備後一周JRの旅

INDEX

1.はじめに
2.広島→西高屋
3.西高屋→福山
4.福山→府中
5.府中→三次(臨時便)
6.三次→広島(快速「みよしライナー」)


1.はじめに

 仙台でもやったように、広島からも「青春18きっぷ」を用いてJR線をぐるっと一周して来ようと思う。これは、ほぼ備後を巡る旅ということになる。


2.広島→西高屋

 8時45分発の糸崎(いとざき)行に乗るつもりで広島駅のホームに上がると、一本前の27分発白市(しらいち)行が入ってきたところだった。休日とはいえ、朝の広島始発に乗り込む人が意外に多い。途中までしか行かないが、空席はあるので、とりあえずこれに乗ってみることにする。
 電車は、海田市(かいたいち)で呉(くれ)線と分かれると、瀬野川(せのがわ)沿いに勾配をぐんぐん登りはじめた。  

 山陽線の線路と国道2号とが寄り添って登っているが、山と山の隙間がだんだん狭まっていく。中野東(なかのひがし)や瀬野の駅でかなりの人が降りる。近辺に大学などもあるようである。
 瀬野からは有名なセノハチの峠越えになる。次の八本松(はちほんまつ)まで、鉄道としてはかなりの急勾配になるので、貨物列車は広島から後押し用の機関車を後部に連結する。役目を終えて坂を下っていく赤い機関車と擦れ違ったりする。八本松を少し過ぎた所で平坦になり、西条(さいじょう)の市街地が広がる。
 西条に近づくと、「三原(みはら)・糸崎方面はこの駅でお乗換えください」とアナウンスがある。この電車の終点はまだ二つ先の白市だが、乗換えの指示をするからには、何か意図があるのだろう。しかしわたしは天の邪鬼に乗り続けることにする。
 以前も同様に、三原方面に行くにもかかわらず白市行に乗ったことがある。その時は白市で降りて、途中下車して駅前を歩いたりしながら後続便を待った。白市では確か折返しのため下りホームに電車が到着したと思う。乗換えには階段の昇り降りを要した。それがあるから西条での乗換えを推奨するのかもしれない。
 そこで、わたしは西条の次の西高屋(にしたかや)で降りることにした。ここならホームが替わることもないだろう。ここでも下車客はけっこういたのだが、皆がすぐに改札を出るなか、わたしと同様上りホームに留まって、喫煙コーナーで煙草をふかしたりしている大学生風の二人連れがいる。同じく三原方面に乗継ぐのか、と思っていたら、吸い終わったら連れ立って改札を出てしまった。ずいぶん場馴れしているものだが、ホームから駅前を見ると、大学の名前を記した宣伝塔が建っている。駅の北方に大学のキャンパスがあるのだ。さっきの二人もそこの学生かもしれない。
 駅の近辺は、大学のある街にありがちな華やぎは感じられず、むしろ落ち着いたムードである。少し離れた所にCDレンタルショップが見えるくらいだ。そして、下りホームの向こう側、つまり南側はまったくの田園風景である。


3.西高屋→福山

 改札を入ってくる人は多いが、皆が皆、跨線橋を渡って下りホームに行ってしまう。買い物や用務も、広島を指向するようで、三原や福山(ふくやま)に向かおうという人はいない。本数も下りの方が多く、さっきの電車が白市で折返して来て岩国(いわくに)行として発車して行っても、まだ上りは来ない。ホームが替わらない、という意味では、この西高屋での乗換えを促してもいいはずだが、ホームやその周辺にあまりにも何もないので、西条を勧める、ということだろう。
 やがて9時28分発の糸崎行が来た。先頭車輌に空いた二人掛けがあったので、そこに坐る。
 白市を過ぎると、線路が大きく曲がりくねるので、一駅進むのにも十分前後かかったりする。河内(こうち)は昔の準急列車が停まった駅だが、現在は静まり返っている。
 むしろ、その次の本郷(ほんごう)の方が明るく開けている。線路が高架になって市街を見下ろすようになり、三原に到着する。この電車は次の糸崎まで行くが、その先へ行く岡山行はこの三原が始発なので、向かい側の電車に乗換える。以前は広島から岡山まで直通する電車も多かったが、現在は三原か糸崎で乗換えとなるケースがほとんどだ。どちらで乗換えるのが得策かは時間帯や便によって異なるので、アナウンスをよく聴いていないといけない。

 10時39分着の福山で下車した。ここで福塩(ふくえん)線に乗換えるのだが、少し待ち時間があるので、駅構内にある蕎麦屋で、「しまなみ街道そば」なるメニューを取る。えび天と山菜となめこが載った冷し蕎麦であった。


4.福山→府中

 十一時過ぎに、お城に面した福塩線ホームに上がる。2輌編成の電車が入ってきて、八割方の席が埋まった。11時18分に、終点府中(ふちゅう)に向けて発車する。福塩線は福山から塩町(しおまち)までの路線なので、その名がついているが、府中は途中の駅である。
 福塩線のこの区間は、元々軽便鉄道として大正時代に開業したのを、戦前に電化、さらに国有化したものである。小私鉄が造った線らしく、駅間距離も短く、カーブもきつい。府中に近づくにつれ、駅から駅まで一キロほどしかないような所も多くなる。市街も連続しているので、乗降も府中駅に集中せず、手前の高木(たかぎ)や鵜飼(うかい)で降りる人がそれなりにいる。府中市も、福山郊外の通勤圏に含まれ、駅から各方面の住宅地に向かうバス路線がある。

 府中から先は、国鉄が建設した非電化路線である。だから、打って変わって山間に入り、駅間距離も長くなる。いわゆる「汽車」の路線に換わるのである。非電化だから、当然電車は入れず、ここでディーゼルカーに乗換えることになる。
 沿線の人口密度もぐっと稀薄になるので、本数も減る。府中までは毎時一~二本の電車があるが、この先は僅か一日六往復しかない。通学生が主な客らしく、特に昼間の運転がない。何にしろ、府中発8時11分発の次は15時05分までないのだ。反対方向の塩町発も同様で、それではあまりに不便だからか、上下両方向とも、正午過ぎに臨時便が設定されている。
 この臨時便の運転日は、曜日などが一定せず、あまり法則性が見いだせない。沿線の学校の行事予定などを勘案しているようなのだが、学校の休み期間が運休というわけでもない。とにかく、今日を含んだ3月後半は毎日運転されるので、わたしもこの臨時便に乗ることになる。


5.府中→三次(臨時便)

 1輌だけの小型ディーゼルカーが、改札口から線路を隔てた2番線ホームに停まっている。これが塩町方面の三次(みよし)行臨時便になるらしいが、待合室の時刻表では、改札口に面した1番線発車となっている。1番線にはわたしが福山から乗ってきた電車が停まっている。その電車が折返し福山行となって発車した後、ディーゼルカーが一旦福山方に引き上げられ、改めて1番線に入ってきた。客を歩かせないために手間をかけている。このごろのJRではよくみられるようになった手法だ。
 「青春18きっぷ」のシーズン中だからか、わたしと同じく鈍行そぞろ乗り旅行の人が十人ほど、ディーゼルカーに乗り込んだ。また、府中市街で買物などしたらしい主婦も数人乗る。臨時便の運転日をチェックして利用しているのだろう。オールロングシートの味気ない車輌だが、便があるだけいいと思わねばならない。

 12時30分に発車、線路は芦田川(あしだがわ)が生成した谷筋に忠実に沿って、蛇行する。ささやかな集落が現れると駅があり、地元客を降ろしていく。河佐でそれが一変する。この先の芦田川は八田原(はったばら)ダムが造られていて、元の川筋と線路は湖底に沈んでいる。線路は付替えとなっていて、長大なトンネルで一気にダムの横をすりぬける。だから、ダム湖である芦田湖を車窓から望むことはできない。そのトンネルを出ると、左側から線路跡らしい道が合流してきて、備後三川(びんごみかわ)に着く。

 備後三川は世羅町(せらちよう)に属するが、かなり北東のはずれである。世羅町は、備後北部の比較的大きな町で、各種農産物が豊富に生産される所だが、中心部に鉄道は通っておらず、ここが町内唯一の鉄道駅となる。端っこに位置して一日数往復しか停まらないのだから、玄関口とは言いがたい。
 芦田川は、その世羅町の中心部の方から流れてきて芦田湖に注ぐのだが、線路は芦田川の支流を遡っていき、再び府中市域に戻る。
 ほんの少し平地が開けた所に、備後矢野(やの)という小駅がある。小屋といってもいい駅舎の中で、不似合いにも、蕎麦屋が営業している。列車の利用客だけで商売が成り立つとは思えないので、地元の客も立ち寄るのだろうか。餅の入った「田舎そば」が名物メニューであることが、車窓からも読み取れる。こけしなどの民芸品も展示されている。
 備後矢野を出ると、僅かずつだが土地が開けていき、右手に高校のグラウンドが見えたあたりで、ブレーキがかかる。寄り添ってきた芦田川の支流が左手に去る。

 上下(じょうげ)に停車し、客の半分ほどが入れ替わる。つまり、乗ってくる人もそこそこいるのである。府中市北部の市街であり、この福塩線はダムのあたりを通るややこしい経路だが、道路なら山中を突っ切って府中と上下とを直結するルートがある。ここで、三次からの上り臨時便と交換する。あちらはセミクロスシートで、前向きに坐れる席が少しだがある。
 上下で乗ってきた若い男性が、にこにこしながら運転席に近寄る。運転士と顔見知りらしく、運転士は、
「いよいよ新生活の始まりじゃのう」
 などと言っている。男性は大荷物を背負っている。この線で高校に通っていたのが、進学か就職で地元を離れるのであろうか。
 上下を発車すると、右手の市街から流れてきた上下川が線路に沿う。先ほどの支流と一キロも離れていないが、あちらは瀬戸内海、こちらは日本海に注ぐ全く別の水系である。分水嶺であることが「上下」の地名の由来だという。左側の中学校は、地図では「上下中」と表示されることになり、漢文の勉強のようだ。

 すぐに府中市域を出はずれ、三次市に入る。最初の大きな集落が甲奴(こうぬ)で、駅がある。市境は越えても距離が近いから、上下との行き来は盛んなようで、上下で乗った買物客や高校生が何人か降りる。駅舎には水原弘(みずはらひろし)と由美(ゆみ)かおるの有名な琺瑯看板が吊り下げられている。表面は綺麗に磨かれており、放置ではなく意図的な展示らしい。
 備後安田(やすだ)で上下川と別れ、狭い谷を西へ辿る。途中の対岸に、「まむし養殖センター」の看板が見える。そんなものに養殖するほどの需要があったのか。
 吉舎(きさ)、三良坂(みらさか)と駅を経るごとにだんだん町の規模が大きくなるが、その次の塩町、つまり福塩線の終点は、周囲にまとまった家並みもなく、単に芸備(げいび)線に合流するための駅、という感じである。それも、芸備線が福塩線を迎えに来るかのように大きく南に迂回してこの塩町に停まっているので、福塩線の線路の方が直線的で、こっちが本線のようだ。
 福塩線の旅を志したらしい老夫婦が下車しようとするのを、運転士は、
「ここで降りても何もないですよ。この列車が三次で折返し府中行きになりますから、三次まで行かれてはどうですか」
 と止めている。が、老夫婦は、何もなくてもその辺を散歩するから、と降りて行った。
 あの上下川は、あれから大いに蛇行するとともに多数の支流を我が物として、大きな川になっている。名も馬洗川(ばせんがわ)と変わって線路の北を並行している。三次の鵜飼で知られる川である。市街が開けてきて、八次(やつぎ)に停まると、あの大荷物の男性が運転士と懇ろに挨拶を交わし、降りていく。三次市内に移住するのだろうか。
 発車してほどなく、14時21分、終点三次駅に到着した。


6.三次→広島(「みよしライナー」)

 小雨が降りそうな雲行きではあるが、三次の町を散策する。馬洗川の堤に登って鵜飼に思いを馳せたり、路地を歩いたりする。最長片道切符の旅では二泊もした三次だが、二十年ほどの間に様変わりしている。というより、あの時は泊まっただけで、ろくに歩いていなかったことに気づく。
 さっきからお茶を飲みたい気がしているのだが、観光シーズンでもない日曜のこの時間に営業している店は少なく、なかなか入れる所がない。不本意ながら、駅に近いファミリーレストランでケーキセットなどをとる。ドリンクバーなどという慣れないシステムにとまどい、店員も少ないので訊くこともできずにいると、他のお客さんが親切にいろいろ教えてくれる。自分のどんくささが情けないが、後から来た人も同様にまごまごしているのを見、少し安心した。

 駅に戻り、16時02分発の芸備線下り快速「みよしライナー」広島行に乗る。中国地方最大の駅にして大幹線の山陽線との接続点たる広島駅へ向かう方向が「下り」なのは不自然にみえるが、芸備線の上り下りはそうなっている。あくまで東京に近づく方が「上り」なのである。今度は国鉄製の大きなディーゼルカーの二輌編成である。古い車輌ながら、その貫祿に安心感がある。昔ながらの四人掛けボックスを占領する。
 向原(むかいはら)のあたりで再び分水嶺を越え、瀬戸内側の川筋に沿い、広島に向かっていく。 
 各駅停車の列車ばかり乗継いできたので、通過運転が新鮮で爽快な気分である。以前は広島~三次間には急行列車が走っていたのだが、快速に格下げされた。おかげでわたしもこうして「青春18きっぷ」で乗れるのだが、料金収入を逃してはいないか、と心配になる。しかし、志和口(しわぐち)で三次行の上り「みよしライナー」と行き違うと、向こうは立ち客もある混雑ぶりである。急行ではああはならないだろう。
 志和口から下深川(しもふかわ)までノンストップで進むと、周囲は住宅団地が多くなる。マンションなどの建物が多くなっていくが、地形は複雑で、道路との交叉も、跨いだり潜ったり踏切だったりさまざまである。ここからは広島まで各駅に停まっていき、多くの客が乗ってくる。
 郊外電車の雰囲気になり、ダイヤも下深川からはきっちり二十分間隔に揃えられている。乗り降りする人たちも、この列車がどこからやってきたのか、快速なのか普通なのか、そんなことに関心はないようであった。 

(平成26年3月執筆)

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懐かし電チャリ8耐

 この記事は、当ブログの前々身であった電子掲示板に連載していたものですが、その過去ログも閉鎖して皆さんの目に触れることもなくなっていました。
 そのため、ブログに再録することにしました。加筆修正はしますが。本文中の地名、なかでも市町村名は、合併などにより当時と現在とで変わっている場合もありますが、平成11年当時の地名としています。その他の記述も、あくまで当時の状況を反映したものです。

 平成11年、わたしは内地研究のため大阪の大学に半年間在籍して研究活動をした。研究期間は年度後半であったが、年度前半も、授業の曜日を集中させたり、校務分掌を軽減してもらったりして、大学との間を行ったり来たりの生活となった。その一年間は、郷里の神戸に住むことにし、歌敷山(うたしきやま)に部屋を借りて住んだ。歌敷山は、実家からそう遠くはないが、近所でもない。あまり近所に住むと、実家にべったり頼って、年寄せた両親に負担をかける、と思ったので、適当な距離をおいたのだ。
 そこへの引越しの時、愛用の電動アシスト自転車を積み忘れた。そこで、どうせしばらくは往来するのだし、それならいっそ自分で運転して神戸まで運んでやろう、と思いたった。夏季休業の時期なら、そういう時間も作りやすい。
 当時乗っていた自転車はバッテリー容量も小さかったから航続距離が短く、体力的な問題も考えて、一日あたり20kmを目安にした。それで、延べ八日かかって神戸にたどり着く予定を立てたところ、卒業生が電動アシスト自転車8日間耐久レース、略して電チャリ8耐という適切な名をつけてくれた。
 八日間といっても、まとまって休みの日は取れないし、飛び飛びの日程にならざるを得ない。駅に電チャリを置いておいて、バッテリーを持って電車で家に戻り、充電するわけである。


 第一日、十六時頃に所属校を出発した。あまり暑いとばてるので、夕方の時間帯に二時間ほど走ることにしたのだ。

 日野川(ひのがわ)のサイクリングロードに出る。いつもと違う道を走るだけで、何か楽しい。子供の頃に自転車での行動範囲を拡げていった時のわくわく感が思い出される。
 サイクリングロードは赤い舗装がしてあるのだが、時に国道365号と合流したりして、途中でわからなくなってしまう。しかたなく国道を南に向かう。大分走った気がしたが、まだ今日の中間地点である南条である。ローソンがあったので、ここらで休憩と思って電チャリを停めると、横に停めてある自転車に所属校の通学許可シールがある。まだ手の内だった。わたしはそろそろ疲れてきたのだが、これくらいの距離を毎日自転車通学している学生もいるのだから、感心する。負けてはいられない。

 湯尾(ゆのお)を過ぎると山の気配が迫ってくる。行き交うクルマはトラックが多くなる。注意しないといけない。十八時前に北国街道の宿場町今庄(いまじょう)に着いた。駅前の立派な自転車置場に停め、バッテリーを外す。今日は平地だったので、電気にも余裕があった。
 次は滋賀への県境に挑むことになる。


 第二日、15時46分今庄着の列車から降りる。駅前から町民バスが出発しようとしている。わたしが向かおうとする山峡に向かう路線だ。わたしはバスには目もくれず、自転車を目指す。

