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2006年10月 9日 (月)

高専の「一般教養」

 高等教育機関(主に大学だろう)のいわゆる「一般教養」(学校によって呼び方は異なる)の役割について、どのくらい論じられているのか、わたしもよくは知らない。
 しかし、わたし自身高専で一般科目の授業を担当しているからには、それを考えないわけにはいかないし、わたし自身が教科教育専門なので(専門は日本語学だが、あくまで国語科という教科の関連領域として専攻してきたのだ)、何かものを言おうとすると、そこから説き始めねばならない。詳しいことはわたしの論文をお読みいただくとして、ここでは大雑把に言って、三レベルの「一般教養」の教科内容があることを、まず述べておこう。

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 まず、これだ。

(1) 高等教育を受けた者が専攻に関わらず有していることが社会から期待されている各学問領域に関する教養

(1)はまさに「一般教養」の名の由来であり、これが本来の役割である。なのに、それを忘れた議論がなされることが少なくない。これは後述しよう。
 次に、(2)である。

(2) 専門となる学問領域を修めるのに必須の、土台となるべき他領域の基礎教養

ここまでが「一般教養」の役割かどうかは、なかなか微妙なことになるが、いずれにせよ一般と専門との橋渡しをするような要素になろう。
 大学なら(1)と(2)をどうするか、と考えればよい。ところが、高専では厄介なことに、もう一つ、(3)も考えねばならない。

(3) 後期中等教育(高等学校)で習得するのに相当するレベルの各教科の内容

 普通科の高校から大学に進む人は、(3)を高校で習得し、(1)につながっていく。しかし、高専には、学生は(3)を修めずに入ってくる。前期中等教育(中学校)の内容と幾分は重なるから、(3)の知識がゼロとは言えないにしても、それに近い状態であろう。
 従って、(1)を教える前に、もしくは、(1)と並行して、(3)を教えなければならない。そこへもってきて、教科によっては(2)の要求が厳しい。これでは、よほど教科内容を整理して指導過程を組まないと、「一般教養」は空中分解してしまう。

 所属校の国語で言うと、最も手薄なのは(2)である。(2)はいわゆるテクニカルライティングということになる。
 1~3年の「国語」は、高校用の検定教科書を使っていることでも分かるように、(3)に相当する。4年の「国語表現」は、実用的な日本語の使い方を学んでいるので、無理やり当てはめれば(1)になるが、内容が学問にまで達していないノウハウ的なものだから、(1)’とでもしておこう。そして、5年選択必修の「国語講読」は(1)である。というわけで、(2)をやる授業が一つもない。
 これではよろしくない、と思って、わたしは独断で3年生の国語を(2)としている(もちろん、わたしが担当するクラスのみである)が、専攻科にいたっては国語の授業そのものがない。学校の目標の一つに「コミュニケーション基礎能力」を挙げていながら、カリキュラムとしてこれでいいのか、疑問だが、わたしにはどうしようもない。

