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2011年8月 6日 (土)

チャイムと同時に「授業」を始める 上

 以前も他の記事で触れたことなのだが、小中高の各学校で、「チャイムと同時に授業を始める」ことを旨としている教員なり学校なりが、なんだか増えてきているようである。これが、学校生活のけじめをきちんとする、という主旨で、良いこととして掲げられていることが多いようである。
 しかし、わたしはどうもこれに賛成できないので、いま一度述べておこう。

 もっとも、これについては「授業」の定義が問題となる。授業時間の始まりを告げるのがチャイムであること、チャイムが鳴った瞬間からが授業時間であることは、あたりまえであり、論を待たない。従って、「家に帰るまでが修学旅行です」と同じ意味で「チャイムが鳴ると同時に授業は始まります」というのであれば、それは正しい。
 しかし、もしこれが「チャイムと同時に起立・礼の挨拶をして教員が教科内容についての説明や板書を始める」ことを指しているのであれば、わたしは反対である。

 これは、授業で最も目上の立場である教員は、授業開始時刻からきもち遅め、学習者が揃って席に着いた頃に教室に入るのが、わが国の習慣とマナーに適う、ということだ。大人数の会議でもそれが普通だろうし、集会や宴会でも主賓が最後に現れる。視察先の県知事に、「客よりも先に部屋にいて出迎えろ」という主旨の「説教」をして大臣の椅子を滑り落ちた人がいたが、これなど口調やタイミングは不適切であったが、言っている内容は社会通念に合致している。
 学習者は、授業開始のチャイムが鳴ったら、手早く授業の準備を整え、席に着いて教員を待つべきである。そして、ここは人によっても、また各校の事情によっても、分かれるところかと思うが、授業に伴う更衣・移動・器具準備なども、わたしは授業時間の内側で行うべきだ、と考えている。それらの活動もまた、授業の一環だからであり、教員による指導と評価の対象となるべきだからである。
 準備が整った頃合、絶妙の間合いをおいて、おもむろに教員が教壇に立つ。これが社会にも広く存する慣例というものだろう。「教員を待つ」時間もまた授業に含まれる。目上の人に何かを教わるときのマナーを実地に身に付ける場である。それが十分にできていなければ(つまり、チャイムの数分後に教室に入ってなお、授業を受ける態勢が学習者側に整っていなければ)、指導するべきだし、わたしはしている。チャイムと同時に授業を始めるのでは、そういう指導の機会を逸する。
 学習者は短い休憩時間を割いて授業のための諸作業をしなければならないから、体力や集中力に問題が生じかねないし、そもそも休憩にならない。「授業時間は授業しろ」と主張するのなら、休憩時間は休憩させるべきだ。
 

 こういう見解に対しては、所属校でもちらほら耳にする、極めて哀しく情けない反論がある。「授業時間は五十分である。教員が教室に入るまでの数分間、学校は授業を放棄し、その分の授業料を学習者に損させていることになる」というものである。
 馬鹿らしくて何をか言わんやなのだが、世の中には、数字や金に置き換えないとものごとの価値を考えられないタイプの人というのが一定の割合でいることも、残念ながらまた事実である(そういうタイプの人をこれ以上つくらないためにも、前述のような教育の機会は確保するべきである)。そのタイプの人のために、一応述べておく。
 わたしの所属校で、一分分の授業料を計算してみると、約4円30銭である。教員が教室に入るのがチャイムの三分後として、三分分なら約13円となる。学校の教育をトータルでみたとき、これっぽっちの金額を他で取り返せないか。その程度の教育しかできていないのだとしたら、その方が問題である。
 教員は、授業以外の場でも学習者に接し、多くを与え、刺戟している(そうあらねばならぬ)。そのなかには、金に替えられない種類のものも多いだろうし、先の4円30銭というのは、純粋に授業時間だけで算出した値である。特別活動・課外活動・個別指導・行事や部活遠征の引率、その他諸々は計算に入っていない。さらに、保健室での手当・相談室でのカウンセリングなどを無料で受けることができ、図書室やパソコン室で調べものや自習もできる。これらの権利も、相応の施設や店の利用料金を参考に換算すれば、相当の金額になろう。
 もちろん、「教師が教壇に立って何事かを話している」状態だけが「授業」ではない、ということは既述のとおりだ。だからこそ、わたしの経験に照らしても、たとえば授業時間とか授業料とかに関して学校以上にシビアであるはずの塾や予備校においても、教師は授業開始時刻になってから定位置を立ち上がり、おもむろに教室に向かうのが普通であった。

 同様に、授業終了チャイムと同時に授業の終わりの挨拶をするのが当然、と考える教員もいるようだが、これはいよいよ不可解である。
 ニュースを読むアナウンサーではあるまいし、水ものである授業が、意図したとおりの時刻にぴったり終わるわけがないではないか。学習者の状態(前の授業・学校行事の日程・天候など、実にさまざまな要因に左右される)によって、同じ教案でもクラスにより年度によりかかる時間は異なる。予期せぬ質問が出て、回答に時間をとられることもある。体調不良を訴える学生がいれば、それにも対応しないといけない。学習者や教室の状態が好ましからざるものであった場合、それに関する生活指導としての訓話なども施さねばならない。
 授業は起承転結のあるものであり、「結」が時間切れになったのでは、授業全体が成り立っていないようなものである。チャイムと同時に終了する教員は、どこで終わっても同じ金太郎飴のような授業しかしていないのであろうか。
 そういうさまざまな不測の事態があっても授業が時間内に完結するよう、クッションとなる時間を数分組み込んでおく必要がある。当然、何事もなく円滑に授業が進んだとき(そうなることはそんなに多くはないが、それほど珍しくもない)は、授業終了時刻よりも数分早く終われることになる。終われるのに、チャイムまで学習者を拘束するためにのみ引き延ばしを図るのも、また無意味なことである。

 不測の事態があったときは授業時間を延長すればよい、と考える人もいるようである。が、わたしはいよいよ不思議である。授業開始時刻は厳格に守り、学習者にもそれを強要する人が、授業終了時刻は遅れてもいい、と考えるのは、筋が通らない。
 わたしは高校時代、「授業終了時刻を守らない教師には、生徒の遅刻を咎める資格はない」と考えていた。自分が教師になれば、この考えも変わるのだろう、とも思っていたが、幸い現在のところ、この考えに変化はない。
 わたしは、原則として授業終了のチャイムを超えて授業することはない。学生が休憩時間に行うべき何らかの活動や行動、さらには次の授業にも、悪影響を及ぼしかねない事態だからである。何かのやむを得ぬ事情で超えてしまったとき(稀である)は、必ず学生に謝る。超過してしまったのは、自分の教材研究と授業技術が不十分だった、ということであるし、自分の授業が終わった後のことは、自分でフォローしきれないからでもある(次の授業などの開始を遅らせてもらうような措置を、必要に応じてとることもある)。

 ただ、こういうことは学校により教科により、個別に事情があると思うので、チャイムと同時に授業を始める教員を、一概に批判するわけにもいかない。
 よその学校の事情は分からないが、所属校でもこれはある。

につづく)

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