« 教員からみた50分授業 | トップページ | サッコでもピカソ »

2008年10月13日 (月)

「当事者」重視の罠

 「当事者」の発言を聞くことは、参考にはなる。
 しかし、当事者の発言がものごとの決定に直接影響するようなシステムをとるのは危険である。当事者はことの全体像がえてして見えていないからである。
 殊に、わが国では、情に訴えると強い、という風潮が根強くあるから、当事者が、当事者しか分からない心情を述べると、そこにぐっと結論が引き寄せられがちになる。それが危険なのである。

 公判が進行している事件に関して、被害者本人またはその家族(遺族)が被告人やその弁護団・あるいは裁判自体に対する批判を公のメディア上で展開する、というケースがままある。これはルール違反ではないのか、という疑問を拭えない。
 もちろん、犯罪被害者には言っても言い切れない思いというものはあるだろう。しかし、被害者本人の言説により、世論が影響され、それによって裁判が左右されることは、あってはならない。裁判とは、その犯罪が本当に行われたのかどうか、あるいは、犯罪と呼ぶべき事態なのかどうかを論理的に判断するものだからである。厳密に言えば、裁判が完結するまでは、「犯罪被害者」であるかどうかさえ確定しないのである。その意味で、被害者が「被害者」の立場で発言する、というのは非常に危険なことである。
 犯罪によって突然家族が奪われるのは、確かに理不尽な経験である。何かを表現したい気持ちはよく分かる。ただ、理不尽な挫折や屈辱は、世間一般ではそんなに珍しいことではないわけで、言うに言えない気持ちを抱えて生きなければならない人は数多い。。
 家族を失ったことによって、裁判を通じての戦いを、生きる張りにせざるを得ないことも分かる。その点は同情するけれど、メディアに直接発言するとなると、随分影響力の大きい「張り」だ。テレビの側も、当事者の声は生々しくてインパクトがあるので、流してしまうけれど、法治国家の倫理として、これは好ましいことなのだろうか。
 裁判が結審してから総括として意見を述べるのならまだ分かるのだが、公判中に公判自体を云々することには、わたしは違和感がある。公判の進行中、特に法廷で発言する立場の人は、法廷外で公判の内容について公に発言することを禁じるべきではないのか。わたしはその辺の法律的なことはよく分からないでいるのだが。

 すっかり「代理出産推進タレント」というキャラが定着してしまった向井亜紀氏。
 代理出産を禁じる法律を提案しようとしている学術会議に対して、「人の夢を摘む根拠を示してほしい」と批判的な発言をした。
 心情的には向井氏に同情はできる。しかし、学術会議はさまざまな要素を勘案して提案しているのだし、当然根拠に基づく考察をしている。夢を理不尽に摘まれることもまた、世の中では特に珍しいことではなく、いちいち根拠など公的に示されない、示しようのないことの方が多いだろう(本人に才能がない、環境が整わない、他人に悪意なく妨害される、など)。子供が欲しいのに授からない、産めない、という人に光明をもたらすような方法を開発する努力は続けるべきだし、続けられているであろう。ただ、現時点で、それが日本の倫理観や世論を納得させるだけの方法となり得ていない、というだけのことである。
 経験者である向井氏の思いは、参考にはなるけれど、向井氏の発言自身がこの件の判断に直接影響するべきではない。ただ、より有効にして理解を得られ易い方策の研究を促進する原動力とはするべきであろう。

 先週末に福井テレビで放送された、中心市街地の交通に関する討論に出席した、駅前商店街の代表。
 この討論の焦点は、福井鉄道の通称ヒゲ線(駅前商店街を通っている)をどうするか。そのまま駅前商店街を通すか、広い駅前大通りに移設するか、という点になった。出席者は、駅前商店街の代表・中心市街地活性化に取り組むNPOの代表・路面電車研究団体の代表・県会議員の四人だった。
 この人選からしてわたしはおかしいと思うわけである。駅前商店街の代表は、「当事者」として呼ばれているわけだが、ヒゲ線に関する当事者は駅前商店街だけではない。同線の利用者、そして福井鉄道も当事者だし、駅前大通りに移設するとすれば、大通り沿いに存在する店や、その地権者もまた当事者であり得る。ヒゲ線を駅前広場に入れることが前提だから、JR西日本も当事者だ。そして、当事者間で利害は対立する。そのうちの一人だけを呼んでもいいのか。 全ての当事者を招くことなど不可能なわけで、この駅前商店街氏を討論のテーブルに着かせるべきではなかった、とわたしは思う。参考に「声」を聞くくらいならいいが。
 案の定、駅前商店街氏は、駅前大通りへの移設を主張したが、この商店街は、十七年前に、ヒゲ線撤去を要望している。その後、LRT見なおしの風潮などにより、撤去は沙汰止みとなったが、駅前商店街としては、撤去でも移設でもいいから、とにかく商店街から電車がいなくなってくれればいい、という本音が丸出しであった。
 電車が通ることによって駅前商店街が寂れる、とし、その事例として広島駅近くの閑散とした電車道の写真を出したりする。しかし、広島の中心街は広島駅付近ではないし、その写真の区間は、広島駅前広場に軌道が回り込むために、裏通りを迂回している箇所であった。
 また、駅前商店街をトランジットモール化して高齢者も安心して散策できる空間にしたい、と言う。しかし、トランジットモールというのは、歩行者と公共交通とが共存する空間のことであり、歩行者だけにするのはただの歩行者天国だ。それを指摘されると、歩行者が排気ガスや交通事故から解放されることが大事だ、と言う。電車は排気ガスは出さないだろう(もっと言えば、クルマだって今後ずっと排気ガスを出しつづけるわけではないだろう)。高齢者の大切な足であるタクシーや路線バスはどうするのか、と訊かれると、それらのクルマだけは通す、と言う。
 路面電車研究団体が、電車と連携することで市街中心のデパートの売上が飛躍的に伸びた熊本の実験事例を示すと、熊本とは都市規模が違う、と言う。それを言うなら広島はもっと違うのだが。もうめちゃくちゃである。
 果ては、駅前商店街の軌道を残すべきだと主張する路面電車研究団体や県会議員に対して、「人の痛みが分からない趣味的な意見」と失礼な批判をする。駅前商店街に来る客の多くは自家用車利用であり、それに次いで路線バスとなっている。電車はごく僅かだ。だから電車は要らない、という単純な理屈でしかないのだ。電車は商店街のために走っているのではなかろうに。
 番組の最後で、県会議員が、那覇のモノレールのルートを市民投票で決めた事例を挙げ、利用者にアンケートをとって駅前商店街を電車が通った方がいい、という結果になったらどうするのか、と迫ると、それならその結果に従う、と言う。どないやねん。

 「当事者」という存在の危うさを考えさせられる事例が相次いだ。社会的な判断を下す時に、当事者をテーブルに着かせるのは適切でない、とわたしは思う。当事者は当事者であるがゆえに、公平で俯瞰的な視点をもつことが難しい。当事者からは、当事者しか知り得ない事実や事情を聴取するに留めるべきである。
 (以上、平成20年4月22日記述)

|

« 教員からみた50分授業 | トップページ | サッコでもピカソ »

8.0時事・ニュース」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/42344593

この記事へのトラックバック一覧です: 「当事者」重視の罠:

« 教員からみた50分授業 | トップページ | サッコでもピカソ »