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2011年7月16日 (土)

完結編『JIN ~仁~』の終わり方は… 下

 パラレルワールド説には、深刻な難点があるように思われる。
 これは、筒井康隆氏の七瀬シリーズの中でも、登場人物によって議論されていて、結局はうやむやになっている。

 似たような違うような世界が無数に存在する意味合いが、わたしにはいまひとつよく分からないのである。世界相互は通常は互いに没交渉であるようだが、ではそれらが平行して存在するのは何のためか。
 それに、パラレルワールドなら、タイムトラベルで過去を変えてしまっても、変えただけの数のパラレルワールドが生じればそれでいいわけで、ドラマで何度も語られた「歴史の修正力」なるものは必要なくなる。
 そして先に述べたように、人物がタイムスリップした後に、その人物を欠いた世界が残されるのも、腑に落ちない。いや、そこには別の平行世界からその人物が落ちてくるのだ、という考え方もあるが、ではなぜその人物は世界と時間と、全く異なる次元であるはずの二つの壁を同時に超えたのであろうか。そうなる必然性はあるのだろうか。
 は江戸時代へ行った時も平成へ戻った時も、時代は超えたが場所は一致していたではないか。なぜ時間がずれる(平成には一時が二人いたし)のか。まして、違う世界へ跳ぶのか。

 やはり、時間の流れは唯一のものであり、その流れのなかでイレギュラーに未来の要素を持ち込んだ場合に、あたかもエクセルで、あるセルの数値を修正すると、数式に従ってがたがたと他のセルの数値も連動して変わっていく、あんなイメージで歴史の改変がなされていくのだろう、とわたしは考える。
 「演算不能」なまでの妙な数値を入力しようとすると、入力をキャンセルするような復元力が働き、数値の是正を促す…。それが「歴史の修正力」ではないか、と思うのである。

 前編で暴れ馬に襲われて重傷を負ったタエの命をが(現代医学の力で)救う。しかし、結局タエはほどなく辻斬りに遭って死んでしまう。これが、が歴史の修正力を意識して悩みはじめるきっかけとなる。死ぬ運命にある人の命をちょっと長びかせただけではないか、運命は変えられないのだ、と。
 しかし、が救ってもその後長く生き延びた人もいる。橘恭太郎がその代表である。この違いが、その治療が「演算不能」な働きかけだったかどうか、という点に負うのではないか、とわたしは思っている。エクセルが表示不能の###印を表示するのは、単に絶対値の大きな数を入力したときだけではない。小数点以下の桁数が多すぎるときもそうなるし、他のセルとのかねあいでそうなることもある。同様に、「演算不能」かどうかは、事件の大きさや人物の社会的地位などとは関係なく、歴史の大きな流れにどの程度棹さすか、という人智を超えた基準で決まるのだ。
 タエはあそこで死なないと、再婚してまた子を産んだりすることになるのかもしれない。そしてその子は歴史を大きく変える働きをするのかもしれない。あるいは、タエの子喜市は、孤児になることでこそその後の人生が拓けるのかもしれない。
 対して恭太郎は、結局跡継ぎもできなかったようだ(だからこその養子となった安樹が女子ながら橘の家を継いだのだろう)し、生き続けてもその後の歴史を大きく改変するには至らなかった、つまり演算可能な範囲内なのだろう。
 ただ、そうだからといって、恭太郎の人生が、取るに足らないつまらないものであった、というわけでは断じてない。どんな人生も、その人にとって、そしてその周囲の人にとって、意義がありかつかけがえのないものである。歴史に影響が大きかろうが小さかろうが、みな自分の生をけなげに生きている、そのことが既に尊い。それは現代も同じである。だから、その命を救うことは、立派な所業である。

