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2009年12月 5日 (土)

科学研究仕分け批判の違和感

 ノーベル賞受賞者も共同声明を出して、事業仕分けによる科学研究関連予算の削減について、批判している。その批判の主旨については、研究の世界の末席にいるわたしも、基本的に賛同するところである。

 しかし、この共同声明自体について、何か違和感をもたざるを得なかった。その違和感がなにものであるかを内省してみた。
 

 たしかに、八ツ場ダムの問題といい、この「事業仕分け」といい、新政権が、従来の積み重ねとそれに伴う人々の思いに無頓着であることは、憂慮するべきである。
 いやこれこそが政権交代なのだ、と言われればそれまでなのだが、年数のかかる事業というのは、途中で急に止めるとか縮小するとか言われても困る。従来の経緯を活かすかたちで、新たな方向づけをするのが新政権の役目ではないか、とは思う。

 
 しかし、たとえばスーパーコンピュータについて、
「2位ではだめなんですか?」
という仕分け人の質問は、研究の当事者からみれば、「何も分かっていない」ということになるのだろうが、一般市民の感覚としてはごく自然で共感できるものであろう。
 わたしも、本当に1位でなければ意味がないのかどうかは分からない。どちらかと言えば懐疑的である。「1位でなければ意味がない」という価値観自体がわたしにとっては嫌悪の対象であるし、また想像できない。順位や規模が問題なのではなく、日本にしかできないことをやれればいいのではないか、と素朴に疑問をもつ。
 もうひとつ研究者側(と言っても、仕分け人にも研究者はいるから、研究者のなかにもいろいろな考え方があるのだろう)に説得力を感じないのは、では2位であったためにだめだった実例というのがどこにあるのか、よく分からないからでもある。ドコモが1位だったらauは無意味ということもなかろうし、すき家が1位だから吉野家がだめになるわけでもなかろう。
 そんな営利企業の話と一緒にするな、と叱られそうだが、順位をもちだすというのが、そもそも営利企業的な発想のように思える。

 そして、研究、特に理工系の研究の世界は、自らカネをシビアに切り刻んできたのではないか。科研費(科学研究費補助金)など、まさに短期的な成果見込みを要求し、それが明確でない研究については、研究費削減・非採択といった「仕分け」を学界あげてやってきたのではないか。他の民間の補助金なども同様である。
 その審査を担当し、「仕分け」の片棒をかついできたのも、ほかならぬ理工系の研究者自身である。共同声明に臨んだノーベル賞受賞者も、そういう審査にあたってきたはずである。そして、長い目で見ないと意義が浮かんでこない研究を、切り棄ててきたはずである。そういう学界に、「事業仕分け」を批判する資格があるのか、とわたしは疑問に思うわけである。

 わたしも、学問研究については、その専門領域にかかわらず、「事業仕分け」にはなじまないと思っている。「事業仕分け」の理念そのものにも疑義がある。
 しかし、理工系学界がやってきた密室での不透明な補助金審査や論文査読に比べれば、「事業仕分け」の方がまだましである。当事者自身をテーブルにつかせて、公開の場で議論しているのだから、自由主義の世の中に合致したフェアな方法論である。補助金審査や論文査読も、あのようにやるべきである。

 理工系学界は、これをいい機会として、「1位でなければ意味がない」に代表されるような、疑われることなく前提されている拠り所としての思想について、一度根元から問い直してみてはどうか。
 研究を全くストップしてしまうのでは、従来の積み重ねが無駄になるし、次代を担う人材も育成できないから、これはやるべきではない。しかし、新政権もそこまでは言っていない。研究費の縮減であれば、対処はできるはずである。予算が少なくなればなったなりの、できることがあるはずだ。 

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