« 『女王の教室』のルーツ | トップページ | UFOの正体解明せり »

2005年9月21日 (水)

授業の虚構論

 実質「『女王の教室』のルーツ」の補足なのだが、長くなったので新たな記事とする。授業とは虚構である、という、言葉面だけを見ると反撥を招きそうな主張である。

 わたしは虚構の教師像を子どもに見せるのはいいことだと思っています。教師が一人一人違うことは子どもたちだって分かっている。現実と虚構との区別がつかないとしても、教師の個体の区別はつくわけですから、いろんな先生がいるんだな、というバリエーションの一つでいいのではないでしょうか。そして、現実の教師が担いきれない部分のフォローを虚構が務めてくれることさえありますから。自分(たち)の教育に自信をもって、子どもたちに説明できればいいと思います。
 昔、管理教育のメッカたる愛知県の小学校で、図書館から『窓ぎわのトットちゃん』を追放するという愚挙が行われたことが話題になったのを思い出しました。ここまでくると、もう安物の宗教も同然ですけどね。 

 ただ、わたしは元記事で述べたのとは別の意味で、授業とは虚構だと思っています。この「虚構」という語は、マイナスイメージをもって使っているのではありません。
 クラス40人(でなくてもいいが)の前で一人の教師が90分(でなくてもいいが)しゃべり続けてもたせる、というのは、普通の日常生活にはあり得ない場面です。日常会話とは異なる話す技術・内容・態度が要求されるのは当然であり、したがって周到な準備作業が必要とされ、その結果、日常の言語からは並外れた洗練された言語となります。ですから、虚構とは高次元の言語であるわけです。

 5月にわたしのクラスで、卒業生を多数招いてスピーチしてもらう、というイベントをやりました。
 わたしは卒業生たちに、90分の授業の時間配分を考えて、予め「スピーチは5分程度で」とお願いしていました。ところが、スピーチの持ち時間を超過する卒業生が続出し、後の質疑応答の時間を圧迫した結果、授業終了チャイムまでにイベントを終わることができませんでした。
 スピーチの内容は限定していなかったので、さまざまな切り口があり得るわけですが、その中で話題を絞って5分にまとめる、なんてことが準備もなしにできるわけがありません。プロのアナウンサーでもない者が、ぶっつけ本番でできると思う方が烏滸がましいのですね。「忙しくて準備する暇がなかった」という弁解は通用しません。なぜなら、学生よりはるかに忙しいはずの社会人の卒業生は皆きちんと準備をして5分内外に話をおさめており、準備なしに臨んでいたのは学生の卒業生ばかりだったからです。時間を守ろうという気がないから準備もしないわけですね。演壇の上で「えーと、あと何を話しましょうか」などと言うのが、聞き手に失礼なことである、という意識もないのでしょう(教壇でそんなことを言う先生の授業を聴く気になるか?)。
 そこはプレゼンに慣れている社会人はぬかりないわけです。話の段取りを整理して臨んでいて、話の最初に箇条書き風に内容を予告したりして、聞き手に配慮する。こういうのは、話が虚構のレベルに達しているのです。
 こういう学生と社会人の差は、クラスの者もしっかり見分けていたことが後で感想を聞いて分かりました。やはり自分たちのために時間を割いて準備してくれたんだ、ということが分かれば、それだけでちゃんと聴かないと、という気になりますわね。そういえば質疑もほとんどが社会人に対するものでした。

 まあこういうところがわたしの考える授業虚構論です。プロ教師である以上、しくまれた隙のない言語で授業をしたいものです。

|

« 『女王の教室』のルーツ | トップページ | UFOの正体解明せり »

6.0教育・研究」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/6055253

この記事へのトラックバック一覧です: 授業の虚構論:

« 『女王の教室』のルーツ | トップページ | UFOの正体解明せり »