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2005年10月28日 (金)

翻訳された小説の表現主体は

 それはなかなか難しい問題ではある。が、わたしの姿勢は決まっている。

翻訳された海外の小説を読んで面白いと、
「これは元々原書が面白いのか、それとも翻訳家が面白くしたのか」
と疑問に思います。
当然、翻訳されて日本に入ってくるからには、海外で高い評価を受け、(おそらく)数少ない、プロの翻訳家の目に留まることが前提として考えられるので、原書が一般的に優れていることはわかります。

しかし、翻訳は原書のニュアンスをそっくりそのまま日本語に置き換えることが出来ません。翻訳家の仕事は、原書のニュアンスをできるだけ崩すことなく日本語化することでしょう。
そのとき翻訳家の仕事には、創造することも含まれるのだと思います。

『∀∀’s daily life』 「翻訳」
http://arbitrary2.blog22.fc2.com/blog-entry-51.html


 わたしは、『ドリトル先生』シリーズが大好きである。小学生の頃から枕頭の書であった。実家に置いてきたので今は読んでいないが、そらで言える場面がいくつもある。もちろんこれは英国の作品であるから、翻訳で読んできたわけだ。岩波書店版を翻訳していたのは井伏鱒二である。

 井伏訳は、現代の日本人の感覚からすると、少々古めかしい日本語であるかもしれない。ドリトル先生は「いやはや」とか「これはしたり」などと独白するのだ。井伏は敢えてそういう表現を選んだのかもしれないし、単に井伏にとって自然な言葉遣いだったのかもしれない。しかし、いずれにせよ、それが作品の設定やムードには合っているのだ。

 作品の時代はまだ英国に鉄道が開業する前なのであり、英国内の主要な交通手段は街道を行く乗合馬車(オムニバス。busの語源だ)である。ドリトル先生は博物学者というから、その時代に大学まで出たのだろうし、大勢の動物たちと暮らす家は、広大な庭のある邸宅である。それなりの家柄なのだ。その時代のそういう人の話す言葉として、日本人の子供をも納得させるだけの風格を具えていた。

 ただ、それはドリトル先生に留まらない。さすがに「これはしたり」などと言うのは先生だけだが、おなじみの動物たち、アヒルの家政婦ダブダブ、老犬ジップ、大食いのうっかり豚ガブガブ、長寿の鸚鵡ポリネシア…、その他みな言葉遣いに品があるのだ。先生一行をノアの洪水時代からの生き残りである亀のドロンコが待つジュンガニーカ湖へ案内する大蛇が、「さようでございます」などと腰(?)の低い態度でしゃべるさまは、十分にこの作品の非現実感を盛り上げてくれる。

 さて、このドリトル先生シリーズ、井伏訳以降、もう少し柔らかい感じの訳本が何度か出たはずで、わたしも店頭で手に取ったが、やっぱり違和感がある。現代の子供にとっつきやすい表現を、と意図するあまり、どこかに不自然さが出てくるのだろう。結局今も支持され続けているのは井伏訳なのである。文体の古めかしさや堅さが、二世紀近く前の英国までの距離を心地よく感じさせてくれ、卑近に流れることを防いで作品の品格を保つことに成功しているのだろう。

 井伏は八十七歳の時に、自らの処女作『山椒魚』を改作して論議を呼んだほどの作家だから、まして訳そうとする他人の小説を一旦客観視したうえで感情移入することには長けていただろう。井伏がなぜ『ドリトル先生』シリーズの訳者に抜擢されたかは知らない。『山椒魚』があるから動物を擬人化して書くことに慣れている、というような安易な理由であってほしくないものだ。

 同様に、やはりわたしが大ファンであるアメリカの漫画『ピーナツ』(スヌーピーが登場するもの)は、子供の頃から谷川俊太郎訳で親しんできたから、最近のさくらももこ訳には馴染めない。人物のひねくれ方の方向が違う。最初からさくら訳で読んだら、そんなものだと思っただろうが。

 あるいは、高校の選択音楽で習った「愛の歌」(音楽の友社の教科書に収録)は、一般には「愛の讃歌」として知られている曲だが、教科書に載っている訳詞を、先生は「こんな歌詞じゃダメ」と言って、やはり一般に知られている訳詞で歌うことになった。訳詞を替えることで、学生向け純愛の歌は、一転して大人の愛欲どろどろの歌に変貌した。わたしはテストでその歌詞を小節をふんだんに入れて歌った。

 訳者が異なり、本文が異なるなら、それは別のテキストである、と思う。訳し方によっては、作品主題さえも変わってくる可能性もある。それでわたしは研究のうえで外国小説の表現分析をする時にも、原語の文章にあたる、ということはしない(目を通すことはあっても、分析の参考にも根拠にもしない)。読み手にとっては、目の前にある文章が全てなのであり、原文章が下敷きにあったとしても、その文章を一字一語と紡いでいったのは訳者なのだから。

 翻訳と翻案の境目も、厳密にはないと思っているし、厳密に区別する必要もないと思う。

※ このカテゴリーの記事のように、まるよしの楽しい日本語の話を満載した本、ぜひお手に取ってお読みくださいね。

 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

 勝木書店のホームページでご注文いただくのがご便利かと思います。
  http://www.katsuki-books.jp/ (書籍検索から)
 Amazon・楽天などでは購入できません。

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投稿: ∀∀ | 2005年10月29日 (土) 18時01分

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