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2007年6月 7日 (木)

学会のマナー

 以前の記事で、スポーツ界のマナーについて述べたが、考えてみると、こういうのはスポーツ界だけの責任ではなく、いろんな世界に蔓延してきているようだ。

 職業柄、学会に出席することも多い。そして現在の職場の性質上、専門ではない理工系の学会に参加することも時々あるが、そういうところでも感じる。

 学会の規模もいろいろあるが、なぜか理工系の学会には超大規模な場合がしばしばある。分科会の延べ数が三桁になろうか、というようなもので、大学や学部全体を借り切って開催される。
 こうなると、全体で一つの会をやっている、という意識は薄れてしまうのだろう。わたしなどは戸惑う。この種の学会(工学教育の)で発表したことがある(もっとも共同発表で、登壇するのはわたしではなかった)が、わたしは当然のマナーとして、自分の発表が組み込まれている分科会の最初から最後まで出席した。服装はスーツにネクタイ、分科会が始まる前には司会の先生に名刺を出して挨拶をしたが、かえって向こうが恐縮していた。そういう習慣がないらしい。
 他の発表者を見ていると、自分の発表予定時間の半時間前くらいにやってきて、自分の発表が終わるととっとと帰ってしまう人が多かった。そればかりか、共同発表で発表者として名前が掲げられている人が、会場に来てもいない、というケースも少なくなく、これはわたしに言わせれば非常識である。
 そして、発表時間も、一応ベルを鳴らしたりはしているが、時間がきたからといって司会者が制止することもなく、だらだらと予定より遅れていく。発表時間は予め決まっているのだから、その時間内に収まるように準備して来ないのは発表者の非であり、言いたいことが全部言えないのは自業自得なのだ。予定の時間が過ぎたら、内容が途中でも打ち切らせるべきである。パワーポイントなどは綺麗に飾りたてた画面を一生懸命準備するくせに、読み上げ原稿を用意していない。時間を守ろうという気が端からないのであり、聴衆を馬鹿にしただらけた学会だ。これは、その学会だけでなく、わたしの聴講した理工系の学会、あるいは高専の教員研究集会でも共通した傾向だから、学界の体質とみていいだろう。

 こういうのを見て、マナーも何もめちゃくちゃな学会だ、などと憤慨するわたしの感覚などもう古いのかもしれない。わたしの専門の国語国文の学会では、こういうことはなかった、と言いたいところだが、最近は波及効果か、同様のことがみられるようになってきたので、この点でも何が正しいのか、よく分からなくなった。
 わたしも数年前にある学会の全国大会でシンポジウムの提題者として登壇したことがあるが、登壇者のうち懇親会を含めた全日程に参加したのはわたし一人であり、司会者を含めて他の全員がシンポジウム開始の直前になるまで会場に現れなかった。大いに憤慨したわたしは打合せの席でそのことを強く抗議ないし叱りつける言葉が喉まで出かかったが、すんでのところで思いとどまった。他の登壇者が皆わたしより年上であり、しかもそのうちの一人はわたしの指導教官だったからである。しかし誰であれわたしはこういう態度には批判的だ。実際、懇親会ではシンポジウムに関する感想やらつっこみやらをわたし一人で受けなければならなかった。
 この前参加した日本語学会でも、シンポジウムの開始時間に遅れて入ってくる人が多くて呆れた。行き慣れない場所に行くのだから、時間が読めないのは分かるが、それなら時間に余裕をもって来ればいいのだ。わたしは学会などに行く時は必ず半時間以上の余裕をみて家や宿泊先を出るようにしている。しかも、壇上でひとが話している最中にドアを開けて入って来、熱心にメモをとりながら聴いている人を立たせて奥の空席に入ったりするのだ。時間ぎりぎりにばたばた入って、他人に迷惑をかけながら席に着いて、それで話の内容をしっかり咀嚼できるほど、皆神経が太いのであろうか、と感心する。わたしなら、どうせ落ち着いた気持ちで聴けないのだから、遅刻したら会場に入らないだろう。
 会場校の案内係は、親切にも遅刻者を会場内に案内して空席を探し、通路側の人に詰めるように頼んでやったりしている。まるで劇場か映画館だ。学会は客商売ではない。広く予告してある時刻に遅れてきた者に、何でそんなに手厚くするのか、理解できない。こういうことは止めるべきである。遅刻者のために、時間を守って来ている参加者に余分な手間をかけさせるのは、正直者が馬鹿をみるの図だ。遅刻者は一番後ろで立ち見させておけばよい。いやそれ以前に、遅刻者は壇上の話し手が交替するタイミングまでドアの外で待つべきである。
 わたしも学生時代はけっこう学会でいい加減なふるまいをして、先輩諸氏に叱られたりしたこともあるので、あまり偉そうなことは言えないのだが、それでも少なくともプロの研究者になってからは相応のマナーを守っている。しかるに、この前ふざけたことをしていた中には、分別盛りの歳恰好の人たちも多かった。

 そんなふうにいろいろマナーが崩れてきてはいる。が、わたしは今でも、発表者なら学会の最初から最後まで懇親会も含めて参加し、白装束の心持ちでさまざまな人と交流するのが基本だ、という認識をもちつづけている。発表時の質疑応答時間は僅か十分~十五分程度なので、十分な質問や助言を受けることはできない。休憩時間や懇親会でこそ、有益な情報交換ができるというものであり、そうすることは自分のプラスにもなるのだ。
 自分の発表が終わったら帰ってしまう人は、そのようにして自分を高めようという気持ちがないのだろう。研究発表一回のアリバイが稼げればそれでいいのだろう、とわたしは考えている。みんなが隴西の李徴になっていって、学問の発展はあるのだろうか。

(つづく) 

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