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2007年2月 7日 (水)

機械は子など産まない

 もうこの、政治家の失言問題というのはうんざりである。失言をした政治家にというより、政策ではなくこういう問題で大同団結して審議拒否しようとする野党にである。
 本筋ではないところで時間と経費を空回りさせないで、仕事をしてほしい。とにかく与党の足をすくえるところはないかと目を凝らしている野党体質が、ちょっとわたしは受け付けない。その意味で、今回に関しては共産党の、批判はするが審議には参加する、という至極まっとうな態度が評価できる、と思っていたのだが、これもうちは普通の野党とは違いますよ、という言わば「野党の野党」としてのポーズなのかもしれず、結局は審議拒否に同調してしまった模様だ。与党内にも辞任を求める声が出たりしていたようだが、これも野党と世論の動きをみて、国会運営や選挙に支障がでることを懸念してであり、理念に基づくものではないのだろう。

 繰返し報道に乗せられるうち、もう「女は子を産む機械」発言、という名前(臨時一語)が形成されてしまい(さらに「を」が落ちて「女は子産む機械」となっているのも見受ける)、要約された語句が一人歩きしている。引用符がついているが、件の大臣はこの通り言ったわけではない。初期のニュース類の引用を総合すると、

15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、機械と言っては何だけど、あとは1人頭で頑張ってもらうしかない

と言ったのであり、これをいかに要約しても、先の引用符の文言にはならない。正確な文言をもとに批評するべきである。
 そして、大臣は、「機械に譬えてすまない」という意味のことを何度か言ったそうである。確かにちょっと言葉が足らない発言ではある。

 女性、特に出産を経験した女性は、やはりこういう発言はかなり不愉快に感じるのであろうか。わたしではその感覚は実感しようがないので、何とも言えない。
 それとは別に、この発言とそれに対する一連の反応に対して、怒っているのは、実は女性だけではないだろう、と思っている。ある意味で、もっと怒らないといけないのかもしれない立場があるではないか。

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 それは、機械の方である。機械自身が怒るわけにはいかないので、機械にたずさわる人達が代わりに怒ってもいいかもしれないが、とにかくもし機械に意志があったら怒りを露にするだろう。
 機械はわたしたち人間の生活をどれだけ豊かにしてくれたか。その貢献ははかり知れない。機械は人の生きざまに深みと幅を与え、他の人とをつなげてくれる。わたしは電車という機械に命の輝きを与えられ、夢を映し見る。バイクやクルマなどの機械にそうしてもらっている人もいるだろう。音楽や映画を楽しむにも、機械が大きな役割を演じてくれている。身の回りにある道具や食物がそのような形でわたしたちの元にあって文化的な生活を保証してくれるのも機械あってこそだ。
 その機械は人間が作ったんだ、と言えばそれまでだが、もはや現代の機械は人間の知恵と力の及ばないことまでを正確に倦むことなくやってのけてくれるのである。そういう機械にしてみれば、人間の子どもなどという、規格も性格もばらばらで気まぐれな完成度の低いものを生み出すことの譬えに使わないでくれ、われわれはきっちりプログラムどおりの仕事の結果を寸分の狂いもなく出力することが誇りなのだ、変なところで引き合いに出すな、とわたしが機械ならそう言いたくなるだろう。職場が職場だから、機械に肩入れしたくなる。

 以前、機械的という語を安楽死語としておちょくったことがあったが、「譬えてすまない」と言われたり、機械に譬えたことを怒ったりする現象の背景には、機械に対する軽侮の情があり、機械に対してずいぶんな扱いだ、と思う。機械とは無機的で意志も柔軟性もない、という捉え方がもはや通用しない時代である。
 機械的という語は、日常語・工学の術語・哲学の術語・医学の術語と大きく四つの用法があるようだが、それぞれ全く意味が異なる。日常語としての機械的は機械と機械に関わる人に失礼な意味だと思うので、わたしは職場では使わないようにしている。無作為とか無意図的とか言い換えるのである。一方で哲学用語としての意味は、機械が有機的構造を有していることを認めたうえでの、日常語に反してなかなかの意味である。が、そんな意味は一般には知られていない。
 もちろん、人間の営みのなかには機械にまねできないことがいくらもあるし、生命あることの尊厳において、人間は大きい。人間が機械に従属する必要はない。存在としての足場が全く違うもので、簡単に譬えたり譬えられたりできるもんではない。

 言葉の足らなさが、この譬えをねじれた陳腐なものにしてしまっているのがこの大臣の不幸である。まあ、講演会場では特にざわつくこともなく、抗議の声が上がったわけではないそうだ。回り回って伝えられ、手ぐすね引いた野党の好餌になってしまったのであろう。少数の機械しかない中で生産性を上げようとすれば、一台の機械で多くの製品を作らないといけない。それと同様に、もはや15歳から50歳にかけての子を産む可能性のある女性の数自体が限られている現代、女性一人が産む子供の数を多くすることによってしか、少子化に歯止めはかけられない とでも言えば、何の問題もなかったのではないだろうか。もっとも、この主旨を言うのに、機械への譬えがないと分からない、ということはない。太字部分だけを言えば伝わるはずの単純な理屈だ。擬人化という言葉があるように、物を人になぞらえることはあるにしても、人を物になぞらえても、あまり表現として豊かにならないのではないか。
 さらに言えば、機械に譬える譬えないは別にして、女性が頑張って子を産みさえすればいい、という理屈自体が安易で、社会全体が頑張らねばならない(このことを詳しく書いていたのだが、先に書かれてしまったので、トラバ先の真面目な軟派師さんにお任せする)。子が産まれて人口が増えさえすればいいというのなら、若い男女を国が雇い入れて国家子産む員とでも名づけてがんがん子を産む任務にあたらせればいいが、そんなことで済む話ではない。
 批判するなら、譬えの言葉尻などではなく、そういう点に対してなすべきであろう。

 そういう意味で、大変不用意で下手な表現であったとは思う。ただ、それで政治の流れを止めてしまうほどの大問題か、と言えば、それほどのことではない。不適切な表現を悔い謝罪し、これからの仕事ぶりで女性蔑視などしていないことをみせれば済むことである、とわたしは思っている。
 小渕元首相が倒れる一因となったかもしれない失言問題を思い出す。前身の掲示板でも話題にしたが、あの時のビデオを観ても、小渕氏は失言などしていないのだ。それを失言にまつり上げたのは、人々の文章読解力(正確には談話理解力)の欠如と野党の下心であった。
 今度もまた事を大げさに騒ぎ立てて、大臣の首をとることに熱くなっているのだろうか。野党の使命はそんなことにあるのだろうか。

 大臣が「混乱を収拾するため(あくまで失言の責任でなく)」辞任を表明、首相は「本人の意志を尊重(あくまで罷免しないという方針は曲げなかった)」して辞表を受理、野党は一応の目的を果たして、三方の顔を立てる決着がこれまでのパターンであったが、安倍総理はともあれ方針を貫き、野党は根負けして審議に応じたようだ。
 不健全な一人っ子のわたしではあるが、安倍総理に拍手を送りたい。

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