« 列車遅延と処理(1) | トップページ | 個の言葉は乱れてもよいが »

2005年12月25日 (日)

スポーツにとってのルール

  フィギュアスケートの浅田真央さんは、年齢制限によってトリノ五輪の出場資格がないそうである。これについて、世論が二分している、というより、出場させろ、という方の意見が圧倒的なようである。それに対して、協会側(というのだろうか)は、あくまでルールはルール、と今のところ突っぱねている。
 例によってワイドショー的煽りで世論が誘導されていることも否めないが、こうなると論点がぼやけてしまう。

 浅田さんが非常に慎ましく真摯な印象を与える人柄であること、そして浅田さん自身が「ルールなのだからしかたがない」と諦観した発言をしていることも相俟って、世論は浅田さんを五輪に出せ、という情緒論に占められている。また、五輪でメダルを狙うことになるであろう内外の選手も、「本当に強い人と戦いたい」という趣旨のコメントを発している。選手の気持ちとしては当然だろう。また、何でそういうことを訊くのか、見識を疑うのだが、小泉総理もインタビューで、浅田さんの出場を認めるべきである、というあくまで個人的な見解としてだが、考えを述べている。

 物事は論理によって全て解決できるものではなく、情緒を否定するわけではない。しかし、ルールがある以上、きちんと論点を据えた議論が必要だろう。

 年齢制限というルールは、まだ体が完成しない年少の時期に、五輪出場を狙って無理なトレーニングをすることを防ぐためのものだという。
 それならば、まず議論の入口となる論点は、「浅田さんの好演技は、無理なトレーニングの結果であるか否か」であろう。もちろん浅田さんのコーチ以下指導陣は「無理なことはさせていない」と主張するだろう。これは、何をもって無理とするかという定義を定めたうえでしかるべき第三者の検証が必要だ。わたしごとき素人は、浅田さんの演技や体つきをみてそれを判断する能力はないから、この点の評釈はこれ以上できない。
 仮に、浅田さんが無理なトレーニングをしていたのであれば、ルールは有効だったことになり、参加を認めない裁定は、加熱した英才教育を戒めることになる。それでも五輪出場を世論が主張するなら、もはや世論には浅田さんはじめ年少の選手に対する配慮はないわけであり、ミーハー的意識として取るに足りぬと断じることができる。
 一方、無理なトレーニングではなかった場合である。無理をしなくても五輪に通用する演技が十四歳の人間に可能であった、ということになれば、ルールが不適切であったことになる。ルールを撤廃するか、制限年齢を引き下げるか、という改正を施すのに十分な根拠であろうから、早速改正にかかればよろしい。
 いずれになるかは、先の検証に基づく判断が出てからの話である。
 が、実際は恐らくそんな検証は行われず、情緒論に圧されるかたちで浅田さんの出場が認められるのではないか、という気がする。繰返すが、わたしだって、人の情が事の要諦を衝いていることが多いことは分かっている。これだけの情緒が飛び交っているところを見ると、出場させるのが正解なんだろうな、と漠然とは思う。だが、ルールを変えるにはそれ相応の理と手続が必要だ。

 愛知万博の飲食物持ち込みの問題の時も、小泉総理の談話に圧されるかたちでルールが緩和されたが、一刻の総理が、一イベントのルールや、一選手の大会出場に関して意見を公の場で表明するべきではないと思うし、そういうことを訊くべきでもないと思う。難しい課題を、総理の鶴の一声によって解決しよう、というのは、忍耐が足りないし、危険でもある。

 スケートに戻る。
 男子のフィギュアでは、採点ミスによって順位が入れ替わり、ひいては五輪代表選考にも多大な影響を及ぼす、という事態が出来した。これに関するルールも不可解だ。
 フリー演技では、「3回転ジャンプを2回繰り返せるのは、コンビネーションを含め2種類まで」というルールがあるそうで、これに違反した分の減点を考慮していなかったためのミスだという。
 こんな制約があるのでは、フリーとは言えないし、同じ種類のジャンプを徹底的に繰り返してそれでいて何事かを表現し得ている、という演技があれば、それは素晴らしいのではないだろうか。選手の持ち味を活かす演技を促すためにも、余計な制約は除くべきである。ジャンプの種類が乏しい演技にはそれなりの、豊富な演技にはそれなりの評価をすればいいのであって、わざわざ減点するような複雑なことにするから間違えるのである。審査員の審美眼が問われることになる。どうせ事態の後手に回るかたちで設けられたルールなのだろう。

 スキーのジャンプでも「K点越え」という言葉をよく聞く。K点とは「それ以上跳んでは危険な距離」のことなのだそうだ。本当にそうなら、K点越えは褒められたことではないのではないか。K点を越えた選手は失格にするべきではないのか。それとも今はルールが変わっているのか。

 競技というのは、きれいごとを言っても、所詮はいかに他人を負かすか、いかに自分が上に行くか、という争いであり、それがあからさまで品位を欠くものにならないよう、さまざまにルールをつくって制約を加えることになり、ルールの内容は事態の推移に追随し、恣意的である。スポーツの宿命とも言えようが、ルールとして定めるからにはそれに相応しい運用は必要である。

|

« 列車遅延と処理(1) | トップページ | 個の言葉は乱れてもよいが »

8.0時事・ニュース」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/7820138

この記事へのトラックバック一覧です: スポーツにとってのルール:

« 列車遅延と処理(1) | トップページ | 個の言葉は乱れてもよいが »