 一般科目の中でも、数学のように、誰が考えても専門(工学)に直結している教科は、恵まれている。(2)を専従で教える授業(「応用数学」)が予め用意されているからである。位置づけとしても「応用数学」は専門科目に分類されている。現在は一般科目教室の教員が担当しているが、専門学科の教員がこれを担当することも検討されている。それも一考である(もちろん問題なしとはしないが)。
 ところが、カリキュラム上中途半端な教科が物理と英語である。
 物理には、数学の「応用数学」に相当する授業として、「工学基礎物理」があるので、(2)はよいとして、問題は(1)(3)である。いわゆる一般数学には(1)(3)を教えるべき授業が六つもある(「基礎解析」「数学演習」「解析I」「線形代数」「解析II」「解析III」)。上の方の学年では(2)の内容も入ってくるのだろうが。対して、いわゆる一般物理は「物理(1年)」「物理(2年)」しかない。(1)(3)に関しては、物理は国語や歴史とあまり変わらない状況におかれているのだ。
 英語については以前も述べたとおりだ。「高専に英文学は要らない」という愚論を公然と口にする専門教員は多い。そういう人に、「歴史学や哲学や国文学は必要で英文学は不要なのはいかなる根拠によるのか」とわたしが訊いても、誰も答えられたことがない。なのに、主張は引っ込めないのだから、愚かさも極まる。自説の矛盾を指摘されて応えられない、ということは、その説が誤っていることを意味する、というのは議論の基本的なルールである。それを弁えないのなら、学問に携わる者として基本的な資質に欠ける。一般科目のなかで英語科の授業だけが(2)のみを目的として行われるべきだ、という珍妙な思想を、わたしは全く理解できない。
 が、ともあれ(2)ばかりを要求されるので、(1)(3)が手薄になっているが、(2)を教えるには、(1)(3)がしっかりできていなければならないのだから、いくら(2)にばかりエネルギーを注いでも、成果が上がる道理がない。だからTOEICの基準点に達しない修了見込者の指導に毎年のように腐心せねばならないわけである。(2)の授業をやれやれとけしかけておいて、修了要件がTOEICというのもお笑いだ。TOEICは(1)に属する能力を問う試験である(無論TOEICで問われる内容が、英語に関する(1)の全てではないので、念のため)。

 国語に戻る。
 わたしの場合は「国語(3年)」は(2)を教えているから、(3)を教えるのは「国語(1年)」「国語(2年)」の二つの授業である。では、わたしはこの二つを、(3)に徹する、つまり、普通科の高校の国語と同じ内容をやるか、というと、全くそんなことはない。教科内容は(3)でありながら、学生が工学専攻であることを意識した教授方法をとる。工学専攻向きの古典文学の授業(の内容・方法)、というのも、あり得るのである。そして、理工系の学生は、当然ながら国語が嫌いで苦手であることが多い。しかし、先の学校の目標にあることでも分かるように、国語は工学にとっても重要な領域だ。嫌いであっては困る。そこで、国語嫌いの意識を取り除くように配慮しながら、国語を学ばせる。もちろん、流れとして(2)につながることを考えるし、高等教育機関であることを考えて、(1)に達している内容も、ちらちらと織りまぜる。

 つまり、(1)(2)(3)は、それぞれ別物であるが、同じ学問領域に属する以上、内容的に関連しているはずなのだ。ある授業について、軸足は(1)~(3)のどれかに確実に置くとしても、他の二つと無関係に教えるべきではない。
 わたしの大学時代を思い出しても、法学にせよ数学にせよ社会学にせよ、学生の専門(わたしたちのばあいは教科教育)を意識して授業してくれる先生に人気があったし、授業の内容も印象に残っている。法学なら、学校現場で教師が直面する状況の法的解釈などを例にとってくれた授業の方が、漫然と法学の一般論を講義する授業よりも意義があり興味をそそられた。
 (一般)物理も(英語も同じ)、このようなまっとうな評価を施すべきである。外圧に影響された歪んだあげつらい方は止めるべきである。(3)に軸足を確実におきつつ、(1)を覗き見させ、(2)につながることを意識した内容と方法がとられていたら、「(一般)物理」の授業は成功だと思う。(2)に軸足を置くのは「工学基礎物理」でよいのだ。実際に現在の所属校の授業がそうなっているのか否か、そもそも物理に関して、(1)~(3)の具体的な教科内容がどうあるべきなのかは、わたしには分からないので、この評価はわたしがするべきことではない。ただし、「工学基礎物理」について、「(一般)物理」や専門科目との内容の重複を指摘し、その存在意義に疑念を抱く学生が少なからぬことは、十年来聞き知っている。もしその疑念に理があるのなら、内容の調整は必要であろう。

※ この記事のように、まるよしの楽しい国語教育の話を満載した本、ぜひお手に取ってお読みくださいね。

 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

 勝木書店のホームページでご注文いただくのがご便利かと思います。
  http://www.katsuki-books.jp/ (書籍検索から)
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