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2005年10月13日 (木)

多数決の条件

 真面目な軟派師さんが、「数字による評価」について考察している。
     http://puredelusion.blog24.fc2.com/blog-entry-15.html
 そこはわたしも一家言あるところだが、そこへいく前段階として、「多数決」について絞殺死体、元へ、考察したい。「多数決」が伝家の宝刀のようになっていて、わたしのクラスなど、多数決とくじ引きという民主主義的な方法が大好き(早く特活が終わって帰れるし)なのだが、何でもかんでも多数決で決めていいというものでもない。多数決をとるにはそれなりの条件があるのではないか。最近の事例より。

 所属校の弁論大会は、実際にはディベート大会である。ディベートである以上、何らかの方法で勝敗を決しなければならない。球技のように、シュートすれば何点、などと決まっているものなら簡単であるが、ディベートはそう分かりやすい加点ポイントがない。
 本式のディベート大会では、試合の後審査員が全員別室に移り、合議する。会場は休憩となる。十分間程度の合議の後、審査委員長が壇上に立ち、両軍選手を前に講評しながら両チームの部分点を順に発表していく。講評が進むにつれて、パネルに点数が書き込まれていき、合計の多寡で勝敗が決まるので、大抵は最後の部分点が告げられた時点で選手・応援席から歓声や喚声があがる。
 ここで注意したいのは、数名の審査員の得点を合計したり平均したりするわけではない、ということである。あくまで合議によって全員で一つの点をつけるわけだ。
 しかし、所属校では合議はしない。審査員各自がつけた点数をとにかく合計するだけである。どちらがどういう点ですぐれていたから勝ったのか、は不明である。審査員の講評はあるが、全員ではないし、観点を網羅はしていない。
 こういうやり方をとらざるを得ないのは、審査員を務めるのが教員であり、誰もディベートの専門家がいないからである。合議で勝敗を決めるほどの審査能力が、わたしを含めて誰にもないのだ(わたしはかなり審査員をよく務めている方だと思う)。だからまあやむを得ないことだ。もう少し教員も学生も、ディベートをしっかり勉強して、合議で審査できるようになればいいと思う。

 この間、弁論大会の講習会を聴講した。弁論大会はわたしも授業に採り入れているので、選手にどのようなガイダンスがなされているのかを知っておく必要があったし、昨年度はわたしがこの講習会の講師を務めたので、そのよしみということもあった。講習会そのものはつつがなく終わった。その後、選手の打ち合わせをするというので、部外者のわたしは退室しようとした。が、そこで信じがたいことが始まったので、わたしの足は留まった。文化委員長曰く、
「各チームが肯定側か否定側かを、今決めておくのがいいか、当日決めるのがいいか、多数決で決めたいと思います。机に顔を伏せて、どちらかに手を挙げてください」

 なぜ顔を伏せるのかよく分からないが、それで多数決をとってみると、今決めるのがいい、という者が多数であった。これは事の本質を外した議事である。多数決の前に意見さえ求めなかったのである。同席した担当主事補も、何も言う様子はない。文化委員長がそれで決定しそうになったので、わたしは発言した。
「部外者が口を出して申し訳ないが、今、君たちがやろうとしているのは、球技大会でサッカーの試合をやることになったが、足しか使えないのは不便だ。手も使えるようにした方がやりやすいと言って、手も使えるように取り決める、というのと同じことだ。そういうゲームをやってもいいが、それはもはやサッカーではない。足でプレーするというのが、サッカーがサッカーであるための根本だからだ。同様に、事前に肯定否定を決めてしまうのでは、もはやディベートではなくなってしまう。ディベートで肯定否定を試合直前まで決めないのは、両方のチームが両方を本気で準備することで、相手の出方も予想でき、いろいろな観点からの質問を出して、盛り上がった試合ができるように、という理由だ。今決めてしまうと、自分の当たった側の準備しかしなくなる。それで相手側から不意を突かれると、何も言えなくなり、議論が全く噛み合わない。かつて、事前に肯定否定を決めてしまったために、試合にならない試合が続出して失敗したことがある。慎重に考えてほしい」
 それだけ言って退室した。

 あとで聞くと、わたしの退室後、もういちど多数決を取り直したそうだ。結果、当日決める方に賛成の者が過半数と逆転し、そのように決まったのである。

 これは、「多数決」というものの危うさを考えさせられる事例である。
 一回めの多数決は何だったのか。もしわたしがその場にいなかったら、一回めの多数決で決まっていたはずである。投票者に正しく十分な知識が具わっていないところで多数決をとっても、頓珍漢な結果しか出てこない、ということで、まさに衆愚政治の危険を知らしめる実例となった。わたしのほんの数分の発言(こういうのが誘導と呼ばれ、まるよしの教育が独裁的である、という批判の種にいつもなるのだが)によって、投票者たちの判断が変わり、結果も変わった。
 二回めも「今決める」方に手を挙げた学生は、「あの先生はいらんこと言いやがって」とわたしを恨んでいるかもしれない。しかし、本来多数決するべきでない多数決をするからおかしくなるのであり、わたしは議論をまともな方向に導いたつもりだ。

 この事例を抽象化すると、多数決を行うための必要条件として、少なくとも以下の二点が挙げられよう。

(1)そもそもの選択肢が、いずれも論理的には十分筋が通っていること
(2)議論を尽くして、投票者が十分にして妥当な認識を共有していること

 また、多数決の十分条件としては、

(1)一人一人の意見を聞いていられないほど多数の投票者がいること
(2)議論をしても、どちらかに意見の偏りが見いだせないこと

 あたりが挙げられるだろうか。

 くじ引き・数量的評価に関してもまだまだ論じられそうだ。

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6.0教育・研究」カテゴリの記事

コメント

伝家の宝刀も、使い方によってはなまくらになってしまうということですかね?

うちのクラスでもなにかと多数決で物事を決めますが、条件が満たされている事は少ないです。
むむむ、多数決は容易に行えるが意外に難しい

投稿: ケン坊 | 2005年10月14日 (金) 00時48分

●ケン坊さん
 多数決はてっとり早いのですがね。ほんとうに問題の本質を衝くような分布になるかどうかは、条件によりますね。「少数意見の尊重」はそういう多数決の原理の欠陥を補うものですが、では実際にどのように尊重するか、となると難しいところです。
 そういうところを、学級活動のなかで訓練していきたいものです。

投稿: まるよし | 2005年10月15日 (土) 09時23分

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