 国道365号を辿る。思ったより道が湾曲しているし、思ったより勾配がきつい。登りに登りつづけていくうち、小雨も落ちはじめ、向かい風になる。天気予報で降水確率と風向きを確認してきたのに、山は信用ならぬ。この先栃ノ木(とちのき)、椿坂(つばきざか)の二つの峠が待っているので、電気を温存したいのだが、これでは電気に頼らねば進めないではないか。さっきのバスが折返して来たのと擦れ違う。恰幅のいい女性のドライバーだ。
 板取(いたどり)宿に立ち寄り休憩する。ここも昔は街道の要所だった宿場で、藁葺きの風情ある民家が保存されていて、涼しげである。しかし、今は住む人も少なく、誰もいない所で嵐気に囲まれていても落ち着かず休んでいる感じがしない。息は上がったままだが、いつまでもこうしている気になれず、また登りはじめる。
 出発から一時間半ほどで365スキー場入口に到着する。ここで大休止。温泉が併設されたスキー場で入浴と充電をしたいところだが、スキー場に上がるにはまた坂道で、やはりそういう気にならない。
 この後もだらだらの登りで体力と電力を消耗。つづら折りの途中でついに自転車のカラータイマーが点滅しはじめる。バッテリー切れの警告である。かなり苦しい状況になる。勾配はきつくなるばかり、ギアを「軽」にしてもたちまち重くなる。小刻みに休憩をとるが、その間隔も次第に短くなり、前を見るとまだ見上げるばかりのところに先の道が見える。
 折角ここまで登ってきたが、峠まで体力がもつのか。諦めて今庄へ引き返すべきか。人生と似てなくもない苦渋の選択を余儀なくされている。掲示板で卒業生が「365はバイクでもきついですよ。頑張ってください」と言っていたのが思い出される。
 時刻は十七時を過ぎ、あまり迷っている時間はない。さあ、どうする。こんな山の上を他に自転車で行く人などいるわけもなく、通りすぎるクルマから怪訝な視線が飛び来る。
 しかし、周囲が山ばかりで、見通しがきかないから不安になるのだ。山を越えれば見える景色もあるだろう。こんな所で迷っているより、せめて先の見える所まで行こう。引き返すのはそれからでもいい。戻るくらいなら、自転車を押して歩いてでも、たとえ一メートルでも進む方がましだ。この真夏、万一山中で夜明かしすることになっても、凍死するもんでもなかろう。絶対後ろには戻らんぞ。
 そう決めると、ペダルを踏む足にも力がこもる気がする。十分あまりもかかって、さっき見上げた地点まで登ってくる。そして尾根を左に回ると。
 何のことはない。そこが県境の峠だった。そう言えば、ここよりも高い峰は見あたらなかった。道が下りに転じる瞬間の恍惚に、苦しさのすべてを忘れ、電チャリは人が変わったように速度を増していく。さっきの場所から引き返していたら、なんともったいなかったことか。あとほんの一歩が踏み出せずに挫折する人生も多いのだろう。

 滋賀県側最初の集落である中河内(なかかわち)に入る。ここで全く期待していなかった自動販売機を道端の家に見つけ、スポーツドリンクを飲む。その横には、カレーライスと五目飯の自動販売機が並んでいる。こんなのは初めて見たが、スーパーも飲食店も近くにない山峡の村では、それなりに需要があるのだろうか。ここまでは滋賀県側の木之本(きのもと)からバスの便がある。
 国道365号はこの先、椿坂峠を越えるが、電力を使い果たしたので、峠越えは無理と判断して、旧道を下ることにする。距離は大幅に伸びるが、川筋を忠実に辿るので、下り一方のはずだ。
 旧道を順調に下りはじめて500メートルほど行った所で見た立て看板は、再びわたしを途方にくれさせた。

「この先土砂崩れのため通行不能」

 そおゆうことは分岐点に書いといてくれい。とぼとぼと分岐点に引き返す。もうこうなれば椿坂を越える以外に選択肢はない。椿坂に向かって牛歩の歩みを続ける。虻や蠅がぐるぐるまとわりながらどこまでもついてくるが、そんな虫たちさえも道中の友と思えばいとおしくなるような上り坂である。三キロほどで峠に着いた。
 再び恍惚の瞬間。
 今度の下りは七曲がりで、自動車に殆んど抜かれなくなる。自動車にとっての難カーブも、自転車ではどうということもなく、減速せずにすむから、巡航速度はほぼ同じになるのだ。椿坂の集落を一気に抜け、雁ヶ谷(かりがや)では敦賀方面と結ぶ一車線のトンネルが右手に見える。これは国鉄北陸本線の旧線跡で、廃線後しばらくは国鉄バスの専用道になっていたが、現在は一般道路として開放されている。ここからかつての北陸本線ルートを辿るが、現在は北陸自動車道が並行している。
 ここからは、漕ぎもせずさりとてブレーキもかけぬのに電チャリが等速直線運動をする、最も楽な下りの傾斜である。ああ、爽快だ。
 旧柳ヶ瀬(やながせ)駅跡を過ぎると余呉(よご)町の町並みに入る。中学校訪問でお邪魔した中学を懐かしく右に見て、余呉駅にすべりこむ。十八時時三十五分頃到着。駅前広場に乗客らしい人影はなく、絵に描いたようなヤンキーが二人、絵に描いたようなヤンキー車を洗っているばかりだ。
 電チャリを駐めて駅舎に入ろうとすると、古びた駅舎に似合わぬ自動ドアだった。ホームから余呉湖の方を見渡すと、山の上の群青の中に、縁取りだけ赤い雲がしずしずと移動している。その赤が褪せ果てた頃、下り電車のライトが見えた。


 第三日は、前回やっとの思いで行き着いた余呉駅を、十六時頃に出て、まず南へ向かう。木之本町に入ると国道西方の畦道に乗り入れる。自転車だから、限りなく直線に近いショートカットが可能である。
 と、後ろから追いついてきた原チャリがわたしの横で急停止、風防を上げたおっちゃんが叫ぶように訊いてきた。

「大音(おおと)のばーちゃん見ませんでしたか」
 誰やねんそれ。
「病院から抜け出してしまって、探してるんですわ。見かけたら総合病院に電話してください」
 それは大変だ。わたしを地元民だと信じて疑わないおっちゃんはあたふたと走り去った。この畦道が鯖江から神戸への最短コースにあたっていることを知っているとは思えないから無理はないけれど、残念ながらお役に立てない。大音はこのあたりの字名である。名字でもあるのだろうか。
 前回の教訓で、電気の使い方にも気をつけながら、旧道で賤ケ岳(しずがたけ)を越え、西浅井町(にしあざいちょう)へ入る。旧道の出口で道路工事の誘導をしていたガードマンが、変な所から自転車が出てきたので、目を白黒させているが、断って工事現場を押しながら横切らせてもらう。
 続いてまたまた山越えになる。新道のトンネルを抜ければ簡単なのだが、長いトンネルは事故の危険と排気ガスに晒されるので、通る気になれない。
 琵琶湖の眺望を楽しみながら永原(ながはら)駅に出る。キャンプ場や別荘地が並ぶ半島の湖岸を辿り、マキノ町の海津(かいづ)に至る。ここからも湖岸沿いのなかなか雰囲気のある旧道を走り、コンビ二のやたら目につく今津(いまづ)町に入った。
 十八時三十分頃、自転車があまりに乱雑に置かれている近江今津駅着。


 第四日は、前回より少々早めの十四時ごろ、近江今津の駅を出発し、湖岸に沿って走る。
 北西の風の予報どおり、風のアシストで軽快にペダルが進む。やがて前方に風車が現れる。
 新旭(しんあさひ)町の新名所道の駅風車村である。電車で行き来していては来ることのできないスポットで、一度来てみたかったのだ。風車のたもとに店が並び、水鳥の放された池に架かる浮橋を渡れば、屋台村であった。

 英気をもらって出発し、古い集落の狭い道を辿って、安曇川(あどがわ)へ。ここから湖西線沿いに走るが、線路がトンネルでショートカットする所も、丹念に湖岸を辿っていく。北小松(きたこまつ)駅で休憩。
 駅前では東京アクセントの小学生の団体と、地元の子どもが喧嘩している。どう見ても関西弁のほうが喧嘩には有利だなと思う。口数で負けそうな団体側、ついに身体的欠陥を口にしはじめるも、引率の教師だか保護者だかは注意もしないで子供たちにペットボトルの茶など分け与えている。

 再び走り出す。湖西線の開通する前、浜大津(はまおおつ)と近江今津の間には江若(こうじゃく)鉄道という私鉄が走っていた。その線路跡をおもに走っている。それが地方道になったりサイクリングロードになったり歩道になったり場所ごとにいろいろであるが、いずれにせよ、鉄道の線路跡はカーブも勾配もゆるやかで走りやすいのだ。
 本日のゴール予定地、志賀(しが)駅に着く。しかし、平坦な湖岸を飛ばしてきただけなので、電力も体力もまだまだ余裕がありそうだ。続けて走ることにする。

 さざなみサイクリングロードというのが湖岸に設けられているが、走ってみると実にいいかげんで、舗装が途切れて叢になったり、階段に突き当たったり、突然人家の裏庭に出たりで、ちゃんとやってほしいものだ。
 雄琴(おごと)温泉近くのキャンプ場で休憩。ファミリーマートでラップサンドを買って食べる。これは、栄養のバランスも良く、カロリーも低めで、間食にもダイエット食にも最適である。これだけ走ってくると、コンビニの現れそうな雰囲気も察せられてくる。こういう車の多い幹線道路沿いは必ずファミリーマートが出店している。ローソンは駅前やバス停前にこだわるし、セブンイレブンは住宅地だ。
 十九時ごろに着いた浜大津付近は完全に車優先で、自転車は走りにくい。駅前の交叉点では身動きがとれなくなりそうになる。加えて自転車置き場がない。JR大津駅へ回っても同じで、付近は全て駐輪禁止である。やむなく浜大津駅近くにあるアミューズメント施設の来客用自転車置場に置かせてもらうことにし、罪滅ぼしに館内の書店で雑誌を買った。
 ともあれ予定の二日分、実に約五十五キロを走破し、大いに満足して京阪電鉄の京津(けいしん)線に乗った。


 第五日は十六時ごろ、自転車を置かせてもらった浜大津の施設を出発、京津線に沿って山登りとなる。だんだん空が暗くなってきたが、降水確率は20%だからなんとかなるだろう。

 名神高速の寒々とした防音壁の外側の路地を南下する。雷が聞こえはじめた。ちょっと危ない。まだ四~五キロほど離れているようだが、だいじょうぶだろうか。
 この旅初めて本格的な市街地をゆくが、市街地というのは走りにくくてしかたがない。歩道の凹凸が多過ぎて、障害物競走をやってるようだ。クルマの出入口が随所にあるからである。前カゴに積んだペットボトルが、跳び出そうに踊っている。
 地下鉄小野(おの)駅を過ぎたころ、急に雨がざざ降りになる。雷も近くなった。これはどこかで雨宿りしなければならない。
 しっぽり濡れて地下鉄醍醐(だいご)駅の平和堂に逃げ込む。二階でジュースを飲みながら、雨が上がるのと服が乾くのとを待つ。しかし、三十分ほど待っても、雨足は強まるばかりだ。改めてケータイで天気予報を聞くと、平然と30%に修整されていた。加えて京都府南部には大雨洪水警報まで出ている。この変わり身はどうだ。朝の予報は間違いでした、くらいの一言はないのか。とにかく今日はここで中断せざるを得ないだろう。
 しぶしぶ地下鉄に乗り込み、山科(やましな)でJRに乗り換える。ホームに立っていると突然雨が上がって雲が切れ、京都市街の方角は夕焼けとなった。何だというのだ。


 第六日、大学からの帰りに奈良経由で六地蔵(ろくじぞう)まで電車で行き、タクシーで醍醐駅へ。
 ここで前回避難させた電チャリと再会し、また十六時頃から山科川を南下する。

 六地蔵からは京阪宇治線に沿って西へ。幹線道路が交差し、踏切も絡んだ観月橋(かんげつきょう)交叉点では信号の流れが読めず、加えて車道逆行の違法自転車の方が多数派であるためもあり、真ん中で立ち往生しそうになる。都会は不便だ。
 旧道の路地へ転進すると、京阪伏見桃山(ふしみももやま)駅から先は賑やかな大手筋(おおてすじ)商店街となり、大変な人込みで、降りて押さないと進めなくなる。こういうことは地図を見ても分からない。さらに脇道へ迂回する。国道1号に突き当たって左折、右に大阪ガスのタンク群があり、関西の食生活の糧が詰まっている。
 国道を淀(よど)へ向かう。競馬場や京阪の車庫を左に見ているうち、距離感を忘れ、気がつくと人家がまばらになり、どうも右折するべき交叉点を通りすぎてしまったようである。
 周りに目印になるものがないので、位置がよく分からず、通りかかった人に訊ねて、一キロほど行き過ぎたことが分かる。もっと先へ進んで右折してもよいが、淀川を渡る橋というのは案外少なく、この先は枚方(ひらかた)までない。やはり引き返すほうが早そうだ。下校中の女子高生が前を走っているので、車間距離をとって誤解を受けないように走り、左折。橋をめがけて急な上り坂だ。女子高生はえらい勢いで立ち漕ぎするが、坂の半ばで諦めて自転車を降りた。その隙にモーターを唸らせて追い越す。
 淀川の右岸に移り、名神高速・新幹線・在来線・阪急・国道171号が複雑にもつれ合う大山崎(おおやまざき)の地峡である。戦前の阪急は、当時の国鉄の看板列車特急「燕」を故意にここで追い抜くように自社のダイヤを組んでいたという。老成した感のある今の阪急からは考えられない意気のよさだ。そういえば、戦後の「線路の友情」の逸話で知られた療養所もこの付近にあった。旧西国街道に入り、JR山崎(やまざき)駅を過ぎると大阪府である。あたりはすっかり暗くなった。旧街道は適度なカーブが続き、幅がゆったりしているのでとても走りよい。武生から日野川に至る旧北陸道とちょっと雰囲気が似ているが、それよりは家が建て込んでいる。

 高槻(たかつき)駅周辺はやはり駐輪禁止である。浜大津と同じく、松阪屋玄関前の来客用自転車置場に置かせてもらうことにする。十九時を回って店は閉まっているので、次回何か買うことにしようと思った。


 第七日の十五時ごろ、高槻駅に降り立ち、松阪屋前の来客用自転車置場へ行ってみたら。

 置いたはずの場所に電チャリがいない。隅々まで探したが、いない。盗まれたのであろうか。しかし、バッテリーを外した電チャリを持っていっても役に立たないはずである。探しながらふと壁を見ると、この前は気づかなかった貼紙があった。

「閉店後まで置かれている自転車は撤去されます」

 なんということだ。店の駐輪場まで管理するとは、高槻市のこの気合の入れようは何であろうか。
 とにかくマナー違反はこっちなんだし、看板に従って、バスで保管所に行く。咎め立てや皮肉を浴びせられることを覚悟して恐る恐る事務所に申し出ると、愛想の良いおじさんが車庫に案内してくれた。車庫には、日付・場所別にきっちりと整理された自転車とバイクが並んでおり、心なしか恐縮気味の電チャリはすぐ見つかった。毎日撤去しているようだ。
 事務所に戻って保管料1600円を支払っている間に、おじさんが出口に電チャリをはこんでセットしてくれていた。にこやかに
「どうもお疲れさまでした。お気をつけて」
 と見送られる。却って気味が悪い。

 ともかく七日めの出発にこぎつけた。養豚場の間を抜けて西国街道を西進する。やはり走りやすい旧道で行けるところまで行く。住宅地では道が入り組んで迷いそうになるが、やはり街道は曲がり方や道幅、それに道端のどぶの切り方などが凡百の路地とは風格が違うので、辿るのはさして骨ではない。
 「明るく伸びる福井っ子」という標語の看板を見てえっ、と思うが、茨木(いばらき)市の福井(ふくい)小学校の近くであった。
 宿川原(しゅくがわら)から国道171号を走る。これがどこまでいってもえんえん緩い登りが続く、自転車には嫌な道である。道の両側にはありとあらゆる種類の店が並んで賑々しい。千里ニュータウンの北端を辿っていることになる。
 ようやく下り坂になると箕面(みのお)市街である。石橋(いしばし)で阪急宝塚(たからづか)線を越えるところは、車は高架橋、自転車と歩行者が踏切と分かれている。複雑な変形交叉点では、自転車用の抜け道が設けられ、上々であったが、武庫川を渡る甲武橋の手前では歩道と車道が分かれてしまい、橋に上がる道が見つからない。暗くなったのでかなり苦労して見つけたが、急坂で堤防に上がると、堤防上の道路の車通りが激しく、なかなか橋にたどり着けない。ようやく橋を渡ると、今度は階段を押して下りなければならなかった。どうも自転車に優しいのか冷たいのかよく分からない道だ。もう兵庫県に入っているが、県によっても方針が違うのだろうか。阪急今津(いまづ)線を越える門戸厄神(もんどやくじん)でも、自転車は歩道橋を迂回させられる。

 南へ大きく曲がる171号と別れ、阪急神戸線の北側を走り、十九時三十分頃、阪急夙川(しゅくがわ)着。ここにもフリの客が置ける自転車置場はなかった。撤去覚悟でガード下に並べるしかない。


 第八日は、台風一過で涼しくなったので、これまでとは違って朝から走ることにした。
 十時過ぎ、阪急夙川駅を出て、JRとつかず離れず、北側を行く。

 すぐに芦屋(あしや)市に入り、ちょっと高級な店が並ぶ駅前を通る。思いっきり急な坂で川の堤に上がるが、現れた芦屋川は溝のような小川である。川が山地から流れ出た平地がごく狭かった場合に、土砂がうずたかく堆積してどんどん川底が高くなる、天井川という現象なのであり。山が海に迫っている証左である。すぐ南のJRのごときは川の下をトンネルでくぐっている。ここが日本現役最古の鉄道トンネルだ。転げ落ちるような下り坂で街並みに戻る。

 いよいよ神戸市に入る。阪急電車と交叉しつつ、甲南大学のある岡本(おかもと)の商店街を抜け住吉川(すみよしがわ)を越える。長年この川が大阪弁と神戸弁の境界とされてきたが、人の往来によって、若い世代になるほど大阪弁がさらに西へ侵蝕を進めているようではある。ここから道なりに行けば、水道筋(すいどうすじ)につながるはずが、通るはずのない阪急御影(みかげ)駅に出てしまう。震災復興に伴い、道もつけかえられているようで、地図と微妙に食い違う箇所が多い。ここ東灘(ひがしなだ)区は最も被害の大きかった地域の一つだ。軌道修正し、水道管の敷設に伴って道路も整備されたという水道筋を抜け、国体道路を走って 三宮(さんのみや)の北側を通る。
 北野(きたの)町の異人館街を抜け、亡くなった祖父母がかつて住んでいた懐かしい山手(やまて)を過ぎる。もうここまで来れば、裏道まで知っている。まだまだ更地とバラックの目立つ長田(ながた)区から須磨(すま)区へ。須磨浦(すまうら)公園で休憩し、浜国道(国道2号)を西へ行く。極め付きに道が狭く、去年までバスに車掌が乗っていた垂水(たるみ)の市街を軽快に抜け、十三時三十分、わが別荘到着!!

