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2006年1月10日 (火)

構内の禁煙・分煙

 わたしの所属校は構内全面禁煙である。ある外部評価をきっかけにそうなった。それまでは、専攻科棟に実質喫煙所として使われる部屋もあったし、各教員室はその教員の判断に任されていた。それが現在一律禁煙となっている。
 
 煙草に関する措置というのは、なぜこうも極端に走るのであろうか。

 人間は、嫉妬という感情から自由ではない。それは向上心の歪んだ現れであったり、時にはそれが原動力となって奮起につながったりもするので、一概に否定し去るわけにもいかない。
 自分が不利な状態にある時、有利な状態にある他人を見ると、嫉妬が生じる。それは能力や財力などの資質としての相違に基づく場合が多いのだろうが、もっと即場面的・時間限定的な嫉妬もある。自分が不快に耐えているのに快に溺れている他人がいる、という場合に起きる感情も、一種の嫉妬だろう。
 傍若無人なオバチャンの振る舞いに腹が立つのも、あんなふうに秩序を無視した行動をとれない自分への苛立ちが裏返されている面がある。自転車で道を走っていて、小さな交叉点の赤信号で停まっている時に後ろから追いついてきた自転車が信号無視して抜かしていった時の感情と同じである(普通のオトナはこんな感情は覚えてないかもしれない)。自分はこんなに秩序に従った行動をしているのに、なんでアンタは従わないんだよ、と腹が立つわけである。
 しかし、秩序というのは人為的に設定されたものであって、永劫絶対のものではない。そのことを皆分かっているから、どこかの誰かが作ったに過ぎないキマリに唯々諾々従っている自分に対する不甲斐なさと苛立ちとが心の奥の方に潜んでいるのである。それが怒りを増幅させ、本来どこかの誰か及び自分に向けられるべき分の怒りパワーまでもが、秩序を乱している他人に向かってしまうのだ。

 もう言いたいことはお分かりだろうが、「公共の場で煙草を吸う」という秩序破りをしている輩に対して、煙草を吸わない者は大いに怒り、軽蔑の念を表す。そこへもってきて、受動喫煙であるとか、煙害による病気の発生とか、いろいろな影響が科学的な説得力をもって語られる時代になっているため、非喫煙者の怒りの感情にお墨付きが与えられ、とどまるところを知らなくなる。

 さて以前、教員の間で、「構内で喫煙した成人の学生がいた場合、それを処分するべきか」という議論になったことがある。もちろん構内全面禁煙が実施された直後である。わたしは、
「構内全面禁煙自体もそうだが、成人の学生を処分するのはヒステリックに過ぎる。未成年の喫煙は明白な法律違反だから、処分対象になるが、それだって社会通念上高校を卒業すれば大目に見ることが一般的なのであり、従って三年生以下と四年生以上とでは、それなりに異なる対応をしてきたはずだ。まして成人の学生が構内で煙草を吸う吸わないというのは、ルールでなくマナーの問題だ。列車の禁煙車で煙草を吸ったとしても、注意はされても刑事罰には問われない。本校は、多くの学生にとって最終の学歴となる学校だ。実社会にまさに出ようとする学生に対しては、マナーを噛んで含めて諭し、考えさせるべきで、われわれはいろいろなことをそのように指導している。成人の学生の喫煙で処分することは、そうした高専の教育全体のバランスからいっても、不適切だ」
という趣旨の意見を述べた。
 しかし、賛同者はなかった。他の教員も、多くは処分に反対ではあったのだが、その理由はわたしの考えたようなものではなく、「前例がなく従来の処分と整合がとれない」「保証人(註・未成年の学生でいうところの保護者のようなもの)への説明が難しい」というものが大半だった。それらの理由は、わたしには非常に皮相な相対論にしか思えず、構内全面禁煙という措置と、そこから派生する学生指導のあり方を、所属校の教育の理念にいかに照らすか、という視点が必要だと考えるのだが、そんな視点からの意見は他にはなかったし、構内全面禁煙の是非に言及した教員もいなかった。かくしてわたしの意見は以後の議論では遺憾ながら無視された。

 マナーだからこそ、規則で禁じるのではなく、自ら判断できる訓練をする必要がある。わたしの授業では、ジュース類を飲むことを禁じている(そんなことあたりまえだとお思いかもしれないが、所属校ではあたりまえでない)。
「なぜ先生の授業はジュースを飲んではいけないのですか」
 と訊いてきた学生もいる。わたしはこう応えた。
「わたしが飲んでいないからです」
 これ以外、これ以上の答はないのだ。仮にも自分より目上の人が自分に対して話をしている。話をしているがゆえに、その人はジュースを飲める状態にない。その人を目の前にしてジュースを飲むのはマナーとして間違っているのである。学生は坐っているがわたしは立っている。学生は黙っているがわたしは声を出している。わたしの方がより喉が乾く境遇なのだ。なぜ学生がそれ以上に快適な状態を自ら作らねばならないか。
 ラマダンでものが食べられない人の前でばかすかご馳走を食べる人もいないだろう。それがマナーというものである。そして、(成人の)喫煙も、それに類する話であるべきだ、とわたしは思っているのだ。
 非喫煙者の前で合意なく喫煙することはマナー違反であり、そうならないような努力は必要だ。そういうことを、上のようなやりとりを通じて考え学ぶ機会を与えねばならない(つまり、上のように考えるからといって、授業中のジュースを禁止する校則などは作るべきだとは思わない、ということである)。それが高専教育である。

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コメント

カメです。時々このサイトを見ています。
いつもSAKKOサイトで御騒がせしています。

私は禁煙反対! 分煙は大賛成!!
たばこの文化を考えると・・・・・・・・利点も。
大切なことは「廻り、他人を思いやる心」。
そして、「その場の雰囲気を敏感にキャッチ」すること。

又、学生へは「魚を与える」ことなく「自ら魚が取れるよう自立できるような」教育を望んでいます。
企業(我社)はそのような人材を望んでいます。

上手く説明できず、申し訳ございません。

投稿: カメ | 2006年1月12日 (木) 19時38分

 これはカメさん。
 この前はDVDありがとうございます(笑)。 サッコさんネタ以外にもコメントいただき、ありがとうございます。

 さすが高専の卒業生、高専教育のツボをご理解いただいてますね(笑)。制度によって規制するのではなく、カメさんのおっしゃる「その場の雰囲気を敏感にキャッチ」することを自主的に行えるような訓練こそ考えないといけないと思います。
 いかに公共の場の禁煙が進んだとしても、自分で雰囲気を察知して喫煙するべきかどうか判断しなければならない場面というのはあるでしょう。構内全面禁煙としてしまうと、そういうことを学んだり、教員が模範を示したりする機会までが奪われてしまうことになります。

投稿: まるよし | 2006年1月12日 (木) 20時47分

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