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2008年5月24日 (土)

プレゼンテーションソフト不要論

 先日、トヨタの渡辺捷昭社長が、決算報告で、社内でのプレゼンテーション用ソフト(まあ、商品名を出して不要などというのも失礼なので、こう書いておくが、渡辺氏はもちろん商品名で言っている。皆さんもお察しのとおり)の使用は控えた方がいい、と発言したそうである。もちろんコメントの中でついでのように例を挙げただけであり、「禁止令」というほどのものではないのだが、公式の場での社長の発言だけに影響力は大きく、同社内で同ソフトの使用自粛ムードが広がりつつある、と報じられた。
 トヨタほどの企業のトップが発言したのだから、他社、ひいてはわが国のプレゼンテーション全般への波及効果もありそうだ。

 これは、大変結構なことである。

 決算報告での発言だから、当然渡辺氏の真意はコストカットにあるのだが、わたしはむしろ、プレゼンテーションソフトの利便性そのものをほんとうに皆感じているのか? という疑問をかねてから抱いているため、共感をおぼえたのだ。

 というのも、わたしがプレゼンテーションを聴いて、スクリーンに映し出されるプレゼンテーションソフトの画面のおかげで、理解が助けられた、という経験が皆無だからである。むしろ阻害されることが多い。
 スクリーンを指しながら説明されると、どうしてもスクリーンを見なければならない。首を上げなければならない。しんどい。
 そして、画面には、ごちゃごちゃと細かい図や字が書いてあって、よく読めなくて苛々したりする。多くの発表者が見る人のことを考えずに作っているのである。ちゃんと書いておきましたよ、というアリバイを作れればいいのだろう。
 もっとも、発表者を責めるのは酷な面もある。どのような広さと形状の会場で、どのような大きさのスクリーンか、ということが、当日現場に行ってみて初めて分かることも少なくないからだ。少なくとも資料を作りはじめる段階で分かっていることは稀であろう。
 そうは言っても、相手意識が稀薄で、自分だけ納得できればいいと思って作っているような画面が少なくないのも実感だし、聴いて分かりにくいことに変わりはない。

 そのようにして見にくくなる事態を避けるため、プレゼンテーションソフトの各画面を紙に並べて印刷したものを、レジュメとして配布することも多い。
 が、これこそナンセンスの極みである。聴衆がすぐに見られる手許にそれがあるのなら、わざわざ見にくいスクリーンに画面を映す必要がないのだ。そして、どうせ紙を配るなら、画面を点々と並べたものでなく、従来どおりのレジュメ、つまり論理的な章立てをして発表全体を要約してあるものにしたほうが、よほど聴衆の理解を助ける。環境負荷の観点からも、森林資源の節約になっておらず、無意味だ。同ソフトの画面を並べたレジュメは、なぜか無駄なスペースが多く、情報量の割に紙がたくさん要るし、パソコンを動かして画面を映写する電気エネルギーが余分にかかるだけだ。
 されば、とばかり、画面には思い切り大きな字で特に重要なキーワードだけをぽんぽんぽんと映し出す流儀もある。が、それだってレジュメの中で太字にでもしておけば分かることであるし、レジュメならもっと詳しい情報を盛り込めるのだから、いよいよ画面に映す必要がない。
 聴いていて何より苛立つのは、スクリーンの画面が、発表者のペースでどんどん切り換えられていくことである。その画面、そのキーワード、その図表をもう少し見ながら考えに耽りたい、そのためには次の説明をちょっと聞き流してもいい、と思う時もある。どこに興味をもって立ち止まりたいと思うかは、人によって違うのだし、それくらいは聴衆の裁量範囲だと思う。が、プレゼンテーションソフトによる発表は、それをさせてくれない。発表者の独裁を許してしまうのである。レジュメが配られている場合は、そっちを見ればいいようなものだが、そこはよくしたもの、発表中は照明を落とされているのである。薄明かりで読めることもあるが、目を悪くする。
 そしてこの発表法は、発表者の論理的ごまかしをも容易にする危険を孕む。自信のない部分はささっと流してどんどん画面を切り換えていけばいいのだ。あるいは、画面効果や装飾で目眩ましをかましてもよい。その辺は発表者の良心に任されているが、簡単にそれができるような状態での発表には、妥当な評価を施すことができない。発表の全貌を発表者と聴衆との間で通時的に共有してこそ、トータルに公正な評価がなし得る。