 保管所がえりの屈辱に負けず250キロを走りぬいた電チャリに感謝。
 保管所のおじさんにも感謝。
 出発を前にチューンナップしてくれた自転車店に感謝。
 余呉のヤンキーたちと大音のばあちゃんに幸多かれ。
 そして、掲示板でご声援くださった同僚・教え子たちにも。

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雪のない左義長

 勝山の左義長は、全国各地で行われるどんど焼きのなかでも、特に派手で賑わしい。
 福井から九頭竜川を遡った盆地にある勝山。普段は落ち着いたこぢんまりした街である。それが年に一度だけとりどりに装うこの二日が、わたしは好きだ。毎年というわけではないが、この時期に勝山を何度か訪れている。

 福井駅で客を待つ電車にはヘッドマークがあしらわれ(写真左)070225_113842 、アテンダント嬢も左義長の法被を纏って乗務している。休日の昼間には珍しい満席の客は、ほとんどが勝山に向かう人達である。体を震わせて電車が出発する。車内四カ所のディスプレイでは、左義長をガイドするビデオが上映され、予習しつつときめきが昂まるしくみになっている。
 各駅で客を降ろしては乗せ、奥越に向かう。アテンダント嬢から左義長まつりのパンフレットが配布された070225_204612(写真右) 。勝山の街に回り込む直前、左の窓奥に名のとおりの姿を見せているのは霊峰白山である。この季節に、ここから頂までを見上げることができるのは、珍しいことである。目立って雪の少ないこの冬だからこその、手前の山々からひときわ抜きんでた、高さとそして白さと。

 勝山駅は街の規模の割には小さな駅であるが、きちんと駅員はいるし、発車時のアナウンスもある。旅情の演出という側面もあるようだが。ふた昔前の国鉄ローカル線の風情を再現しているようでもある。今日は客も案内係も多い。降りた客が踏切を渡って暗い駅舎に出て行くのを待ち、福井行が発車していく。駅前にはまつり会場へのシャトルバスが待機しているが、とても乗せ切れず070225_124043_3 (写真左) 、続いて発車するコミュニティバスにも客は誘導されている。それほどの人が電車で勝山に来るのは嬉しいことだが、電車は単行だし、バスも小型なので、数としては大したことはない。
 わたしは、歩いて勝山橋を渡る。どんど焼きそのものは、夜遅くなってから、この橋から見下ろした九頭竜川の弁天河原で催されることになっており、これはむしろまつりのフィナーレだ。櫓の上で囃子に合わせて舞うのを町ごとに競い合うのがもはやこのまつりのメインである。
 市街中心部のほとんどの道路からクルマが締め出されているのだから、市を挙げての催しであることがうかがえる。その道には露店がびっしりと出ている。勝山がこれほどの人出になるのもこの時だけだ。
 二月末といえばもう雪のピークは過ぎた時季ではあるが、福井県でも最も雪深い土地であるこの奥越では、街のそこここに白が見え隠れするのが例年のことである。それが今年ときたらまやかしの落ち葉どきでもあるかのように柔らかく橙の陽差し。この色合いがまつりを明るくしているのかといえば、却ってうらぶれた風を静かに吹きつけている。もちろんそれが好ましくないというわけではない。

 よくある祭のように、神輿が練り歩いて中央に据わる神社に集まってくる、というかたちでなく、あくまで各町が地元に根を下ろして櫓を構えるので、回って見あるくことになる。これもこのまつりの特異な点であり、歩きながら町並みと話ができるのがよい。回ってきた見物客の目を楽しませるための「作りもの」と呼ばれる、年の干支などに因んで日用品を組み合わせて作られた展示物が、町ごとに飾られている。
 櫓の上の舞は、女装した男衆や子供がおどけた振り付けで踊るものである。悪い薬でもやってふらついているかに見えるほどだが、そういう動きを意図して演技するのは、相当な筋力と稽古が求められるはずだ。

 街のどこにいても軽やかな太鼓や鉦の音が絶えることはない。道の両側に揺れる辻行灯と幟に、クライマックスの炎の幻影を重ね合わせながら、わたしは再び勝山橋に向かう。 

(平成19年2月執筆・過去のコメントはこちらへ) 

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夕張哀歌

 雪の季節に夕張を訪れて、もう一度雪のない時に来たい、と思いつつ、今になってしまった。北海道は特に、雪のあるなしで街は別物かと思うほどにありさまが異なる。しかも、夕張市は破綻の危機に直面した地方自治体の代表に挙げられ、その象徴が石炭歴史村というテーマパークである。夏季営業が終わるまでに行ってみたかった。

 このところ、毎土曜は神戸に戻る必要があるため、目的地に背を向けて、北陸線の上り普通電車に乗った。「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」のシーズンなので、普通電車なのである。敦賀・長浜と乗り換えて新快速に乗る。
 今日は神戸での所用を済ませたら、電化以来明るい時に乗ったことのない加古川線経由で舞鶴に至り、高速フェリーで北海道に向かう。フェリーはけっこういい部屋と食事の予約が取れている。

 そう思っていたら、現実の旅程は、予定と似ても似つかぬものとなった。

 新快速の車内でケータイが震えた。自宅の留守電からの転送であった。フェリー会社からの電話で、わたしの乗る船が低気圧の影響で欠航に決まった、と言う。わたしは慌てて新快速を降り、途中下車した。
 改めてフェリー会社に電話すると、事務的に返金の手続を説明し、電話口でクレジットカード番号を言え、と言う。生憎、とか、またご利用ください、とかいう言葉はなかった。天候が原因なので、謝れとは言わないし、フェリーが貨物輸送で保っていて、旅客などついでに載せていることも承知しているが。ともかく払戻金は口座に戻った。
 しかし何としても行きたいので、みどりの窓口に行ってみた。北海道に向かう寝台特急に空席がないか調べてもらうためだ。週末なので満席だろうが、この低気圧でキャンセルが出ているかもしれない。そう思ったが、天候により運転するかどうかまだ決まらないので、寝台券は発売が抑止されていた。
 となると、飛行機しかない。ケータイで調べると、所用を終えてから乗れる時間だと、関西空港からの便に空席があった。当日なので割引はきかない。駅のホームのはずれからそっと決済をして、それで払戻金が哀しく消えてしまった。他に手段がないならしかたない。
 どうにか北海道に行けることにはなった。が、これは甘かった。フェリーなら船内泊だが、飛行機で今夜のうちに北海道に行くとなると、向こうでホテルをとらないといけない。ところが、やはりケータイで見ると、空きがない。定宿はもちろんのこと、ホテル予約彩図で検索しても、札幌市内はもちろん周辺の千歳・小樽・苫小牧・岩見沢などの都市にまで拡げても、一室の空きもない。正確には、ゼロではなかったが、高級ホテルの6万円以上する部屋しか挙がってこなかった。
 それなら、飛行機は明日朝の便に変更し、今日は大阪で泊まろうか、とも思ったが、大阪市内とその周辺のホテルを調べても、やはり同じ状態である。途方にくれてしまった。実家に泊まってもいいのだが、実家からは神戸・伊丹・関西いずれの空港にもけっこう時間がかかるので、明日一日が移動で潰れてしまう。これでは高い料金で飛行機に乗る意味がない。名古屋に泊まって中部空港から、東京に泊まって羽田から、とも考え調べてみたが、いずれの都市にもホテルの空きはなかった。秋の週末ってこんな状態だったか。ホテルを調べてから飛行機の決済をするべきであった。

 北海道行きを断念することも考えつつ、その後も移動しながら未練がましく予約彩図に半時間おきくらいにアクセスしてみる。結果は同じである。
 15時過ぎ、これで最後、これでどこもなかったら、飛行機をキャンセルしよう、と思ってもう一度アクセスしてみたら、何と札幌市内に一室だけ空室が出ているではないか。わたしは即予約、決済した。このホテルは、前回夕張に行った時、すなわち、まるよしくらぶの研修旅行で北海道を訪れた時に泊まったビジネスホテルである。あの時このホテルでは極めて腹立たしい出来事があり、わたしは深夜に荷物をまとめて一人で福井に帰る準備をしたほどである。幸い準備だけで済んだが。そういうホテルなので、あまり泊まりたくはない。が、今はそんなことは言っていられない。感謝せねばならない。

 普通運賃で乗っていようと何であろうと、乗ってしまえば機内のサービスに差があるわけではない。いつも割引で乗っていながら、こういう時はそれを損したように感じている自分がいじましい。飛行機も低気圧の影響を受けているのか、非常によく揺れた。

 新千歳空港から電車で札幌駅まで行く。駅を出ると、雨が激しく降っていた。その中をホテルまで辿り着いてみると、内装がリニューアルされていて、前回を思い出させるものはなかった。

 夜が明けても札幌はまだ風が強い。昼からは雨が上がるという予報ではある。道東や道北では、まだ暴風雨が吹くおそれがあるとのことで、昼過ぎまでにその方面に向かう列車は運休や途中打切が相次いでいる。そのため、札幌駅ホームの発車案内には、いつもは見られないような表示が掲出されている061008_114000_1 061008_114534_2 。本来釧路行の特急「おおぞら」や稚内行の特急「サロベツ」の行先が変わっている。ただし、車体そのものに取り付けられているLEDの行先表示はイレギュラーな表示ができないらしく、発車を待っている「おおぞら」の側面の行先はいつもどおり「釧路」で、車内放送がうるさく行先の変更を案内している。

 その「おおぞら」の発車を見送って、わたしは駅ビルのバスターミナルに行った。

 12時40分発の「高速ゆうばり号」でようやく夕張に向かう。高速といっても、野幌のあたりで早くも一般道路に降りる。休日の今日は道も空いているが、相変わらず北海道のバスのダイヤはタイトで、例の液晶式スタフは、常に遅れ時分を表示している。途中、JR室蘭本線の栗山駅に寄ると、ここでわたし以外の客が全員降りて、貸切となった。
 このバスのルートは、昔の夕張鉄道のそれを割合忠実に辿る。夕張鉄道も栗山で室蘭本線と交叉していた。鉱山が閉山となり、夕張鉄道は廃線になったわけだが、ここから峠を越えて夕張に向かう旅客需要は元来少ないのだろう。鉄道が貨物のために敷かれたことを思い知らされる事例が、人口密度の稀薄な北海道には多くみられる。

 山を降りると、細長い谷に沿った夕張市街に入り、JR夕張線の線路が見える。往時ここから夕張までは、狭い谷を国鉄と夕張鉄道とが並走していたのだから、隔世の感がある。
 バスは、市街中心部を抜け、終点の石炭歴史村ターミナルに着く。

 石炭歴史村は、夕張の炭坑跡を産業遺跡保存を兼ねてテーマパークとしたものである。財政再建団体となった夕張市の経費を食うお荷物施設として、揶揄ぎみに伝えられることが多い施設だ。それで、今年度限りでの営業休止が発表されている。夏季営業は10月半ばまでだから、冬に開けない施設はもう余命いくばくもないわけだ。前回訪れた限りでは、それほど悪い印象をもたなかったのだが。
 わたしは村内の施設が全て見て回れる見学パスポートを2000円で買い、煉瓦のアーチを潜って奥に入った。

 初めにロボット大科学館に入場しようとすると、「ご案内ロボット」が「こんにちは。ロボット大科学館へようこそ」と挨拶する。
 順路に従って二階に上がると、十数体の、三十年前のイメージの赤いロボット達がずらり並んでこちらを見ている。並んでいるだけで動かないのが不気味だ061008_143835 (写真左)
 吹き抜けのベランダに出ると、建物の中央に鎮座した「ユーバロット」という高さ十二メートルの巨大ロボットが歓迎の辞を述べる。が、壁に囲まれ屋根に頭を押さえられ、動きは限られている。一階の床に下ろした足は、一歩でも踏み出したとすれば、遊んでいる子供をロボットサッカーのコートもろとも踏み潰してしまう。結局、彼の仕事は、頭だけ動かしてこの建物の随所を見回り点検することと、僅かににぎにぎしたりウインクしたりして来館者に愛想することくらいであるらしい。嵩高く身動きできぬ彼自身がいなければ、建物内の見通しはよくなり、人間が一目で点検できるのだが。「ユーバロット」の名はこの記事を書くため改めてパンフレットを見て思い出したのであり、わたしの頭には「小林幸子」とインプットされてしまった。彼の操縦室へ入ることもできるが、操縦して遊ぶことはできない。
 「ユーバロット」の周囲のロボットに関するひと通りの展示物を見て回るが、素人のわたしが見ても最先端ではないと分かる内容だ。もう一押しがあればと思う。
 玄関を出ると、「ご案内ロボット」が「こんにちは。ロボット大科学館へようこそ」と挨拶する。センサーが付いているなら、来た客か帰る客かくらいは見分けて欲しかった。

 炭鉱生活館に移る。わたしが建物に入ろうとすると、前のテントにいた女性係員が跳んできてチケットをもぎる。テントは、坑道探検のヘルメット返却場所である。館の中に入ると、人形を配して炭鉱に働く人とその家族のつつましい生活ぶりが再現されている。家の実物大の模型には無粋な柵はなく、あまりよろしくはないのだろうが、手を触れることもできるばかりか、人形が通路まで進出している所もある。こういう展示のしかたは好感がもてる。
 当時の調度品などは保管されていた実物らしい。写真もふんだんにあり、地味ではあるが面白い施設であった。

 炭鉱生活館を出て、奥の方へと登っていく。広大な敷地であるのに、中は歩いて移動せねばならない。シーズンのピークにはボンネットバスも運行されているらしく、パンフレットにその写真が載っているが、今日はないようだ。園内移動の手段というのも、こういうテーマパークの楽しみの一つなのだが。

 歩く距離が長く、展示館が点在しているので、間延びして見える。園内は荒天のためか週末なのに人は少なく、バス3台分程度の団体が入っている他はさほどの賑わいではない。その寂寥と、うら寂しい経営状態、残り少ない夏季営業、来年度以降の命運の危うさ、いろんなものが交錯して、「万博感」が溢れている。
 園内を往復する「軽便鉄道」もある。これは、昔の炭鉱専用線を流用したと思われる線路を汽車が運行するものである。しかし、これも荒天のため運休しており、車輌群は車庫を兼ねた高架下に収納されてその姿を見ることはできない。しかたなく駅の写真を撮るPhoto_15  (写真左)
 駅の脇には、夕張鉄道で使われていたらしい車輌が保存展示されている。「キハ」という記号がついているものの、どうみても貨物列車の車掌車にしか見えないのだが、国鉄ではないから確かな知識はわたしにはない。これでも気動車なのかもしれないPhoto_16  (写真右)

 さて、軽便鉄道の奥の方の駅の側には、「SL館」がある。遠くからでも巨大なSLが見え、保存車なのかと思ったら、これは同館の玄関口をなす単なるハリボテであった。
 中に入ると、駅の改札口を形どった入口があり、その向こうに模型のジオラマがある。
 運炭列車や世界の特急列車がボタン操作で動かせるのだが、日本代表の特急車輌は新幹線最古参の0系で、これがまた接触が悪いのか、関ヶ原の雪で最徐行運転しているかのような走りぶりである。
 しかし、夕張鉄道やその系列の大夕張鉄道などこの周辺の運炭線に関する史料は、一級のものが揃っている。保存車輌は夕張鉄道の蒸気機関車が二輌と客車が一輌である。蒸気機関車の前面には遺憾ながらいろいろな看板が取り付けられ061008_152328  (写真右)、客車の内部は片側の座席が撤去されて見学者通路になり、もう片側にはなくもがなの人形の旅客が坐っているSl  (写真左)。余計な装飾を加える必要はないのだが。このあたり、展示と保存の構想を若干シフトしさえすれば、ここはかなり良質の鉄道記念館になると思う。「SL館」というのではなく、「夕張鉄道記念館」という産業遺産的な位置づけにするのだ。そうすれば、今後も存在意義が続き得るだろう。
 冬に観たので今回は見合わせたが、「石炭歴史館」の展示と坑道探検は、面白いと同時に意義深いアトラクションである。これと「夕張鉄道記念館」とを軸にして、硬派の産業遺跡として再出発してはどうだろう。

 そろそろ帰りの時間が迫ってきた。入口に向かって下りていく。雨がぱらついて体が冷えてきたので、ファストフードコーナーでアメリカンドックを求める。みんな同じように感じるらしく、ここがいちばん人が多い。
 駐車場近くの「郷愁の丘」も覗いてみる。映画関係の展示館が集まっているエリアである。夕張では映画祭を催すなどして「映画の街」のイメージを浸透させようとしてきたのである。草地にさりげなく停めてあるパトカーをよく見ると、『西部警察』の撮影に使われた物のようだった061008_155214  (写真右)

 バス停から16時06分発のバスに乗る。休日ダイヤだと、夕方に帰途につくにはこの便しかなく、これもずれている。閉館の17時に合わせたバスがあるべきだろう。
 バスは谷間の夕張市内を縫って走る。町中の目ぼしい建物には、古今東西の名画の看板が掲げられているが、今はそれも虚しい。炭鉱跡・メロン・映画と、これほど独自性のある売り物の揃った街も珍しいと思う。そして札幌からクルマで一時間強という好立地である。これでも市が破綻せねばならないとは、地方都市はこれ以上どう頑張らねばならないというのか。

 もともと、石炭の積み出しの便を考えて、現在の石炭歴史村付近に造られた夕張駅は、閉山後市街中心部に後退した。さらに、市がレースイリゾートを造成したのに伴い、市街南端の同リゾート前にまで再び後退したので、現在の夕張駅は三代目である。しかし、市全体を観光地にするなら、むしろ夕張線を石炭の歴史村へ復活延長するべきではなかったか。
 夕張駅は売店もトイレも閉鎖され、片面ホームにディーゼルカーが発着するだけの寂しい駅になっている。雨の影響で、時刻を過ぎてもなかなかディーゼルカーはやってこなかった。

(平成18年10月旅行・過去のコメントはこちらこちらへ)

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仙台からのJR一周

 早春、といっても、まだ雪の残る東北を訪れた。
 投宿した仙台から、日帰りでJR線にぐるっと乗る旅に出ることにした。

 朝、仙台駅に行ってみると、下り臨時快速「リゾートみのり」新庄(しんじょう)行の発車案内が出ていて、これに乗ろうとする人がホームにぽつんぽつんと立っている。
 「リゾートみのり」は、JR東日本があちこちの線区で走らせているリゾート列車の一つで、仙台という主要駅から出るので、そのなかでも比較的乗りやすいものだろう。しかし、わたしはこれには乗らない。帰りに上りに乗ろうと思っている。

