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2007年8月 7日 (火)

鉄道忌避伝説 下

 『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』(青木栄一 2006 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー222)の著者、青木栄一氏によれば、前記事のような鉄道忌避運動が本当にあったかどうかは疑問だ、というのである。いったいいかなることか。

 全国で枚挙に暇のない、一見不自然な鉄道ルートも、開通当時の鉄道建設技術とルート選定の価値観に照らして検証すれば、ほとんどの場合、必然的なルートだ、と青木氏は言う。
 技術レベルが低く、全国的な鉄道網の形成を急いでいた明治期には、厄介なトンネル掘削や鉄橋架橋工事が必要ないルートが優先された。どうしても必要がある場合でもその数や長さが極力少ないルートが採られたのである。さらに、蒸気機関車の弱点である急勾配をもできるだけ避けつつ、より短距離で各地を結んでいくルートが選定される。こういう条件を満たすルートはそうそうあるものではなく、それほど選択の余地はなかったのである。市街の中心を突っ切るのは用地買収も困難で高価につくので、鉄道は市街を避けるのがむしろ自然でもあった。
 丸岡にしても、福井から嶺北北部の平野部をまっすぐ北に向かって石川県境の峠にかかるルートは自然である。丸岡市街から牛ノ谷峠に直接登ろうとすると勾配が急であるから、金津側から廻り込む方がよいし、かといって丸岡市街から金津へと廻るのはジグザクの迂回になる。旅客営業の利点からすると、丸岡を外さない方が集客にはよかったのだろうが、当時の国有鉄道敷設にその発想はなかっただろう。古くからの鉄道は基本的に、貨物輸送のために敷かれている。
 鯖江の場合は、北陸街道は日野川畔の台地上を通っていたわけで、駅を街に接した位置にするというだけの目的で、わざわざ勾配を設けて台地に登るということは、当時としては考えられないことであった。そこに後年福武電気鉄道(現・福井鉄道福武線)が割り込む余地があったことになる。電気鉄道なら比較的勾配に強いから、鯖江の中心部に入ってこられた。

 これらの鉄道忌避運動は、それが存在したという一次史料が発見されていないものがほとんどだ、と青木氏は指摘する。署名・檄文・趣意書など、市民運動に不可欠の文書類が残されておらず、また当時の新聞記事を検索しても、そのような運動がとり上げられたものはほとんど見あたらないそうである。
 また、よしんばそのような運動があったとしても、富国強兵の国策に沿って帝国が進めていた鉄道敷設事業である。地域住民が意見を陳情したところで、国がそれに耳を傾けてルートを再考したとは考えにくい、との考察も肯かされる。わたしたちは、しらずしらず戦後の市民運動の感覚で鉄道忌避伝説を疑いなく捉えてしまっていたのかもしれない。確かに、当時の役所は現在よりずっと威圧的だったろうし、現代からみれば驚異的とも言える鉄道延伸のペースを考えれば、いちいち各地域で住民と対話する時間的余裕もなかっただろう。

 むしろ、明治後期から大正期には、積極的に鉄道を誘致しようという運動が各地で盛んに行われたのであり、その史料は多数残っているという。

 残念ながら、それではなぜ教科書に載せられるまでに鉄道忌避伝説が定着したか、という部分については青木氏も明確な説を示していない。
 恐らく、不自然な事態を目にしたとき、わたしたちが性急に分かりやすい理由を求める悪弊が根底にあるのだろう。鉄道駅が遠くて不便を強いられている住民が納得または諦観に至る理由として、国の都合で勝手にルートが選定された、というよりも、鉄道忌避伝説を語る方がドラマチックなのだろう。国の方針に楯突いて矜持を貫いたカッコよさを称賛するにせよ、鉄道の真価を理解せぬ頓珍漢な運動を笑うにせよ、祖先の所為にしておくのは、心地よい落としどころなのだ。

 ともかく、わたしも鉄道忌避伝説を史実と誤解していたクチであるから、他のことでもこういう安易な説明に安住しないよう、自戒したいと思う。
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