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2005年10月 9日 (日)

文は人なりや

 「文章から人柄を推測することはできない」という考え方があるそうである。その根拠は、文章は自分の考えをそのまま書くのではなく、あくまで演出するものであるから、ということである。
 そういう考えの人が挙げる例は、以下のごとくである。

「総理が靖国神社に参拝することについてどう思うか」 という小論文の課題が出たとする。しかし、普段からそんなことを何も考えていない人もいるのだ。それでも、小論文となれば、賛成か反対かどちらかの意見を書くものだ。それは演出であって、実際にはそんなのはどうでもいいと考えているかもしれない。従って、その文章を通して分かるのは演出されたその人であって、文章で人が分かることはない。

 では、わたしの考えを述べよう。

 この事例から帰納される命題は、

(1)文章から人柄を推測することはできない。

ではなく、

(2)小論文答案から思想を推測することはできない。

である。つまり、(1)の主張は、過度の一般化という論理的誤謬を冒している。
 (2)には賛成である。小論文の課題が出てから慌てて考えをまとめることは、珍しくない。入試の面接となればもっと切実であろう。何か答えないとその場を切り抜けられないから、でっちあげてでも自分の思想を語る。文章を書くときに、書く内容が、書き出す以前に完全に構造化されて頭の中に準備されていることはむしろ稀である(プロの研究者が書く研究論文などは別である)。書いているうちに自分の思想を、おおわたしはこんなふうに考えておったか、などと整理しながら文章を形にしていくのが普通だ。文章を書く、ということ自体が思想を作るのである。
 そういう意味で、わたしは文章ことごとく虚構だと思っている。小説や詩はもちろんだが、日記や手紙・レポートに至るまで、虚構度の違いはあっても、多かれ少なかれ虚構であることは間違いない。その意味では、文章の字面がその人の思想を忠実に写すとは思えない。そういう意味で(2)は正しい。

 だが、それを(1)にまで敷衍するのは無理だ。
 
 まず、「総理の靖國神社参拝に賛成か反対か」は、「思想」であって「人柄」ではない。人格全体から見たとき、「人柄」の前では「思想」も表層的な外堀に過ぎないのだ。
 「濃やかな思いを致した靖國参拝賛成論」「濃やかな思いを致した靖國参拝反対論」いずれもあり得る。また、「視野の狭い靖國参拝賛成論」「視野の狭い靖国参拝反対論」も、いずれもあり得る。人柄と思想とは一対一に対応しない。思想と関係なく、人柄を読み取ることは十分可能なのだ。
 それに、その場で慌てて考えた思想か、日頃からじっくり考えていた思想か、も読めば分かるものである。そういう社会問題を、日頃から考えているかどうか、という点は、それだけでもはや一つの人柄を示している。
 入試の面接委員を務めるとき、わたしはたいていイレギュラーな(予め用意したのでない)質問を一つすることにしている。「予想外の課題にどう対処するか」ということを通じて、その受験生の人柄を見るためだ。

 次に、文章は内容だけを読むものではない。表現と内容(叙述方法と叙述対象)とが相即して文章となっているのだ。だから、たとえ内容に演出を施したとしても、演出のありかたに人柄があらわれるのである。
 例えば、漫才というのは、言葉で書かれた台本に従って舞台の上で演じるものである。かつて漫才界の帝王の名を恣にしたやすしきよしのコンビは、同じ一つの漫才を演じながらも、演じる方法論は正反対であった。横山やすし氏がその場の勢いに乗ったアドリブで軽妙な笑いをとる才能に溢れていたのに対し、西川きよし氏は、台本の流れを完璧に頭に入れ、ネタを脱線させずに進めていることは、見ていて誰にも分かった。そして、それぞれの方法論には、それぞれの素の人柄が如実に映っていて、人柄の対照の妙が漫才の魅力となっていた。このことはネタの内容とは無関係に貫かれており、だからこそ人々はやすしきよしを愛したのである。
 表現の方法には、隠しても隠しようのない人柄がのぞいているのである。主題の立て方、段落の結構の組み方、文脈の流し方、構文のかまえ方、語彙の選び方、表記の選び方、句読点の打ち方。表現には意識するしないに関わらず、その人が現れる。

 句読法を例にとろう。

(3)わたしは小泉総理の靖國神社参拝は諸外国の感情に配慮して、中止するべきだと思う。
(4)わたしは、小泉総理の靖國神社参拝は諸外国の感情に、配慮して、中止するべきだと、思う。
(5)わたしは、小泉総理の靖國神社参拝は、諸外国の感情に配慮して中止するべきだと思う。
(6)わたしは、小泉総理の靖國神社参拝は諸外国の感情に配慮して中止するべきだ、と思う。
(7)わたしは小泉総理の靖國神社参拝は、諸外国の感情に配慮して中止、するべきだと思う。

  (3)の筆者は、いきあたりばったりで生理的なリズムに頼って生きている。洞察力に欠けるが、感性や発想力は豊かで、そういう意味では魅力的だ。
 (4)の筆者は、自信を持って生きてはいきたいが、もう一つ自分に自信がない人である。控えめで謙虚なところは愛されるだろう。
 (5)の筆者は、素直で穏やかな人であり、他人への思いやりもあると思われるが、権威に弱く独創的な発想はあまりない。
 (6)の筆者は、論理的な思考に長けていて自分に自信も持っているが、周囲への配慮に欠け融通の利かない難点がある。
 (7)のような打ち方をする人は、かなりの言語感覚の持ち主であることは確かで、つまりけむに巻く演技がうまい。人柄はあまり読み取れないが、人柄がどうだこうだ言う前に、わたしはこういう人が大好きだ。

 もとより、たった一文の、それも句読法だけで人柄を見きることなどできるはずもなく、実際は他のいろいろな要素と絡み合わせてより正確な人物像を読み取っていくことになる。
 学生が処分を受けるとき、「現在の心境」という文章を書かせるが、わたしにかかれば、本当に心底反省して書いているかどうかは、読めばすぐに分かる。本当に自分のしたことの罪を意識し反省していれば、評価・解釈などの主観的表現の文が多く現れるのに対し、処分に納得していないような奴の文章は、事態描写に終始し、その意味づけ・価値づけになかなか踏み込もうとはしない。

 もっとも、わたしは表現の専門家だからここまで細かく分析するのであり、一般にはいちいち表現から人柄を読もうとはしないだろうから、その限りにおいて、「文章から人柄を推測することはできない」というのも間違いではないかもしれない。が、意識しなくても行間から伝わる人柄というのがあるのもまた確かであり、ゆめゆめ文章を甘く見てはならない。

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 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
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 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

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5.0ことば」カテゴリの記事

コメント

ややややや!!
あっしはそこまで深う、考えやしやせんでした。
ここまで論理的に解説されますと、あっしの受け売りの理はいともたやすく砕けやす。
今度、文学の講師の方に話してみようと思いやす。

しかしは『文は人なりや』
私の思うさま書いた拙い文は、きっと簡単に人柄を読み解けてしまうことでせう。

投稿: アイ坊 | 2005年10月10日 (月) 00時22分

 おやおや、いつの間にかケン坊さんがアイ坊さんに? できたら、ハンドルは統一していただけるといいのですが。

> あっしはそこまで深う、考えやしやせんでした。

 いやそりゃもう、わたしはこの道の研究者ですから。学生さんにそこまで深く考えられては商売になりません。

投稿: まるよし | 2005年10月10日 (月) 08時00分

すいません、うっかりまちがえてしまいました。(↑アイ坊)

投稿: ケン坊 | 2005年10月10日 (月) 14時57分

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