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2008年8月 5日 (火)

教員採用の奇怪

 大分県に端を発する、教員採用汚職で、またぞろ学校教育界への風当たりが強くなってきた。高等教育機関に所属するとはいえ、学校教育に縁浅からぬ身としては、心痛む。どんな社会問題でもそうだろうが、まずいことをやっているのは一握りの人で、ほとんどは真面目に仕事をしているのだ。

 現在出ている問題については、二つのことが課題となる。

 一つは、大本である教員採用のあり方をどうするか、という点。いま一つは、現職にある(不正に合格したかもしれない)教師をどう扱うか、という点である。

 前者については、わたしもある県の教員採用試験(高校国語)を受験したことがあり、その時の個別的な経験でしかないが、なかなか面接で人を選ぶのは難しい、と感じた。
 その県の試験は、一次試験が学科試験のみで、一般教養・教職教養(教職に必要な心理学・教育哲学などの学問や、教育史・教育法規関連の知識)・志望する教科に関する専門知識を問うものの三教科を受ける。で、二次試験が面接オンリーなのである。
 これはどうも、受ける側からすると、いやなものである。一次で落ちるのはまだしも、二次で落とされた場合、「お前の人間性が要らない」と言われているようなものだからである。民間企業でも、就職試験となればそうなるのかもしれないが、教師というのは特に人間性を資質として求められる職業であり、それを普段から磨いてきたわけだから、落ちたときのダメージが大きそうだ。

 で、わたしは幸か不幸か、一次試験にパスしてしまった。やれやれと思いながら、面接をクリアしないと合格できないのだから、やむなく面接に臨んだ。一次試験合格通知から面接の日まで、いったい何を準備すればいいのかも分からないから、針の筵の気分であった。
 案の定、面接は極めて不愉快な経験となった。

 五人の受験生が一度に五人の面接官の面接を受けるのだが、五人のなかでは、明らかにわたしが最年少であった(わたしは一浪して大学に入り、院の新卒であったにも関わらず)。そういうわけで、最初から、「見てのとおり前がつかえてるんで、あんたは暫く非常勤でもやってね」という暗黙のメッセージがわたしに突き刺さってきた。
 わたしが指定された椅子も一番端の下座であったし、年かさの人にほど、訊かれてぐっと詰まりどうかすると涙ぐむような突っ込んだ質問をするのに対し、わたしには表面的な、というか、非常に馬鹿げた質問しかしないのであった。

 わたしにされた質問の一つ。
「日の丸についてどう思いますか」
というものだった。
「世界に類をみないシンプルなデザインで、三歳の子供にも書ける国旗というのは、すばらしいと思います」
と答えたら、
「時間がないので、真面目に答えてください」
と叱られた。わたしの答のどこが不真面目だと言うのか。真面目にやるべきは、面接官であろう。それはわたしも面接官の本当に訊きたいことくらい察しはつく。それなら、
「学校のセレモニーで日の丸を掲揚することの是非について、あなたの考えを聞かせてください」
とでも問えばいいのだ。わたしは国語の教師を志していたのである。言葉の正確な表現にこだわるのは当然だろう。ダウンタウンの漫才にあったクイズネタ、「織田信長は、何でしょう?」という問題を思い出す。

 さらに一つ質問。
「あなたの授業中に、突然教室を出て行った生徒がいたとしたら、あなたはどうしますか?」
これでは情報が少なすぎる。だから、わたしは訊き返した。
「その生徒が出て行くのはその時が初めてなんですか? それともそれまでに何度も出て行ったことがあるんですか?」
すると敵は、
「そちらから質問はせず、こちらの質問に答えてください」
と言う。わたしは構わず、
「その生徒に何か精神的な病のようなものがあるのだとすれば…」
と言いかけたが、
「簡潔に答えてください。時間が限られていますので」
と言われた。
 アホか。いくらわたしが新卒でも、こんな問いに即答できるようでは教師失格であることくらいは分かる。
 そのクラスはわたしが担任するクラスなのか、そうでないのか。その生徒の家庭状況・交友関係はどうなのか。クラス内での位置づけは。そして、そもそも男子なのか女子なのか。男子なら追いかけて後ろから羽交い締めにしてもいいだろうが、女子なら問題だろう。教師はそういういろいろなことを瞬時に判断して適切な対応を決めるものだ。もちろん、クラスの他の生徒に動揺を与えない配慮も必要だ。
 わたしは、
「答えられません」
と答えた。
「結構です」
と他の受験生への問いに移った。
 そんな、どうせ一言での答を求めるのなら、五つくらい選択肢を提示して選ばせてほしかった(ついでに、「この質問は、あなたの恋愛観をあらわしています」というような種明かしも後でして欲しかった)。と言うより、それなら面接をする必要がない。マークシートで答えさせろ。

