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2006年3月25日 (土)

無署名性に親しんで

※ この記事は以前書き込んだものの、用語を整理したいと思って一旦削除した内容です。用語などを修正したうえで改めて書き込みます。 

 所属校の2年生には、内外に大変評判のいい「科学基礎」という教科がある。あった、というべきかもしれない。今年度はまだ終わっていないが、もう最終の成績も出た。そしてこの「科学基礎」は、入試制度の改革に伴うカリキュラム改変に伴い、今年度限りで惜しまれつつ(?)時間割から姿を消すからだ。
 それはさておき、この教科は定められた研究課題について実験したり文献を調べたりして掘り下げ、その成果を発表する、という、卒業研究の雛型のようなことをする専門科目である。今年の2年生の発表会を聴講し、概要集を読んだ。

 国語の教員であるわたしには、研究内容の妥当性や価値は分からない。論理や展開の整合性で評価するのみである。そして、概要集や発表時のパワーポイントの画面を見ていて、立場上気になることがあった。
 それは、「引用」という行為の無頓着さだ。そういうことを教わる機会がなかったのだからしかたがないのかもしれないのだが、自分で考えたことと他人の言を引いてきたこととの区別がいい加減である。「ボイル・シャルルの法則」の定義、なんてもの、自分で考えているわけがない。何かの本とかどこかの彩図とかから引いてきたのであろう。ならばその出典を明示しないといけないことは鉄則であり常識だろう。「ボイル・シャルルの法則」というのは全く役に立たないものである、なんて例えばそういう評釈を述べるなら、それは自分の考えなのだが。そういうけじめは確とつけねば、研究の本場の世界に入ると、不正行為として扱われかねない。
 こういうことが平然と行われるのは、やはりインターネットに親しんでいる世代だからかなあ、という気もした。インターネットの「無署名性」の側面ばかりが偏って作用しているからかなあ、と。

 匿名性というものがインターネットの特性である、という印象が全くあたっていないことは、わたしも言ってきたし、識者の指摘も多い。インターネットというメディアの匿名性は極めて低い。情報がどこをどう伝わって言ったかは郵便や電報とは比較にならぬほど克明に記録される。それを辿れば、発信者も特定しやすいわけで、だからこそ掲示板に爆破予告を書き込んだ中学生なども検挙されるのである。
 にも関わらず、インターネットは匿名性が高いという印象はひろくもたれている。それはやはり、(一般世間・全世界に)発信するまでに至る垣根が低いことによるのであろう。
 紙メディアを使って文章を公に発信するには、さまざまなフィルターを透過する必要がある。文芸誌に小説を掲載するなど並大抵ではないわけだし、本を出版するのはもっと大変だ。論文を研究誌に載せるにも査読を経なければならず、誰でも何を書いても活字になるわけではない(査読のない雑誌もあるが、その場合でも、そもそもそこに投稿できる資格を得るまでが大変なのである)。新聞の読者投稿欄に意見を載せるにあたってさえ選考はある。内容にも表現にも「公」の言葉にふさわしい一定水準以上の品格があるものがフィルターを通り、あるいはフィルターを通すために品格を与えるわけである。
 しかし、インターネット上の文章発信にはそういうフィルターは働かない。どのような内容・表現でも、一瞬にして全世界に発信される「公」の言葉になってしまうことができる。

 実は情報伝達のシステムとしての匿名性の他に、伝達される情報自体の匿名性、これは文章の「無署名性」と呼んだ方が適当かと思うのでそうするが、そういうものが別にあるのである。無署名性なら紙メディアよりインターネットの方がずっと高い。
 紙メディアに載る文章は、よほどの意図や事情がない限り、無署名で発表されることはない。ペンネームであっても何であっても一応署名はあるし、またそれを責任を持って送り出す出版社なり何なりも必ず名を掲げている。が、インターネット上の文章は、全くの無署名でも発表し得る。
 