 しかし、そう考えると、の進言を受けて、龍馬の「船中八策」が「九策」に増え、日本の保険制度の整備が早まったこと、これなど国全体のしくみに関わる大改変なのだが、これは演算可能、何らかの基準において望ましい改変だった、ということになるのだろうか。このへんはよく分からないところでもあり、面白さでもある。
 それから、野風の一度めの岩を治療し野風の身請け話が流れたことで、友永未来の存在がなくなってしまったが、と関わったことによる改変で生を享けるにいたった橘未来は、友永未来のなり代わった存在と考えてよいのだろうか(少なくとも容貌は同じである)。友永未来もまた野風の子孫ではあるらしいので、そう考えたいが。そうでなければ友永未来の存在が虚しいものになるし、最終回で橘未来の手術に成功することが、タイムトラベルを全うするという意義をもたなくなってしまう。

 
 感動的であった最終回でも最もそのピークだったのは、の手紙に紛れもなかろう。百五十年もかかってに届いた恋文、という点だけでも心うたれるのだが、去りし後の幕末で、歴史の修正力によって周囲の人の記憶からが消されてしまっても、なおがおぼろげにではあれのことを覚えていたことが、何とも切なくまた嬉しい。そして、そのおぼろげな記憶に義理立てて生涯独身を貫くが、粋である。
 の愛、それは男女の恋愛を超越するような、深い敬愛であり、歴史の修正力という神の意志をも撥ね除けるほどの心にしっかりと根づきそそり立ったものだったのだ。神も消し去ることのできないパラメータとしての愛が、いかなる姿なのか、想像もつかない。
 だけが江戸時代でのタイムスリップを明確に承知していた(それを許された)ことを考えると、自身が特別な存在だったのだろうか。が未来から来た人間であることを、自力で勘づいていた(らしい)人物には、緒方洪庵野風勝海舟がいた。が、の方からそれを積極的にうち明けたのはだけだ。しかも、とそういう話をしても、に頭痛はおきなかった。

 の夢のシーンということになるのだろうか、龍馬が笑いながら海に去っていく場面。これも胸に迫るものがあった。
 は、江戸での暮らしの記憶を、これから少しずつ失くしていくのかもしれない。そして、それはタイムスリップ特有のことではない。
 われわれだって、何年も何十年も前のことを、そう明瞭に覚えていられるわけではない。学生時代に先生に何か刺激的なことを言われた経験はあっても、その先生の名前や顔は次第に朧の彼方に去っていってしまう。まさに「○○先生」である。しかし、言われたことはしっかり心に刻まれていたりする。その先生がともにいるのである。
 そして、親の世代、さらに上の世代から受けついだものまでを考えると、われわれは、祖先の、日本を作ってきた人たちの、恩恵の上に暮らしている。
 さらに言えば、わたしたちがこんなに感銘を受けたこのドラマのことさえ、十年後、その間にいくつものドラマに出逢うはずのわたしたちが、どれほど覚えているだろうか。
「あ、なにか医者がタイムスリップする面白いドラマがあったなあ。何ていうドラマだったかな。龍馬を演ってたの誰だっけ、ほら、あの何とかいう人…」
 こんな感じになっているかもしれない。人の記憶はそのように儚く虚しい。なのに何かは残っている。龍馬の言葉と背中は、ドラマから視聴者への別れの挨拶なのかもしれない。
 時の大きな流れのようなもの、その連続性を、このドラマは「リアルに」意識させてくれる。

 
 さて、これ以上の続篇があるのか。わたしはないと思う。あってほしいとも思わない。いやいや、あの魅力的な登場人物たちにもっと会いたい、という単純な気持ちで言うのであれば、続篇も楽しみなのだが、とにかくドラマはこれできれいに完結していると思うからである。どのように続けても、作品世界を壊してしまう。
 映画化・アニメ化もできればしないでほしいと思う。実写ドラマであれだけの質のものを観せてもらったら、もう満足である。
 可能性としては、カットシーンを含めた総集篇とか、スピンオフとかが考えられる。スピンオフで、「その後の仁友堂」とか、「安寿一代記」とか、観てみたい気はする。が、もちろん、ここまでの本編で十分感動できたし、いいドラマに出会えた、と思っている。

(了)

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