 面接室には、黒板も用意されている。面接のなかでは五分程度の模擬授業も課されるのである。いかなる単元の授業をさせられるかは、指名される瞬間まで分からない。他の受験生が、「小説の読解」・「慣用句」などの単元を与えられて、授業をしていく。「比喩」という単元が当たった受験生は、「喩」の字の「く」を三つも書いている。緊張しておられるんだなあ、と同情。わたしは最後の番で、他の受験生の席の後ろを通って黒板に向かおうとした。すると、
「わざわざそんな狭い所を通らなくても、真ん中を通ってください」
と言われた。確かに他の受験生は、真ん中、つまり受験生と面接官が向かい合っているまさにその間を通っていたが、他人の坐っている前を横切るのは失礼だと思ったのである。教師の世界の常識は世間の非常識、ということなのか。
 黒板の前に立ったわたしに、面接官は言った。
「では、作文の授業をしてください」
あほー! 原稿用紙出して、今日のテーマは○○、はい、書いて。で終わってしまうではないか。どうやって五分もたせるのだ。こんなもん、わたしが棄て牌と言ってるようなもんではないか。
 とは言え、実はわたしはたまたま非常勤に行っていた高校で「国語表現」を担当していたので、作文の授業はお手のものだった。それでゆうゆう五分喋ったのであるが、どんな評価だったかは分からない。それにしても、このお題は、他の人だったら途方に暮れたのではないか。高校での作文指導は今ほど盛んでない時代であった。

 とにかくそんな面接が続く。どういう流れか忘れたが、
「あなたはその方法でやっていける自信がありますか?」
と訊かれた。
「ある程度あります」
と答えると、
「ある程度、ではなくて絶対の自信は持てないんですか?」
と言う。
 非常勤で経験しているとはいえ、いや、経験しているからこそ、人間相手の仕事に絶対などあり得ない、と分かる。なんたる愚問か。わたしは、口の端を歪めてぷっ、と嘲笑した。あほらしくて答える気がしなかった。
「結構です」
で終わった。

 というわけで、当然ながら落ちた(笑)。競争率の高い試験だから、怒らせて受ける気を無くさせ、来年以降の倍率を落とそう、という敵の作戦だったとすれば、わたしの完敗だ。
 まあ、あの時受かっていたら、現任校のような無茶苦茶おもろい学校の教員にはならなかったかもしれず、塞翁が馬ではあるのだが。
 それにしても、その頃大学の同級生や先輩後輩をみても、この人は教師になるために生まれてきたような人だ、学校という場に似合っている、と思うような人に限って、何度受けても採用試験に通らない、という印象があった。教育委員会はどこを見ておるのか、と思っていたが、自分が受けてみて、この面接では資質は見定められんだろうなあ、と変に納得した。

 これは十数年も前の話だから、現在は面接技術がもっと改良されているかもしれず、無責任なことは言えないけれど、面接で評価する、というのはいずれにしても基準のぶれが避けられないのではないか。そして、そこに情実が入る余地が出てくるのだ。
 どうせなら、教員採用面接は個々の学校の校長と現役教師が行ってはどうか。初任校は受験生が自分で選んで受けに行くのだ。その方が、自分たちと一緒に仕事をしていけるか、というまだしも明確さのある基準で選べる。

 さて、大分県で現職にある教師だが、ずっと前からこのようなことが行われていたとすれば、データの残っている最近数年間の不正採用教師だけを馘首するのは、不公平である。また、いかに不正に採用されたとはいえ、正式に県の職員であるものを、県側の都合で解雇するのはいかがなものかと思う。ただでさえ世間に批判されがちな過酷な現場にあって、自らの去就までを心配しながら教壇に立つなど、負担が大きすぎる。
 採用試験というのは、何人採用する、という予定の枠があって、その人数だけを選別するためにやっているのである。たまたまその年の合否ラインを下回ったからといって、それが直ちに教師としての資質や能力に欠けている、ということにはならない。現に、教員採用試験に不合格だった者は、軒並み非常勤講師として教壇に立っている。
 そして何よりも、自分の恩師が不適格教師の烙印を捺されることは、子どもたちにとって不幸なことである。教師というのは、子どもたちのアイドルであり、カリスマであるべきである。そういう不幸はなるべく避けるべきだ。

 そこで提案だが、不正採用された教師については、特別に来年度に向けた採用試験を実施してはどうだろうか。その採用試験の合否には、これまでの学校現場での実績も加味することとする。要するに、形式的に学科試験や面接はするが、現場でよほどの問題がない者は合格させる、という前提で試験をするのだ。そのうえで一旦今年度限りで退職してもらい、来年度初頭から改めて採用する。それが穏当なやり方だろう。実績については、子どもたちの授業評価や、同僚・上司教員の評価も点数に入れればよい。
 不正採用のあおりで実際は合格するはずが不合格になった人の追加採用は、当然やればよい。教員数がだぶつくだろうが、これは当面ティームティーチングやスクールカウンセリングなどに人を割いていき、何年もかけて人数を適正化するしかないだろう。責任ある立場の人に対する社会的制裁も、もちろん必要である。

 とにかくわたしが恐れるのは、こうした教員採用の闇の部分に嫌気がさし、教育の理想に燃えた若い学生たちの心が、教員志望から遠のくことである。ここに記したような、納得のいく収束のしかたをみせるとともに、教員採用のテクニック向上を急ぐべきである。 

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