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2009年3月29日 (日)

師は誤りやすく 下

 指導教官とわたしが(当時のゼミ生が全員女子だったために必然的に)同室になり、その寝床で、指導教官が愚痴を言った。
 珍しく研究職の話がきたので、高校教諭を続けながら研究職に就く機会を窺っていた卒業生(主査教官の直弟子で、わたしの先輩)たち何人もに就職を打診したが、悉く断りおった、あいつらはいったい何のために大学院を修了した後まで研究を続けとるのだ、研究職に就きたいからではないのか、研究職の口など滅多にあるものではないのに、何を迷うことがあるか、それを断るとは馬鹿にしておる、という愚痴である。
 その就職話は、実は最後にわたしにもいただいたが、わたしも断った。修論を書き終えたばかりの二十歳台前半で、研究者としてやっていく自信も採用に至るだけの業績もまだなかった時期だったからだ。その愚痴にわたしはこう応じた。

 「先生は電話口で即答を求めたでしょう。皆さん家族にも周囲の人にもいろんな迷惑をかけながら研究を続けてらっしゃいます。田舎のそんな得体の知れない職場に行くなんてこと、その人らに一言相談してからでないと、独断で返事できるものじゃないんやないですか? それを、即答しろ、なんて言われたら、NOと答えるしかないですよ。考える時間があればまた違った返事もできるかもしれませんけど。皆さん臍をかむ思いでお断りになったと思いますよ」
 もちろん、わたし自身が断った理由は先輩方とは違う前述のようなものなので、それも率直に申し上げた。そして実際、その就職口は大阪に学んできた者にとっては遠隔地であり、応じるとなると生活が一変する。しかも国語教育の世界から見ると、お世辞にも王道とは言えない職場であり、躍り上がって手放しで喜ぶような類の口ではなかったから、ぐっとためらい一考するのがむしろ自然だった。
 それにしても、わたしが指導教官に口応えめいたことをしたのはその時が初めてだったと思う。この件に関する先輩方の愚痴の方を先に聞いていたので、そのまま伝えただけではある。普段のわたしの不貞ぶりからして、指導教官に讒言などできる義理ではないのだが、ともかくこれは一時の気まずさに堪えてでも言っておかないと、今後もし同様のことがあった時に、指導教官も先輩たちも不幸だと思ったから、初めて蛮勇を奮った。

 指導教官は、わたしがそんなことを言ったのが意外な様子で、暫く黙って考え込んでおられた。そして、話題を変えて少し話した後、
「そろそろあいつらの所に行ってやったらどうや」
と仰有った。女子のゼミ生がわたしを迎える一席を自分たちの部屋で設けていることをご存じだった(指導教官は呑めないので、先に寝るのが通例だった)からである。わたしは失礼にも逃げるごとくそのとおりにした。
 その後、その件に指導教官もわたしも触れることはなかった。が、数年後、奇しくも先と同じ職場に再び欠員が出、その口がまた指導教員のもとに舞い込んだ。それをわたしに再度紹介してくださった時、指導教官は電話でこう仰有った。
「明日の晩まで待つから、それまでに考えて返事してくれ」

 主査教官と指導教官との間の微妙な空気も、わたしたち弟子筋にとっては気を遣う要素ではあった。師弟関係とはいいながら、指導教官は主査教官の理論を継承しつつも異なる立場での研究をして一家を成していた。指導教官がわたしたち学生の前で主査教官を茶化したり批判めいたことを仰有ることもあった。
 主査教官はやがて停年退官されたが、その後もお二人は同じ学会・研究会に属し(もちろんわたしたちもである)ていた。しかし、お二人は少なくとも積極的に顔を合わせようとはなさらず、絶妙のタイミングで擦れ違っていた。学会や研究会でお二人の顔が揃うことは稀であった。そのあたりのお二人の心理を忖度するにはわたしは子供すぎた。

 しかし、わたしが現職に就いてからのことだが、何年かぶりで研究会にお二人ともが見えた。ちょうどわたしの発表の回であったので、両師匠に聴いていただき、講評がいただけるのは嬉しかった。お二人が談笑するのを見るだけで愉しかった。いい回に当たったな、と喜んだ。
 その研究会の後、指導教官の方は、別の用事があるから、と先にお帰りになり、わたしたち指導教官の弟子たちも、主査教官やその直弟子の皆さんと共に食事に出かけた。
 主査教官は、なぜか直弟子ではなくわたしたち指導教官の弟子三人に、ご自身と同じテーブルに着くよう命じられた。そして、何か昂揚した様子で、わたしたちが相槌を挟む間ももどかしいかのように、研究についてのさまざまな思いを語られた。そんなことは今までにないことだった。就中、数か月後に学会の全国大会での発表を控えたわたしには、際立って熱心なご助言をくださった。過去に学会でのわたしのいい加減で無礼な行為に厳しく苦言を呈してくださったこともある主査教官であるが、その夜は、語気の激しさはあってもそれが愛情の発露であることが十分にみて取れた。わたしたちはずっと黙って頷くしかないながら、主査教官の語りを夜更けまで聴いていた。
 主査教官が心不全で急逝されたのは、その五日後であった。葬儀委員長は指導教官だった。

 こうして、気がついてみれば、主査教官は鬼籍に入って早数年、指導教官は停年を迎えるお歳になり、わたしは初めてゼミにお世話になった時の指導教官の年齢を超えた。指導教官の還暦記念パーティーの開会挨拶はわたしがした。そしてわたしは、学問上の弟子こそないが、教え子をもちその幾人かがファンクラブまでつくってくれるまでになった。主査教官と同様、わたしの教え子の一人は現在わたしの同僚だ。いつか世代が一巡りしている。
 二人の師がわたしに対して抱いていた苛立ちや怒りが、今、手に取るように分かる。そして、「師」という立場ゆえにその感情を露にできない辛さも。
 卒業生が訪ねてきてくれることがこんなに嬉しいことだったのか、と思うと、大学にご無沙汰していることが申し訳ない。が、実際なかなか行く機会がない。
 加えてわたしには、教師としての師匠がまた二人。いや三人か、いる。こちらには不義理なんてもんではない。年賀状も出していない。
 今になって師匠孝行をするのがよいのか、次の世代の研究者を育てる過程で師匠と同じ苦しみに堪えるのが、結局師匠の愛情に応えることになるのか。わたしにはよく分からない。

 ああ。何を書いておるのだ。書籍紹介のつもりだったのに、わたしのことばっかり言ってどうするのだ。
 それだけ、この本は読むのにパワーが要るし腹を抉られる思いがする。現在、指導教官との間が気まずいわけではない。由良氏と四方田氏のように悲しい別れはしたくない。しかしそれは多分、わたしが歳に似合わず幼いが故に指導教官と確執するところまで至らないだけである。これはこれで情けないのかもしれない。そして教え子たちに対して誤りやすい師にだけはしっかりなっている。
 幸福な師弟関係とは、何であるのか。

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