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 「リゾートみのり」の車輌が入線する様子とその車内を眺め、帰りの「下見」をしてから、わたしは仙山(せんざん)線のホームに移った。

 山形行普通電車は、6輌編成である。地方線区としてはかなり長い。朝の下りなので、そんなに込まず、ボックスを独占できた。
 以前の仙山線は、その名のとおり仙台と山形とを直結する動脈で、快速電車が毎時一本程度走っていた。が、近年は直行客をすっかり高速バスに奪われ、普通電車、それも区間運転の便を増発する傾向にある。快速は今でもあるが、以前より本数は減ったし、停車駅も増え、一部区間だけを快速運転する便も多く、かつてのようなノンストップ快速などはない。仙台近郊の通勤通学路線としての使命が重くなってきたのである。
 発車して暫くは、東の方に向かう東北線に並行する。やがてそれと別れ、急カーブで西へ転じる。こういう遠回りをしているのは、主に距離を稼いで勾配を緩和するためだろう。仙台中心市街の北に構える山に登っていくのである。
 都市間連絡を旨としていた頃は、市街といえども駅は設けていなかったが、すぐに東照宮(とうしょうぐう)に停まる。その次が地下鉄と連絡する北(きた)仙台、山間の住宅地の中に北山(きたやま)・東北福祉大前・国見(くにみ)・葛岡(くずおか)、と続き、頻繁に停まる。このあたりの駅間は、都市部の私鉄なみの1~2㎞程度で、北仙台以外は昭和末期から平成にかけて新設された駅ばかりである。東北福祉大前など、急勾配の途中にあってホームが坂になっている。
 少し駅間が広くなって、愛子(あやし)に着く。ここもまだ拡大した仙台市街の続きと言っていい所で、駅前には仙台市バスも発着するのだが、普通電車の半数以上がここで折返す。つまり、仙山線は今や「市内電車」なのである。そう思って見ると、赤と緑のラインが入った電車は、かつての仙台市電の色合いに似ていなくもない。
 住宅は少なくなり、本格的な山地に入っていく。雪も深くなった。少しだけ平地が現れ、左手にニッカウヰスキーの工場が見えると、間もなく作並(さくなみ)である。温泉の入口の駅で、ちょっとそういう雰囲気を演出したホームだ。温泉帰りらしい客も立っているが、ほとんどがここで交換する仙台行に乗るようだ。
 県境の山に挑み、長いトンネルを抜けると、山形県側最初の駅である面白山高原(おもしろやまこうげん)に停まる。駅のすぐそばがスキー場になっていて、駅舎も山小屋風である。スキー場は現在営業休止になっているが、学生のグループが降りた。合宿所のようなものは使われているのだろうか。クルマの道が通じていない所で、列車で来るしかない、閉ざされた土地である。
 芭蕉(ばしょう)の句で知られる立石寺(りっしゃくじ)に近い山寺(やまでら)に停まると、山地から解放される。高瀬(たかせ)からは山形市への用務客が乗りはじめ、羽前千歳(うぜんちとせ)の手前で右側から来た奥羽線に合流して南に向かうことになる。奥羽線は山形新幹線の通り道でもあるから標準軌、この仙山線は狭軌、とレールの幅が違う。だから、合流と言っても、単線の両線が並列するだけである。羽前千歳の駅は、その両線がホームを挟む形で、同ホームでの乗換えができる。
 駅を出た所で、両線が平面交叉して左右入れ替わり、狭軌の線路が西側に出る。次の北(きた)山形で西側から狭軌の左沢(あてらざわ)線が合流してくるし、さらにその次の山形駅も、東側にある駅舎に近い方を新幹線の発着ホームにしているからである。標準軌・狭軌ともさほど列車本数がないからだろうが、平面交叉という簡便な方法で互いをかわす。なにか日本の鉄道らしからぬおおらかさを感じる。

 山形からは奥羽線の下り普通電車、つまり標準軌の車輌に乗ることになるので、発車案内を確認する。
 山形駅のホームの使い方は、大変分かりやすい。同じ方面の列車は必ず同じホームから発車するようにしているのである。余所者も迷うことがない。ここでの折返し列車が大半だからできることだろうが、他の主要駅でも見倣ってほしいものである。
 新幹線特急も走る主要路線ではあるが、普通電車に関しては、クラブ帰りの高校生主体の通学路線の様相で、仙山線よりも却ってローカル色が濃い。
 駅毎に高校生が降りていき、山形市を外れた所が、山形空港に近い神町(じんまち)である。ここからは東根(ひがしね)市に入り、新幹線停車駅のさくらんぼ東根に着く。ホームに新幹線と普通電車の乗車位置が並んでペイントされている様は、たまにしか訪れないからだが今だに見慣れない。
 その二つ先の村山(むらやま)がこの電車の終点である。ここで途中下車する。

 このあたりは雛祭りが派手やかな土地であり、村山市がその中心だ。駅の近くには「甑葉(こしきば)プラザ」という地域の拠点施設があり、そこで雛祭り展をやっているというので、見に行くことにする。他にも市内随所で雛飾りを施しているそうだ。
 なるほどホールいっぱいにひな人形が飾ってあり、これだけの規模のものを見たことはない。一つ一つの人形を鑑賞する余裕はないが、これは圧倒されればそれでよいのであろう。

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 お雛さまのシーズンとはいえ、道は雪を踏まねばならないし、きつい風が粉雪を常に吹きつけてくる。わたしは、悪寒をおぼえ、喉も痛くなってきた。駅から甑葉プラザまでの数百メートルを往復するだけで、風邪をひいたかもしれない。
 駅に戻ると、待合室にあるそば屋に、「全国駅そばベスト30第3位」という貼紙がある。温かいものは欲しいし、さっき山形で昼食をとったばかりなのに、気がつくとわたしはかけそばを注文していた。しっかりとした歯応えのある濃い味の麺で、出汁も香ばしささえ感じさせる深みがある。漬物が添えられているのがユニークだ。待合室にはテーブル付の席があり、自由に使っていいから、カフェを兼ねる。人心地着く。

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 後続の新庄行普通電車で、大石田(おおいしだ)などを経て新庄に着く。新庄は、国鉄乗りつぶしをしていた頃、そして最長片道切符の時を含め、何度か乗り降りした懐かしい駅である。しかし、改札を出てみると、山形新幹線が乗入れる時に大改装したとみえ、往時の面影は全くなかった。近代的な駅舎が、地域の交流センターらしい施設と棟続きになっている。
 ただ、ホームに面して「よくきてけっだじゅー」という横断幕が掲げられているのは、心和む。

 ここからは、陸羽東(りくうとう)線・東北線経由の上り臨時快速「リゾートみのり」で仙台に戻る。
 リゾート列車の割にはいかめしい前面デザインのディーゼルカーが停まっている。車内は絨毯敷きで、運転室後ろにはフリースペースとしての展望シートがある。座席は全車指定で、特急と同じかそれ以上の居住性を備えたリクライニングシートが並び、車端部には一人席もある。
 発車して次の駅が南新庄だが、ここまでは奥羽線と並行している。ただし奥羽線にはホームがなく列車は止まらないので、乗換えは新庄でということになる。ぐいと東に折れて奥羽線と別れ、早速にも山越えにかかる。せっかくの前面展望だが、ヘルメットを被った保線係員が運転室に便乗しているので、前が遮られている。どうせ見えるといっても白い山肌のみだが。  

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 山中のちょっとした平地を用いて設けられた小駅が続く。列車本数も交換できる駅も少ない。かつては急行が走っていたし、一時期は夜中ながらブルートレイン(寝台列車)もこの線を経由していたのだが、今は凡たるローカル線だ。
 峠を越えた所にある瀬見(せみ)温泉に停車する。全国的な知名度はないものの、平泉に逃れる途中の義経(よしつね)と弁慶(べんけい)によって発見された、と伝えられる由緒ある湯であり、天皇の山形行幸の際にもお泊まりの宿に選ばれるという。
 ここは最上町(もがみまち)である。最上川の本流に沿っていないのに最上町というのは奇異だが、この地方ではそれでうまく通じているのだろう。比較的大きな盆地の中心に最上駅があり、ここにも停まって下り普通列車と交換する。
 再び峠越えにかかろうという赤倉(あかくら)温泉駅停車、これも、特に西日本の人間からすると、新潟県のスキー場を想起する名だが、あちらには赤倉という駅はない。峠の分水嶺近くには、その立地を現した名の堺田(さかいだ)駅があるが、この列車は停まらない。ここからは宮城県に戻る。
 中山平(なかやまだいら)温泉を出て坂道を下る。北上川(きたかみがわ)の支流がなした鳴子(なるこ)峡が並行する。列車からは一部しか見えないが、見えそうな所では徐行してくれる。
 鳴子温泉に着く。「温泉」の付く駅が多いのは、火山帯を横切っている証であろうか。ここで、かなりの客が乗り込んできて、八割程度の席が埋まった。新庄まで足を伸ばしているのはついでであって、「リゾートみのり」の主たる目的地はこの鳴子温泉のようである。両側から来る普通列車も、ここで大半が折返しとなる。
 次の鳴子御殿湯(ごてんゆ)も温泉に由来する駅名で、立派な木造駅舎がある。温泉関係の駅はともかく停まることにしているようだ。
 発車して緩い下り勾配をニュートラルで等速直線運動を続けるディーゼルカーは、なんとも心地よい。レールの規則正しく軽快なジョイント音をパーカッションに、わたしの脳内では、なぜか「ヘビーローテーション」のサビが繰返し流れはじめ、これがずっと続いてほしかったが、列車は有備館(ゆうびかん)の手前で減速した。
 有備館は仙台藩の学問所で、現存する最古の学校建築なのだそうだ。それで観光地となっていてこの列車も停まる。その次の岩出山(いわでやま)は、伊達(だて)氏が居城としていた所である。
 ようやく山から抜け出し、左側に平野が広がる。南から東へ向きが変わると、間もなく古川(ふるかわ)である。ここで新幹線に乗換えて東京・盛岡方面に帰る客もあり、半分弱が下車する。
 列車は小牛田(こごた)から東北線に入り、ノンストップで仙台に向かう。急ぎすぎないディーゼルカーの走りぶりのおかげで、夕闇の松島(まつしま)も十分眺めることができる。

(2012年3月乗車)

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沖縄本島両岸の旅

はじめに

 鉄道のほとんどない沖縄では、バス路線が発達している。そのなかでも最長距離の系統が、那覇と名護(なご)の二大都市を東廻りで結ぶ77系統名護東(ひがし)線で、沖縄バスが運行している。長いから価値があるというものでもないが、最長片道切符をはじめとして、乗り物の魅力を語るに長さをもって尺度とすることも多いこのブログである。
 この系統に乗ってみようと思うが、ただ乗りとおすだけでは面白くないので、適宜下車しながら、沖縄の、琉球の、土地柄のさまざまを感じとる旅にしたい。そして、帰りは経路を替え、西海岸から戻ってくることとする。

 


那覇バスターミナル→宇地泊(28系統)

 広大な那覇バスターミナルの長いホームの端のブースに、乗ろうと思っていた便が着車するのが見える。まだ発車時刻にはまだ十分ほど間があるようだが、一応小走りにバスを追いかけて乗車した。
 しかし、バスはすぐにドアを閉めて発車する。わたしが時刻を見違えたのだろうか。危うく乗り損なうところだった。
 このバスは77系統ではなく、琉球(りゅうきゅう)バスの28系統読谷楚辺(よみたんそべ)線読谷バスターミナル行であるが、途中まで77系統と同じ経路を走る。
 最初の停留所である県庁北口は、都心部の繁華街に位置する。実質ここが始発のようなものだが、停まっても乗る客がなく、「運転者」さんが首を傾げながら発車させている。
 車内には、「○○の場合は運転者にお申し出ください」というような掲示が随所にあり、ドア上の名札差しも「運転者氏名」となっている。沖縄ではそう呼ぶようである。こんなことまで品が変わるなど、油断ならない。
 
 国道58号に出て、農林中金(のうりんちゅうきん)前で、運転者さんはしげしげ運行指示票と時計とを見比べるとついにハザードランプを出し、客席を振り返ると、
「ちょっと、ターミナル十分ほど早く出すぎたみたいで、暫く停まります。すいません」
と大きな声で言う。初老の太った運転者さんである。やはり誤早発だった。沖縄らしいのどかさだが、国道の渋滞のおかげで五分ほどの早発に短縮していたとはいえ、ここまでの停留所に来る客はどうなるのか、心配だ。28系統にもいろいろな途中経路のバリエーションがあり、このバスと同じ経路を通る便は三時間ほど後までないのだが。
 いきなり沖縄のバスの洗礼を受けた気分だ。今後も覚悟しておかねばならないが、どう対策すればいいのか、分からない。

 慶良間(けらま)や久米(くめ)島、それに大東(だいとう)島など、県内の小島に向かう船のターミナルに近い泊高橋(とまりたかはし)で、右側からのバス道が合流する。このバスは58号を直行して来たが、右から来るのは那覇のメインストリートと言ってもいい国際通りを経由して来たルートだ。28系統も一部の便が国際通り経由であるが、何にしろ渋滞の激しい通りなので、昼間はほとんどの便が避けて通る。
 片側三車線のこの国道58号も、国際通りほどではないにしても、決して流れがいいとは言えない。信号が多くて、クルマがせきとめられる。ところどころに交叉点をパスする高架道路が設置されてはいるが、焼け石に水と見える。
 安謝橋(あじゃばし)を出てその名の橋を渡ると、那覇市から出て浦添(うらそえ)市に入る。が、沿線風景は、若干大きなビルが減ったかな、という程度で、依然市街地である。

 城間(ぐすくま)あたりで反対車線に珍しいバスを見た。昭和五十年台製造の型で、かつて日野自動車製バスとしては全国的に主力だったものだ。いくら沖縄でもこんな古いバスが現役とは不自然にみえるが、実はこれは、東陽(とうよう)バスという会社が動態保存的に運行している、「730バス」と呼ばれるものである。

 昭和五十三年七月三十日、かつて米国領だったために右側通行だった沖縄の道路が、一斉に日本式の左側通行に改められた。この切換えが当時、「730」の名でPRされていたのだ。
 タクシーなどは、ハンドルがどちら側に付いていようがどちらからでも乗降できるので、事前に右ハンドル車へ徐々に替えておけたのだが、バスだけは、切換え日を機して一挙にハンドルとドアの位置を替えなければならない。これはバス会社の手に余るので、国の補助で右ハンドルの新車に総取替えとなった。一部改造した車もあったようだが、改造する間、車輌が不足してしまうので、結局一斉取替えしかなかったのである。
 切換え当初は、当然ながらバスの事故やトラブルが相次いだ。わたしもバスが畑に突っ込んだニュース映像を覚えている。運転者にしても、事前に徐々に慣れておく、ということがバスの場合だけはできなかったのである。トラブルのみならず、バス停のポールや時刻表などを反対側に移す作業だけでも厖大なものであるし、慣れきるまでには時間もかかったろう。
 そんなことがあったので、沖縄県民やバス会社は、730には今も特別な感慨をもっているという。単なる交通方式の変更ではなく、日本復帰を実感できるエポックでもあったことだろう。
 この時に一斉に導入された新車のバスを、730バスと呼ぶ。三十年以上を経て既にほとんどの車が退役したのだが、東陽バスと沖縄バスに一台ずつ残った730バスを、いわゆる歴史の証人として保存することにしたものである。沖縄バスのものは予備車扱いであるが、東陽バスのは路線バスとして月に数日運行されている。
 わたしもできれば見たいと思っていたのだが、運よくすれ違うことができた。沖縄占領時代を、ひいては、日本と米国、それに大陸も加わった力の押し合いのなかで翻弄されてきた琉球の歴史をも象徴するバスと言えるかもしれず、そう思ってみると、古びたバスにも貫祿を感じる。

 その城間の次が第二城間である。後から停留所を新設したのであろうか。そう思っていると、第一牧港(まきみなと)の次に牧港に停まった。
 この後も気をつけて見ていたが、どうも、元々「○○」という停留所があって、同じ地区内にもう一つ停留所を増設するとき、○○よりも起点側だと「第一○○」、終点側だと「第二○○」にする、という原則らしいのである。わたしなど、○○も含めてナンバリングしたり、「東○○」「西○○」などとしたりする方が分かりやすいのではないか、と思うのだが、こういうことも地域によって流儀が異なり、沖縄のは独特だ。
 牧港はそこそこ大きな分岐点なのだが、停留所の前に胸を張るように聳えるのは、パチンコ屋のビルである。が、そのビルには、カップルや家族連れまで出入りしている。パチンコ以外の娯楽施設もあるのかもしれないし、ビルの一階にはマクドナルドも入っている。そのとりあわせも妙だし、なんとなく異様に見える。パチンコが年齢層を超えて盛んなのだろうか。
 その次の停留所が宇地泊(うちどまり)とはできすぎているようだが、わたしは寄りたい所があるので、ここで降りる。料金表を見て、釣りのないように小銭を掌に揃える。沖縄のバスは、磁気カードもICカードも未だ導入されていないため、バス旅には小銭入れを膨らませておく方がよい。


嘉数高台公園

 ぶらぶら歩くつもりでいたが、空模様が怪しい。前回来沖では、スコールに驚いたこともあり、わたしはタクシーを止め、
「嘉数高台(かかずたかだい)公園」
 と告げた。
 沖縄戦のなかでも最も大規模で激しい戦闘となったのが、嘉数の戦いと呼ばれるものである。量を恃んで攻撃を重ねてくる米軍と、領土を死守せんと捨て身の防御で粘る日本軍とが、何日にもわたって角突き合わせ、両軍に多数の死傷者を出した。そういう実地の戦闘の跡を本土内で見られるというのは、内地の者にとっては意外性がある。もちろん、現地の人の思いを忘れるべきではないが、とまれそこを見たいと思ったのである。
「あいにくのお天気になりましたね」
 と運転者さんが言うとおり、タクシーが住宅地の狭い道を縫って走るうち、忌ま忌ましくも雨足が強まってきた。車を降りて傘を拡げると、運転者さんがわざわざ降りてきて、
「あちらの階段から展望台にどうぞ。基地の写真が撮れます。よかったらお待ちしましょうか」
 と案内してくれる。

