« 次季の青春18きっぷがちょっと違う | トップページ | 敬語の新分類 »

2007年2月15日 (木)

被害者の権利

 犯罪被害者とその家族の人権は守らなければならない。心ならずも酷い経験に身を晒した人なのだから、普通以上に手厚く守らなければならない。

 そのことは全く肯定するのだが、それと被害者やその家族が法廷の検事側に同席し、被告人に尋問したり独自の求刑をしたりすることとは、別のことである。

 法廷は、事件を日常の社会生活とは切り離して正しく断じる目的にのみ供される、人為的な空間である。そこに事件の当事者が参加するのは、やはり筋が違うと思うからである。被告人も事件の当事者ではあるが、その人を裁くための法廷であるから、そこにいるのは当然のことで、止むを得ない。
 被告人の人権ばかりが守られる、という批判から今回のような措置がとられたわけだが、被告人と被害者(とその家族)とでは、守るべき人権の質が違うのである。
 被告人は、罪に問われようとしている立場であり、その罰がいわれなきものであったり不当に重いものであったりすることは、決して許されてはならない。そういうことで、事実関係とその解釈を正当なものとするため、理詰めで冷静に被告の行為を断じていくことが必要なのであるし、被告人が自ら弁明する権利も与えられねばならない。そういうことが被告人の人権を守ることになるのであり、被告人の心情に対するケアなどはここではあまり重要ではない。
 それに対して、被害者(とその家族)を守る、というのは、事件に伴う精神的・経済的なもしくは名誉と尊厳に関わるダメージに対するケアとしてなされるべきであろう。裁判の経過や被告人に関する情報が被害者(とその家族)に開示される、ということ、あるいは、被告人に何かを語り訴えかける、ということも、そのケアの一環としては有効であろう。しかし、それは法廷の裁判そのものに参加する、というかたちをとる必要はない。情報が被害者(とその家族)に確実に伝わるシステムにすればよいし、被告人に手紙を出すことだって認めればいい。もちろん裁判を傍聴するのもいい(日本人の心情として、亡くなった被害者の位牌や遺影を持ち込むのもいいだろう)。
 しかし法廷は、基本的に、検事と弁護士と裁判官、という、法曹界のプロが、感情に流されることなく手続きを進めていく場である。法廷がそうあることによってこそ、「法治」が成立する。仇討ちを禁じ、裁判で罪を裁くようにしたのは、そのためではなかったか。感情抜きに事件に向き合うことが難しい被害者(とその家族)自身がその場に参加することは、法治の原則をゆるがしはしないのか。 
 誤解のないように言っておくが、豊かな感情をあらわすことのできる感性は貴重であるし、被害者(とその家族)の心情はもちろん察するに余りある。ただ、それらを法廷という場に持ち込むことにはあまり賛成できない、ということである。

|

« 次季の青春18きっぷがちょっと違う | トップページ | 敬語の新分類 »

8.0時事・ニュース」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/13885681

この記事へのトラックバック一覧です: 被害者の権利:

« 次季の青春18きっぷがちょっと違う | トップページ | 敬語の新分類 »