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2010年9月10日 (金)

「歌がヘタな王座」の危うい二面性

 「歌がヘタな王座決定戦」という番組企画も何度めかになるようで、わたしはあまり観る気がしていなかったのだが、先日の放送はたまたま点けていたテレビで始まってしまい、惰性で観てしまった。

 これはタイトルからして「ものまね王座決定戦」の類のパロディなのだが、「ヘタさ」を競うだけに、そこには複雑な構造がある。そして、そこに出場する「選手」たちのなかで、出場する資格があるのはせいぜい後に挙げる二人くらいではなかったか、という気がした。

 こういう企画は、ひとつ間違うと、能力が劣った者を笑いものにする、というどうしようもない内容になってしまう危うさがあるわけで、いじめにつながる、などという批判の的にもなりそうな代物なのである。
 その意味では、三年ほど前からブームになっている「おバカタレント」とも通じる。バカがセールスポイントになるのか、と眉を顰める向きもあるわけだが、わたしは、その「バカ」が芸になっていれば、十分テレビで流していいものだ、と考える。

 藤山寛美さんや坂田利夫さんは、ステージの上で「アホの役どころ」を演じる。それはみごとな芸である。しかし、役を離れてトーク番組のゲストに出た時など、藤山さんは着物の襟を後ろにたくって首を前に突き出したりはしないし、坂田さんはちょび髭にちょんまげ姿で「あーりがーとさーん」などとは言わない。ごく常識人である。客も、分別のない子供などは別として、「演じている」ことを分かっていて、二人の「アホ」芸を愉しむ。
 間寛平さんは、吉本新喜劇で個性的な三枚目を演じただけでなく、『明石家電視台』クイズコーナーで「芸としての」珍答(当然誤答である)を売りものにしたが、トーク番組でもハズしたやりとりをしてくれる。さんま時代になると、芸人の芸と人物像とがある程度合致していないと、支持を受けなくなってきたのである。バランスをとる意味もあるのか、マラソンなどで単なるバカでない姿をも見せるようにもなったが、これは芸とはきっぱり一線を劃している。

 これが、現代のアホ芸というべき、紳介プロデュースの「おバカタレント」になると、わざと手に負えそうにない問題を出して、切羽詰まってどんな血迷った答が飛び出すかを愉しむわけで、これはかなりぎりぎりである。タレントとしての生きざまや売り方の方向までをトータルに芸として観察することになる。だからこそおバカの生き方をテーマにした歌が成立する。内心がどうであっても、「おバカ」を「演じて」いることを視聴者に感じさせてはならない。おバカがすなわち生きることでないといけないからだ(「羞恥心」のなかで野久保直樹さんが失速せざるを得なかったのは、そこに起因するのだろう、とわたしは考えている)。
 そのような状況のなかで行われている「歌がヘタな王座決定戦」である。

 
 単に歌唱力の劣った選手を勝ち残らせるのなら、簡単である。しかし、「歌がヘタなこと」が芸になっているかどうか、となると、見きわめが難しい。毎回異なる人が優勝した方がいいだろうから、持ち回りになるのは演出上しかたないとして、真にこの芸を演じおおせているのが、二人だけだろう、と思ったのである。

 一人は、若林正恭さんである。
 この人の歌ヘタぶりは、堂に入っている。ヘタさ加減が最も酷い、という意味ではない。選曲・歌い方から、歌う時の立ち姿やふるまい、歌った後のコメント、ヘタさを指摘されたときの反応、そういったものがトータルに統御されて、ひとつの人物像を形成している。そしてそれが漫才師としての「オードリー若林」像と違和感なく融合しているのである。
 一口に言えば、われわれが数人でカラオケに言ったときなどに、たいてい一人くらいはいる「かなり下手なのに、自分の下手さをそれほどひどいとは思っておらず、不相応な選曲をしそれを感情込めてマジに歌う」タイプの人物像を演じきっている、ということである。
 下手さを正確に自覚している人であれば、直球ではなく変化球投手を志し意図的におちゃらけに走って歌をきっちり歌うことを放棄したり、もう勝負を諦めてやけくそでただがなりたてたり、はたまた一切歌わなかったりする。が、件のタイプの人は正面から果敢に歌にとり組み、自滅する(自滅したという自覚はない)。といって、特別上手くはないことも自分で分かっているから、過剰に陶酔したり、上手さをひけらかすような歌い方にはならない。
 このあたりの力の入れ具合、抜き具合はまことに微妙なものがあるが、若林さんはこれを正確に体現している。これは、春日さんを突き放しつつも優しく受け入れるあの独特のつっこみで培われた力加減ではないかと思う。
 そして、報われず危なっかしいつっこみをする役回りの「オードリー若林」像に、「歌がヘタ」という属性はなかなかよく合っている。あるときは春日さんのずれつっこみにつきあって話を脱線させ、あるときは無視し、あるときはつっこみ返す。この困惑したり弱気になったりつっぱったりと、ネタ中で大いにスタンスが揺れる「オードリー若林」と、上記の「勘違いした歌ヘタ」像とが矛盾なくかみあうわけである。
 さらに、すっかり人気者となって、その人物像までが親しまれているオードリーである。大男で自信過剰の春日さんと対照される位置にいる、小柄で童顔のこの人には、かわいげという意味でいろいろ弱点があった方がよい。
 

 こう書いてくると、この企画に出場している他の芸人のまずさはお分かりだろう。上に太字で書いた三つのようなところに陥ってしまっては、もはや「歌がヘタ」が現代的な意味での「芸」にはならないのである。誰がどうとはいちいち指摘しないが、該当する出場者がそれぞれにいる。
 なかには、「歌がヘタ」という、芸人の新たな売りどころに群がろうとして、最初から上手く歌おうという努力を放棄した人、明らかにわざとヘタに歌う人までいる。また、お笑い芸人でなく、アナウンサーやスポーツ選手なども出るようになってきたが、この種の人たちは当然「芸」をしようという意識はないから、論外である。そして、そういう人たちの歌を笑うことは、まさに「他人の欠点をあげつらって笑う」図になってしまう。観るに堪えない。
 観るに堪えない状態をつくってしまう出場者の方が多数を占めるから、まだこの企画が熟したとは言えないのである。

 
 さてわたしが、若林さんと別の意味で「芸」の成立を感じたもう一人の出場者は、飯尾和樹さんである。この人の本来のお笑いネタをわたしはよく知らない。それと関係なく、この人の歌う歌そのものが新境地だと思うのである。
 リズムはそこそこ合っているのだが、音程は合っていない。声も出ていない。すると、全ての歌がヒップホップになってしまうのである。審査員の小林幸子さんが、飯尾さんの「HERO」(甲斐バンド)を評して、生徒に説教をする武田鉄矢さんかと思った、という意味のことを言っていたが、まさに歌は語りになる。この曲にこういう歌い方があったか、という意味での笑いを誘うのである。

 
 こういう企画は、この二人の域に達した出場者を揃えないと、悪趣味に堕してしまうし、まさに教育上も好ましくない。出場者のレベルアップを期待したい。 

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