 バスやタクシーの運転者さんは大概、見た目はでっぷり体格がよくアロハシャツにサングラスなどかけて、いかつい。なにか他の職種の人に見えたりもするのだが、話してみると、皆優しい。物腰も柔らかだし、声も変にわざとらしい猫撫で声でなく、言葉を惜しまず、心の底からの親切心が出た接客をしてくれる。

 待ってもらう方は辞退し、礼を言って別れる。公園の入口から階段下までは、舗装されていない。ズボンの裾に泥水が撥ねた。コンクリートの長い階段をとぼとぼ昇っていると、公園というよりお寺に参詣するような気分だが、来意には似合っている。園内に他の人影はない。

 丘の頂上付近が日本陣の最前線だった所である。それだけに、非常に胸に迫る物が遺る。

 当時のトーチカが、そのままの形でそこにある。人が一人やっと這いずって出入りできる程度の穴が開いており、中は狭く暗い。戦闘で傷んだのか年月が朽ちさせたのか分からないが、ぼろぼろに欠けたコンクリートが粗悪であることは分かる。
 周囲には、京都や島根の名を冠した慰霊の碑が建っている。それらの地の部隊が戦いに臨んだのである。それぞれに手を合わせるが、わたしが最も深く頭を垂れずにおれなかったのは、韓民族の慰霊碑であった。併合された国の兵として戦い死にゆく割り切れない心持ちは、想像するだに哀切である。
 展望台は、地球を象った球形のデザインだが、螺旋状になっているので、大蛇がとぐろを巻いているようにも見え、気味が悪い。わたしはその展望台の最上段まで昇った。
 皮肉なことに、この展望台からは普天間(ふてんま)基地が一望に、と言っても、先の方は地平線に霞んでいるのだが、とにかく見える。宜野湾(ぎのわん)市の密集した市街の真ん中にぽっかり傲然たる基地が拡がっている異様さは、ここから見下ろすと実感できる。ニュースなどでよく見る基地の映像は、このあたりで撮るらしい。市の都市計画もこれではお手上げであろう。だからと言ってどこへ移転するか、となると、この威容を引き受ける土地がなかなかないのも分かる。


宇地泊→普天間入口(23系統) 

 日を改めて、宇地泊に戻ってきた。この日も雨模様であるが、ここは屋根付き停留所であるし、すぐそばにコンビニもあるので、助かる。
 23系統具志川(ぐしかわ)線具志川バスターミナル行が来たので、これに乗る。終点近くまで77系統と同じ経路なので、問題ない。
 普天間方面へのバス路線は、次の大謝名(おおじゃな)から二手に分かれる。基地の北側を通るか南側を通るかということになるのだ。このバスが行く北廻りの方が近道だが、南廻りは宜野湾市の中心部を通り、沿道に大学や高校もある。
 暫く直進して、大山(おおやま)を通る。戦前那覇と嘉手納(かでな)とを結んでいた沖縄県鉄道嘉手納線の中間地点で、比較的大きな駅があった所である。沖縄県鉄道は、各線とも昭和二十年頃に運行停止し、そのまま廃止されている。内地では、いかな戦争中とはいえ、鉄道の休廃止の年月日くらいきちんと記録されているものだが、沖縄県鉄道は正式に廃止になった時期を「頃」付きで言わねばならぬところが、痛々しい。
 伊佐で国道58号と分かれ、右折する。交叉点はロータリー状になっていて、欧米的だ。ゆるい上り坂で台地に登ると、普天間基地は右側にあるはずだが、左側にも米軍施設が見えてくる。わたしは、普天間入口で降りてみた。
 停留所のある歩道は、薄く低い金網だけで米軍施設に面している。何か投げ込もうと思えば簡単な隔て方だが、さほど重要な施設ではないのだろう。コテージ状の白い建造物が芝生の上に点在している。兵士の宿舎らしい。あまりに真四角な家なので、角砂糖でもばらまいたように見える。集合住宅にすれば土地が節約できるのに、と考えるのは日本人の発想なのだろう。住民が出払っているのか、もう使われていないのか、人の気配も生活のにおいも全くしない。
 そうしているうち、何台もの23系統が通り過ぎて行く。23系統は、「女性専用バスの実験運行を開始します」と車内に掲示があったほどの幹線ルートなので、かなり本数が多い。わたしはその度に手を振らねばならず、忙しい。

 沖縄のバスは、手を挙げて乗る意志を示さないと、停まらない。それがわたしが予め仕入れていた予備知識であった。那覇市内の繁華街であってもそれは同じだ、とガイドブックなどにも書いてある。前回沖縄を訪れた時は、数回しかバスに乗っていないが、確かにそうであった。ひめゆりの塔前の停留所で、旅行者らしい荷を持って立っているのに、危うく通過されそうになったりもした。
 やっと乗り込んだバスは、速度も高く運転も粗かった。最前列左側に坐ったわたしは、バスというよりダンプの助手席に添乗した気分を味わったものだ。平気で早発する、ということも話にも聞きまた経験もしたところである。

 しかし、今回はどうも様子が違う。どのバスの運転者も、停留所付近に人影を一人でも認めれば、必ず停車する。そしてバスの行先や経由地を車外にアナウンスし、客を待っている。物腰も運転も柔らかである。降車ボタンが押されると、はい停まります、などと返事している。早発気味になれば、時間調整をして定時運行に務めているようである。
 沖縄本島には四社のバス会社がある。が、近年そのうち三社までが民事再生法の適用を受けた。事実上の倒産である。クルマが普及しきったことなどにより、乗客減がひどくなったためだろう。今回もかなりの回数バスに乗ったが、立客が出たのは一回だけで、他のバスはたとえラッシュ時であっても一桁の人数しか乗っていなかった。23系統などはそれなりに込むのだろうが。
 そんなこともあり、サービス改善にとり組んでいるのかもしれない。最初の28系統のような大ボケが残存するのはその傾向と合致しないが、過渡期にあるのだろう。
 だから、停留所にわたし一人が立っているだけで、23系統のバスが次々停まろうとする。わたしが右手を横に振ると、安心したようにアクセルをふかし通過するのであった。
 渋滞の激しい那覇から来るので、実際のバスの来方は時刻表とは全く合っていない。その時刻表にも、「祝日及びウークイは運休」などと不可解な表記があったりし、不安になる。「ウークイ」とは、後で調べると、旧盆のことだそうだ。

 何台めかの23系統の後ろに隠れるように、77系統名護バスターミナル行がやってきた。今度は手を挙げる。四社のなかでは最も経営状態のましな沖縄バスの運行である。バスは古いが、座席が観光タイプで背凭れが高く分厚いのは、名護までの長距離を行く系統だからだろう。
 すぐに普天間の交叉点に至る。基地の南側から来た各系統と接続する。25系統普天間空港線という系統も、南側を廻って来て、ここ普天間が終点である。名のとおり、那覇空港と普天間とを那覇市街と宜野湾市の中心部を経て直結する便利な系統であるが、それだけに、そしてそのあまりに分かりやすい路線名から、いろいろな趣向の人が乗っていそうであったり、何かと標的になりやすかったりするのでは、という懸念もあり、地元の人は25系統を敬遠しがち、とも聞く。普天間と那覇を結ぶ系統は、他にいくつかあり、23系統や77系統もそうである。


普天間入口→北部合同庁舎前(77系統)

 やっと目指す77系統を無事つかまえたからか、わたしは坐り心地のいい座席で少しうとうとした。バスは北中城村(きたなかぐすくそん)内の国道330号を、ゆったりカーブしながら北上している。プラザハウス前という停留所がアナウンスされ、プラザハウスとはどういう施設だろう、と思って見ていると、古めかしいショッピングセンターが車窓を過ぎて行った。このあたりから沖縄市に入っており、次の比嘉(ひが)で謝刈(じゃーがる)方面からの路線が合流すると、中心市街である。
 中(なか)の町(まち)停留所付近には、「那覇から路面電車を走らそう」と大書された看板が掲げられている。なるほど330号を含めて道幅のある幹線道路が那覇から何本か通じているから、それも検討に値するだろう。が、路面電車では交通信号に従わねばならず、軌道にクルマの乗り入れを禁じたとしても、加減速の素早いバスと所要時間はあまり変わらないだろう。モノレールの延伸か高架鉄道の新設がいいように思うが、道路でもどこでも走れて建設費が抑えられるLRTが最適かもしれない。あるいは、「路面電車」というのはLRTを想定しているのだろうか。いずれにせよ、一昔前にはそんな発想すらなかったはずの沖縄で、鉄道を敷設しようという声が上がっているだけでも、頼もしいことだ。
 中の町から次の胡屋(ごや)にかけては、沖縄市の官庁街で、乗り降りも多いので、バスが連なる。さっき手を振った23系統にも追いついた。さらにその先のコザの交叉点は一大ジャンクションで、あっちからもこっちからもバスが来て、てんでの方向に進んでいく。壮観だが、どのバスもがら空きなのがいたわしい。

 バスはうるま市に進む。中部(ちゅうぶ)病院前でおばさんが多く乗降するのは、内地と同じである。付近には小から中の規模の商店が多く並んでおり、「山羊汁」の文字を看板に掲げた食堂もある。英語の店名表示が日本語より大きい店も、特にステーキ屋などに多い。
 ここは、嘉手納基地の東側にあたっている。嘉手納は西海岸の町だが、島は細く基地は広大なので、裏口は東廻りのバスが通る町になってしまうのである。あたかもパソコンやケータイの街づくりゲームでアイテムを苦心して配置するような、窮屈な土地のやりくりがなされている。

 うるま市の中心街具志川地区に近づき、安慶名(あげな)の交叉点にさしかかる。この交叉点は、那覇から続いてきた東側幹線道路のどんづまりのような所で、ひしめきあったバスが三方に分かれて行く。長らく同じ道を雁行してきた23系統は、ここで右折して具志川バスターミナル終点に入り、お別れとなる。直進すると市役所や高校のあるエリアである。この77系統は左折だ。
 曲がった道は片側一車線で、この系統初めての生活道路的な道になる。山がちの所をカーブしながら上下する。沿道の家は、沖縄式の屋根よりコンクリート造りの箱型のものが多くなってくる。普天間の米軍施設で見たような家だが、あれに比べると建て込んでいて緑に深く彩られているので、整然という感じは全くないが、人々の暮らしは息づいている。道が狭くなったためか、「路上駐車はやめてください」という掲示があちこちに見えるが、そのすぐ脇にクルマが停まっていたりする。
 うるま市北部の町である石川(いしかわ)に近づいたところで、「教員免許を取るなら、沖縄大学」とCM放送が入った。これまでも停留所案内のついでにいろいろなCMは入っていて、宗教団体のもあったが、ついに大学か、とわたしは驚いた。バスのお客のかなりの割合を高校生が占めているから、宣伝効果からすると理に適ってはいる。
 石川の街中には、小さなアーケードを被った路地にスナックが並ぶ「歓楽街」が目についたり、琉映(りゅうえい)前という停留所もあったりし、昭和の日本と米国の西部がまざりあったような、国籍も時代も不明の感じになる。その次は石川電話局前である。電話局という言葉も久しぶりに聞いた。内地のそういう停留所は、既に多くが改称されたろう。

 小浜(こはま)からは、いよいよ沖縄本島の東海岸に沿って走る。遠浅の海である。と、バスから見下ろすだけで遠浅だと分かるほど、水質がいいのである。
 金武(きん)町に入っていて、左手には沖縄自動車道が間近である。細長い沖縄本島の全域に高速道路の恩恵をふりまこうと、ほぼ中央部を縦断する沖縄自動車道だが、このあたりでは東海岸に寄っている。中北部にくると、西海岸がわにまとまった街がないからであろうか。那覇と名護の間には高速バスも走っていて、最短時間で両都市を結んでいる。四社が共同運行しているから、ドル箱路線なのだろう。
 金武、宜野座(ぎのざ)と、現れる街がだんだん小規模になってくる。十人内外で推移していた乗客も、一人欠け二人欠ける。すぐに街を抜けてしまい、灰色の海になる。今日は雨がちだからしかたないが、天気によってはすばらしい紺青がひろがるのであろう。バス道は、海岸よりも高い所に上ったりする。松田(まつだ)あたりの家は、どことも屋根の上に水タンクを載せている。近くには大きな川や池はなく、水源に乏しいようだ。
 潟原(かたばる)付近から見る海は、青灰色とオレンジとがまだらになっている。毒々しい配色である。このへんは海への赤土の流出があるらしい。水が透明だから、なお目立つ。

 本来のバス道から逸れて久志や豊原の集落の中を通る。こういう迂回をする便が一部にある。
 細い道をくねくね進んでからバス道に復帰すると、道は切り通しになり、両側が高台となる。そこが沖縄高専のキャンパスで、左側に校舎やグラウンド、右側に学寮があり、連絡橋がバス道を跨いでいて、平面で行き来できる。なかなか機能的な構造のキャンパスだ、と思う間もなく辺野古(へのこ)の交叉点である。
 ここも、小規模ながらロータリー状になっていて、その真ん中に塔のような看板が建っている。「ようこそ沖縄工業高等専門学校へ」と書いてあり、古い温泉地のようだ。洗煉されたキャンパスとのギャップが可笑しい。
 その辺野古の停留所で、わたしより前から乗っていた女の子が、巨大な楽器のケースをやっこらさと抱えて降りて行く。高専の吹奏楽部生が帰省先から寮に戻ったのだろうか。これで、乗客はわたし一人になった。

 第二辺野古を過ぎると、右手にはキャンプシュワブが拡がる。いわゆる基地に比べると、素朴さが目立つように見える。辺野古崎という岬が東方に突き出しているはずだが、そこもキャンプ内である。第一ゲート、第二ゲートと、キャンプシュワブに由来する名の停留所を過ぎると、ぐっと南西に方向を換え、山越えにかかる。
 と、雨が激しく降りはじめた。フロントガラスはワイパーも利かない。中年の運転者さんは豪快に大声で呪詛を吐く。あの高専生は濡れない間に寮に着けただろうか。
 しかし、昔に比べれば道もよくなったのだろう。使われなくなった危なっかしい旧道があちこちで見え、道路改良の工事が進められている所もある。
 ようやく道が川に沿いはじめ、ちょっとした平地が出てくると、間もなく西海岸の58号に世富慶(よふけ)で久々の合流である。名護市街が近い。
 58号は海岸沿いを直進し、先には大型の店舗なども見えて賑わしいが、バスはそこへは向かわず、右に折れて名護の古くからの市街に入っていく。が、道沿いはみごとなシャッター通りだ。郊外にしかるべき店舗ができているものと思われる。それでも、スーパーの近所だけは人通りがあり、名護城(なんぐすく)入口からは買物帰りのおばさんが乗ってくる。商店街もちょっと活気が出てきたようで、改築中の居酒屋が見え、女性の店員が重そうな材木を運んでいる。
 名護城の由来ははっきりしないが、公園として整備され、名護市民のオアシスとなっている。花見の名所としても知られるが、桜の見頃は一月末頃だそうだ。

 わたしは北部(ほくぶ)合同庁舎前で下車した。運賃が千円を超えたので、千円札に若干の小銭を添えて払い口に入れようとしたが、運転者さんが札だけ取って両替口に差し込んで何やらボタン操作をすると、そのまま札が収納された。ちょっとしたことでも沖縄流である。
 雨足はあの山道ほどではないが、まだ強い。しかたなく傘をさして散策するが、入れる店もない。市街といっても、建物は低いし間隔が空いている。探す目も雨に遮られてうまく配れていないのだろう。わたしは市役所へ行った。バスに三時間近くも乗っていたので、用も足したいし、雨宿りもさせてもらおうと思う。
 市役所はスケルトンの煉瓦作りで、シーサーも大勢出迎える、なんとも独自性の高い建築である。こんな建物は見たことがない。武骨ながら美も感じさせ、沖縄らしさもある、不思議な市役所だ。

 昼食を済ませても雨は止まない。できれば名護から郊外にも足を伸ばしたかったが、徒歩の距離が長くなるため、この雨では億劫だ。諦めて、名護バスターミナルに向かった。
 名護バスターミナルは以前は街はずれだったと思われるが、新しい店舗が点在する中にあった。那覇のターミナルほどの規模はないが、バスの駐車場は広々としており、沖縄バスと琉球バスの車輌が多数待機していて、圧倒される。ターミナルビルは平屋だが、小規模ながら売店や食堂があり、タクシーも客待ちしている。線路がないだけで、どこから見ても「駅」である。
 ベンチに坐って時間をつぶしていると、明らかに地元の人である爺さんが、
「売店どこですか」
 と訊く。指を差しながら教えてあげると、丁寧に礼を言い、たどたどしくそこへ向かっていく。大丈夫かなと思うが、アロハは似合っている。
 時間がきて乗り場に向かおうとすると、売店から出てきた爺さんと目が合った。爺さんはもう一度かなり深く会釈をする。気持ちよく返す。
 夥しいバス群の中でどの車が来るのか、と思っていると、120系統名護西空港(なごにしくうこう)線の乗り場に時間ぎりぎりに着車したのは、琉球バスの那覇空港国際線ターミナル行である。


名護バスターミナル→嘉手納(120系統)

 沖縄の四社のバスは、かつてはそれぞれ勝手に路線を設定しており、競合も激しかったのだが、それでは分かりにくいし、いたずらに客を奪い合って共倒れになりかねないため、ある時期から運行形態の統一を進めた。平行する系統は統合して同じ系統番号を付けて共同運行としたり、路線の移管をしたりした。もちろん、乗車券類も共通とした。停留所もターミナルも共用である。
 その結果、現在では全く融合したと言っていいような状態になっている。この120系統にしても、琉球バスと沖縄バスの共同運行だが、時刻表にもどの便がどの会社の担当というようなことは何も書いていない。利用客は、会社の別を意識する必要なく、来たものに乗ればいいのである。外来の観光客なども、系統番号だけ覚えておけば用が足るから、ありがたい。
 こういう方式は内地にはみられず、沖縄という閉じた地域だからできる面もあるが、内地も少しは見倣っては、と思う。同じ地域に複数のバス社局が入り乱れ、乗降方式や支払方式が微妙に違ったり、停留所位置がずれていたり、同じ場所にある停留所が社局によって名前が異なったり、と内地は乱雑である。
 ただ、趣味の人間からすると、その場にならないとどの会社のバスが来るか分からないのは、ちょっと面白くない。スリルはあるが。
 
