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2006年10月29日 (日)

高校の履修漏れ

 ニュースで連日報道されているこの問題、まだ決着はついていないようだが、休養前に一応わたしの考えを書いておこう。

 高校は学習指導要領に従ったカリキュラムを組まないといけないのだから、世界史が必修と定められているなら、その授業を全ての生徒に履修させなければならないのは、当然であること言うまでもない。実態がそうでなかったのなら、今後、現在の二年生から後の学年はそのように運用せねばならない。いかに進学を売り物にする学校であっても、受験対策のために高校教育として必要な科目の授業をしないのは本末転倒である。
 ただ、そのことと、現在の三年生をどうするか、という問題とは分けて考えねばならない。

 大学受験が迫っている時に受験に必要ない科目の補講を行うことが受験生の負担になって気の毒だ、などと言うつもりは、わたしは毛頭ない。受験を免罪符にしていろんな無理を通す風潮については、わたしは自分が受験生であった時から批判的である。それに、進学校であっても家庭の事情などで就職する生徒もいるが、彼らは気の毒でないのか、というとそんなことはない。そういう生徒たちも、最後の学生生活に何かとやりたいことはあるだろうし、そのための時間の貴重さが大学受験の勉強よりも劣るとは思わない。
 要するに、問題が発覚したのがもう三年生の二学期も半分近く終わったこの時期である、ということが、配慮するべき事情なのであって、しかるのちに大学を受験しようがしまいがそんなことは関係ない。一年間通して授業して得るべき単位が、今の時期に足りないと言われても、まともな方法で補うと、対象となる全ての生徒にいびつな負担をかけることになることが問題なのだ。何らかの特例としての救済措置はとらなければならない。
 最初に問題になった高校は、生徒の要求があったから、ということを当初言っていたようだが、カリキュラムの決定権は学校側にあるのだし、生徒が要求しても、「法律がこうなっているのだ」と突っぱねることもできたのだから、生徒のせいにしてはいけないだろう。教師は学校教育のプロなのだ。生徒はカリキュラムに関わる法規の詳細までは分かりようがなく、先生に「これで大丈夫だ」と言われれば、信頼するしかないのだから、学校側と生徒たちとは対等ではない。受験科目の授業だけを要求する生徒の、受験しか見えない狭い視野が問題だ、という意見もあるが、そういうムードを醸成し、受験のみに目を向けるように仕向けてきたのもまた学校側であろう。
 生徒に責任のないところでこうなったのだから、生徒には配慮せねばならない。

 何年も前から同様の便法をとっていた高校も多いだろうし、厳密に指導要領を適用すると、過去の卒業生も、卒業を取り消して世界史などの科目を高卒資格試験などで補わねばならなくなるし、卒業が取り消されると、大学入学資格も失うから、大学に在籍する卒業生は、大学から除籍せねばならない。これは現実的ではない。既卒業の者に関しては、不問とする以外にない。そうであれば、現三年生にも特例措置はあってよい。そして二年生からは法規どおりしっかりやろう。
 こういう便宜的な措置を学年ごとにとっていくには、どうしても文部科学大臣の鶴の一声が必要である。大臣が、強硬な立場を曲げ、近々救済策を発表する、と言明したことは極めて妥当だ。具体的には、レポートや基本事項のテストで授業に代えるようなことになるのだろうか。邪道であるが、この期に及んではそうするしかない。

 以上は、事態の収拾をどうするかということに絞った主張である。その後に、もちろん、履修漏れを容認するようなカリキュラムを組んだり、虚偽の指導要録を書いたりした教師ないし学校側の責任は追及されるべきであるし、そのための議論はしていけばよい。
 ただ、このところの報道は、同種の問題をどんどん暴き出していく、といういつものエスカレートぶりを見せている。最初に出た富山県の高校は、そもそも一科目分しか授業をしていないのに二科目分の成績をつけていた、という。これは申し開きのしようがない。しかし、二科目分授業はして、読み替えで世界史の単位として認めている、というケースは微妙である。本来の内容を手っとり早くプリント授業などで済ませ、余った時間は受験用の問題演習に充てる、などは、問題なしとはしないものの、昔からあったテクニックであろうからだ。世界史の内容を全くやっていないのであれば、明らかに問題であるが。いろいろなケースが、「履修漏れ」という概念で一括りにされているのは、適切さを欠く。

 なお、学校側が言う「日本史や地理の中にも世界史の内容が入っているから」という弁明は、意味をなさないと思う。そんな理屈が通るなら、そもそも世界史という科目が独立して設けられ、必修となるはずがないのだ。「英語の時間に毎回英語の歌を歌っているから、音楽の単位として認める」などということもあっていいことになり、カリキュラムの秩序がどんどん崩れてしまう。受験科目であるかないかとは別に、世界史を履修することの意義をきちんと説けない、ということは、一般教養の人生における意義を教師自身が実感できていないのではないか。まず我が身を振り返り、これを問い直すことから始めないといけない。
 まして、文部科学大臣が、学習指導要領どおりのカリキュラムに従って受験科目でない科目を履修していた生徒も被害者だ、という主旨のこの一両日の世論に媚びるような発言をしたそうだが、これは不見識はなはだしい。教育行政のトップが、自ら学習指導要領を否定してどうするか。高校のカリキュラムは受験のためにある、という歪んだ現状を大臣が追認するとは、呆れる。
 大学の入学資格に、高校を卒業していること、というのが入っているのは、学力試験では問わないが、世界史を含む一般教養をも授業で身につけていることを受験生に要求している、とも言えるのである。

 高専は高等教育機関であるから、指導要領の縛りはなく、カリキュラムの策定も卒業認定も自前でできるから、このような混乱が起きることはなく、ひとまずは安心だ。しかしこの騒動を他山の石として、自ら説明できるカリキュラムを、自信をもって学生に提供できるよう、努力せねばならない。

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コメント

 自己コメントですが、この問題は今週中に文科省から救済策が発表されると報じられています。が、当ブログが休止に入りますので、10月29日現在の状況をみての見解のまま留め置きます。ご諒承ください。

投稿: まるよし | 2006年10月31日 (火) 21時27分

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