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2010年4月 4日 (日)

馬の死に感ず

 上げ馬神事において転倒した馬が死んだ。このニュースを聞いて、また複雑な議論になるなあ、という感じがした。このことにはいくつもの観点と価値観とが入り組んでいるため、なかなか合意をみるのは難しいだろう。
 上げ馬神事は、姉妹ブログ『まるよし電車区』の「下道バス帰省」シリーズでもふれている三重県多度大社(桑名市)のものが有名だが、今回の事故は、東員町の猪名部神社で行われた神事において起きている。

 わたしの考えは一応あるのだけれど、それは世間の標準とは多分ずれていると思うし、標準がそもそもないのかもしれない。
 この課題は、少なくとも三つの観点から考えねばならない。

 一つめの問題として、命の重みをどうみるか、ということがある。
 命の重みは全て平等、と考える人もいるだろうが、わたしはそうは思わない。人間の命とそれ以外を分けて考えるべき、という考え方もあるが、そうも思わない。重みにはグラデーションがある、と思っている。
 つまり、人間の命が最も重いのは当然として、動物のそれは、人間が感情移入できる度合いと比例して定まるもの、と考えているのである。犬や猫は最も感情移入の度合いが大きいであろうし、馬や牛はそれに次ぐ位置につけているであろう。殺虫剤をそれほど非人道的だとは思わない。
 そういう意味で、騎手の少年が無事であったことは何よりであるものの、馬が死んだことは、人が死んだり怪我したりするほどの深刻さはないが、「問題なし」とするには重い、とわたしは思う。

 
 二つめに、人間の暮らしの中に動物を使うことの是非である。
 もちろん、人間を含めて全ての生き物は、他の種の命を奪ってしか生きていけない。植物の命も命には違いないのだから、菜食主義者も草食動物も同じことである。
 だから、生きるのに最小限必要な命を消費するのはやむを得ないことであると思う。食物となる動物を飼育したり捕獲したりすることをいけないとは思わない。どんな動物でもだ。可愛いかどうかはそれぞれの価値観であるし、頭がいいといっても、人間には遠く及ばないレベルでの話である。もちろん、極力必要なだけを消費するよう、心がけるべきではある。

 食用に次ぐ切実さをもって人間が動物を使う動機は、用役であろう。古くから農耕や移動の動力として動物はさまざまに使われてきた。しかし、その機能をもっと強力にかつ手軽に発揮する機械が発明され、普及した結果、そのような動物の使われ方は激減した。現代の盲導犬や介護犬の類も、それを代行する道具や機械の開発、あるいは人の手で援助する社会的しくみが完備した時点で、いずれ役目を終えるべきものである。
 動物を用役に使う、というのは、人間の知恵や技術が一定の水準に達するまでの「つなぎ」ないし次善の策である、とわたしは考えているのだ。

 さらに必然性がおちていくが、愛玩、そして、娯楽。もうこのあたりは、すぐにでもそれなりの機械に取って代わらせてよい、と思っている。愛玩はまだ難しい部分もあるかもしれないが、ペットロボットやバーチャルペットは、相当のレベルまできているであろう。本物の動物との命のふれあいを大切に考える人が多いのは分かるが、愛玩という人間の独善的ともいえる目的のためには、動物の生は重すぎる気がしてならないのである。
 娯楽になるともう、わたしは全く否定的にならざるを得ない。その典型が競馬である。
 以前の記事で、初めて競馬場へ行ったことを書いた。もの珍しさから何事も経験とばかり馬券も買ったし、話を面白くするためもあり、こういう真面目なことはあの記事に書かなかったのだが、やはりわたしは違和感を強く感じていたのである。実際に馬場で生きた馬の動きや息づかいを見たのだから、なおさらである。なんで人間の勝ったの負けたの儲かったののために馬を酷使せねばならないのか、理解できない。
 ギャンブルがいけない、というのではない。そういう息抜きは必要だし、公共事業のための資金稼ぎにもなる。ただし、娯楽の手段の乏しかった時代ならまだしも、レースをするなら今はボートもあるしバイクやクルマもあるではないか。生き物を犠牲にする必然性はないだろう。こういうのは鯨を捕ることなどよりよほど批判されるべきものだと思うのだが、誰も何も言わない。欧米でも広く行われていることだからだろう。
 技術上「つなぎ」の過渡期はとっくに終わっている。もはや他のギャンブル類に役目を譲って勇退するべきもの、とわたしは感じる。

 では、この神事における馬は、どのへんに位置するかというと、「用役」のなかの「娯楽」に近いところにあると思う。実用的な用役ではないし、かといって純粋な娯楽でもない。

 
 そこで、三つめに、「神事」という伝統文化のなかのしきたりであることをどう考えるか、という問題が出てくる。伝統なのだから、神事なのだから、形式を曲げてはならない、とする人も多いと思う。しかし、わたしは逆だと考えている。
 伝統として残していかねばならないからこそ、時代に合わせて形を変えていくべきだし、神事だからこそ、その「心」を大切にすればいいのであって、形式にこだわる必要はないのである。
 馬を危険な目に遭わせることも、時には犠牲が出たりすることも、昔なら抵抗なく受けいれられたであろう。機械技術が十分に整備されておらず、農耕馬や軍馬などの犠牲が日常であった時代は。しかし現代はそうではなくなりつつある。ならば、それに合わせて神事のあり方を変えていくのは、悪いことではない。
 能だって歌舞伎だって、時代を生き抜くためにさまざまな変革と妥協を経験しているはずである。神社にはなり手不足を反映し、女性の宮司も珍しくなくなっているそうである。西宮戎神社の福男選びなど、近年すっかり陸上短距離走になっているが、あの福男選び自体、大して歴史もない、新興の現代的な「神事」だと聞く。
 上げ馬神事そのものも、馬を棒で叩いたり、未成年の騎手に酒を飲ませたり、というかつての風習は、時代に合わなくなったとして取りやめた経緯があるそうである。

 思えば、人間は、ことに日本人は、生活のなかで、「~したことにする」という便法を考え出すのが得意ではないか。
 足を運べない人のために、人形(ひとがた)の郵送を受け付けている神社は多い。これを送って御祓いしてもらうと、参拝したことになるのである。また、大相撲の土俵の四方に下がっている房は、柱の代わりである。本来柱があってこそ地面から神の世界へメッセージが伝わるはずなのだが、相撲が見にくい、という客の意見に配慮して、房を垂らして柱があることにしているのである。
 どうだ、神様相手というのにこの適当さ(笑)。それでもそこに心がこもっていれば、本質は外さずにすむわけである。上げ馬神事だって、本物の馬を使わずにうまくやる方法は、知恵を出せば出てくるはずである。騎手の少年の衣裳のどこかに馬のたてがみでも使っておき、走り高跳びなどさせてもいいではないか。

 
 まあ、わたしの考えもそれほど固まっているわけではないから、また違う人の違う話を聞けば換わるかもしれないが、今のところはこういう感じだ。
 

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