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2006年4月28日 (金)

わたしが苦手な五種類の人たち

 なんかそういうようなタイトルの本が人気らしいので、立ち読みしてみた。よく自分の役割の分かった人だな、ここまで強く我を張って戦うエネルギーはないな、買いたいという衝動は感じないな、などと思った。それで、タイトルだけパロディにさせていただき、ブログ記事一つでっちあげよう。
 嫌いとまで言えるタイプは今はいないので、苦手な人。十人まで思いつかないので、半分の五種類にしておく。

1. 若鶏の唐揚にレモンを絞る人
 正確に言うと、「居酒屋に大勢で呑みに行った時に、若鶏の唐揚が運ばれてきた途端に、付いているレモンの切れ端をせっせと絞って汁を唐揚にかける人」である。
 わたし自身が、レモン汁をかけない方が好き、というか、かける意味がよく分からない、ということもある。かけるとさっぱりするかららしいが、さっぱりする方がいいのなら、若鶏の唐揚ごとき油もの、注文しなければいいのである。あっさりした酢の物くらいメニューにあるだろうし、鶏肉が味わいたければつくね串でも。敢えて若鶏の唐揚を頼んだのなら、鶏肉のボリュームと油の香ばしさを目一杯味わいたい。
 何か、店で出てくる料理の皿に盛られている付け合わせや調味料は、それを使わなければいけないと思っている人が多いように思う。メインの料理は自分の意志で注文した物であるが、付け合わせや調味料は、その料理を美味しく食べるための、店からの提案に過ぎない(そうでなければ最初からかかった状態で出てくるはずだ)のだ。わたしなら、天ぷらも物や揚がり具合によって天つゆに浸けるのと塩だけふるのを分けているし、豚カツも(そうするのに堪える肉であれば)塩だけで食べることが多い。
 無論、自分一人で注文して食べるのなら、何をかけても勝手である。自分の取り皿に取ったピースにかけるのも勝手である。大勢で取って食べる物全部にかける人の了見が分からない。「自分は気が利く人間である」ことをアピールしているようにも見え、鼻白みもする。それが苦手な理由の最大のものだ。
 レモンを絞って食べたい人が世の九割を占めていて、数の論理からいって正しいことをしていることは分かっている。人数が何十人何百人といるのなら、ある程度数の論理で押し切らないと、話が先に進まないのも分かる。しかし、居酒屋に連れ立って行く程度の人数なのである。
 わたしが絶対その種のことをしないわけではないけれど、そういうタイプの人と食事するのは疲れる。

2.不正を働いた者の退職金返還を要求する人
 正義というものをしっかり保つことは必要である。罪を憎む気持ちも自然である。
 しかし、この頃はワイドショーや何かが、罪を犯した人が、どういう過程でそこに至ったかを懇切丁寧に説き明かしてくれる。そういうのを見ていると、犯罪者になろうと思って生まれてきた人はおらず、どこかで道を誤って、周囲に選択肢を狭められて、路地に追い込まれていったようなケースが多いように感じられる。 
 それを自分の身に重ねて考えてみると、多くの幸運が重なって、どうにか人の道を脱線せずにここまで生きてきているのだな、ということが改めて自覚できるのである。それが教育のせいであるのか家庭環境のせいであるのかご先祖の加護であるのか、それら全部であるのかはよく分からないが。一つでもポイントの切換えを間違え、あるいは制限速度をオーバーしてしまっていたら、自分も罪を犯していたかもしれない、という想像は、常に腹の奥にある。だから、結果として罪とされる行動を起こしてしまった人と自分との間に決定的な差異を見いだすことは難しい。人は全て虞犯者だ、と思う。だから、罪を犯した人に対して、哀しさは感じても、怒る気にも嗤う気にもあまりならない。
 しかし、そう考えない人の方が多いようだ。ワイドショーのレポーターと同じ表情で怒る人が多いのだ。そして、法規でそんなことを義務づけてはいないにも関わらず、例えば退職金の全額返還を強要するムードを作ったりもする。退職金は長年務め挙げた功績に対する正当な報酬である。一度二度不正を働いたとしても、大部分の時期は真面目に仕事をしていた人の退職金を取り上げ、マスコミに顔と名前を曝されて再出発もままならないであろう人とその家族の生活を脅かす権利がどこにあるのか。
 正義は理屈とポリシーとして持っておけばいいのであり、人を憎むためにあるのではない。そう思うのだが、ワイドショーには同調しておかないと、会話にも乗れないから、辛いところなのである。

