« 教師七つ道具(1) 赤ペンとの邂逅 | トップページ | 通過列車をホームで見送ること »

2005年10月 6日 (木)

外部評価と授業の自律

 流行りのe-ラーニングによる英語の授業について、真面目な軟派師さんお得意の辛辣な批評がある。

しかし,講義という観点でみると,ただの
手抜きにすぎない.だってこれさ, 講義の流れを考えて
みると
1.単語テスト配布
2.学生,単語テスト解く
3.単語テスト回収
4.学生,各自e-leaning
なわけで,
(中略)
 単語を暗記したりe-leaningしたりするのを果たして「講義」と
して行うことが適当なのだろうか.こんなもの各自で
自主学習するべきものだろう.

 http://puredelusion.blog24.fc2.com/blog-entry-13.html

  現在のものづくり教育における英語の指導は、とにかくTOEICを目指さねばいけないことになっている。TOEICの点数を上げるためなら、何でもやらねばならないのが実情だし、e-ラーニングを積極的に導入しようというのも、そういう姿勢を見せれば予算面などで有利になる、といった事情が背後にある。
 e-ラーニングの詳細はわたしも知らないが、まだシステムが未熟で、そういう形態の学習にしか対応していない、ということではなかろうか。 もっと実のある学習に使えるようになれば、e-ラーニングを否定する必要もなくなるだろう。

せっかく英語の「講義」が
開講されているのだから,各教員の研究分野に関する講義を
受けたい.英文学の研究をしている教員がいらっしゃるけれど,
英文学の話なんか面白そうだし,教養になりそうな気がする.

 正論だし、まともな思考をする人なら、誰でもそう考えることだろう。しかし、技術教育の関係者には、そういう人が少ないようである。
 ある外部評価に関してかなり影響力のある人が、技術教育におけるコミュニケーションスキル指導に関して、「外国語文学から離れる」ということを繰り返し提唱している。わたしとしては、この文言をみるだけで眉唾きわまりない感じがする。

1.「外国語文学」という珍妙な用語を聞いたことがない。
2.文学を講義することのみの否定か。文学作品をテキストに使うこともいけないのか。あるいは文法指導の例文を文学作品から採るのも止めなければいけないのか。どのレベルで「離れる」と言っているのかさっぱり分からない。
3.教養としての外国文学を否定するなら、哲学や経済学や歴史学はなぜカリキュラムに入ることが許されるのか。人文・社会科学系の教養のなかでなぜ英文学だけが袖にされるのか。
4.漢文も外国の古典文学であるが、国語科からも漢文を排除しなければならないのか。

 などの疑問がただちに浮かぶからである。
 1.文学作品はそもそもどこかの言語で書いてあるわけで、では英文学作品を日本語に翻訳したものは「外国語文学」ではないのだろうか。翻訳を使えば「離れる」ことを免れる、というわけでもないだろう。こんな用語を使うと論理に隙が生まれるのに。
 2.コミュニケーションスキル指導を十分にやったうえであっても英文学の講義は許されないのだろうか。だとしたら、高専の英語教員に研究者を採用する必要はないではないか。自分の研究の専門分野こそ、最も内容の充実した授業ができるのに、もったいない話である。また、文学作品には文学作品にしかできない表現方法がとられている。それに触れることはコミュニケーションスキルの訓練にも有用である。しかし、そういう具体的な議論を封じてしまい、もうシェイクスピアのシェの字も出せなくなっているのが現況だ。
 3.や4.は、まさに技術畑の人たちお得意の「つまみ食い型議論」そのものである。こんな問に答は用意しておらず、用意していないことが自分たちの主張が体系的・構造的でないことを象徴する致命的な欠陥であることにも気づかず、主張だけは曲げないのである。

そもそも,英語教育が専門の教員だったら,e-leaningに
講義を丸投げすることはまったくの手抜きで,かつ自己の
存在否定になっていることにそろそろ気付いてほしい.

 こうせざるを得ない状況を作った責任は、英語科の側にももちろんある。一枚岩となって、自分たちのやり方で英語の力をつけていけるのだ、ということを、提案し示すことができなかった点である。
 しかし、責任の多くは、やはり技術畑の側の無理解にあると思う。英語教育のことは英語教育の人に聞くほうが抽斗も多いはずだが、「高専卒は英語が弱い」という状況を盾に、素人考えで従来の英語教育を全否定し、英語教員の意欲を殺いできた。
 TOEICという外部試験でしか単位認定・卒業認定ができない、自分の教えている学生の英語力を自分で判定できない状況で、プライドを持って授業に臨めるわけがない。ある外部評価の説明会で、「外部試験によって単位認定する、ということは学校としていかがなものか」という主旨の質問に対し、機関側は、「そんなことは今やどこの学校でもやっている」という主旨の回答をしたという。これが事実とすれば、こんな幼稚な論理でしか英語教育を考えていない機関に身をゆだねている、ということにわたしでさえ慄然とする。
 まして、英語教員が開きなおるのも当然である。e-ラーニング導入以前に、英語の授業の自律はとっくに失われているのである。

 状況を変えるには、やはり学生から、上のように「もっと文学を学んでみたい」「教養を身につけたい」といった声を上げることしかないのではないだろうか。

 一般教養とは何か、ということがどれだけ真剣に議論されてきたのだろうか。わたしは、高専の一般科目を担当している以上、そこから考えを起こして自分の授業を組み立てている(論文を読んでください)。しかし、国語科も素人さんお仕着せの指導過程に甘んじなければならない時期がやがて来るのかもしれない、と思うだけで、暗澹たる思いがする。
 現在の高専やそれに関わる外部評価機関が育てようとしているのは、「教養人」ではなく、「職人」なのだろう。

|

« 教師七つ道具(1) 赤ペンとの邂逅 | トップページ | 通過列車をホームで見送ること »

6.0教育・研究」カテゴリの記事

コメント

 ヤベーが職人を育てようとするのも、ヤベーが欲するものがまさしく職人だからですね。でもそれで気を落とさずに。昔から、どこの世の中に教養人を育てる評価機関があったでしょうか。
 英文学や語源の話は、実用的ではありませんがふとしたことで話題に出たときに「あの先生の話を聞いてよかった」と思います。もちろんそう実感することはなかなかありませんが、就職のときにしか役に立たない点数を稼ぐよりも、一生かけて役に立つ話を聞く方が人生を豊かにしてくれますね。
 実績なんて誰かが定義したものでしばられないで……、
 と切に願うOBでした。

投稿: ∀∀ | 2005年10月 7日 (金) 05時19分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/6277471

この記事へのトラックバック一覧です: 外部評価と授業の自律:

« 教師七つ道具(1) 赤ペンとの邂逅 | トップページ | 通過列車をホームで見送ること »