 名護から西海岸沿い、つまり国道58号をほぼ直行して那覇に向かうのが20系統名護西線で、それが那覇空港まで足を伸ばしたバージョンが120系統である。昼間はほぼ120系統として運行される。ただし、那覇へは高速バスがあるので、通しの利用客はほとんどなく、短区間利用が多いようである。「並行在来線」のような存在だ。
 バスは、世富慶まで77系統と同じ道を行くが、直進して東シナ海沿いを走る。次の数久田(すくた)からはかなり長い距離停留所がない。山が海に迫っていて集落がないのだ。ちょっとできた平地に「道の駅許田(きょだ)」などが設けられているが、バスはそんなものは関係ない、とばかり行き過ぎる。1キロほども先にある許田停留所は、ちょうど沖縄自動車道の北端部分であるが、左側の山沿いに並ぶ物に、わたしは目を奪われた。
 そこには、屋根付きの立派な墓が並んでいたのである。沖縄式の屋形墓である。荘厳だが、場所をとること無類だ。

 高速道路と別れると間もなく、ホテルが建ち並ぶブセナリゾートをかすめる。リゾートホテルの脇の小山にも、ぽつんと屋形墓が孤独にある。歩いて渡れそうな島やヨットハーバーや、夏の沖縄にふさわしい情景が続くが、恩納(おんな)村中心近くの万座ビーチでは、墓が集団で砂浜に面しているのが見える。観光地を走っていながら、なぜ墓ばかり目に入るのか、自分でも不思議だが、インパクトは大きいのである。
 何とかビーチが次々とあらわれ、ほとんど水着のように見える薄着のままでバスに乗り込んでくる若い関西弁の女性もいる。もちろんそんな恰好で道をうろうろしている人も多く、カフェや土産物屋、それに屋根にシーサーを載せたファミリーマートなどが賑わっている。そんな一角に仲泊(なかどまり)小学校がある。こんな環境で、落ち着いて勉強ができるのだろうか。このあたりは沖縄本島も最も細くくびれており、東岸のうるま市石川地区までは直線距離で2キロほどしかない。
 そこを過ぎると、西側に読谷村の半島部が盛り上がるあたりにさしかかる。58号は内陸部に入る。山を越えて、白っぽく明るい市街地に出た所が、嘉手納停留所である。ここで降りる。
 自動放送は、五千円札以上の紙幣は両替できません、と言うのだが、料金箱の掲示は「二千円以上の両替は、出来ませんので御協力お願い致します」とあり、二千円札の扱いが宙ぶらりんである。あるいは、二千円札なら運転者手持ちの千円札でなんとかする、ということであろうか。わたしは小銭でちょうど払って降りた。
 停留所の側では個人タクシーが客待ちしていて、バスを降りたわたしに運転者さんが、
「どちらへ行かれます? 道の駅? タクシー要りませんか」
 と大声で訊く。沖縄のタクシーはどこも積極的だ。これは前回の訪問と変わらないが、わたしは手を振ってロータリーの方へ歩く。

 かつて嘉手納には、沖縄で、ということは日本で最大のロータリーがあった。これまた米国の占領時代を象徴するような遺産だったが、58号が市街をバイパスするルートに付け替えられたので、ロータリーも廃止された。しかしロータリーの一部だった円弧状の道路は現在も使われていて、沿道に店も建ち並び、ロータリーに因んだ名の店も多い。
 わたしはその一角にある沖縄銀行のATMで金を引き出した。ディスプレイには、あたりまえのように「二千円札優先」というボタンが表示される。沖縄ではどこの銀行もそうだったが、郵便局のATMは全国統一仕様のようで、そんなボタンはなかった。わたしは、その珍しいディスプレイをカメラに収めようと、ケータイを広げた。すると、行員さんが来て、お振り込みですか、と声をかけた。
 嘉手納の街を歩いた後、停留所に戻る。個人タクシーの運転者さんはまだ側で車を磨いている。どこからかタクシーで乗りつけたおばさんが、バス待ちの客群、といっても数人だが、そこに加わる。


嘉手納→宜野湾市営住宅前(28系統)

 最初に那覇から乗ったのと同じ、28系統読谷楚辺線の那覇バスターミナル行が来て、それに乗る。
 58号は不自然に大きな弧を描いて南西に迂回している。嘉手納基地の隅を避けているのである。前述の沖縄県鉄道嘉手納線は、こんな迂回はしていなかったが、その廃線敷は基地内に埋没している。
 アメリカンビーチのお洒落な店を右に見たりしながら北谷(ちゃたん)町を抜け、宜野湾市に入った所が伊佐浜(いさはま)停留所である。このまま58号を直進すると、往路の23系統で通った伊佐につながる。同じ道では面白くないが、この便は、宜野湾バイパスを通る便なので、右に折れてくれる。
 バイパスに入ってすぐの宜野湾市営住宅前で下車、中規模のショッピングセンターで買物し、お茶を飲む。


宜野湾市営住宅前→壷屋(112系統)

 ここからは、112系統国体道路線那覇バスターミナル行で那覇に向かう。これは、バイパスと呼ばれる国道330号経由で那覇に向かう系統で、便利なのだが、朝夕のみの運行で、本数は少ない。
 少し進むと、右手にコンベンションセンターが見える。会議場のほか、各種スポーツ施設も揃っている文化ゾーンである。ここまでは那覇から多数の系統が来ている。
 真志喜(ましき)から宇地泊までのほんの短い区間だけ58号を通り、バイパスに入る。330号に合流すると、高速道路ではないが、それに近いようなスムーズな流れになる。このバイパスのすぐ北西には、浦添市街を縦断するパイプライン通りと呼ばれる道路が並行している。米軍の燃料輸送のために設けられたパイプラインの上を道路としたためこの名が付いたそうで、内地によくある「水道路」の油版である。
 宜野湾から二十分もかからず、那覇市内の古島(ふるじま)駅前に着く。古島はモノレールの駅で、ここからはバイパスの上空をモノレールが走る。ここでバスとモノレールを乗り継ぐ利用も増えており、駅前には客待ちのタクシーが常駐している。モノレールが北部市外へ延伸することになれば、ここから分岐するようになるかもしれない。
 興南(こうなん)高校前では、クラブ帰りの高校生が乗ってくる。高校と道を挟んで反対側の市営住宅のフェンスに、
「興南高校甲子園春夏連覇おめでとう!」
という大段幕が掲げられており、地域の教育への関心が垣間見える。

 数日の滞在で限られた経験ではあるが、沖縄では子供を甘やかさないように見うける。よその子でも注意する場面は何度かあったし、だからこそ子供たちも妙に調子にのって騒いだりはしない。
 横断歩道ではもちろん歩行者優先で、左折車などは辛抱強く待ってくれる。が、待っているクルマがあるのにだらだらした歩調で渡ろうとする高校生のグループなどがいると、容赦なく、おそらく故意に、彼らの前ぎりぎりを脅かすようにクルマが曲がっていく。高校生はわっ、と立ち止まる。
 しかし、厳しい反面、暖かく静かに見守って育ててもいるのだろう。

 新都心とも呼ばれるおもろまち駅前を過ぎたあたりから、この330号も渋滞が始まった。那覇市街に入って、信号が多くなったからであろう。このバスも、国際通りは避けて南側の開南(かいなん)を迂回するが、それでも込んでいる。わたしは壺屋(つぼや)でバスを降り、国際通りを歩くことにした。
 なるほど、歩いてぐんぐんバスを追い越すことができるほどの渋滞である。歩道も雑踏で、土産物屋の店員が激烈な呼び込みをしているので、流れが悪い。それでもクルマよりはスムーズに進めるようだ。


 国際通りが尽きた所にあるデパートに入り、レストラン街で食事をする。店員さんは営業スマイルではない本当の笑顔で迎えてくれる。金を払ってくれるからではなく、ここに来てくれたことを喜ぶ笑顔だ。食べ終えたらさりげなく水を替えてくれ、この後もゆっくりなさってくださいね、などと声をかけてくれる。内地では見られないことである。
 短い期間で感じとった範囲でも、沖縄は人の心がすがすがしいのである。滞在中、他人に苛々することがほとんどなかった。一二あったが、それは明らかに内地からの観光客であった。ほんの小さなことからそうだ。道を歩けば、さりげなく譲り合う。他人の前に出ようとはしない。バスに乗るときも、舗道を歩くときもそうであった。
 実質一日で一巡りできた沖縄本島を、大きいと思うか小さいと思うかは人それぞれである。わたしは広さを感じた。  

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丹波の盆地をバスでつなぐ

 丹波というのはとらえどころのない地名である。丹波国は京都・大阪・兵庫の三府県にまたがっていて分裂的であるし、丹波の核はどこか、と聞かれると、答えにくい。あちこちに盆地や台地が点在しているだけで、大都市をなすような平野はない。
 だからこそ分裂させられやすかったわけだが、鉄道網も「丹波国」を無視したような広がりである。口丹波には京都から山陰本線が通じる。西部の兵庫県域には大阪から福知山線が来ているが、県都神戸と結ぶ鉄道はない。そして豊能地区や篠山市街、そして国道9号沿いの旧丹波・瑞穂(みずほ)町あたりは鉄道そのものがなく、バス連絡に頼る。しかしそれらこそまさに丹波のまんなかに位置している。

 
 今回は、豊能には行けなかったが、丹波のまんなかあたりを主にバスでうろうろしてみた。


 JR福知山線篠山口(ささやまぐち)駅前に、篠山(ささやま)営業所行のバスが停まっている。福知山線が篠山を通らなかったため、篠山口と篠山市街の間には、古くは私鉄の篠山鉄道、代わって国鉄篠山線が敷かれたが、廃止になり、国鉄バスと神姫バスによる連絡となっていた。西日本JRバスはその後篠山から撤退し、神姫バス系列に一本化されている。このバスは神姫グリーンバスの運行だ。

 
 地元客と観光客が相半ばして、席がほぼ埋まった状態で発車する。途中、福祉施設や病院に行ってきたらしいお年寄りも次々乗り込んでくる。なかなか活気のあるバス路線である。市街を避けて南に廻る幹線道路と別れると、市街の入口である西町(にしまち)に着く。ここで左折すると、バス道はぐんと狭くしかも屈曲したものになる。両側に小さな店がびっしり並び、道を渡る人も多い。停留所間隔が狭まり、店の軒下でバスを待つ客を拾う。
 二階町(にかいまち)は、城址公園の入口で、文化施設もある。パンフレットを持った客が降りていく。沿道の狭い駐車場に出入りするクルマが前を遮る。市街を鉤型に半周し、南東部に来た所が本篠山(ほんささやま)である。
 本篠山はかつて国鉄バスの営業所がある「駅」だった。広大だった構内は更地になり、今は単なるバス停である。近くには能楽資料館もあり、観光客はここで全て降りてしまう。中心街を外れ、京口橋を渡った所が篠山営業所である。 


 ここから福住(ふくすみ)行に乗り継ぐ。福住行のバスは、スクールバス用の特別塗装車だが、誰でも乗れるし、ICカードも使える。大まかには国道372号を東進しつつも、時々旧道で集落の中心に入ったりする、地方でよく見るパターンだ。
 日置(ひおき)の集落に入ろうとする所で北に折れ、篠山川を渡って1キロほども進んで、山の麓にある篠山東中学校の校内に入って一周する。昼間だし、もちろん乗降はない。また元来た道を日置まで戻る。何のための寄り道か、よく分からない。日によっては乗降があるのだろうか。
 日置は旧篠山線の駅もあった所で、南へ山を越えて後川(しつかわ)方面に向かう道路が分岐する。このバスはまっすぐ東に向かうが、両側を山に挟まれる。
 ここに、波々伯部(ほおかべ)前という停留所がある。千四百年の歴史をもつ波々伯部神社に近い。京都の八坂神社と縁が深く、祭神も同じ素戔鳴尊(すさのおのみこと)である。八月に行われる「おやまの神事」と呼ばれる祭は、無形民俗文化財に指定されており、本家祇園祭と同じく、山車が練り歩くそうだ。さりげなくこういう史跡が存在するところに、丹波と篠山の貫祿がある。
 それを過ぎると、国道372号も山にかかる。もうどっちを向いてもすぐに山、しかし峠は低く、くねりつつ坂を下るとすぐに福住地区が見える。旧篠山線は、この山の北側を大きく迂回していたので、かなり時間のロスがあったはずだ。
 福住の手前で、大阪の池田から能勢を通ってきて、綾部に向かっている国道173号と交叉する。そのあたりはコンビニや飲食店も並んでいる。わたしはこの先の福住でバスを乗り継ぐのだが、待ち時間を過ごす場所があるのだろうか。お茶くらい飲みたいが。
 期待に反し、バスは国道を逸れ、狭い旧道を進む。旧篠山線の終点だった福住駅跡がバスの待機所になっていて、駅前通りにあたる所に福住のバス停がある。その脇に、長屋をリニューアルしたような建物があり、店が四軒並んでいる。店の入口はどれもそっけないアルミサッシの扉だが、よく見るとそのうちの一軒にお品書きが控えめに吊るしてある。
 入ってみると、思いの外さっぱりとした内装の喫茶店であった。若くないお姐さんが一人で切り回しているようで、昼時なのに常連らしい客がカウンターに一人いるだけである。わたしも一人客なので、隅の席に坐ろうとすると、
「どうぞ広いテーブルをお使いください」
と言われる。その店でコーヒーフロートをいただきながら次のバスを待つ。


 福住からの園部(そのべ)駅西口行バスは、京阪京都交通の運行である。小さなバスに乗り込んだのはわたしの他におばさんが一人だけだ。カードタッチ機があったのでイコカを当ててみたが、反応しない。しかたなく整理券を取ったが、カードリーダーもあるので、運転手さんに、
「スルッとKANSAIのカードは使えますか?」
と訊くと、
「どういうカードですか?」
と訊き返される。
「阪急電車です」
「うーん、多分大丈夫です」
自信なさそうである。
 発車して、やはり町中の狭い道を進む。田舎ゆえ高齢化が進んでいるのか、軒下に「飛び出し注意」として笑顔の婆さんが元気よく飛び出そうとしているイラストが描かれた看板がある。子供のそれはよく見るが、婆さん版は初めて見た。
 京阪京都交通・神姫グリーンバス・篠山市コミュニティバスと、各停留所に三本ずつポールが立っている。
 元々は国鉄→JRバスが篠山口と園部の間を直通で結んでいたのだが、撤退により民間委譲・系統分割され、こういうかたちになっている。そういえば、さっきの神姫グリーンバスの車内に、「福住~原山口間は京阪京都交通のエリアなので、一般の方はご乗車できません」という貼り紙があった。一般でない客というのがどういうものか分からんが、多分通学専用か何かの便があるのだろう。神姫と京阪の共同運行で篠山~園部間を直通運転できないのだろうか。そうしないのはいろいろなしがらみがあってのことだろうが、解せない。わたしの後ろのおばさんも、さっきの神姫グリーンバスから乗り継いだ人である。
 バスは国道375号に戻り、天引(あまびき)トンネルを抜け、京都府に入る。トンネルができる前は険しい山道を越えていたが、スムーズになった。峠が終わったところにるり渓口(けいぐち)という停留所がある。ここから五キロほど園部川を遡ると、奇岩によりその名どおり美しい渓流となっている瑠璃渓(るりけい)があり、温泉も湧いている。以前はそこへも国鉄バスが通じていた。
 道端の畑に、彼岸花がびっしりと萌えている。ヘルメット小脇に抱えた人が、路傍に二輪車を停めて見とれている。
 まっすぐ亀岡(かめおか)に向かう国道と別れ、北に向かう。園部の商圏に入ったのか、ぽつぽつと乗り込んで来る人がいる。
 橋を渡って園部河原町(かわらまち)の交叉点を右折すると、園部の市街地に入り、園部大橋をまた渡る。狭い盆地を園部川とその支流が煎餅を割ったように細かく分断しているが、負けずに街が拡がっている。宮町を右折すると、広々と明るく整備された通りになり、南丹(なんたん)市役所前停留所がある。そこで下車する。右前方の丘の上に市役所が見える。

 
 ここで一時間ほどの待ち合わせなので、昼食をとりたいと思うが、適当な店があるのかどうか。
 ぶらつくうち、街角に小さな和食の店があったので、扉を開いて踏み入れてみる。
 一瞬にして、店の選択を誤った、と後悔した。

 薄暗い店内はごちゃごちゃしていて、鉤型のカウンターには常連と思われる爺さんらが椅子一つおきにかけ、それぞれ指定席になっている風情である。入って来たわたしに見向きもせず、大声で談笑している。余所者は入れんぞ、という気魄に満ちている。
 しかたなく座敷の方に上がる。独りで坐るには落ち着かない席だ。年とった女将さんが空の湯呑みとおしぼりを持ってきてくれたので、短冊のなかでも無難そうな親子丼を注文する。女将さんは愛想なく引っ込むと、冷蔵庫から出したペットボトルをわたしの前にどん、と置いて調理場に去った。何のつもりだ、と思いかけたが、ペットボトルのラベルは外してあり、入っているのは店で淹れた冷たい煎茶である。なるほどこれなら一人で店を切り盛りしているらしい女将さんが、いちいち客の面倒を見なくても済むわけである。案外合理的な店だな、とちょっと見直し、お茶を湯呑みに自分で注ぐ。
 丼を持ってきたのは、定食の盆を前にお茶を飲んでいた、カウンターの端の爺さんであった。常連客かと思ったら、主人だったらしい。
 丼は深さも直径も十分あり、味も期待どおりだった。この地方に来るとよく出くわす、ふわふわに泡立てた玉子で柔らかく煮た鶏肉をとじてあり、山椒の粉がかかっているという、舌に優しい親子丼、出汁もよく利いて、箸が勝手に動く。添えられた赤だしと漬物の味も深みがある。
 しかも、指のせいで箸を使うのに難渋ぎみであるわたしを見てか、女将さんが無言でスプーンをこつんと置いて行った。お品書きに、スプーンを使って食べる献立は見あたらない。わたしはさっき後悔などした不明を恥じた。


