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2006年4月17日 (月)

体力の悲哀

 パソコンなどの物品を廃棄場所に運んだ。確かに、昔のパソコンだから結構な目方がある。本体とディスプレイを運ぶ。その他、消耗品扱いの物入れや電気機器を三つほど運んだ。
 すると次の朝。

 

 起きられなかった。朝から出かける予定をしていたのに、寝床から起き上がることができなかった。昼過ぎまで布団の中にいた。ごそごそと這い出て、時々起きる不整脈と戦いながら、食事をして、そろそろと買物に行って帰ってまた倒れ込んだ。

 なんでそれくらいのことで、と笑われるのは分かっているが、それがわたしである。つくづく、家を構え家庭を司る、などということはわたしには無理なのだなあ、と思い知らされる。ある程度若い時は、勢いで押し切ることができたが、歳をくってくると、本来の自分に戻るというのか、こういう、子供のころを思い出す仕儀になることが多くなってきた。
 これが、自分の良心との間で思いが乱れるのである。ボランティアでもなんでも、気持ちのうえでは率先してやりたいのである。しかし、わたしが行っても、結局普通の人のペースと噛み合わないから、迷惑をかけ、蔑まれるだけで終わってしまうことは、経験から身に沁みている。こういう体質であることを、いちいち説明するわけでもなく、見て明らかに分かる障碍があるわけでもないから、こんなことになっているとは夢にも思われない。当然五体満足な大人の男に見合う働きを期待され、要求される。わたしが精一杯やっても、人並みにはできない。すると、それは怠惰・横着・手抜きとしか見做されず、非難の的になるわけである。これが皆さんを苛立たせるだけで申し訳なく、いたたまれない。結局いないほうがよい。小学生の頃からその繰返しであったように思う。いや、働きは少なくても、その働きがないよりはある方がいいのだよ、と言う人もいるが、それも程度問題で、わたしの状態を知らないから言えるのであろう。
 体で奉仕できないのだから、せめてもとお金の寄付はするようにしている。これもそういうことを金で済ませようという根性が自己嫌悪を呼ぶのだが、そういうことでしか落としどころを見いだせない。

 ただ、そういう体に生まれたことを恨む気持ちは今はなくなった。こうであるからこそ、他人に見えないものも感じ取ることができるし、快不快の基準も一般と異なるから、独自の価値観をもつこともでき、それは今の仕事に役立っていると思うからである。世間並みの幸せを望む気持ちもすっかり無くなった。諦めたというのとも違う。
 日常生活の背理さえなければ幸せなのだが、体を動かすことは全て筋肉の問題であるから、どこまでもついてまわる。これとは付き合っていくしかない。
 

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