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2007年8月17日 (金)

大人の顧慮をせよ

師とは過ちを犯しやすいものである。-- だが完璧さを欠いた驚異こそが、われわれを人間の尊厳へと導いてゆくのではないか
  
(四方田犬彦『先生とわたし』による)

 こういうことを書く方が大人げない、と言われるかもしれないのですが、大人の社会で生きていくことになる皆さんに。自分を守る術にもなると思いますので、誤りを恐れず敢えて書かせてもらいます。

 主にまるよしくらぶの人、まあ麺類部の人も将来に備えて参考にしつつ、自分にあてはまるところを読み取っていただければよろしい。

 会合やイベントの世話役をした経験がある人なら、すぐに分かることですが、そういうものの参加者を募るほうの立場に立ったとして、後から参加者が増えることと減ることと、どちらが迷惑に感じると思いますか。実務的な面、精神的な面、両面で考えてください。どちらも答は同じですが。
 同じことを、別の問い方をするなら、その会合やイベントへの出欠を問われたとき、100パーセントの確信がない場合、どのように返事するべきかまたはしないべきか、ということでもあります。

 経験ある人は即答でしょうね。もちろん減る方が迷惑です。これ、勘違いしている人が結構いるのですが、店への予約、会場の設営、その他、いろんな交渉ごとにおいて、人数が増える方が、減るよりも喜ばれるし、ずっと交渉しやすいものなのです。
 以前もある祝賀パーティーの幹事をした時、出席の返事をしてなかった人が当日現れて、「私は数に入ってませんので…」と遠慮して花束だけ預けて帰ろうとしたのを引き留めたことがあります。こういう人も幹事などの経験が少ないのでしょう。これは全然迷惑ではなく、ポジティブな交渉が店とできます。逆に、出席の返事をしておいて当日来ない方が困るのです。当人は「自分の分の料理は誰かが食べてくれるだろう。会費はもう払い込んであるんだしそれを返せとは言わないんだから、まあいいわ」くらいに思ってるんでしょうが。その料理を他の人に勧めたり、空席にまで料理を運ぶことを店に謝ったりするという余分な仕事を強いられるのは、主催者です。

 以上は実務的な面ですが、精神面ではもっと顕著です。
 来てもらえないと思っていた人が、急に来られることになったら、ほんとうに嬉しいものです。ある意味で、最初から来ると聞いていた場合よりも喜びが大きいかもしれません(だからと言ってわざとそんなことをしてはいけませんが)。
 逆に、来てくれると思っていたあるいは聞いていた人が、急に来られなくなったら、その落胆は言い知れぬほどのものがあります。
 主催者や幹事は、自分の呼びかけが皆に負担ではないか、皆を楽しませるイベントになっているか、常に不安を感じながら務めているものです。だから、参加者の出欠にはとてもナイーブになるものだということを、まず知っておきなさい。あんまりそういうお世話をしたことのない人は実感できないでしょうけれど、そういうものです。
 そして、幹事などでなくても、他の参加者も多かれ少なかれそういう喜びと落胆を感じるのだということも、知っておきなさい。

 ですから、最初に出欠を訊かれた段階で、行けなくなる可能性が少しでもあるのなら、「行く」とか「行けると思う」とか答えるべきではありません。「用事が入ると思うので、行けそうにありません。でも、もし時間が空けられれば行くかもしれませんので、努力はしてみます」くらいに答えなさい。
 その場は「行く」と答える方が相手(主催者・幹事)も喜ぶだろうと思って「行く」と答えるのだと思いますが、その後行けなくなった時に相手に与える落胆はその何十倍にもなります。それを考えれば、最初は慎重な答え方をするべきです。「行く」と最初に答えるのは、人の生死と自身の健康に関すること以外、万難を排してでも行くことを優先する覚悟がある時だけにしなさい。
 それが大人の智恵と配慮です。

