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2010年7月 4日 (日)

「タレント候補」は保留

 タレント候補もしくは有名人候補と呼ばれる候補者にもいろいろなケースがあるから、一括りには論じられないと思うのだが、昨今のタレント候補に対する漠然とした違和感の正体は何なのであろうか。

 タレント候補は、わたしが物心ついた頃からずっといたし、そのうちの何割かは当選している。子供の頃の選挙には、ワイドショーレベルの関心しかなかったわけで、そういう人たちの立候補に至る細かい経緯や報じられ方は全く記憶にない。
 しかし、昔のタレント候補は、分かりやすさがあったと思う。

 
 例えば、故・横山ノック氏は、トリオ漫才の「漫画トリオ」で社会・時事ネタを演るために勉強しているうちに、政治の諸問題について考えるようになり、それを扱いたくて国会議員を志した、ということになっている。この筋道は分かりやすい。
 さらに分かりやすいのは、無所属で立候補したことである。最初の参院選から、大阪府知事転身後に至るまで、当選後院内会派に属したことはあっても、立候補は無所属を通したはずである。政党という大樹に寄らずに、政策で闘う姿勢は評価できる。
 そしてノック氏は政治家として、際だった業績まではないものの、可もなく不可もない仕事ぶりを残した。これは無所属としてはかなり上出来と言え、それはタレントとしての知名度によって可能だったのだろう。「タレント候補」であることのメリットを活かした
 晩節はスキャンダルで汚してしまったが、それはあくまで個人としての所業であり、政治上の失策があって知事を辞任したわけではない。地方行政のトップに無党派で庶民の支持のみを武器に君臨する、という新たなかたちは、故・青島幸男氏とともに社会に一石を投じ、一定の役割を果たしたと言え、後進への流れを拓いた。
 有名人であることを、うまく政治活動に活かしていたわけである。

 
 ところが、このごろのタレント候補は、どうも唐突なのである。なぜこの人が政治の世界に? というのが見えにくいし、語られたとしても後付けのような感じがしてしようがないのである。
 政治というのは、社会の根本をなす構造を成して維持していく仕事である。いわば国民生活という具象から、思想という抽象までを自在に行き来する思考と活動とが要求される。ちょっと興味があるからといってできるようなことではない、と思う。

 有名スポーツ選手などは、「議員活動を通じてスポーツ・文化の振興を図りたい」というような抱負を語って立候補する。それはもちろん、スポーツの世界も国の政治と無縁ではあり得ないし、その世界の第一線で活躍していれば、もっと制度のここをこうしてほしい、といった要望は自然に生まれてくるだろう。それを実現したい気持ちは分かる。
 しかし、それはどんな世界のどんな仕事にも言えることである。そんな抱負でいいのなら、わたしだって教育政策の改革を掲げて立候補してもいいことになるが、そうならないのは、先に述べたような思考と活動とがとてもわたしなどにはできないからである。有名スポーツ選手にしても、それは同じはずである。
 自分の専門領域に詳しい知識や高い問題意識をもっているのは当たり前であるが、それを制度や政治に抽象化する思考はまた別ものである。そういう思考ができるだけの能力と準備とをそなえている人は、そうざらにはいないはずである。

 特定の人のことを決めつけて批判するのが目的ではないのだが、分かりやすく言えば、さる話題の人は、柔道の世界のことは身をもって知りつくしているだろうが、では大相撲やフィギュアスケートや水泳について、どれだけの事情を知っており、問題意識をもっているだろうか。同じスポーツの世界ということで、ある程度の類推は可能だろうし、プロ野球についてはいささか情報が得やすく、一般人よりは認識も深いだろうが、そこを代表するだけのものをもっているとも思えないのである。
 かといって、柔道だけを代表して議員になる、ということが通るのなら、種目ごとに議員を出さねばならない。柔道政策を、などと言ってはあまりにあからさまなので、スポーツ政策、と言っているように見えてしようがない。
 競技生活と議員が両立するか、という点については、わたしはあまり大きな問題ではないと思う。次元の違うものであるから、それぞれに評価すればよい。両立しなければ、どちらかの、あるいは両方の世界を、石もて追われることになるだけである。

 その意味で、以前、某県の有名知事が国政への色気を見せたことがあるが、あの時には出馬要請した政党にも、知事自身にも、わたしは強い違和感を覚えずにいられなかったのである。
 政党側は知事の知名度で自党の得票を有利にしようとしているのが明らかだったし、知事側は地方分権の拡大というまさに県知事らしい論点以外に、国政に関わる諸問題をあまり語ろうとしていなかったのである。「県政」の世界の有名人が唐突に国政に関わろうとしているようにしか見えなかった。

 そう、「有名」であることを免罪符にして、問題意識の所在がよく分からない人でも立候補に至り得るのは、政党からの要請、というステップを経るからであり、これが違和感の元凶なのである。
 これは比例代表制の弊害とも言えるのだろうが、選挙に勝つための候補擁立、という側面が際だってしまっていることになる。有権者は、当選後に何をするかを見きわめたいのだが、政党側は選挙時に党の支持を得ることを目的にする。ここがずれていることが、全ての違和感の元である。
 タレント候補のなかには、自分をタレント候補として見ないでほしい、と言っている人もいるそうだが、それは無理であろう。本人の志がいかに崇高であろうと、世間にその名が知れわたっている以上、一般の候補者と比べて、スタートラインがかなり前に設定される。そして、そういう人のこれまでのタレント活動や発言のなかに、政治につながるような要素があったか、と思い返してみると、これもどうもそんな印象がない。
 ただ、そういう候補者がほんとうにそのへんのタレント候補と違うのかどうかは、当選させて働きぶりを見てみないと分からないのも確かである。

 
 いろいろと考えているが、結局最初に述べたように、「タレント候補」を一括して評価することはできない。候補者一人一人の思いの深さと立候補に至る経緯を精査するほかはないのであり、それが一般の候補者に比べて詳細に伝えられるのは、好都合ではある。
 一度当選させてみて、活動ぶりによって次回を考える、というやり方しかないのかなあ、と思うが、やはりこういう人たちは、基本的に無所属で出てほしい、と思う。政党がはっきりイデオロギーで分立していた時代ならともかく、昨今の政党というものが介在すると、とたんに話がきな臭くなる。

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