 文章が署名のある形式をとる、というのは、発信者としてこの文章に責任を持ちますよ、という筆者や制作者の姿勢を表す記号である。その形式をとっていないものは、紙メディアのフィルターにおいては、問題外として漉し残されてしまい、公の場に出てこないわけである。勝手にその辺に貼り紙したり無署名の封書を郵便受けに抛り込んだりすることはできるが、そんな文章に対してまともな評価を与える人もいないだろう。よほど気の利いた落書のような内容ならいざ知らず、そんなレベルに達した無署名の文章など滅多にない。
 伝達システムとしてのメディアがインターネットに変わったとしても、そういう評価には変わりがないと思うのである。文章は「誰が、誰に、何を、何のために、どのように」伝えているか、によって価値が決まってくるものだろう。そのうちの「誰が」という主要な要素が欠けたものは、それがよほど優れて人の心を惹きつける内容ででもない限り、まともな評価の対象ではないわけである。
 インターネットの無署名性を象徴するような存在であるいわゆる巨大掲示板について、「嘘を嘘と見抜ける力があれば使いこなせるのだ」という主旨の弁護がある。が、これは教室内で財布が盗まれた際に、「財布を身につけず、盗れる状態にしていた者に責任がある」と言う、あるいは振り込め詐欺に遭った被害者を「これだけ報道されているのに引っかかる者が間抜けである」などと言うのと同種の詭弁である。公の場に嘘を書く、という行為自体の是非と責任を論じることを回避した物言いだからである。その責任が論じられようとしないのは、論じたところで無署名である発信者にその責任を問う術がないからであり、責任のもって行き場がないフラストレーションを、とりあえず受信者の側にぶつけた、というものである。つまり、発信者が無署名であるがゆえに、正当な議論と評価をしえないことになる。
 そうしたことから、やはり無署名の情報と署名付きの情報との間にはその品質の平均値に差がある、と考えざるを得ない。無署名ですばらしい情報がないわけではないだろうが、限られた時間のなかで、例外的なケースとの出会いを期待して無署名の情報に付き合いつづけるわけにもいかない。

 そのように考えるわたしも、いわゆる巨大掲示板に一定の効果があることは理解していた。「巨大」という修飾語が付くことでも分かるが、そこには規模効果があったのである。たとえば、一口に「鉄道マニア」といっても、興味の持ち方やこだわりどころは人それぞれなのであり、なかなか自分の関心とぴったり合う人を見つけるのは難しい。しかし、巨大掲示板を検索してみると、こんなことを考えている人が世の中に他にいたなんて、と思えるようなまさにマニアックなスレッドが見つかったりもするのである(例えば「自転車でバスごっこをしていた人」とか)。わたしは巨大掲示板への書き込みはしないことにしているけれど、そういうスレッドと出会った時は、思わず会話に入りたいという気持ちだけは湧いたりした。 これは掲示板が「巨大」であるからこそ得られる効果であり、「巨大」たりえるのは、無署名で書き込めることによる垣根の低さであろう、と思っていた。ただ、最近はその考えもちょっと揺らいできた。それは、本名での登録が基本であるソーシャル・ネットワーク・サイトでも、全く同様の効果を感じているからである。

 さて、ここでわたしの言っている無署名というのは、文字通りまったく署名がないことを指している。掲示板で言えば、ハンドルの署名さえなく、あったとしてもハンドルと人とが一対一対応しておらず、何番の書き込みと何番の書き込みが同一人物であるかが顕然としていない状態である。本名でなくハンドルであっても、署名があれば無署名ではない。インターネット上でしか付き合わない相手であれば、署名されているのが本名であるかどうかはあまり意味がないし、インターネット上ではハンドルないしメールアドレスが名刺みたいなものだからだ。
 ただ、署名付きにもいろんなレベルがあり、そのレベルが発信者と受信者との間でずれていれば、イーブンなコミュニケーションにはならないから、よろしくない。
 例えば、このブログでわたしは本名や素性を直接には明示していない。だから、コメントやトラックバックの相手も、署名はハンドルで十分だと思っている。ただし、わたしと現世での面識がなく、メールアドレスもしくは自ブログのURLなどを書いていただけない場合は、お断りしている。
 公式彩図の場合は、当然本名と所属・職級までをもトップページに明示している。だから、公式彩図の内容についてメールなどでご質問やご意見をいただく場合でも、本名の署名がないものには応対しないのが基本である。ハンドルだけで来たメールには、皮肉を込めて、本名その他を自己紹介するけっこう馬鹿丁寧な書き出しにして、返事を送る。これで大抵の相手はこちらの意図に気付き、再返信には本名その他の属性を自己紹介してくださる。が、鈍感な相手であれば、おつきあいはそれっきりとする。相手の素性を自分は知っていて、自分の素性を曝さないで対話する状態が、礼を失していることに、思い至っていただけないのだろうか。こういう場合、ちょっと極端な言い方をお許しいただくと、万一メールでのやりとりが紛糾して全面戦争にでもなった場合、相手はわたしの職場に殴り込んでくることができるが、わたしはそれができない。個人情報を人質にとられていると、わたしは発言の自由度において不利なのである。

