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2007年3月 1日 (木)

二次創作なのか盗作なのか 下

 では、メジャー界の二次創作、下手をすると盗作よばわりされかねない事例をみながら考えてみることにする。

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 折よく、今週号の『週刊文春』には、『3年B組金八先生』シリーズの脚本家である小山内美江子氏の怒りのインタビュー記事が載っている。昭和五十四年の第一シリーズから一貫して脚本を担当してきた小山内氏が、平成十七年の第七シリーズの半ばで、本人の意向を無視して降板させられた、と小山内氏は語る。表向きには小山内氏が病気のため脚本家が交替した、という説明であった。そればかりか、小山内氏抜きで第八シリーズを制作する話が進んでいる、ともいう。
 この交替により、小山内氏の構想は反故にされ、派手な演出を施した、それまでの金八とは違うコンセプトのドラマになってしまった、というのが小山内氏の言い分だ。
 だとすれば、第七シリーズ後半からの同ドラマは、小山内『金八』からみれば二次創作物ということになる。
 ただ、この種の作品が誰の所有物なのか、というのは難しい問題ではある。最初に構想した小山内氏に全権があるのだろうか。小山内氏がいなければ金八が生まれなかったのは確かだが、プロデューサーもいなければならなかったし、武田鉄矢氏も欠くべからざる存在のはずである。小山内氏の金八であると同時に、プロデューサー氏の金八、武田氏の金八でもある。大元の枠組を作った小山内氏に最大の権限があることは認めるが、全権ではない気がする。

 金八と対極にあるのが、『北の国から』シリーズである。倉本聰氏の『北の国から』、というイメージが強いが、これだって田中邦衛氏の、吉岡秀隆氏の、あるいはさだまさし氏の『北の国から』という側面もそれぞれにあるだろう。とはいえ、このシリーズが終了した理由としてフジテレビによって説明されているのが、制作スタッフの多くが定年あるいは管理職となり、制作が困難になった、というものである。
 今後もこれを続行・発展させていく意欲に満ちていた倉本氏はこれに対して、スタッフはいくらでも若い人に交替して制作を続行すればいいではないか、という主旨の当惑の言を公にしている。わたしも素直にそう思うが。 

 原作者を差し置いてシリーズが続行する『3年B組金八先生』、スタッフ全員の交替を認めず敢然と幕を引いた『北の国から』、どちらが正しいのか。どちらも原作者とテレビ局の意向が合っていないのは不幸なことだが、わたしは金八のほうにややシンパシーを覚える。このクラスの作品は、もはや個人の所有を超えて作品自体の力が動いているからである。
 『ドラえもん』は一斉に、『サザエさん』は五月雨式に、長年親しまれてきた声優陣を、高齢化や病気を理由に交替させているが、それでも作品としては連続した一体のものであろう。
 もっとも、アニメは大抵原作となる漫画があり、漫画から見れば二次創作物である。原作のあるドラマも同じだろう。『サザエさん』は原作をとっくに使い果たし、アニメ独自のストーリーやエピソードが大半を占めており、原作者が死去しても制作が続けられている。これに対し、ドラマ『鬼平犯科帳』シリーズは原作者の池波正太郎氏の遺志を尊重し、基本的に原作にない話は制作していない。どちらも視聴者にそれで受け入れられているからそれでいいのだろう。ただ、一次創作者たる原作者の意図はかなりの部分尊重されている。それが自然である。

 歌謡界では、森進一氏の「おふくろさん」問題が起きている。いつの間にか原作詞者である川内康範氏に無断で冒頭に科白が付け加えられて歌われていることに、川内氏が激怒して森氏にこの曲を歌うことを禁じた、というものである。
 これも、二次創作の一種ということになるだろうが、川内氏が怒る気持ちも分かるが、川内氏一人の「おふくろさん」ではなく、森氏の「おふくろさん」でもある。川内氏は森氏を恩を忘れた人間のように言っているようだが、「おふくろさん」を名曲に育てたのは森氏なのだから、お互いに恩はあるだろう。現在のなりゆきはちょっと一次創作者のほうの権限が過剰に押されているように思う。
 一方で、科白を付け加えるなら、何でその科白を川内氏に作ってもらわずにわざわざ別の作詞家に依頼したのか、わたしは不思議だし、そうするならするで、川内氏に話を通すのは当然のことである。森氏ではなくスタッフの仕事であろうが。それで、わたしとしては、この喧嘩はどっちもどっちという気がしている。

 「記念樹」騒動については、尊敬する服部克久氏に申し訳ないが、わたしが贔屓目にみても、「記念樹」は小林亜星氏作曲の「どこまでも行こう」の二次創作だと思える。あそこまで全体のメロディ構成と部分部分のフレーズが似通っていて、別の曲だと主張するのには無理があろう。
 では「記念樹」が二番煎じのつまらない曲かというと、そんなことはなく、歌詞の雰囲気をよく活かしたいい曲だと思う。何より、ある程度卒業ソングとして定着していた「記念樹」が訴訟に絡んで演奏できなくなっている、というのは文化の損失にほかならず、遺憾だ。
 初めから「どこまでも行こう」の変奏曲ないしオマージュとして世に出ていたら、と惜しまれてならない。「どこまでも行こう」のメロディをそのままに、歌詞とアレンジを着替えると、ここまで違った曲になる、ということを示した服部氏の才能と功績は偉大である。ただ、メロディに関する権限は小林氏にあると考える。

 というように、二次創作は公の場で行われた場合、いろいろとややこしい問題が出てくるのである。
 わたしの意見は、ゼロから世界をつくりあげた一次創作者に最大の権限があり、二次創作者にその二十分の一くらいの権限はある、というものだ。数字で表せるようなことではないけれど、感覚としてはそんなところだ。上に挙げた例は二次創作ではない、と言われるとそれまでだが。二次創作者の権限が及び、作ったぞと胸を張ってよいのは、あくまで一次創作に付け加えた部分に関してのみであるべきだ。

 ともかく、これからもこの種の問題は起こってきそうなので、早急にある程度の共通理解をなした方がいい。

(了)

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