 園部大橋(そのべおおはし)のバス駅は、道から少し逸れた所に停車スペースと屋根付ベンチがある。そこに、園福(えんぷく)線桧山(ひのきやま)行の西日本JRバスが入って来た。かつて園部から各方面に路線があったJRバスも、現在はこの一系統のみとなった。園福線は園部と福知山(ふくちやま)を結んでいる。この区間は山陰本線が国道9号(旧山陰道)から離れてやや遠回りしているため、短絡のために国鉄バスが運行されるようになったのである。
 五分と走らないうちに、もう峠にかかって園部の街と別れる。園部から乗った買物客や学生は、丹波水戸(たんばみと)あたりで降りてしまう。茨城県の水戸と重複するから「丹波」を冠した名にしているあたりに、国鉄バスの名残がある。
 また盆地に出ると須知(しゅうち)の街である。国道9号は片側二車線になる。右側には道の駅があるが、大型ショッピングセンターが併設されている。このあたりがこんなに開けているとは知らなかった。お馴染みのファストフード店やコンビニも道路沿いに並ぶ。国道27号が分岐する京丹波町(きょうたんばちょう)役場前にも、やはり大きなスーパーがあり、クルマの量も多い。左側には丹波自然運動公園の緑が続き、右側には須知高校が現れる。大学のキャンパスのような立派な校地だ。現在のようないわゆる「駅弁大学」が乱立する以前は、高校といえども地域の「学問の府」だったのだろう。
 小さいながら本殿が重要文化財に指定されている九手神社の側を過ぎると、旧瑞穂町の中心、桧山である。病院の前へ迂回した後、終点桧山駅に入る。もちろん鉄道は通っていないが、国鉄バスが停まる所は、あくまで「駅」なのである。運賃をICOCAで支払うことはできない。JRのカードが神姫バスで使えてJRバスで使えないとはなんともちぐはぐ、が、そういうことになっている。


 桧山の駅は、ホームこそ一面だけだが、乗場ブースは八つほどもあり、切符売場の窓口もある。大都市のバスターミナルにひけをとらない。構内のバス待機場も広大である。もっとも、ここから分岐していた支線群は、廃止されたりコミュニティバスに移管されたりして残っていない。人影もバスもまばらである。
 ここで二十分あまりの待ち時間がある。ケータイの電池マークが心もとなくなったので、充電器用の電池を側のスーパーで買う。
 桧山始発の福知山行バスがブースに着いてみると、さっき園部から乗ってきたのと同じ車、同じ運転士さんである。運転士休憩の都合で系統が分かれているのかもしれない。わたしも同じ右側最前列に坐る。
 ここからは運転席の機器類がまる見えで愉しい。古びたバスや駅とは対照的に、スタフ(運行指示票)は電子化されている。これは、この路線がオンデマンドバスという方式をとっているからである。すなわち、一部の閑散区間は、事前に電話やインターネットで予約を受け付け、利用がある時だけ運行あるいは寄り道するのだ。こうすることで無駄な便の運行をなくし、あるいは運行時間の短縮を図る。運転席のディスプレイに、該当区間の予約の有無が表示されるようになっている。また、それ以外の区間でも、駅ごとの所定の発車時刻が、四駅先まで自動表示される。GPSによって表示は切り替わっていく。今はまだ発車前なので、初期画面でウインドウズのロゴマークが表示されている。

 
 発車した福知山行は、またまたすぐに上り坂にかかり、台地を越える。国道9号は土師川に沿いはじめているが、細かい湾曲にはつきあわない。全面的に改修された道のようである。
 下大久保(しもおおくぼ)を過ぎて坂を下っていく。このあたりの駅には、福知山市コミュニティバスの停留所ポールが併設されている。園福線の半分も来ていないのに、もう福知山市内なのである。平成の大合併の強引さはいずこも同じだ。
 ささやかな盆地が現れると、旧三和町(みわちょう)のバス要衝地だった菟原(うばら)駅である。南方へ峠を越えて兵庫県側の草山(くさやま)温泉まで福知山市バスが通じており、神姫グリーンバスに乗り継いで篠山方面に抜けることもできる。県境を超えて運行するコミュニティバスは珍しい。綾部(あやべ)に向かう市バス路線もあるし、京丹波町営バスとも連絡している。ボーダーラインにこだわらない闊達なバスであるらしい。路線策定の担当者が柔軟なタイプだったのかもしれない。
 この便は、ここで「菟原ルート」と呼ばれるオンデマンドシステムの適用される区間に入ることになっており、わたしも楽しみにしていた。菟原の町中を廻って乗降があれば扱うのである。が、ディスプレイには「乗車」「降車」とも「0」と表示され、残念ながらあっさり国道9号を直進してしまう。
 一旦は山峡に入るが、すぐまた盆地となり、三和町の中心部である。ほんの少し乗降が活発になる。さらに下って行くと、ようやくまとまった平地が開ける。六人部(むとべ)の地区である。舞鶴若狭自動車道をくぐった先が、多保市(とおのいち)駅であり、ここから国道9号と別れ、砂子町の狭い路地に入っていく。国道を直行する便もあり、路線が二手に分かれるのだが、これは正規路線の分岐であって、オンデマンドではない。
 バスと乗用車の離合も容易でないが、対向車はひっきりなしに現れる。家の軒ぎりぎりまで車体を寄せては切り抜けていく。その家々だが、一軒ずつの敷地も広く、瓦を載せた垣で縁取られた堂々たる旧家が軒を並べる。垣が連なるので、両側からの威圧感もある。何となく、知覧の武家屋敷をわたしは思い出した。
 そして、屋根にはお城よろしく小さなしゃちほこが載っている。多くの家がそうである。福知山城の屋根にそれが載っているのにあやかったのだろう。あるいは、しゃちほこの代わりに鳩が載っている家もある。平和の時代にはしゃちほこよりも相応しいということなのか。
 そんな街並みを抜けたところに、福知山学園前駅がある。高校の名前かと思ったら、障害者支援の施設らしい。小規模な温泉施設がある福知山温泉駅を過ぎて右折すると、突然道も広くなり、土地も開け、一転して工業地域となり生活臭が消える。慌ただしいことである。そして、大きなインターチェンジのようになった所を降りて、掘割状の国道9号に再合流する。
 なんとまあ国道9号はちょっと見ない間に高速道路と見紛う大がかりな道路に成長していたのである。中央分離帯もあり、片側二車線の、どこからみても幹線道路だ。左側には温泉を併設したホテルが建ち、右側にはJR貨物のコンテナターミナルがある。地方のコンテナターミナルは、トラック代行が進んだことにより、今や線路沿いではなく幹線道路沿いにあるのであり、「オフレールステーション」と呼ばれている。
 市街を避ける国道9号をはずれ、山陰本線をくぐって福知山城や市役所のある中心街を行く。「お城通り」と呼ばれる道である。
 桧山から一時間ほどで、終点「福知山」に到着する。「福知山駅前」や「福知山駅北口」とかではなく、あくまでJR福知山駅と一体なのである。もっとも、もちろん駅構内に入るわけではなく、民営バスや市バスと同じ駅前広場のターミナルで降車扱いとなる。

 
 いつも感じることではあるが、線路から離れたバス路線を辿っても、ちゃんとわたしの知っている福知山駅に着くのが、何だか不思議な気がする。盆地と盆地を綱渡りするように辿り着いた福知山もまた、大きな盆地である。 

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南紀から高野山へ

 以前は大和八木から奈良交通の新宮特急バスで紀伊半島を縦断したが、今夏はちょっと違うルートを辿ってみたい、と思った。
 往復ともバスでは飽きるので、往路は鉄道にする。わたしは紀勢線の特急「オーシャンアロー」に乗って紀伊勝浦に向かった。

 紀伊勝浦駅の周辺には、めはり寿司や鯨弁当を売る売店が多くある。めはり寿司は、大きめのおむすびを高菜の葉でくるんだものである。おむすびなのに手で持ってもべたべたしないのが助かる。店により地域により、中のご飯が白飯だったり酢飯だったりまたかやくご飯だったり、あるいは味付けも塩だったり醤油だったり、具があったりなかったりとさまざまなバリエーションがある。高菜で巻いてさえあればめはり寿司と名乗ってよいらしい。
 わたしは、駅から少し離れた小さな店で、かなり大きく握られたのを買った。駅弁や土産物の店だと、食べやすいよう上品にしてあるが、本来のめはり寿司はソフトボール大だそうだ。さすがにそれは持て余しそうなので、せめてと思い、テニスボールを二つにした。バスで食べる虫抑えにはちょうどいいだろう。

 「新宮」や「潮岬」などという行先のバスが発着する駅前の熊野交通ターミナルに、「DORO-KYO」と大書された大きなラッピングバスが入ってきた。
 これが今から乗る「熊野 高野アクセスバス」という期間限定運行のバスである。その名のとおり、この勝浦と高野山とを結ぶ観光客向けの路線で、ありそうでなかった運行である。定期運行で一般道路だけを走るバスとしては新宮特急が日本最長距離だが、このバスはそれを上回る距離を走る。
 わたしは予約してあったので、窓口で乗車券と引き換えたが、台帳を盗み見ると、これから乗る便の予約人数は「1」であった。予約の電話を受けてくれた営業所の男性職員は非常に愛想がよかったが、これでは予約する必要はなかった。

 運転手さんに迎えられ、運転席直後の席に坐る。予約外の飛び込み客はこれまた一人だけである。営業所内はここかしこにこのバスのポスターが貼ってあるが、片道4000円ともなると、それを見て、ちょっと乗ってみよう、とはなかなかならない。この先、新宮や熊野本宮大社などに停車して乗車を扱うが、少しは席が埋まるのであろうか。

 13時40分を少し過ぎてから出発した。勝浦の市街をぐるっと回り、途中海の香りにどんよりと覆われた勝浦桟橋前を通る。ここにも乗場があるはずだが、道路と護岸の境目も定かでなく、どこにポールが立っているのか分からない。色とりどりに水着とパラソルが満開になった海を後に、今度は温泉旅館街の臨海通り停留所を通る。さっきめはり寿司を買った店が見えた。一周して駅の側に戻ってきたのである。
 しかしそこからは山側に入り、二車線で暫定供用されている高速道路を通る。曲線の多い海岸線と紀勢線を遥か向こうに見下ろしつつ、直線的に進み、今度は新宮の市街に入った。通りは広くはないが明るい。店は賑やかに営業している。駅に通じる道は狭く、駅に近づくと通りが寂れる。最近はよくある現象である。しかし駅前はバスが多く発着している。
 せっかく苦労して駅に入ったのに、乗る人はない。ここからは本格的な山の中に分け入ることになる。前に新宮特急を乗り残した区間を走ってくれるので、ちょうどいい。が、前をなぜかクルマを牽引したレッカー車がいて、のろのろ運転になっている。右側の熊野川は河原も広々とした悠然たる河である。速度感がやや鈍ってくる。
 左の崖と右の河に挟まれて逃げ場がなかった道が、ようやく左側に少しだけ広がっている箇所があり、レッカー車が道を譲ってくれた。バスとしてはいつもと逆の立場である。熊野川は広いのに湾曲して流れている。道も逆らわないので、体が翻弄される。人の手の加わり方の少ない河である。
 志古のドライブインに着くと、十五分ほどの休憩となる。瀞峡観光の拠点であり、クルマや観光バスが多数停まっている。運転手さんも降りて、同じく休憩している同社の運転手と談笑する。

 志古からさらに熊野川を遡って行く。支流が流れ込む所に少しだけ平地があり、請川の集落がある。ここから山に登ると、「請川のお滝さん」という見応えある滝があるそうだが、バス旅行には無縁である。本流を少し上る途中、八木から来た新宮特急と擦れ違う。お互い道中お疲れだ。
 熊野の本宮大社前では、前回と同じく各方面に向かうバスを待つ人が見える。このバスのドアが開くと、何人かが運転手さんを見上げていろいろ訊ねたが、結局乗る人はいない。ここから請川まで来た道を戻る。
 ここで流れ込む支流は、さらに何本もに枝分かれしてそれぞれに羊腸と谷を刻んでいるので、地形は非常に複雑だ。その一本を辿っていくが、このようなバスが走るにしてはかなり狭い道である。平行して新しい道路ができているので行き会うクルマはないが、昔は大変だったろう。狭い河原はオートキャンプ場になっており、家族連れなどが憩う。せっかくの清流に、と思うが、山と水とを両方受けとめられる所は貴重なのであろう。
 この流れにへばりつくように、川湯温泉の旅館街がある。ここにも停留所があるはずであるが、注意深く通り抜けただけである。トンネルを抜けて、新道である国道311号に出る。一気に走りやすくなる。時折営業しているのかどうか定かでないうどん屋などがある。山また山でトンネルをいくつも抜けていくうち、運転手さんが無線のマイクを取り、
「今から入るよー」
とどこかに連絡している。こんな山奥で何かと思ったら、次の休憩場所に、バスの駐車スペースとそこへの進入路を確保しておくように指示しているらしい。
 なるほど牛馬童子口のバス停に着くと、そこは「道の駅熊野古道中辺路」の駐車場であった。山中の道の駅なので、クルマの台数は少なくても手狭である。ドライブインの女性職員がコーンを動かしたりして駐車場所を作っている。一日二往復のバスのために専用スペースを空けておけないのだろう。ここでも十分ほどの休憩だ。
 建物もこぢんまりしており、八角形の屋根の下に、土産物屋と食堂を兼ねた店が狭苦しく営業している。そばつゆの匂いがいい。

 牛馬童子口が乗車エリア最後の停留所だ。結局この便の客は二人だけで確定した。15時50分出発、ここから徐々に山を下りていく。途中、相変わらず景気のよくなさそうな飲食店が時々見える。先ほどのドライブインと規模もメニューもさほど変わらないと思うのだが、「道の駅」というブランドの力は侮れないということだろう。
 比較的大きな集落である栗栖川まで下りてくると、紀伊田辺や白浜に近い。この路線は、熊野本宮に立ち寄るためとはいえ、ここまでかなり大回りのルートをとっていることになる。白浜発着にするのも一法であろう。これからいよいよ本来の方向である北に折れ、ここまで以上に深い山になる。トンネルも長くなる。
 抜けると龍神村である。自治体としての龍神村は合併によってなくなったが、龍神村という名前が知られているためか、現在も田辺市の大字として「龍神村」の名を残している。国道371号は屈曲した日高川に沿って上っていく。龍神村の中心部から20キロ近くも進んだ所が龍神温泉である。紀州徳川家の湯治場だ。しかし温泉街が見えかけるとまた長いトンネルである。
 何もない山道を上がっていくと、道に沿う川が次第に細くなり、やがてなくなる。しかたなく国道は尾根の等高線に沿いながら少しずつ上っていく。護摩壇山の頂を過ぎるとすぐに展望台である。ここが最後の休憩場所となる。
 和歌山県の最高峰なので、展望タワーなども建っているが、上るほどの時間はない。しかし駐車場からの眺めも十分に非日常的である。山しか見えない潔さがよい。峰の向こうはやはり緑の山肌である。どこまでもそれが続く。まさにこういうのを山並みまたは山波と呼ぶのだろう。近畿でこんな風景が見えるのもよい。日が傾きはじめているので、東側にカメラを向けると、まるで絵葉書のような写真が撮れた。ちょっと作り物のようでさえある。

 護摩壇山を出発してすぐ、運転手さんがバスを停めた。
「このあたりから見ると、ほんとに山らしい景色ですから、写真をどうぞ。逆光になりますが」
と左窓を勧めてくれる。せっかくなので写真を撮ってみた。優等生的な色鮮やかさでは先の写真に及ばないが、雲越しの西陽に霞んで見える空の下、グレーのグラデーションが視界の限り続くこちらの風景のほうが、わたしには情趣が感じられた。
 暫くは奈良・和歌山県境の尾根を下りていく。ヘアピンカーブも随所にあり、体が揺すられる。ようやく道が小さなせせらぎに沿いはじめ、ぽつぽつと人工の建物が沿道に見えはじめる。廃材置場などが現れるのは、町が近い証拠である。
 暫くぶりの信号機を左折すれば、高野山の奥の院である。金剛峯寺の伽藍を見て街並みを抜け、南海りんかんバスの専用道に入る。長い行路のとどめをさすごとく、大変な悪路である。
 高野山駅前に着いて、わたしは運転手さんに、
「長時間お世話さまでした」
と言わずにおれなかった。

 極楽橋に下りるケーブルカーは、発車が近づくとどやどや客が乗り込んできて、席を血眼で探す。そこはもう大阪の続きであった。 

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再度山ふたたび

 神戸の再度山(ふたたびさん)には、子供の頃祖父母に連れられてよく登った。
 今はもう二人とも故人となっているが、祖父母は健脚で、山歩きや旅行に歳の割によく出かけていた。七十を過ぎても毎年山深い郷里に欠かさず帰省しており、「もう今年が最後になるわ」と言いつつ二人で出かけて行くこと二十年以上に及んだ。
 祖父母に励まされつつ山道を歩き、茶店に辿り着いて食べた、なぜか玉子焼きの味が忘れられない。

 しかしわたしも長じてからはほとんど再度山に登ることがなかった。再度山を越えて森林植物園に行くことはあったが。
 それで、昨年の夏行ってみることにしたのだが、軟弱ながら登山道を登るのは面倒なので、バスを利用することにする。 

 このバスというのは、神戸市バス25系統(三宮駅ターミナル前~森林植物園)だが、子供の頃の登山の時に山道から見え隠れするドライブウェイを走る姿をよく見たほか、登山とは別に、小学校高学年の時に父に連れられ、これに乗って再度公園まで行った記憶はある。その後神戸市バス完乗を目指して一度全線に乗りとおした。ただ、途中で降りてみたことがなかった。
 今回は途中下車をも楽しんでみたい。

 神戸の市街地の背後に聳える六甲連山、六甲山(ろっこうさん)・摩耶山(まやさん)・再度山の三大峰全てに、かつては神戸市バスの登山路線があり、山と山とを結ぶ山上路線もあった。しかし、合理化で次第に撤退していき、現在はこの25系統しか残っていない。六甲山や摩耶山には民営バスの路線やケーブルカーも運行されているのに対し、再度山に登る公共交通はこの系統以外ないので、撤退するわけにいかないのであろう。
 現在は土曜休日のみ運転で冬季運休という危なっかしい姿で辛うじて運行が続けられている。わたしは日曜日に乗ってみた。

