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2007年6月 2日 (土)

ゆりかごのぬくもり

 いわゆる赤ちゃんポストに初めて入れられたのが、対象外の三歳くらいの男の子だった、という事態は、当の男の子は哀れであるが、この種の設備の是非を問うのに恰好の問題提起となっており、興味深いことである。

 これの是非については賛否両論あるのだが、わたしは論じるまでもないと考えている。

 社会がこういう設備を用意してはいけない。
 昔から、どうしても育てられない子供を、しかるべき場所に置いて去っていく、ということはあった。しかし、それはやはりイレギュラーな事態であるべきなのである。最初からそのような選択肢が制度として存在するのとは話が全く違う。
 産んだ子供は親が責任もって育てる、というのが基本である。育てられないなら産んではならない。それが秩序である。ただ、妊娠もしくは出産の後に、全く予想外のよほどのことが起きて、子供を育てられない状況に陥ることはあり得る。そういう際の緊急避難として、しかるべき場所に子供を置いていく、ということは、理解できなくはない。しかし、受け入れる方で予め置いていく場所を設けるのは、あってはならないことである。無責任な子づくりを助長してしまう。不幸な赤ちゃんを救うつもりで、そもそも不幸な境遇になる赤ちゃんを拡大再生産することにつながるのだ。

 もちろん、賛成派にもいろいろ意見はあるようであるが、わたしは与することができない。
 「赤ちゃんポスト」という名前が印象を悪くしているだけだ、という意見。しかし、これは本質ではない。どう名づけようが、問題は同じことである。
 捨てられた子が凍死・餓死するのを防ぐことができるので一定の意義はある、という意見。しかし、捨てる親に、この子を死なせたくない、という気がほんとうにあれば、毛布か何かででくるんだうえで、なるべく早く発見されるような場所に置く、という方法をとるだろう。そうでない親なら、この種の設備があったとしても、わざわざそれを探して置きに来たりしないだろう。
 捨てた親にも事情があり、愛情があるからこそこの種の設備に預けに来るのだ、という意見。しかし、これは詭弁である。現に、今回の三歳くらいの子の親はどうだろう。何が起きているのか十分認識できる年齢の子を、福岡からはるばるクルマに乗せて熊本に捨てに行くのが愛情であろうか。福岡にも病院・孤児院・修道院などはあるだろう。服に手紙を縫いつけて大型ショッピングセンターやデパートに置き去り、というのもよく聞くやり方である。それをわざわざ熊本にできた設備に捨てに行くのは、気持ちのうえで免罪を求めた親のエゴではないだろうか。乳児でないと捨ててはいけないことは分かっていたであろう。それなのに三歳の子を捨てるのは、燃えるゴミの日だけど空き缶一個ぐらい混ぜてもいいだろう、というのと変わらない安直さを感じる。第一号が注目を浴びて報道されることは十分予想されるはずなのに、待ってたかのように。

 監視カメラはあるが、親の顔は映らないようになっているそうである。これは現在いろいろな局面で問題になる匿名性の問題がここにも現れている、ということであろう。匿名と無責任とは表裏一体である。第一号のような掟破りに対応できない。
 子供を育てられない事情がある親から、しかるべき施設が子供を預かって代わりに育てること自体は、よい。しかし、ちゃんと親の名前と素姓を訊いて預かるのが本当である。もちろん、安易に預かるのではなく、極力親自身が育て、それを支援する、というかたちが必要である。それには、子育て相談の窓口をさらに充実させることが正道であり、相談の結果施設が預かるという結論になっても、それはそれでよいのである。

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