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2009年5月16日 (土)

博士の不可解な事情

 これは、時代の違いなのか領域の違いなのか、その両方なのか、定かでないけれど、いずれにしてもわたしにはよく分からんニュースである。

 『毎日jp』「東北大:院生自殺「指導に重大過失」 准教授、博士論文を連続不受理」
  http://mainichi.jp/life/edu/news/20090514ddm041040005000c.html 

 博士論文が連続して受理されない、というのは十分予想し得る事態だと思うのである。もちろん論文の詳細な内容は分からないし、分かったとしても、畑違いの学問のレベルなど判定しようがないのだが、そういうことはあり得るだろう。努力すればいい、というものではなく、結果を出さねばならないのだから。

男性は博士課程3年目の06年に准教授から論文提出の延期を指導され、07年12月には准教授に論文を提出したが、准教授は男性が07年度の提出予定者ではなかったことなどから受理しなかった。

そうなのだが、そうだとすれば、単なる学生と指導教員との間のコミュニケーション不足ではなかろうか。そして、そういうコミュニケーションを積極的に働きかけるべきは、学生の方だと思う。
 もちろん、准教授が故意にこの学生に嫌がらせや他の学生との差別をしたのなら、責められねばならないのだが、どうなのだろう。そこまでの情報はないので、何とも言えない。

報告書は「(不受理によって)将来に深い絶望感を抱いたことが自殺の直接のきっかけになった」としている。

 将来に深い絶望感を抱くのは、院生の宿命だろう。学士よりも修士、修士よりも博士と進むに従って、よりステータスのある職に就くための基礎的な資格は得られるにしても、つぶしはきかなくなっていく。職種の選択肢はどんどん狭まっていく。
 そして、そんなことは承知し覚悟して大学院に入るものではないのだろうか。わたしなどは、大学院に入った時点で世捨て人になる、という感覚だが、それはもう古いのだろうか。博士号を持っていながら終身職を得られずにいる四十歳・五十歳台がごろごろしているのが、理系の現状ではなかろうか。
 29歳なら(たとえ博士の学位を取れなかったとしても)まだまだ展望が開けている年齢であろう。
 それに、学生といっても多感なティーンエイジャーでもないのだから、ほんとうに博士論文のことだけが自殺の原因なのだろうか。29歳の人間が、学問のことばかり考えながら大学のためだけに生きているわけはなく、もっといろいろ考え悩むことがあると思うのだが。それとも、遺書でもあったのだろうか。

調査は、男性の研究を「博士授与について審査を受けうる状態にあった」と判断する一方、

 「審査を受けうる状態」という表現に注意したい。合格の判定を受けるレベルにあった、とは言っていない。事務的手続上審査を受ける資格があった、ということだと理解できる。
 もしかしたら、審査をうけてもはかばかしい結果が出ない、という見通しがあって、准教授は敢えて受理しなかったのかもしれない。そういう配慮はままあることである。

准教授については「研究の進展状況を十分に把握しておらず、論文の具体的な改訂指示などの適切な研究指導を行ったとは認めがたい」とした

 わたしは、修論を書く試行錯誤を繰り返す過程で、指導教官から「論文の具体的な改訂指示」なんてものを受けた記憶がないし、指示を求めたこともない。求めるのは恥ずかしいことだと思っていたからだ。そもそも提出までに、レジュメを報告することはあっても、論文の本文など一度も指導教官に見せなかったと思う。それは学部の卒論の時も同じだった。
 もっと大きな視点からの、研究者としての心構え、研究として最低限備えていなければならない要件などを、指導教官の無言の背中から、自分で学んだ。そういうものを自分なりに咀嚼したうえで論文を書けば、自然とそれなりのものになる。どうしても助言を受けたいことがあれば、自分でまとめておき、指導教官が暇そうな僅かな時間を捕らえて、ぶつけたものだ。
 それに、もしこの博士論文によってこの学生が学位を得たとすると、その次年度にも早速、大学、それも大学院を擁するような研究の盛んな大学の教員として採用される可能性がある。そうなれば、自ら院生を指導しなければならないのだ。そして、博士課程に在籍しているのなら、既に同じ研究室に在籍する院生や学部生の修論・卒論も指導しているはずである。そういう人が、指導教員に「具体的な改訂指示」を仰がないと自分の論文の不備や弱点が分からないとは、考えにくい。

翌月に父親から「指導教員の不適切な指導がなかったか調査してほしい」との手紙が届き、同大が調査委を設置していた。

 大事な息子を失った親御さんの気持ちとしては痛いほど分かる。が、やはりわたしは違和感がある。
 わたしが大学院一年次だった時、普通なら二年で提出する修論を、三年めでも仕上げられず、在籍できる最終学年たる四年次に突入した先輩がいた。それ自体は特に珍しいことではない。しかしその時に、その先輩の親御さんが、指導教官に、
「先生は適切にご指導いただいているのでしょうか」
という趣旨の、厭味ともとれる内容を直接言った、と漏れ聞き、申し訳ないが、わたしたちはひとしく失笑したのである。
 院生になって親が出てくること自体もそうだが、いくら指導教官が指導しようとも、それを受けとめるかどうかは学生次第だ、ということを、入学したばかりのわたしたちでも自覚的に理解していたからである。ただもちろん今回のケースは学生本人が亡くなっているのだから、代わりに親御さんが事情を確認しようとするのは、自然なことではある。
 それにしても、これをもって「重大過失」と言われるのなら、大学教員は立つ瀬がない、と同情する。

 最初に述べたように、世代や領域の違いがあるから、わたしの経験で考えても的外れなのかもしれない。理系における博士の濫造の傾向とも関係がありそうに思うが、そこらの事情もわたしにはよく分からない。
 ともあれ、どうしても大学側が批判されがちなこうした事件の報に接し、身内贔屓ということもあって、准教授の味方をしたくなるのである。
 いずれにしても、誰にとっても不幸で後味の悪い事件である。学生のご冥福をお祈りするとともに、准教授ら大学関係者の心労にお見舞い申し上げたい。  

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