 初めに挙げた「科学基礎」の例も、誰の書いた内容かを明示するという形で責任を明確にし、また書いた人の人権や人格を尊重する、という本来表現にあたって求められる姿勢が、無署名性の高い文章が横行するインターネットの世界に親しんでいると、疎かになりやすいのではないか、と考えられるのだ。

 紙メディアにおける無署名ともまた違った、より無署名性の高いインターネットであることの特性を活かすことで表現効果があがっている無署名の文章なんてものがもしあれば、それは賞賛に値するし興味深い(そんな例があればぜひ教えてほしい)。が、単に自分を隠して責任を回避したいとか自分の身を守りたいというだけの動機での無署名であれば、しらけるばかりでわたしにはあまりおもしろくない。

※ このカテゴリーの記事のように、まるよしの楽しい日本語の話を満載した本、ぜひお手に取ってお読みくださいね。

 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

 勝木書店のホームページでご注文いただくのがご便利かと思います。
  http://www.katsuki-books.jp/ (書籍検索から)
 Amazon・楽天などでは購入できません。

167071880

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5.0ことば」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
前半の,「ボイル・シャルルの法則」の定義のあたりがちょっとわからないのですが。
「ボイル・シャルルの法則」は高校の物理では必須ですが,そういうものでも出典を明示しなければならない・という事でしょうか。

引用や参考に関しては,確かに大学に入るまでは,やり方を教わる機会がありませんね。小学校の高学年くらいにしっかり教えた方が良いと思います。
小中学生のころ,読書感想文など書く時,うしろの解説などを,後ろめたさを感じつつ字句を変えてパクったりしたものです。今から思えばどうどうと「引用」して,それに対してどうだ・とか述べる手法はありだと思いますが,どうでしょう。

投稿: Hyaru | 2006年3月27日 (月) 18時49分

URLの記入無しでアップしてしまいました。エントリ内容がエントリ内容ですので,こちらでURLへのリンクしておきます

投稿: Hyaru | 2006年3月27日 (月) 18時57分

Hyaruさん、こんにちは。

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 また今回はわざわざURLを入れなおしていただき、お手数おかけしました。Hyaruさんには以前もコメントいただいてますし、その時URLも記入いただいてますから、お気になさらないでください。

> 「ボイル・シャルルの法則」は高校の
> 物理では必須ですが,そういうものでも
> 出典を明示しなければならない・という
> 事でしょうか。

 高専2年生にとってはまさに習ったばかりで、まだ自分のものになっていないのですね。自分なりに咀嚼して、自分の言葉で説明できているのならいいんですが、彼らのレジュメやパワーポイントの画面にあるのは、どこかから引き写してきたのが明白な文言だったわけです。出典など何の注釈もなしに示すと、自分で言った言葉ということになってしまいますから、それはまずいよ、と言ったわけですね。

> 今から思えばどうどうと「引用」して,それに
> 対してどうだ・とか述べる手法はありだと
> 思いますが,どうでしょう。

 同感です。そうなると、文芸批評や文芸学研究の様相を帯びてきますが、それでいっこうに構わないでしょう。「感想文」というのは定義も曖昧で、何でもありなので。そういう書き方が得意な子もいるはずですね。

投稿: まるよし | 2006年3月27日 (月) 19時19分

状況わかりました。私も学生時代,新しく習った事について「自分なりの言葉でまとめろ・説明せよ」みたいな課題には難儀したクチです(笑)。人に説明するには,自分が完全に理解していなければならないわけで,先生の温情的な課題なのかもしれませんが。
・・・「無署名」という事からは離れたコメントになってしまいました。

投稿: Hyaru | 2006年3月29日 (水) 21時19分

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