスで決まるあやふやなものだ、と感じざるを得ない。

 首里城入口からバスに乗って国際通りの牧志に引き返し、そこからモノレールに乗り継ぐ。改札口を入った所に大きな貼り紙がある。
「乗車券は片道用です。目的駅まで行って戻って来られる時は、目的駅で電車を降り、改札口を出て、帰りのきっぷをお買い求めのうえ、改めて改札口をお入りになり、帰りの電車にお乗りください」
二度三度と読み返しても、貼り紙の意図が分からない。?マークを頭上に咲かせたままとりあえずホームに上がり、電車が来たころにようやくあ、そうかと理解できた。旭橋で降りる。ここは那覇バスターミナルの最寄り駅だ。郊外へ向かうバスにはここから乗る。
 鉄道のなかった沖縄の交通は、バスの独擅場であった。運転系統も路線も複雑に入り組む。それらが発着するこのバスターミナルは、ぼくが今まで見た中でもっとも大規模であり、骨董品のようなバスがずらり並んでいるのは壮観だ。写真に収める。これから向かう糸満への路線も、経由に十種類近くある。どれでも所要時間はそう変わらないようだが、困るのはそれらの乗り場がばらばらであることだ。不案内な者にはどこで待つべきかが分からない。四社のバス会社が通しの系統番号を付けているのは、助かるのだが。

 東風平(こちんだ)経由糸満行のバスに乗る。住宅地に入ると、屋根に立派なシーサーを乗せた家が目につく。バス停にもシーサーがいる。途中、丘陵に登りはじめると、空が曇り、ぽつぽつと雨粒がフロントガラスを叩きはじめた。それからどしゃぶりになるまでに三分とかからなかった。みるみる道路は川のように雨水が流れはじめる。各バス停には瓦をのせた立派な屋根が付いていて、何でこんなものが要るのか、とさっきから思っていたが、こういう雨の降り方をするなら、分かる。にわか雨と言うよりスコールと呼んだ方がいいのだろう。峠を越えて糸満の市街地に下りていくと、雨は上がり、からりと青空になった。陸地の幅が狭いので、本土のように微妙な天候の変化をもたらす複雑な地形が形成されておらず、こういうさっぱりと竹を割ったような天気になるのか。
 糸満からバスを乗り継ぐ。行かねばならない場所があるのだ。

 糸満から南部循環線に乗り継ぐ。バスが通れば幅いっぱいの曲がりくねった地方道をぼくだけを乗せて飛ばす。両側に背の高いさとうきびがざわわと揺れ、見通しは利かない。はらはらするが、歩行者にも対向車にも一向に出会わない。住宅地に入ると、今度は石積みの垣が見通しを阻む。こうした風景には、北海道の原野や牧草地帯とはまた違った無造作な悠久がある。
 ひめゆりの塔前下車。建ち並ぶ土産物屋が呼び込みの声を競っている。

 資料館の中には、粗末な病院壕などが再現されている。壕というのは想像していたより大規模で、地中深くまで掘られていたようだ。
 非戦闘員である女学生を戦いの前線に駆りだし、激戦の最中に解散命令を出して管理を放棄し、彼女たちを戦火のただなかにほおり出した軍部には、戦局からやむを得なかったとは言え、割り切れぬ思いを抱かざるを得ない。部隊の少女たちとともに、教官も多数犠牲になっている。ぼくの眼はどうしてもそちらに向く。彼らは最期の瞬間まで教師の威厳を保ったのか。あるいは一個人に戻って学生たちと抱き合ったのか。どちらであれぼくに批判する資格などあるはずもない。少女たちが愛唱したという「別れの歌」を作曲したのは、二十四歳で亡くなった師範学校の助教授だった。

 言葉巧みにタクシーを勧める運転手を退け、やってきたバスに手を挙げる(沖縄のバスは手を挙げないと停まらない)。糸満に戻り、今度は海沿いに走る豊見城(とみぐすく)経由で那覇に戻る。
 遅めの昼食を摂ろうと食堂に入る。特に郷土料理を謳うわけでもない普通の食堂なのだが、メニューの大半が目にも耳にも口にもしたことのない言葉なので、煩悶する。一応それぞれの献立の内容は解説してあるのだが。
 「このイナムドゥチ定食とソーキソバ定食はどう違うの?」
 「イナムドゥチのほうは、ソバのソーキが一切れになります代わり、デザートにサーターアンダギーが付きます」
 「……」
もうどうでもよい。一番なじみのない名前のイナムドゥチ定食を注文してみる。イナムドゥチというは、豚肉と椎茸と筍を細切りにした具が入った味噌味の汁物で、混じり合った出汁の香りが大変うまかった。昆布と揚げの油炒めやもずく、ゴーヤの酢の物も付いている。ゴーヤの青臭さは、ぼくはどうにも好きになれない。サーターアンダギーはドーナツ状の菓子で、表面がカリカリになるまで揚げてあるので香ばしい。

 今晩は泡盛を呑もうと思う。ホテルは住宅街にあって周囲に店はないし、レストランは込んでいる。そこでルームサービスで簡単な料理を頼む。部屋には泡盛の瓶が備えられている。伝票にサインしながら係員に訊ねる。
 「泡盛ってのは普通どうやって呑むんですかね」
 「そうでございますね。ストレートできつくてございましたら、水割りでも呑んでいただけるでございますし、オンザロックでもよろしいでございますね」
吹き出しそうになるのをこらえつつ、礼を言う。若い係員だから敬語がぎこちないのか、沖縄共通語なのかは不明である。形容詞文を敬体にするのは確かに難しいのだが。
 一人泡盛を傾けつつたった一日の滞在を振り返る。本土とは明らかに文化の異なるこの土地に、島づたいにやってきたのは、意味のあることだった。島から島へと渡るごとに移っていく風俗と言葉と人々の顔つきを見ていると、「日本」とは何なのか、分からなくなる。恐らくこのまま先島諸島に立ち寄りながら台湾に至ったとしても、先入観がなければどこが国境だったか分からないのではないだろうか。こんな気持ちになったのは初めてであり、飛行機で来ていたらこうは感じなかったろう。
 モノレール自体は、乗ってしまえば特に本土のそれとかわり映えはせず、わざわざもう一度乗りに来るようなものではない。しかし、ぼくは近いうちにもう一度沖縄を訪れたいと思いはじめていた。まともな時期のフェリーに乗りたい、ということもあったが、何よりこの地で考え感じとるべきことが、もっとあるような気がしていた。
 43度と表示された泡盛は、小瓶とは言え、とてもぼくには呑みきれない。米が原料だから日本酒と似た舌触りであり、鼻を衝く香りは心地よい。しかし何分にもきつくて体が受け止めきれない。口直しにビールを少し呑み、半分以上残った泡盛の瓶を棚に戻し、蓋を閉めた。

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第五日

 昼時の那覇空港は、帰省と観光のラッシュが重なって混雑の極みであった。航空券の受け取りも、荷物を預けるのも、フォーク並びで行列するのだった。フロアに屯するのは、沖縄ルックを身につけたヤマトンチュたちがほとんどであった。
 飛行機は特攻機と逆のコースを飛んでいく。ぼくの席は通路側で、島を見下ろすことはできない。
    
(了)

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