 さて、百歩譲って、行くと答えておいてまさに止むを得ず行けなくなった時の連絡の文言にも注意が必要です。上記の落胆を少しでも和らげる配慮をしなければなりません。行けなくなった理由を書くのは最低限の礼儀です(理由なしに欠席通告をした場合、主催者・幹事側としては、「イベントそのものがよほど気に入らないのだな」、もしくは「何らかの抗議の意味がこめられているのだな、ということは何かこの人を怒らせてしまったのだな」と考えるのが普通です)。が、その理由も、何でもいいわけではなく、ありのまま書けばいいのでもありません。
 以前、約束を当日ドタキャンしたくらぶ生が、
「今日は行かないことにしました」
などとメールを送ってきて、激怒したことがあります。「行けない」ではなく「行かない」のですから、わたしなどは単なる行動選択の対象だったわけで、しかも当日その選択を捨ててもいい程度のか~るいものだったのです、わたしとの約束は。呆れて、理由くらい言いなさい、と返すと、
「彼女が帰省しているので、会うことになりました」
などと。これで怒りは倍加します。彼女の方があんたなんかより大事なんだよ、と面と向かって言っているのと同じことですから。たとえそれが率直な気持ちであっても、馬鹿正直に言っていいことと悪いことがあります。こんなことをする人に、まるよし先生を尊敬します、好きです、とか言われても、なるほどそうかと得心して喜べると思いますか? 
 嘘も方便、言葉ご馳走という言葉があるように、そういう時には、極力、相手が傷つかないような、気取られないような、後でもばれないような嘘をつくものです。ばればれのことを言うと、相手の怒数が一桁アップします(お盆の真っ最中に、レポートや実験を課す学校は日本には珍しいと思います。八百歩譲りまして、万が一仮にそういう理由が本当だとしても、そういう一般常識に反する事態については、よほど言葉を尽くしての補足説明が必要だと思います)。

 さりとて、予定が定まらないからといって、最初訊かれた時に返事をせず放置、というのも困ります。出欠を訊くのは、段取りや心準備が必要だからであって、返事がないと、どっちにも対応できるように心づもりしておかなければなりません。これはどっちになったとしても、どこか無駄が出てしまいますし、間際になってから行かないと返事された場合も、やっぱり落胆は大きくなります。
 行くか行かないか決めかねる場合は、とりあえず極力早く「行かない」と返事しなさい。後から「行く」に変わっても、迷惑はごく小さいものです。逆は多大なる迷惑です。
 それが大人の処世と礼儀なのです。

 終始、事後になってさえ何も言ってよこさないなどは、論外です。無視は最大の敵意の表現です。
 研究に勉強に仕事に忙しい人も多いでしょうが、わたしだって院生時代は高校講師・予備校教師・家庭教師・出版社バイト・学会事務・就職活動…、と何足もの草鞋を履いて目の回るような生活でしたが、メール一本返す暇がない、などということは想像できません(わたしの時代は葉書でしたが。常に葉書の二三枚を持ち歩き、移動の電車の中で書いては駅のポストに投函してました)。今、すぐに答える時間(もしくは心)の余裕がない、というのなら、「今、すぐに答える時間(もしくは心)の余裕がない」というメールを一本送りなさい。

 子供たち相手に、こんなことで苛立ってみてもしようがないですし、こういうことに苛立つのも教師の仕事のうちではありますし、まるよしくらぶ生との付き合いでは今まで何年間にもわたってこういうことに何度も何度も堪え忍んではきたんですが、わたしにも我慢の限度があります。わたしの状態に余裕がないため言わずにおれないのかもしれません。わたし自身を棚に上げての妄言お許しください。乱心と評されても致し方ないと思っています。

 どんなにいい発想や仕事をしても、ひとが耳を傾け正当に評価してくれるかどうかの最後の分かれ目は「人間」です。他人から最低限の好感・信頼・尊敬を得ることは、あなた方が考えている以上に重要なことなのです。そしてそれは、日頃の言動の一つ一つの積み重ねです。どうか精進してください。

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