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2010年2月 7日 (日)

『JIN -仁-』の終わり方はそんなに酷いか

※ 平成23年7月追記:この記事は、『JIN ~仁~』の第一期(平成21年放送)について、同期の放送が終了した時点での評釈を述べています。その後完結編が放映されました。完結編の終わり方については、こちらの記事に記しています。 

 昨年秋ドラマで視聴率も質も高かったTBS系ドラマ『JIN -仁-』だが、その最終回をめぐって、放送後かなりの期間にわたり、賛否の意見が相当飛び交った。
 わたしはどちらかと言うと「賛」に属すると言えるかもしれないが、あれから一カ月以上、うまくその考えを説明する言葉を組み立てられないまま、考えていた(ずっとそればかり考えていたわけではないが)。

 ドラマが期待したような最終回で終わらなかった場合、人は非常に感情的な否定をしがちで、勢い余って、あの最終回でドラマの価値がゼロになった、という極論を吐きさえする。もちろんそんなばかなことはないわけで、経過がすばらしかったドラマであればあるほど、最終回も相応の計算のもとに作られているはずだ。それに、最終回一回の放送が、ドラマの価値の全てを消し去るほどの力はもっていない。
 『ちりとてちん』の時の経験から考えて、こういう最終回は、日をおいて冷静に再分析すれば、別の評価が出てくる可能性もある。そう考えて、すぐに意見を書くことを控えたのである。
 ただ、結果的に、わたしの評価は特に変わらなかった。

 変わらなかった、というよりも、『ちりとてちん』の時にも、最終回なり展開が拙速と感じられた週なりについて、わたしは「瑕瑾」などという言い方をしたと思う。
 要するに、最終回だけを取り出して評価しようという発想じしんがわたしにないのである。「終わりよければ…」という考え方がわたしは嫌いだし、最終回をドラマの一部ととらえるのみだ。重要な一部ではあるが、あくまで一部でしかない。最終回を加味したうえでなお、こういうドラマに出会えたことをよかったと思う。

 
 否定的評価をする人の多くは、「謎」が解明されないまま終わったことを問題にしているようだ。
 確かに、推理小説の類であれば、作品中(意味ありげに)提示された問題は、過不足なく解決されなければならない。しかし、『JIN』はミステリーではない。
 多くの人物が絡み合うなかで発生した事件の細部や背後事情の全貌などが、きれいに解明されつくすことは、現実世界では珍しい。そして恐らく、虚構においてもその方が普通なのである。

 夏目漱石の『こころ』で「先生」が、あるいはKが自害した(「先生」はまだしたかどうかさえ分からない)理由など、本当のところは分からない。「先生」の手紙は、あくまで「先生」の見解である。最古の長篇小説と言われる『源氏物語』など、何がどうなっていたのか、結局分からない部分の方が多いくらいだろう。最終的に源氏がどういう境遇になりどのように死んだのかさえ分からないのである。それでも源氏の死後の話は進んでいく。
 こうした古い時代の虚構ですらそうなのに、平成のドラマに「謎の解明」を求める気にわたしはならない。ストーリーがすっきりと「行って帰る」物語構造にはめ込まれて、全ての謎がすっきりと解明されるような虚構は、むしろ子供っぽく感じてしまう。
 ホルマリン漬けの胎児が何者なのか、包帯男は誰なのか、それはドラマのなかで答が提示されてもそれはそれでいいし、されなければこっちで適当に考えればよい。いや、答を出す必要さえないのだ。
 胎児は、単に命を扱う医学絡みのSFとしてのムードを作るためのアイテムである可能性さえある。包帯男の正体など、が江戸で何かするたびに未来が改変されて、ころころ変わるかもしれない。坂本龍馬が崖から落ちてから帰還するまで、どこにいたのか、という点も、同様である。龍馬野風花魁に対する意識が転換しているところからして、未来へ行っていたという解釈が有力ではあるが、これも明言はされていない。だから面白い。

