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2011年6月26日 (日)

『日本語は論理的である』のみごとさ

 本来こういう本は日本語学者が書かないといけないと思うのだが、反面、これは日本語学研究史を外側から冷静かつ公平にみつめてこそできる考察でもあろうから、やはり他領域の研究者にしか書けないのかな、と思う。
 【送料無料】日本語は論理的である (左リンクは、「楽天ブックス」の該当書ページにつながっています。購入もできます)を著した月本洋氏は、人工知能を専門に研究する工学博士である。

 えてして、他領域の研究者による日本語学の論述というのは、日本語以前にことばというものの基本をはずしていたり、日本語学界でも主流派でこそないものの何十年も前から主張されているようなことを、そうとは知らずに、さも大発見のように誇らしく(つまり、日本語の専門家がなんでこんなことに気づかないのか、という厭味を込めて)述べてみたり、というどうしようもないものが少なくない。
 しかし、この本は違う。考察が深く鋭く、先学もよく調べ踏まえられ、それでいて独自の視点をしっかりともって書かれている。他領域の研究者であることが、先入観を捨象するというかたちでいい方に作用している。わたしも勉強になった。

 日本語が論理的でない、というか、論理的なことを述べるのに日本語は向いていない、という印象をもっている人は多い。しかし、それはあくまで印象であり、厳密に根拠があってのことではないはずである。
 月本氏は、この印象が、日本語の文に主語がない、ということと連動している、と仮説し、第1章で検証している。そして、主語がないこと=論理的でないこと、と考えるのは、英文法の弊害、正確には、英文法を無理やり日本語に当てはめたかつての国文法とそれを元にした国語教育の弊害であることを、看破する。
 このあたりまでは、日本語を専門にする者も、だいたい見当がついているところである。

 英語は、主語をまず定めないと文の組み立てようがない。動詞の前に主語が出ていて、それ以外の成分は動詞の後ろに並ぶから、主語が構文上特別かつ重要な位置にある。だから、本来主体がないような事態(天候など)を文にするときも、無理やり形式的な主語を立てざるを得ない。受動態にもそういう事情が絡んでいることと思われる。
 しかし、日本語は違う。主語も他の成分もいっしょくたになって述語の前に並ぶのである。順序も省略も自由だ。それどころか、主体のない事態はそのとおりに主語のない文で表す。そういう文は、主語が省略されたのではなく存在しないのだ(同書も指摘するとおり、これを「省略」ととらえるのは、日本語への英文法の過剰な適用の結果にすぎない)。そこへもってきて、英語では動詞が必ず文の核にならねばならないのに対し、日本語は形容詞でも名詞でも何でも陳述性を帯びることができ、文末で述語として文を統括できる。しかも、その陳述性は、「話者の認識と感情」に基づく。

 以前にも例に出した、『雪国』の冒頭文である。

国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。

 日本語としてごく自然な文であるが、抜けると (で)あった の主語は、省略されているのではなく、最初からないのである。語り手が 抜けた と、そして 雪国だ と、認識しただけである。
 が、これを英訳しようとすると、主語が必要になる。抜けると の主語を train にして訳したりするが、それが正確な訳でないことは、日本人なら分かるだろう。train だからいけないのではなく、ここにどのような主語を立てても、正確な訳にはならない。
 英語の文で無理にでも主語を立てようとするのは、論理的な厳密さをもって述べようとするからではない。主語がないと文にならないから、むしろ厳密さを犠牲にしてでも主語を立てざるを得ないだけのことである。
 要するに、構文のしくみの根本から両言語は異なっているのだ。その異なりは、論理性の濃淡とは無関係である。どっちが論理的か、と比べるのはあまり意味のないことである。

 このことを同書では、「英語の論理は主体の論理」(3.1節の題)として説明する。
 論理を比喩の形式と規定する(第2章)同書は、英語における、ある種の無生物主語の文は、擬人の比喩を使っている、と断じる。これも、まず主体がなければ文をなし得ない英語だからこそ多用される構文だ、というのである。無生物でも何でも、とにかく主語を立てないとはじまらないのだ。
 対する日本語では、空間の比喩を用いて空間の論理を表すことが多い、とする。それを担っているのが日本語の文の大半に現れる助詞 なのだ、と言うのである。

 これは、かなりすっきりした整理だとわたしは思う。どうも従来の構文論は、表層的な成分相互の関係を記述することに知らず知らず偏ってしまうきらいがあった。もちろん、表されている事態の構造に全く注意がはらわれてこなかったわけではない。が、同書のようにきちんと掘り下げて、割り切った説明をくわえたものは、あまりなかった。
 空間の論理とは言い得て妙である。たしかに は、において などと置き換えられるケースが多いが、において というのは、まさにある場所においての意である。である と言い切る形の という助詞も、元々は にて という場所をあらわす連語であった。

 同書の第4章では、論理学における記号(式)での論理の表記に、日本語の構文がきちんと対応していることが示されている。
 そして、空間の論理とは、論理学でいう命題論理につながっていて、命題論理は文の接続の論理と相似である(端的には かつまたは といった類)、という主旨を述べている。

 つまり、日本語の論理は、単独の文をみていてはつかめないのであり、連文を扱って初めて正当な分析ができることになる。これは、わたしたちがとり組んできた表現論の姿勢と相通じる。

 第5章では、学校文法の改良が主張される。学校文法が、英文法の受け売りからさっぱり抜け出せない理由をいろいろ推測している。

 わたしなど、国語教育に足をつっこんでいるからか、学校文法が変わらない理由は、もう少し政治的であったり即物的(つまり、学校現場の事情)であったりするものだ、などと思ってしまうし、それが簡単に解決し得ないことも、肌で感じる。
 だからつい、学校文法を一旦容認したうえで、そこを出発点にしていろいろ授業を改善していこう、という思考回路に流れがちだ。これまでも、学校文法そのものの改編を意図した研究や活動はさまざまなされてきたが、実地の成果が十分にあがったとは言いがたい。
 しかし、畑違いの月本氏だからこそ、本質を衝いた指摘ができるのであり、傾聴に値する。

 最終章は、発展論として、小学校での英語教育に対する強い反対意見が述べられている。外国語の習得の前にまず母国語をしっかり身につけるべき、という主旨は、多くの国語教育関係者と同じ結論であろう。しかし、そこへいたる論理的過程が全く違う。
 同書は、脳科学の理論を援用し、実験結果をもとに、英語と日本語とでは母音の聴き取り方(はたらく脳の部位)が異なることを示し、その違いは両言語の論理の違いとも対応している、という。これを根拠に、日本語が母語になりきっていない小学生に英語を教えることによって招来される混乱、ひいては日本語そのものの崩壊を懸念するのである。
 

 わたしは、これほど筋の通った実証的な言語「論理」論を今まで読んだことがない。わたし自身ももやもやしていた部分を、かなり整理させてくれた。
 そして、そういう明快な論理を、同書は当然ながら日本語で述べている。日本語が論理的であることを、体を張って証明している書とも言える。

 

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 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

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