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2009年6月23日 (火)

それでも裁判員はやっていい

 裁判員制度が、議論の煮詰まらないまま見切り発車した感がある。まだ始まって間もないため、個々の事案に関する判決も出ていないようだし、現実としての問題も表面化する段階にないが、そのうちいろいろと出てくるのであろう。
 わたしはと言えば、人生経験として、あるいは社会勉強・教師修業として、裁判の現場に参加するのは大きなプラスになる、と考えるので、もし声がかかれば裁判員を務めたいと思っている。
 しかし、現状ではかなり不安がある。願わくは制度を改めてほしい。

 人や人の行為を、人が評価する、というのはまことに難しいことである。難しいことだから、そのための専門的な教育と訓練を受けた人がそれにあたる。裁判官はまさにそうした専門家としての権威である。
 これは裁判に限ったことではない。教師だって、人を評価することが仕事に含まれている。試験をして学力を測るだけなら簡単だが、人間教育もしなければならないし、調査書や指導要録も書かねばならない。そのための権威たらなければならない。そのために、それに必要な教養を、大学や研修の場などで身につけ、現場で実地に修業する。しかし、それによって得る資格は、あくまで学校現場で自分の担当する学習者を評価する、ということのみだ。それ以外の場でそれ以外の人を公に評価することは、許されない、というか、したとしても一般市民としての印象批評でしかない。

 「権威」でない人が評価にあたると、おかしなことがいろいろ起きる。

 一人の高校生がいたとする。彼が小学生の弟の前で、二次方程式を解いて見せた。弟は、自分には意味も理解できない何やら複雑な英字や数字が混じった式を、兄がすらすらと処理するのを見て、驚く。
「お兄ちゃん、すごいねー。天才だねー」
などと言うかもしれない。この弟による批評は、この高校生が優秀であることを保証するか。
 答は自明であろう。弟は、高校生の学力を正しく評価できるだけの権威ではないから、この評価も印象批評であり、褒められて悪い気はしないだろうが、高校生はこれをもって満足してはならない。

 ところが、これと同様のことを、わたしは仕事のうえで多々経験しているのである。以前にも記事にした授業アンケートがその筆頭であるが、それ以外にもある。

 例えば、論文の査読である。これは、いずれ詳細に記事にするつもりだが、査読のあり方は、わたしの研究者としての専門である国語教育・日本語学界と、職場がらみでかかわりのある工学教育学界とでは、全く異なる。前者は、学界でもそれなりの権威と自他ともに認める人が編集委員として名を公表し、そのうちの一人が当該論文を担当し、執筆者との間で対話しながら査読が行われる。後者は、執筆者と同等の立場にある者が単なる持ち回りで務めるだけである。どちらが的確な査読になるかは明らかである。
 前者で論文を査読にかけた時は、いずれもわたしの及ばない経験と知見の広さから、有益な助言が得られ、よりすぐれた業績を残すことができた。
 が、後者では全く粗雑な評価しかされなかった。見識の浅さからくる誤読・曲解による見当外れのマイナス評価ばかりだった。そりゃあわたしの研究内容はわたしがいちばんよく理解しているのだから当然そうなる。こういう評価には、わたしは査読者に反論の文章を送り、全て潰した。相手は例外なくぐうの音も出ず、評価を引っ込め、わたしの論文は無事元通りの形で掲載された。まことに時間と手間の無駄である。

 あるいは、技術教育のプログラムを評価するJABEEである。これが所属校である高専が、世界に通用する技術者を育てる教育機関かどうかを評価するのである。
 しかし、高専を実地調査で訪れる審査員は、大学の教員と企業の職員なのである。
 教育界の常識として、学習者の年齢が下がるほど教育には手がかかるのであり、専門的な知識に基づく工夫が必要である。高校より中学、中学より小学校の方が、教育方法に関する研究も研修も盛んで詳細にわたる。同様に、大学よりも高専のほうが、教育レベル(教育内容ではない)が高く、学生に対するケアはきめ細かい、と考えるのが自然であり、実際にもそうである。それなのに、高専の教育を大学教員が評価するのである。
 まして企業の職員は、工業界に身をおいていて、企業内教育に携わっているとはいえ、学校教育についてはずぶの素人である。JABEEとは企業が人や金を割きづらくなってきた企業内教育を学校に圧しつけるために設立された学校教育界の厄介者だ、とわたしは思っている(「厄介者」というのはWebゆえちょっとソフトな表現にしたもの。JABEEに大真面目な人もいるだろうから、武士の情けである。普段のわたしは少し違う表現をとっている)ので、こういう人を確信犯的に送り込むのは、分かる。
 当然の帰結として、JABEEからの指摘に、ああなるほど、と得心したことなどわたしにはない。学校教育の本質から外れたあら探しがほとんどである。
 だから、JABEEに認定されたからといって、喜んでいてはいけない。それは、
「お兄ちゃん、すごいねー」
と何ら変わることはないからである。

 さて、裁判員である。
 上に挙げたような例なら、まだどこかで取り返しがつく(つきにくくはあるが、つけられなくはない)。が、裁判となると違う。被告の人権や生命に関わってくるのだから、素人が加わって判決を下すことがいかに危険であるか。
 裁判官だけでなく、一般市民の感覚からの意見を裁判に採り入れるべきだ、という考え方には一理ある。しかし、それならば、裁判員は意見表明だけに留めるべきである。有罪無罪や量刑を決定するのは、あくまで専門家である裁判官だけでなすのである。その時に裁判員の意見も参考にすればよい。
 判決を決定する、というのは大きな責任感を伴って行うべきことである。それはプロにしかできず、プロしかなしてはならない。裁判官と裁判員に同等の責任を負わせるのは、プロの尊厳を損ない、ひいては社会のしくみの根底を揺るがしかねない愚策である。裁判官の存在意義と矜恃を脅かすのは問題だ。わたしは、やはり専門の訓練を受けた裁判官を尊敬していたい。
 そして、ちょっとした手直しで、ここに指摘した問題は是正できるはずである。

〔付記〕
 時あたかも、いわゆる「足利事件」が冤罪事案として話題になっている。これは、裁判員制度にも問題を投げかける、時宜を得た事案である。
 冤罪の被害を受けた菅谷氏がこれだけ語っているのだから、当時の捜査員や裁判官も、退職者を含め、恥を忍んでマスコミの前に出てくるべきである。何も世間に謝ったりマスコミで叩いたりするのではない。どのようなメカニズムで冤罪がつくられていったのか、率直に、語るべきである。それが世間に対して、自分たちの冒した誤謬を贖うことになるのではないか、と思うし、裁判員をこれから務めようというわれわれにとっても、大いに参考になるはずである。 

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