 25系統の起点は三宮に昨年オープンした高速バスターミナル「ミント神戸」の一ブースが充てられている。初発の9時20分の便を待つ客が発車十五分前には既に五十人ほども列をつくっている。五分前くらいに着いた森林植物園行バスは忽ち満席になり、通路も吊革が埋まるほどの立ち客になる。わたしも坐れないが、山道のバスで立つのはうんざりだ。
 ゆっくりとターミナルを出発するが、わたしは心配になってきた。このターミナルが始発になったのは最近であり、それまでは次に停まる三宮駅前の路上停留所が始発だった。この変更が十分周知されているとも思えないから、三宮駅前で待っている客はもっと多いのではなかろうか。そうなると積み残しが出るおそれがある。次のバスは四十分も後であり、みすみす客をタクシーなどに渡す可能性もある。
 そう心配していると、意外なことに、三宮駅前に着いてみると、前にもう一台「25 森林植物園」の行先を出したバスが停まり、既に客を乗せているところではないか。やはり向こうのバスの方が立錐の余地もなく、一部の客はこちらのバスに乗り込んだりもする。
 初発が込むのはどうやら毎度のことらしく、三宮駅前始発の先行便を特発するのが恒例になっている様子だ。それならもっと運転間隔そのものを詰めたらよさそうなものだが、このやり方の方が混雑をうまく分散できるという経験則があるのだろう。こういう臨機応変の特発は民営バスでは珍しくないが、市バスがこういうことをやるようになったか、とわたしは驚いたのである。25系統を担当する松原営業所は、阪急バスに運行管理を委託している。だからできることなのだろう。バスは神戸市の所有だが、運転士は阪急バスの社員である。

 市街地ではこの後中山手三丁目だけに停まる。昔、市電路線に連絡するために停まっていた頃の名残と思われるが、現在はあまり意味がなく、むしろ北野異人館街の入口に位置する山本通三丁目に停める方が観光路線としては有効だと思うが、そこは通過である。案の定中山手三丁目では二台とも乗車がない。
 いよいよ再度山ドライブウェイにかかる。カーブも勾配もかなりきついので、バスは車内事故を起こさないようそろそろと走る。先行便のお尻が路面を擦りそうになっているのが見える。ノンステップバスなどは運行できそうにない。ゆっくり進むバスの後ろにはクルマが列をなしはじめる。このバスはヘアピンカーブなどで時々路肩に寄って停まり、クルマを先に行かせる。が、先行便はそういうことをしないので、結局渋滞は解消しない。このへんは運転士の性格によるらしい。市街地は陽が差していたのに、山に入ると時雨れてきた。
 夜景の名所であるビーナスブリッジには最近バス停が新設されたが、ここでも乗降はない。この近くには碇山と市章山と呼ばれる峰があり、夜になると名のとおり錨と神戸市の市章の形が山肌に電飾で光るのが市街から見上げられるようになっている。ちょうど市章の下あたりを新幹線の神戸トンネルがくぐっている。
 三宮から二十分ほども登ったところに二本松というバス停がある。登山道との交点であるがゆえのバス停らしいが、周囲には何もない。

 勾配はさらに急になっていく。急カーブも多いが、カーブにナンバーが付けられて標識が立っているのが面白い。洒落や観光目的だけでなく、事故などを通報する時に、目印になるような物もない山中だから、カーブ番号で言えるようにしているのだろう。
 この先が再度山の本懐である。

 さらに数分登ると、大竜寺に着く。わたしはここで降りる。バスは用心深く走ったせいで十分近く遅れている。法要でもあるのか、多数の客が降りた。ぱらぱらと雨が落ちているが、傘はささずに歩く。

 大龍寺には伝説めいた由来がある。実際のところはどうなのか知らないが。

 和気清麻呂が、道鏡の放った刺客にこの地で狙われた時、観世音の化身らしい大蛇に助けられたためにここに寺を成したと伝えられる。大龍寺の名もこの故事に因む。その後、弘法大師が渡唐する前にこの寺に参って成就を願い、帰朝した際にもう一度御礼参りをしたことから、山号が再度山となったそうである。

 山門から踊り場のない急な坂と階段で息を切らしながら登り、伽藍に辿り着く。長らく神戸に住みながら訪れなかったお詫びを込め、寺と寺内社にお参りする。ぼけや中風に霊験があるそうだ。いつか雨があがった。
 大竜寺のバス停に戻って次の森林植物園行を待つ。ポールの頭と時刻表との間に小振りの蜘蛛が巣を張っている。この巣にわたしは見とれてしまった。同心円の横糸が輪郭の糸に妥協してすっぱり断ち切れていて、その横糸を緻密に縦糸が結んで碁盤目になっている。そして糸の交点ごとにささやかな露が煌めいている。こんな美しい蜘蛛の巣を見たのは初めてである。これほどの芸術品を成した蜘蛛は、中心で慎ましく餌を待っている。なかなかの風情、清少納言が「薄などの上にかいたる蜘蛛の巣の、こぼれ残りて、所々に糸も絶えざまに雨のかかりたるが白き玉を貫きたるやうなる」と評したのを思い出す。山はよい。
 この山門前は、ドライブウェイと登山道との交点にもなっている。参拝を終え山に挑まんとする、杖を手にしたおばさん二人連れに、登山道整備職員らしいおじさんが、
「今日は猪が出るから気をつけてなあ」
と声をかけている。

 山の上でなるべく長く過ごしたいと思う人が多いのか、初発便に比べると第二便は空いていて、バスは一台ながら車内には空間がある。大龍寺の伽藍があるあたりが再度山の頂きであるから、道は少しずつ下りにかかっていく。次の再度公園で半分ほどの客が降り、坐れた。ほどなく植物園のゾーンに入る。森林植物園西口の停留所の所からも入園はできる。かつてはここが正門だったが、今は裏口扱いで、小さな切符売場があるだけだ。北側に立派なエントランスと駐車場が整備された。あと数分の乗車で、そのエントランスの前のロータリーにある森林植物園停留所である。ずっと昔の25系統はさらに東の摩耶山まで延びていて、再度公園~奥摩耶間などという運行もあったのだが、現在はここで終点だ。
 森林植物園は中学生の時に通っていた塾の遠足でいつも来ていた所だ。当時は熱心に木々を見て回ることはなかったが、改めて歩いてみると、世界の木々花々はもちろんのこと、動物との触れ合いやアスレチック的な遊具など、意外に多角的な遊び方のできるところである。資料館や売店も整っている。
 奇を衒った乗り物で徒に恐怖を煽るような遊園地よりも、心ある親はこういう所に子供を連れてくるといいと思う。神戸電鉄の北鈴蘭台駅から無料送迎バスがあるので、市バスの休んでいる時期にも、来ることはできる。
 わたしは開けはなしの喫茶室で虫の羽音を聴きながらコーヒーを飲んだ。
(下の地図は、25系統が辿ってきた経路である。三角印をクリックすると、経路に沿って地図が動いていく。一時停止もできるし、+・-のボタンで縮尺も変えられるし、動きが終わればマウスで引っ張って表示位置を変えることも簡単である。ご参考に)

speed:1000 scale:70000 34/41/28.307,135/11/55.208 34/41/25.78,135/11/55.757 34/41/25.78,135/11/55.757 34/41/25.78,135/11/55.757 34/41/25.78,135/11/55.757 34/41/25.78,135/11/55.757 34/41/28.831,135/11/47.771 34/41/28.831,135/11/47.771 34/41/28.831,135/11/47.771 34/41/41.529,135/11/48.07 34/41/34.933,135/11/36.789 34/41/29.161,135/11/26.108 34/41/29.161,135/11/26.108 34/41/29.161,135/11/26.108 34/41/37.736,135/11/21.216 34/41/37.736,135/11/13.529 34/41/41.859,135/11/14.028 34/41/41.612,135/11/2.448 34/41/39.468,135/11/3.945 34/41/41.117,135/10/57.257 34/41/55.546,135/10/52.465 34/42/2.389,135/10/49.769 34/42/1.73,135/10/57.955 34/42/10.799,135/11/7.938 34/42/21.764,135/11/10.634 34/42/28.359,135/11/6.241 34/42/36.273,135/11/7.839 34/42/38.416,135/10/59.153 34/42/38.416,135/10/59.153 34/42/38.416,135/10/59.153 34/42/46.083,135/10/58.654 34/42/56.387,135/10/58.255 34/43/9.411,135/10/46.375 34/43/9.411,135/10/46.375 34/43/9.411,135/10/46.375 34/43/20.291,135/10/45.876 34/43/29.193,135/10/45.876 34/43/38.177,135/10/40.585 34/43/49.716,135/10/32.099 34/43/57.792,135/10/31.101 34/44/7.847,135/10/29.204 34/44/13.451,135/10/39.387 34/44/14.605,135/10/47.673 34/44/7.847,135/10/52.565

 一時間あまりの滞在の後、今度は三宮行のバスに乗る。六甲連山を東西に走る西六甲ドライブウェイを少し西へ進むと次の停留所は五辻で、再度山ドライブウェイが分岐する点である。クルマの道は三叉路のはずだが、他に登山道か何かが交叉しているのだろうか。この真下を北神急行電鉄のトンネルが南北に通っているはずである。
 今度は再度公園で下車したが、山に挟まれた所で降ろされる。どうもおかしい。父と来た時は、確か修法ヶ原池のほとりに停留所があったと記憶している。そういえば、外人墓地という停留所もあったはずなのに、それも無くなっている。
 よく分からぬまま掲示板に従って草むした山道をかなり歩いてやっと池に出た。見覚えのある池にボートが出ているばかりか、クルマで連れてこられた大型犬が泳いでいる。池端ではそこここで登山客が弁当を拡げたり絵を描いたりしている。
 ぐるっと池を半周してみてやっと謎が解けた。こちら側にもクルマの道があって、しかしバス道と比べるとクルマ通りは全く少ない。なるほど、ドライブウェイはその後ショートカットされた新道ができ、バス停もそっちに移ったのだ。旧バス停跡の近くに食堂や茶店が並び、ここには一人で訪れた客がビールなど飲む姿がある。わたしも、たこ焼きを注文して軽食をとる。
 事情は分かったが、やはりこれはおかしいだろう。路線バスは旧道を迂回して池のそばで乗降を扱うべきである。実用的な路線でもないのだから、数分の時間短縮よりも、観光地の側まで客を連れてくる方が大事だ。
 たこ焼きを食べ終えたわたしはまた山道を辿り、バス停に向かう。山道としてはよく整備されて歩きやすいが、山道は山道だ。交通弱者に優しくないし、道順は複雑である。

 再度公園からまた三宮行に乗り、今度はビーナスブリッジで降りる。ここからは徒歩で下山することにする。ぐるぐるとブリッジを渡ってドライブウェイを越える。地形に妥協したともすれば醜いとも解釈されかねない回りくどい橋を、女神の媚態になぞらえて美化してしまうところに神戸の洒落っ気がある。
 ビーナスブリッジ付近からの市街地の眺望は心ときめく拡がりを見せている。六甲山上からの百万ドルの夜景もよいが、こういう各ビルの名前まで読み取れるくらいの手近な距離から市街を見わたすのは、街の息づかいまで聞こえるようで面白い。

 ここから急な坂と階段で諏訪山公園に下りていく。もちろん諏訪神社があるのでそう呼ばれている。
 現在灘の王子公園にある神戸市立の動物園は、終戦直後までこの諏訪山にあった。往時の動物たちは王子へ一斉に引っ越したが、象だけは乗せるべき自動車も荷車もなく、市電通りを歩いて移動し、市民の度肝を抜いたという。その時の一頭、雌のその名も諏訪子さん(神戸市民は親しみを込め彼女をさん付けで呼ぶのが通常だ)は、何と今年(平成二十年)の四月まで存命していた。象舎のお局として戦後を過ごし、国内最高齢の象となったが、六十五歳での大往生となった。
 動物園跡は遊具が置かれた公園になっていて、昔登山した時は必ずここでひとしきり滑り台などを滑って祖父母を待たせたものだ。今日は遊ぶ子供の姿もない。
 明らかに動物達の檻や住処の跡と思しき土台などは今も残っている。

(平成19年7月旅行・乗車)

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比叡山彷徨

 比叡山にも行きたいと思いつつ、登ろうと思えばいつでも登れるのに、なかなか足が向かなかった。
 行ったことがないわけではなく、もう三十年近く前になるだろうか、父に連れられて行ったことはある。が、何を見たかもよく覚えていない。もう一度登ってみることにする。

 京阪坂本駅から坂本ケーブルまでのバスは、以前確か京阪バスだったのに、今日来たのは江若バスであった。不採算で子会社に路線譲渡したのだろうか。しかも以前はもっと奥まで行っていたはずの路線はケーブル前で終点になっている。門前町の雰囲気が圧倒的な坂本の町を昇り、五分でケーブル下に着くが、以前は下の道で降ろされたところ、今日はケーブル駅の軒下まで連れて行ってくれた。路線短縮の余得だ。
 ケーブル駅前のどう見ても廃屋の木造に「営業中」の札がかかっている。何の店かも定かでない。と、狭い駅前広場を高校生たちが三々五々ぞくぞくと横切る。修学旅行かと思ったが、京都市内はともかくこんな所まで来る修学旅行は少ないし、通学鞄を持っていたりトレーニングウェアで部活の途中といった感じの子もいる。ケーブルカーの駅に相応しくない情景だが、比叡山高校が近所にあるようだ。
 改札が始まり、おじさんが切符をもぎるが、おじさんの手許にはちゃんとカードリーダーがあって、スルッとKANSAI対応である。

 このケーブルカーは眺望にも勾配にも変化があり、なかなか乗り応えがある。煉瓦積みのトンネルなどに三十年前の記憶が重なる。二つの途中駅、ほうらい丘ともたて山で降りたい時は、乗務員に予め知らせるように、とアナウンスがあるが、あまり乗り降りがありそうには見えない朽ちたホームがゆっくり眼下に堕ちて行く。もたて山駅の近くには紀貫之の墓があるといい、ちょっと興味を惹かれるが、途中下車するほどではない。

 山上駅からは700メートルほどの遊歩道を辿れば延暦寺の中心である東塔地区に行き着くことができる。
 国宝の根本中堂は名のとおり延暦寺で最も古く中枢をなす堂の一つであるが、もちろん信長の焼き討ちの後に再建されたものである。ここを中心にして文殊楼・大講堂・大書院などの建物が集っているが、とにかく山中なので、どう移動するにも階段階段で、寺暮らしをすれば健脚になりそうだ。
 栄西の修行地に近い延暦寺バスセンターへ歩き、カウンター式のそば屋で昼食にする。特に味を期待したわけではなかったのだが、冷しそばが驚くほど美味い。出汁とそばの絡まり具合がよろしいのに加え、具の天かすもクリスピーな歯触りを保ちつつ、しつこくなくすっと喉を通る。全てのバランスがとれている。座敷では丸坊主の生徒たちがそばをすすっては蕎麦湯をもらったりしている。豪快な中にも品のよさがある集団である。僧侶の卵であろう。
 いい気分になって売店を冷やかしてみる。この種の観光地の土産物屋で必ず売っている巨大なクルマの模型は誰が買うのだろう、といつも不思議に思う。

 京阪バスが山頂と横川の間を結ぶ山上シャトルバスを運転している。これに乗って横川まで行ってみることにする。横川にはまだ行ったことがない。
 けしからぬことに、路線バス待ちの客のために用意されているベンチをバスガイドが占領して談笑している。駆け出しなら非常識もあろうが、けっこうなベテラン達である。どこの会社だ、と思って駐車場を見ると、わたしの地元のバスが並ぶ。
 シャトルバスは奥比叡ドライブウェイを曲折する。途中の西塔地区には親鸞の修行地があり、さらに奥に入った青竜寺には法然の修行地がある。何度も京都と滋賀の府県境をまたぎ、東海自然歩道ともつれあう。眼下に突然琵琶湖が開ける。

 横川のバス停から山に分け入ると円仁の開いた横川中堂である。靴を脱いで観音像を拝み、線香を上げる。線香代は、大きな赤い高杯の上に各自で二十円を置くよう、書いてあるので、それに従う。わたしの後ろから来たおじさんが、線香を上げたいが小銭がないので両替してほしい、と売店を兼ねた受付に坐っている若い僧侶に頼むと、「そこからお釣りをお取りください」と小銭の積もった高杯を指す。
 お参りを終えて退出すると、受話器にとりついている件の僧侶の声が「もう在庫がないので、二箱納入して…」などと甲高く響いてきた。
 奥に進むと元三大師堂がある。元三大師というのは良源(慈恵大師)の別称であるそうで、鯖江にも元三大師が再建した中道院があり、「すりばちやいと」という風習で知られている。没したのが正月三日だから元三と呼ばれるらしいが、註釈なく単に「大師」と言えば慈恵大師のことを指すというほどの、天台宗に貢献少なからぬ人である。ここにも手を清めてお参りをする。
 周囲を歩くと道元が得度したとされる場所もあるし、横川の僧都のモデルと言われる恵心僧都が修行した道場もあった。さらに奥には日蓮の修行地もあってこれは行くのを見合わせたが、こうしてみると、歴史の教科書に名が出てくるような名僧はほとんどがここ延暦寺で修行しているわけで、偉大な母山である。
 初夏の今は観光客も少ない。一人林中の小径を歩んでいると、さまざまな鳥の声が暇なき重奏をなす。不如帰と鴬くらいしか聴き分ける知識がないのがもどかしい。

 シャトルバスで四明が嶽と呼ばれる比叡山頂に登りつめる。山頂の一帯はガーデンミュージアム比叡として整備されており、入場料を取られるが、その価値はある面白い所である。印象派に属するモネやルノアール・セザンヌといった画家の名高い絵画を花で再現する、というコンセプトの庭園で、「睡蓮の庭」などと題された一角はまさにあの絵のとおりの色合いの中に身を置ける。奥には展望塔やガイダンスシアターなどもある。わたしは園内のカフェでお茶を飲んで時間を潰した。味も眺めもよい。

 三十年前はここからロープウェイで八瀬遊園に下り、まだトロリーポール集電だった京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)で帰ったが、今日はバスで下山しようと思う。京阪バスが山中越を経て銀閣寺道に出るコースで運行されている。京都の町中は:一般の観光がオフシーズンである分、修学旅行生で賑わっていた。

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