 最終回のエンディングで学校か塾の講師を務めている様子の未来は、野風の子孫でありそこは野風が創立した塾、という解釈は自然に成り立つが、そうかどうかの説明は何もない。違うかもしれないのだ。
 緒方洪庵の設けたペニシリン製造所が火事になった原因も、劇中推測はされているが、真相は明確に語られていない。火中から取り出したペニシリンを抱えた山田純庵医師に濠端で声をかけた男たちは、その場面だけで見ると、洪庵らに敵対する一派の討手かと思われたが、実際は洪庵を援助するヤマサ醤油の者であった(らしい。これも展開から推測されるだけである)。佐分利医師が殺人を犯したかのような場面もあったが、単なる腑分けであった。
 このようなミスリードを平気でするドラマが『JIN』である。そしてそれも含めてわれわれは楽しんだのではなかったか。終わり方をも同様に楽しめばいいだけである。

 
 こうした、整然としない猥雑さには、リアリティーがある。これは、一般に言われる表現のリアリズムとは全く別種のものである。現実世界がまさに整然とせず猥雑だからである。
 わたしたちは、一介の人間である以上、身のまわりで起きることの全貌を俯瞰的に感得することはできない。たまたま目にし耳にした事態から知り得ないことがらをも推測するのであり、その推測はしばしば誤っている。虚構を受容する時も、そのようにあるのがよりリアルなのである。
 ミステリーにおいて俯瞰的な視点からの全容解明が可能なのは、警察官や探偵である、あるいはそれらに付託された立場である主人公が、特権をもって事件の証拠集めや関係者の取り調べを詳細に行えるからである。
 もちろん、きっぱりと全ての問題が解決するような虚構の方が虚構らしくて好きだ、という人もあるだろうが、『JIN』はその類の作品ではないのである。SFじたてだからストーリーはシュールであるが、作品世界の提示のし方のリアリティーは、ストーリーとは異なった次元で存在するものである。

 江戸時代にタイムスリップする、というストーリー展開は、現実にはあり得ないが、生きる世界の激変という意味では、大災害に見舞われて身寄りを失うとか、事故で体の一部を失うとか、突然勤め先が破綻するとかいうかたちで誰の身にも起こり得る事態をデフォルメしているとも言える。そうなった時に、新しい境遇でどのように生きがいを見いだしていくのか、と想像すると、身震いするほどの恐懼をおぼえる。
 そのなかでの江戸時代での奮闘ぶりを観るとき、胸のすく思いがあるのではないか。また、洪庵が死病のなか思いをいたしたの孤独さについて、視聴者は洪庵同様の類推を促され、涙できたのではないか。こうした感情移入を、これだけ不条理な設定のなかで促すのは、かなり高度なテクニックと言えるだろう。
 江戸時代の風俗のなかに、注射・点滴・手術といった現代的な言葉と事態とが組み入れられる痛快さや、と江戸時代の人々との意識のずれも、このドラマの面白さとして、誰もが受けとめた大きな魅力である。
 一つの課題を解決したら、それがまた次の課題を呼ぶ。一度固めた決心が、状況や周囲の人々の思いに影響されて、また揺れはじめる。こういうことも、われわれが現実の生活で日々経験していることである。
 最終回ラストシーン(エンディングテーマ後)のの「え?」も、せっかく未来を断ち切って江戸の世界で生きていく覚悟を一応決めたが、これからもやはり運命に翻弄され迷いながら生きていく、というサインなのである。この後の、描かれざる物語終了後の時間への連続を暗示するものなのだ。そしてそのサインないし暗示は、この作品全体のムードやコンセプトと少しも矛盾しない。
 作品世界そのものの拡がりを想定した、上記の解釈を優先させるべきだ、とわたしは思う。映画化や続編制作の思わせぶり、という穿った(作品世界外の要素を組み込んだ)評価をする前にである。

 
 こうした確固たる見どころが存する以上、どのように終わるかによって大きく評価が左右される方がおかしい、と考える。ストーリーが物語的に完結したかどうか、は大きな問題ではないのだ。
 まして、原作漫画との関係とか、映画化の魂胆とか、巷間飛び交った作品世界の外側までを組み込んだ観点からの批判は、的を外れている、と思う。上に示したように、そんなものを組み込まなくても作品の評釈は完結し得るからである。

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『ちりとてちん』に救われた命
    

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