« どこから送る仮名 上 | トップページ | どこから送る仮名 中 »

2007年10月15日 (月)

教師の引き際

 どうも、このところミスが続いている。病気のせい、薬のせい、歳のせい、といろいろ要因はあるのだろうが。
 以前には考えられなかったミスや、絶対にやってはならないミスである。教師としてのわたしも、寿命が近づいているのかもしれない。

 学生が後ろのドアを閉めに行ったのを、無断外出と誤認して叱りつける。
 もうこれの気まずさといったらなかった。直ちに三階の窓から外へ出たくなったほどだが、試験の答え合わせがあと二問残っていたので、止めた。

 試験の出題ミス。これは初めてではないが、書き下し文にせよ、という設問にしている箇所の漢文の返り点を一つ抜かしていて(パソコンで訓点を入力するのは至難の技なので、訓点だけは手書きで後から書き込むのだ)、書き下し不能の文を印刷してしまった。再読文字に返り点を付け忘れたため、再読できなくなったのである。これまでのミスは、設問に関係ないどうでもいいような場所ばかりだったが、今回ばかりは困った。
 というのも、勤務校では、試験時間の半分になったら、退室していいことになっている。従って、問題の訂正などは前半までに行わねばならない。ところが、五学科同時試験であるので、五教室を回らねばならないが、よりによって同学年の教室が1~4階に散らばっているのである。そして、出題ミスは最後の教室で学生からの質問によって気づいたのである。最後の教室に入った時には既に試験時間の半分になっていて、退室した学生がいた。
 しかたがないので、この設問は全員正解扱いとしたが、これは逆にそこに関して勉強した学生に対して不公平になってしまっている。こういうことはあってはならない。入試なら新聞ネタである。
 学生は大したもので、再読文字と見れば、当然そこに返り点があるものと思い込んで、ちゃんと書き下し文を書いているものがかなりたくさんいる。一種の錯視であろうか。

 その他にも、小テストの試験範囲の理解が学生と食い違っていた、というケースもあった。こちらの伝達のしかたがまずかったようだ。結果はわたしが正しかったのであるが、明確でなかったのだろう。こういうトラブルも学生の努力を正当に評価できないので、あってはならないことだ。

 前期成績は既に提出したが、どこかで大変な間違いをしていないか、学生の人生を台無しにしていないか、心配でしようがない。
 今回の授業アンケートでは、多分初めてだが、授業が面白くない、と書かれた。どこかのテレビ局ではないが、面白くなきゃ授業じゃない、と教育実習指導教官の影響もあって思い続けていたわたしにとっては、屈辱的なことである。板書の読みやすさもわたしの授業の身上であったのに、それが見にくい、という指摘も増えてきた。

 アミーチスの『クオーレ』には、主人公の少年エンリーコが、父と共に父の恩師クロゼッティ先生を訪ねるくだりがある。八十四歳のクロゼッティ先生は、小学校教師として六十年間教育に貢献したことを表彰され、それが新聞に載ったためにお祝いに駆けつけたのである。八十を過ぎても教壇に立ち続けた先生も、現在は悠々自適なのだが、先生が引退を決意したのは、手のふるえが始まったからである。

「これが、悪いしるしです。三年まえ、まだ学校で教えていたときに、これが起こりました。(中略) ああ! あの日、わたしが初めて、ひとりの生徒のノートにしみをつけてしまったときは、ほんとうに、胸をひと突きやられたような思いでしたよ。…(後略)」
(『クオーレ』 1971初版 アミーチス 柴田治三郎・訳 旺文社文庫)

 子供の頃にこの本を読んで、その後ずっとこの言葉が心に残っていた。生徒のノートにインクのしみをつけたことで、先生は職を退いたのだ。教師という仕事には、こういう覚悟が必要なのだなあ、といつもこの言葉を思い出しては自分を戒めていた。それなのに、わたしは今、何をやっているのだろうか。
 今、クロゼッティ先生の潔さをもてずにいる自分が歯痒い。教師という、国を支える大切な職業に、わたしのような者がいつまでもしがみついていていいのだろうか。答のなかなか出ない自問に悶えている。

|

« どこから送る仮名 上 | トップページ | どこから送る仮名 中 »

6.1  教師業」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/16582133

この記事へのトラックバック一覧です: 教師の引き際:

« どこから送る仮名 上 | トップページ | どこから送る仮名 中 »