3.『渡る世間は鬼ばかり』のように会話する人
 わたしは『北の国から』がより好きだ、ということだ。沈黙ほど雄弁な表現はない。会話のなかにふと現れる間合いがわたしは好きである。五分十分と沈黙が続いても平気だし、その沈黙にこそ意味を見いだしたい、と考える。元来わたしの運動能力に問題があるから、そういう指向になるのだろう。発言するために声を調え表情を作るのも筋肉だから、それを切れ目なくやり続けることはわたしには身体的苦痛を伴う(教師に向いていない)。
 『渡る世間は鬼ばかり』の橋田寿賀子氏は、「主婦が台所仕事をしながら観ていても、ストーリーが分かる脚本」を旨としているそうである。従って、不自然であることを承知のうえで、感情から背後事情から全て台詞にしているのだ。沈黙に語らせる表現など皆無である。
 一般人の会話にそんな制約はないのだから、そんなに切れ目なく話す必要はない。しかし、大方の人にとって単に発言することが苦痛でもなんでもないのだろう。どんどん発言する。発言する、ということは、相手の返事を求めることでもあるから、会話は『渡る世間は鬼ばかり』の登場人物のように切れ目なく続いていく。少しでも沈黙が現れると、不安になる人が少なくないらしい。無理矢理にでも何か発言して会話をつなごうとする。そういうタイプの人(の方が多数派らしいが)は、沈黙をマイナスのイメージでしかとらえられないのであろう。もちろん沈黙がマイナスであることも少なくない。人が本当に怒った時には、怒鳴り散らすよりも沈黙するだろうし。しかし、感動と喜びのあまり言葉が出ない、ということだってある。どんな言葉を使って感情を表しても嘘になる。だから黙るしかない。沈黙を恐れる人は、そこまで深い感動を味わったことがあまりないのかもしれない。
 わたしが人一倍言葉に敏感な質だから、よけい沈黙の価値を重んずる面もあるだろう。「あなたとの会話は途切れるから嫌だ」という意味のことをはっきり言われたこともある。そういう時に限って「漫才師と友達になれば?」という突っ込みが即座に口を出たりしたが。特に、男と女との会話では、男が話術で愉しませなければいけないことになっているらしい。わたしにそんな才覚はないし、訓練で身に付けた話術は授業に注ぎ込んで使い切っている(授業はお金をもらってやっているから、本来の自分と違うキャラにもなる)。
  わたしと一対一で会話しても少しも面白くないことを、予めご諒解ねがいたい。黙ってじっくり話を聞くから、ある種の学生たちがわたしの所に集まるのだと思う。このスタイルは変えられないだろう。何か現在は、会話といえばお笑い芸人かホストのようでなければ評価されないようで、わたしには生きにくい時代である。

4.『ブロークバック・マウンテン』を笑いのネタにする人
 わたし自身、同性とステディな付き合いをしたとか、性交渉をもったとか、そういう経験はない。だから、「同性愛者」というカテゴリーには含まれない。それでも、ゲイを笑いの素材としてしか捉えない人(が多数派である)は苦手であり、腹が立ちさえする。
 同性愛がアイデンティティーの問題になった、つまり「同性愛者」というカテゴリーが成立したのは、近代以降のことである、というのがフーコーの指摘だそうだ。これは日本でも西欧でも同じことのようである(近代西欧の価値観を日本が受け入れたから、ということもあるのだが)。近代より前は、同性愛は単なる行動選択に過ぎなかった。それは一生異性しか愛さなかった人、同性しか愛さなかった人もいたろうが、その間に無限の段階があったわけだ(「肉嫌い」と「菜食主義者」の違いである)。アイデンティティーになったからこそより強い偏見や差別が生まれた、とも言えよう。少年愛が紳士のたしなみであった時代だってあるし、そういう同性愛が自然に存在した時代の方が、遥かに長いのだ。
 同性を可愛くもしくは愛しく思う気持ちは、十分理解できるし、わたしもそういう気持ちを覚えることはある。そう思えば抱きしめたりもしたくなるというものだ。仮に、わたしを愛してくれる同性がいたら(おらんだろうな…笑)、わたしは素直に受け入れる、かどうかは相手との縁にもよるだろうが、少なくともそれが同性だからという理由で拒絶はしない。悦ばしく光栄なこととして真剣に向き合う。笑うなどという発想がわたしにはどうしてもできない。
 同性愛は不自然(ありていには変態)だ、として拒絶し笑う人も多い。不自然である理由は、「動物の本能に反するから」だそうである。だが人間は、進化と文明の進展によりどれだけの本能を棄ててきたのだ。性愛の意味合いだって、その過程で大きく変化し、本能から自由になっている。本能に従わねば変態だと言うなら、たとえ相手が異性であっても、生殖を目的としない(愛情の確認や快楽など)性交渉は全て変態だということになる。生殖を目的としないなら、相手が異性である必然性がどこにあるのだ。
 「本能」というのは便利な概念であり、説明しにくい事象の根拠に使いやすいが、その実この例のように何の説明にもなっていないことも多い。こういう概念に頼って考えてはいけないと思うのだが、都合のいいところだけ本能を持ち出されることが多くて、わたしはとまどう。
 異性に魅力を感じるか、同性に魅力を感じるか、は「好み」の問題である。そこに正誤や優劣はない。そう考えるのが「人間」に相応しいことではないか。かといって、例えば同性間結婚を制度化したりするのも、ちょっと違うとわたしは思う。恋愛や結婚の社会的な位置づけはまた別に考えねばならないのだが、この問題は、近代より前の段階に立ち返って考えなおすべきだと思っているので、ゲイを笑いの素材としてしか扱わないような風潮、ちょっとついていけない。