 発表者の立場としても、プレゼンテーションソフトがあるばかりに、余計な手間が必要である。従前はレジュメと読み上げ原稿だけ用意すれば発表できたものが、画面まで作らなければならないのである。
 発表者が、パソコンのセッティングとか、事前のリハーサルとか、補助役との打ち合わせとか、要らぬところに神経を使わねばならないのは、学術的な損失である。発表者は、貴重な文化財産となり得る発表内容そのもの以外に対する精神的負担を、極力避けるべきである。発表自体にこそ集中するべきであるし、そうさせる環境を周囲が整えるべきである。プレゼンテーションソフトはそれとは逆の方向を向いた、すなわち文化の発展を阻害するアイテムである。
 質問の時間になると、会場の照明が入るが、質問内容によっては再び画面を映す必要が出て、発表者や補助者があたふたとパソコンを操作し、また照明が落とされたりする。照ったり曇ったり、落ち着かないことこのうえないし、ここでも発表者は質問内容に集中できず、別の神経を使っていることになる。紙のレジュメなら、「○○ページにお戻りください」で終わりである。

 誤解なきよう断っておくが、プレゼンテーションソフトも、ある種のプレゼンテーションにおいては有効に使い得る。例えば、動画を映写しなければならないような発表、または新情報をその場で初めて世間に出すような、企業の戦略的な新製品お披露目、といったプレゼンテーションである。
 むしろ、そのように用途を限定するべき道具なのであって、プレゼンテーションと言えばその性質を考えもせずに同ソフトを出してくる安直さ、発想の貧困さは、学問に携わる者に相応しくない。

 わたしは、その種のソフトを使ったことがない。頑迷に従前の方法に拘泥するわけでも、食わず嫌いしているわけでも、ましてパソコンアレルギーでもない(こんなブログをやってるほどだし)。上にみてきたようなこといろいろを顧慮し、聴衆に最も分かりやすいかたちで発表をしたい、と虚心に考えるとき、プレゼンテーションソフトの使用が選択肢にあがってこないのである。
 分かりやすく(教育関係者限定だが)問えば、「授業」と「講義」とでは、特定多数に対する談話による説明の技術として、どちらが高度か。言うまでもなく「授業」である。「講義」にプレゼンテーションソフトを使う教師はいるだろうが、「授業」にこれを使うことは、考えにくいであろう。プレゼンテーションも、「講義」的であるよりは「授業」的である方が質の高いものになるのは理の当然である。

 このように不便で損失の大きいプレゼンテーションソフトであるのに、理工系では、プレゼンテーションというとこの種のソフトを使うもの、という観念がほぼ定着しきっている。わたしの所属校も例外ではない。指導にあたる教員たちも、研究者でありながら、なぜこの画一的な発表法に誰も疑問をもたず唯々諾々と従うのか、不思議である。
 何より問題なのは、低学年の授業からプレゼンテーションソフトを使った研究(実験)報告をさせていることである。
 これは、譬えて言えば、書写の基本をやらずにいきなりワープロで文章を書かせる、あるいは、九九を覚えたり方程式の解き方を習うことなく電卓の使い方だけを教えこむ、ということに等しい。よしんば、プレゼンテーションソフトが非常に便利なものである、という(架空の)仮定に立つとしても、それが何を人の代わりにやってくれている道具なのか、を身をもって学ぶ過程がなければ、道具使って魂入れず、の状態に陥ってしまう。
 低学年の実験報告は、まず紙のレジュメと自分の言葉でさせるべきである。

 わたしは、所属校で同じ学科の夏季実習報告を三回聴いた。平成9年・17年・19年の三回である。最初の一回は紙のレジュメに添った口頭説明であった。後ろの二回は言うまでもなくプレゼンテーションソフトを使っていた。
 後者は、皆とてもよくまとまり、そつがなかった。プレゼンテーションとしての点数も後者が高いのであろう。しかし、誰が何を話したか、あんまり覚えていない。学生の個性が大きく前面に出、一人一人の発表がとても印象に残ったのは前者である。幾人かの発表は今でもその声色や中身(ジョーク・エピソードなど)を覚えている。
 規格化に向かうのは理工系の性癖なのだろうが、プレゼンテーションをプレゼンテーションソフトの枠にはめて学生の個性を殺すのは、創造性や発想力、そして言語コミュニケーション能力を掲げる所属校の教育方針と矛盾している。

 今回の渡辺氏のコメントが、わが国の「発表」文化がまともな地点に立ち戻るきっかけとなることを強く期待したい。言葉の力で聴衆に理解させるという、「発表」の原点に回帰し、プレゼンテーションすなわちパワーポイント、という権威主義的な思考停止はいい加減にするべきである。

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