« 乗り物からみた愛知万博 | トップページ | 投票率 »

2005年9月12日 (月)

万博感の蘇生

 先日の愛知万博で薄暮まで会場にいて、電飾が点きはじめたのを見、あの時の終わりたくない感が久しぶりによみがえるのを感じた。わたしは根が万博好きなのだろう。筑波万博の時もそういえばこんな感じを覚えたようだ。

 高校最後の文化祭の最終日も暮れる頃、ステージも模擬店も片づけおわった校庭の一隅、三年生初めは十数名が自然発生的に輪になって踊りはじめた。わたしを含めた数十名の三年生が次々に踊りの輪に入っていった。受験勉強と偏差値とやらの日頃を脱して踊り叫びくるう姿は異様に見えたことであろう。が、そうでもしないと文化祭が終わるという事実を認めてしまいそうで怖かったのである。
 大体わたしたちの学年は「覇気はないのに祭好き」と評されていたとおり、三年生は文化祭には自由参加、とされたもものともせず、三年生全クラスが参加(参加というのはステージか模擬店か展示かをやる、ということである)という開校以来初めての事態を記しとどめたものである。

 祭を終わりたくない感、というものはそれで終わりではなかった。その文化祭の翌日、わたしは折しも開催されていたポートピア’81(神戸ポートアイランド博覧会)に出かけた。会期終了前日である。独りで行った。それまでも何度か友人と行ったが、その日ばかりは独りで行った。当然のごとく会場内で同級生にしこたま出くわすのだが、彼ら彼女らはほとんどが独りであり、それはもちろんもう後がない日程のもと、効率的にパビリオンを観回るには独りでなければならないからである。だからお互い会っても挨拶立ち話煙草の火の交換もそこそこにとっとと別れては予定の行動に戻るのであった。そして閉場ぎりぎりにゲートに向かう時にまた終わりたくない感が込み上げのみならず今度は涙さえ出てきた。

 会場のなかにいろいろな施設や展示物が並ぶ、という意味ではテーマパークも変わりないのだが、万博は会期が限定されているという刹那感が、感性をしっかり下から支えるようだ。たとえ環境に優しく造ったって、たった半年のためにこれだけのものを造ってしもたんかいという事実からどこか虚無がしみ出るからである。それをベースにした感動を喜んでいるのだから、ずいぶん豪奢な快感であるとも言える。テーマパークじゃだめなのだ(テーマパークも嫌いではないが)。
 万博のために建設した建物ばかりか人々の闊歩した舗道や人工地盤、演出された数々の文化、訪問者の賑わいそして人々の感興までも。会期が過ぎれば跡形なく消え去るそのことが、現在の豪勢な空気をしらじらとさせる。これがわたしが自分で「万博感」と名付けた、万博以外では得がたい心持ちなのである。

 ポートピア会場の跡地は、もちろん今は自由に歩ける。が、所用のある時はしかたなく行くが、あまり気は進まない。ポートピアが終わった後、やはり博覧会好きの同級生は
「俺の胸の中ではポートピアはずっとやってるんや。これからもずっと」
と嘯いた。わたしが独りで愛知万博に何度も足を運ぶのも、あの友人もきっと同じであるように、眼底に今も賑わいつづけるポートピアと出逢いに行くことが目的なのかもしれない。

|

« 乗り物からみた愛知万博 | トップページ | 投票率 »

9.8  わたしのかたち」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/5917262

この記事へのトラックバック一覧です: 万博感の蘇生:

« 乗り物からみた愛知万博 | トップページ | 投票率 »