5.やる気を引き出すために競争を採り入れる人
 一時期、授業に競争を採り入れることで、子どものやる気を引き出す、なんていう授業研究が多く見られたことがあった。
 わたしはそういう実践報告を聞くたびに、溜め息をついてきた。競争によってやる気が引き出されるのは、子どものうちの半分だけだ。すなわち、勝てる子どもだけなのである。なぜこんな簡単なことが分からないのだろうか。いやいや、負けた悔しさがばねになるのだ、と言うのだろうが、今回負けても次回勝つ、という可能性のある子どもは限られており、そうでない子どもは、やる気など引き出されず、惨めさが募るだけである。そして、教育が最も配慮し目を向けねばならないのは、そうでない子どもではないんだろうか。 
 教師になるほどの人は、学校での競争に勝ってきた層が多いからであろう。負ける痛みなど、ほんとうの意味で味わったことが少ないのだろう。いやいや、私はこんなふうに負けたことがある、という教師はいるだろうが、それは上澄み液の中での勝ち負けでしかない。大学の教育学部に入学するのは、公立の小中学校でクラス三番以内をキープするくらいの成績の者である。そして、クラスでそういう位置にいる者は、本人は自覚していないだろうが、底辺の子どもからすると、既に「権力」だったのである。
 跳び箱を跳ばせるための指導技術(いや、それを開発すること自体は結構なことだ)を得々と発表する小学校教諭は、研究の動機を「跳び箱が跳べないことで肩身の狭い思いをしている子どもの、跳びたいという夢をかなえてやりたい」とのたまった。
 その教諭のクラスは、跳び箱が跳べない子どもが肩身の狭い思いをしなければならないクラスなのだなあ。そういうクラスづくりしかしていないなら、問題の根はそこにあるんじゃないのか。跳び箱の跳べない子どもは、「跳びたいという夢」など持ってはいない。跳び箱などという忌まわしい物がこの世から消滅することを夢見ているのだ。指導技術を磨く前に、子どもの心を想像する感性を鋭くした方がよい。
 跳び箱が、自分には乗り越えられない障害物として立ちはだかっている限り、それを跳び越すということ自体子どもにはイメージできない。「跳びたい」という希望を持たせるには、まず跳び箱に対する愛を感じさせねばならない(恐怖心を除く、というレベルではなく)。跳び箱を跳ぶことの本当の意義と喜びをこそ、実感させなければならないのだ。「これで肩身の狭い思いをしなくて済む」などという消極的で陰湿な満足感ではなく。
 小学校などでは運動会の徒競走で、途中から手をつないで一斉にゴールする、というやり方が最近多いという。わたしは、このやり方を強く支持したい。何か悪平等の象徴のように挙げられ、叩かれている例ではあるが、速く走れない子が全校生徒とその家族の前でさらし者にされることを止めた、というだけでも、従前のやり方よりはずっとましである。それでもこのやり方を批判すると言う人には、数学の試験答案(もちろん点数付き)を全て廊下に貼り出すことを認めるかどうか、答えてもらいたい。認めないと言うなら、それと徒競走と何が違うのかも。
 こういう主張をすると、頭がおかしいという扱いを受けるのだが、なぜだかわたしには分からない。
 
 一気に五種類書いてしまったが、これだけ書くなら、五つの記事に分ければよかったな。まあいいか。あと二~三種類浮かんできたことでもあるし。わたしはつくづく天の邪鬼なんだなあ。

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