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2011年10月16日 (日)

どこまで可能なのか

 今から十年ほども前になるが、テレビ番組で、和田(わだ)アキ子(こ)氏がこんな発言をした。図らずも、いわゆる ラ抜き という文法的現象をよく象徴する発言である。

(1) お父さんの死をきっかけにストーカーをやめられた、やめられたってのは敬語じゃないですよ、やめれた、やめることができたのは、どうしてですか?
(平成12年11月7日19時00分~20時54分放送 フジテレビ系『赤裸々告白! 直撃!! ウワサの5人』より)

 これは、ストーカー経験者にその心境を訊ねる、という趣向のコーナーで発せられたものである。和田氏は、やめられた と一旦言っておいて、わざわざ やめれた と言いなおしている。規範的な文法としては前者が正しくて後者が誤りであるにもかかわらず、まるで逆であるかのようである。さらに やめることができた と言いなおしているのは、やめれたラ抜き だと気づいて、このままではまずい、と思ったのであろう。

 こういうことが起きるのは、助動詞 れる・られる が、自発・尊敬・受身・可能 という四つもの、しかもかなり隔たりのある意味を兼務しているからである。もっとも、元々は 自発 から他の三つが派生した、と考えるのが自然であり、決して無関係ではない(話し手の意志と関わらずに起きる事態を表す、という共通点がある)。が、派生した三つを相互に比べると、やはり同じ語が担うには違いすぎる。
 古典語の る・らる の時代であれば、尊敬 は基本的に身分の高い人について使われ、受身 は基本的に話し手について使われたから、あまり意味が誤解される心配はなかったが、現代語ではそうはいかず、(1)のように、どっちかな、と思うようなケースが出てくる。
 (1)の場合の やめられた は、文脈を考えず先入観なく聞くと、なるほど 尊敬 の意味となるのが自然であるように思う。
 単純に動詞につなげて考えるとき、降りられる なら 尊敬 求められる・告げられる なら受身 着られる・避けられる なら 可能 、とわたしなどは直観的に思うが、これも個人差があろうし、文脈が与えられればまた違ってくる。

(2) あなたは兎を食べられたことありますか?

 (2)は 尊敬 もあり得るが、普通に考えれば、やはり 受身 だろう(飼っている兎を狐? に食べられた)。これは、食べる という動詞には 尊敬 の意味を含む 本動詞 として、召し上がる があるので、尊敬 の意味で 食べられた と言うことはまずない、と分かるからでもある。
 このように、動詞の意味によって、文脈によって、さらに他の動詞との意味関係によって、とさまざまな要因で、最も自然に解釈できる意味が決まってくる。とはいえ、確定はできない。
 そういうわけで、れるられる を用いた文は、宿命的に多義文となる。

 
 これを回避するための生活の知恵? が ラ抜き であること、いまさら言うまでもない。上一段・下一段・カ変 の各活用の動詞は れる を付ければ 可能 、としておけば、すくなくとも可能だけは他の三つの意味と紛れることはないからである( 五段活用 の場合は 可能動詞 があるし、サ変 (~)できる 可能 の形になるので、紛れる心配がない)。
 こういう知恵はまさにことばの変化の原動力そのものだし、変化の現場に立ち会っていると思うと感動的でさえあるのだが、現時点では誤りであるから、学生の作文に出てくれば朱を入れねばならない。まあいずれはこれも許容されるようになるのだろう。何年先か何十年先かは分からないが。

 さらに、ここまできたか、と思うのが昨今の レ入れ と呼ばれる現象である。可能動詞 に助動詞 れる を下接するものである。
 行けれる・貸せれる・持てれる・飲めれる などとなるわけだが、テレビのインタビューなど聞いていると、まあよく出てくる。これらは 可能 が重複していることになるが、だからこそ 可能 であることがよく伝わる。
 正しく れる を付けるには、元の 五段活用 動詞の未然形に下接させて 行かれる・貸される・持たれる・飲まれる としなければならないのだが、これらはまた 受身 などと紛れやすいので、今どきほとんど使われない。そのうえ、付けれる・見せれる・食べれる などの ラ抜き による 可能 と語形が似てくるので、なおさら 可能 であることが分かりやすい。それで採用されるのだ。

 しかし、もっと不安な人はいるようで、このごろは 書けることができる・住めることができる のように、可能動詞 可能 の文末表現を付ける、という屋上屋を架すような 二重可能 とも言うべき形も聞くことがある。それどころか、着られることができる見られることができる という 可能 の助動詞に 可能 の文末表現、という 二重可能 までテレビで聞くことがでてきたのである。このへんは言い間違いなのだろうが、どんだけ 可能 なのか、とつっこみたくなる。そこまでしないと 可能 であることが分かってもらえることができそうにないと不安なのか。
 あるいは、おごれる者は久しからず なんて古風な言い回し(この はもちろん 存続 の助動詞で、可能 とは関係ない)を聞くと、奢れる だけでは 可能 とは限らないぞ、と心配になるのかもしれない。

 かと思えば、NHKのアナウンサーがレポートのなかで、自治体は頭を悩めています なんて言っているのを聞いた。その時は、悩めて 悩ませて の言い間違いではないか、とも思ったのだが、悩む という自動詞に対する他動詞 悩める は、昨今ほとんど使われないものの、一応存在するのだ。悩める は「悩むことができる」の意の 可能動詞 でもあり得るし、さらに古典語では、四段動詞 悩む の已然形に存続の助動詞 の連体形が付いたかたちも 悩める になってしまう。可能動詞 は、意味上実際にはあまり使われないだろうし、たまに使うとしても、まさに 悩むことができる と言えばいいし、悩めれる悩めることができる などに逃げられ得ることが可能であることができる。
 こういう例をみると、可能 の意味というのは危なっかしいのだなあ、と分かる。いろいろな手だてで 可能 であることをはっきりさせよう、という願望が分からなくはない。

 昔ながらの多様な語形を温存することと、意味と語形とを一対一に対応させることと、どちらに趣があるのか、わたしも判断しかねる。ラを抜いたりレを入れたりしながら、体系をすっきりさせつつある過程こそが美しいのかもしれない。
 いちおう教師としては規範的でない表現はちゃんと指摘しなければならないのでそうしているが、わたしがどう思おうと、変わるように変わっていくのがことばなので、気楽ではある。

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