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2008年6月 5日 (木)

学校ディベートには肯否半ば

 所属校では、恒例の行事として、弁論大会を毎年10月に行っている。

 今どき弁論大会をやっている高専も少ないようである。これは日本語コミュニケーション能力を高める機会として、特に専攻科に国語関係の授業がない所属校としては貴重な機会である(もっとも、専攻科生がこの行事に積極的に参加するというわけではないが)。
 現在の弁論大会は、ディベートの試合を五試合行う、という形式になっている。ディベートについては国語の教科書にも載っているから、国語の教科内容であろうし、行事を盛り上げる意味で、わたしは弁論大会を自分の授業に採りこんでいる。

 ただ、ホンネを言えば、ディベートを授業に組み込むのは、あまり気が進まないことも事実なのだ。

 というのは、ディベートというのが安易に議論の勝ち負けを決めてしまうものだからである。一種のスポーツの感覚で一種の虚構上の勝ち負けであり、あとは恨みっこなし、ということではあるのだが、ではスポーツの勝ち負けが恨みっこなしでほんとうに終わっているか、というとそうではない。実際には勝った者が強権を誇るし、勝った者にばかり人は注目するのである。
 プロの世界ならそれもいいだろうが、以前の記事でも触れたように、学校で強制的に習わせる内容に、勝ち負けの概念を持ち込むこと一切にわたしは反対だ。そんなことを言ったら、体育の球技もできないではないか、と言う方があるだろうが、そのとおり、球技は学校の体育の授業からは外すべきだとわたしは考えている(クラブ活動でやりたい者が集まってやるのはまあいいだろう)。これはこれでまた別の議論になるので、話をディベートに戻す。

 基本的にはそのように反対はしているものの、やらねばしかたない事情もある。
 現実に国語の教科内容であるディベートが校内で行われる以上、国語科の教員として知らん顔はできない、という事情である。それなら、弁論大会をディベートでない形式にすればいいのだが、それも難しい。
 ずっと以前は、ごく普通の弁論、つまり、一人の弁士が壇上に立って一定時間弁じる、という形をとっていたのである。しかしこれが成立しなくなった。一つには、それだけの弁論能力をもった弁士を学生から輩出できなくなったことである。いま一つは、ひとがただ話しているのをじっと聴く、という力も学生になくなってきたことである。この二つは表裏をなしている。
 代々の文化委員長(弁論大会は学生会文化委員会が主催)は、弁論テーマを絞る、一人あたりの弁論時間を短くして弁士を増やす、教官に弁士をしてもらう、弁論のあと全体討議をする、などいろいろな工夫を重ねたが、万策尽きて行き詰まった。そこで頼ったのがディベートという形式だった。
 議論に勝ち負けを決めるのは確かに安易なのであるが、聴いているものにとってはスリリングで分かりやすい。そして、クラスからチームを出して、それが勝つようにバックアップする、というかたちで、全員の参加意識が得られる、というメリットがあるので、この形式でやるのが現在のところベスト、というか、他の方法をわたしも含めて思いつかないのである。

 藤原正彦氏は、ディベートに懐疑的である。ことばとは、自分の信念に基づいて腹の底から発するものであって、その場で決められた立場で心にもないことを主張する、というゲームは、まさに品格に欠ける、ということだろう(もっとも藤原氏も、ある程度論理力が育ってからの段階でディベートを採り入れた教育をすることまでは否定していないようである)。
 このことには、わたしも全く同意する。
 しかし、それは藤原氏という高名かつ一流の学者、つまり言いたいことを言える地位にある人だから言えることなのかもしれない。多くの学生は将来組織の中で生きていかねばならない。

 組織に属する、ということは、組織上の立場に即して自分の考えと異なることを主張しなければならない機会も多い、ということである。現にわたしは、ディベートが望ましいとは思わないのに、弁論大会を廃止するべきだ、と主張する教員や学生と議論して論破したことがある(メタディベートですな…笑)。ディベートであれ何であれ、唯一の文化的(文科系)行事がなくなるよりは存続させる方がましだ、と考えるからである。理想の状態が実現不可能である状況では、現実の選択肢から次善を選択するしかないのだ(この種の行事を潰すのは簡単だが、やっぱり必要だった、と思っても、復活させるのは極めて困難である。安易に廃止するべきではない)。
 その他にも同様の経験はいくらでもある。所属する教室を代表し委員として出ている委員会で、ある件を審議する。そこでわたしが原案に強硬に反対する。教室の、あるいは多くの教員の不利益につながることが分かるような場合である。しかし、審議の結果原案のまま可決されることもある。その件を教室に持ちかえったり教員全体の議論の場に持ち出したりして報告・討議する時、今度はわたしは提案者として、自分の考えと正反対のその原案について、その妥当性を説明・主張し、反対者の説得をもしなければならない。当然、そういう案ほど反対者は多い。激しい反撥に遭うこともある。わたし個人は反対者に全く賛成であっても、同様の激しさで反反論をすることになる。精神的にもきつい。が、これが組織というものである。
 または、自分の主義主張と合致しない仕事を割り当てられることもある。そういう時は、自分を何とかして納得させる理屈を編み出さねばならない。そういうことをするには、思考訓練をしておかねばならない。
 例えばわたしの場合で言えば、体育部の指導教員はしていないものの、所属校が大会の主催校になるような場合、その運営を手伝いに行かねばならない。どの種目を手伝うことになるかは、機械的に割り振られるので、意に添わぬ種目になる場合もある。わたしは先に書いたような理由で、球技、とりわけ、「相手がミスすることによって点が入る球技」が大嫌いであり、教育の場から追放するべきだ、と考えている。が、そういう種目に当たることもあるわけである。そう言う場合、ネガティブな気持ちで学生を指導するわけにはいかないので、どうにかこうにか大会の意義をひねり出してくることになる。もちろん、わたしにとっての弁論大会も同じである。
 だから、ディベートというのも、社会人の素養の訓練になるかもしれない、と苦しいがそういう理屈も成り立つ。

 かくして、弁論大会は存続するべきであり、存続するためにはディベート形式をとらざるを得ないので、高専教員としてはディベート指導に力をそそがねばならない。が、国語教育の研究者としては、学校教育にディベートを導入するべきではない、と確信している。こうした肯定と否定がねじれる狭間で窮屈にディベートとつきあっている。

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 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

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