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2012年7月20日 (金)

「回り焼香」の奇異

 郷に入りてはひろみ、もとへ、郷に従え、という格言には共感するところもあるし、その地域がそれで回っているなら、余所者にごちゃごちゃ言われたくないだろうと思う。だから、この記事は、地元の人が読むと腹立たしい内容かもしれない。

 地域によっていろんな勝手が違う。違うこと自体はすばらしいことだと思う。が、あまりにも理屈に合わない慣習を強要されるのは、される側としてはやはり割り切れない。

 わたしの移り住み方は、都市部から地方、温暖の地から雪国、革新から保守、と何もかもが彼岸にあたるという、実に激変を伴うものであったため、それを感じる機会も多いのだ。もちろん、まあここではそういうものなのね、で済むことはそれで済ましている。
 町内会の厳然たる存在、ソースカツ、書初用半紙を売ってない、健康な成人は全員クルマに乗る、父兄会にほんとに長兄が来る、などいろいろな驚きがあって数えきれないのだが、長く住めば、さすがにそんなことは慣れたり愉しんだりやり過ごしたりできるようになっている。
 しかし、どうしても受け入れがたく、かといってわたし一人が我を張ってどうにかなるものでもない、腹ふくれる思いを抱いているようなこともある。

 その筆頭が、この「回り焼香」である。何のことか分からない方が多いだろう。
 調べてみると、全国でもこの県のこの地域にのみ存在する習慣らしいからである。しかるに、この地域の人々は、これが至極当然と考えている。おそらく、これが全国的な習慣だと誤認している住民も多いだろう。

 「回り焼香」とは、通夜における会葬者の焼香のし方を指す語である。
 会葬者は受付で香奠を渡して引換えに会葬の礼品を即受け取り(これもこの地域の特徴のようだ。普通は後日送付するものだと思うが)、葬儀場に入る。葬儀場の入口に遺族が並んでいるのでここで挨拶を交わす。祭壇に進んでいくつか用意された焼香台に一列待機する。このとき、僧侶はまだ来ていないことが多い。読経の声もない所で黙々と焼香をする。
 焼香が済んだら、先の人に従って葬儀場を出る。そう、出ちゃうのだ。そして、帰途につく。そう、もう帰るのである。信じがたいことに。
 これを「回り焼香」と呼ぶ。
 僧侶がお経をあげての法要はこの後に行われるが、これは故人に近しい人のみが参列する。その最中には焼香はない。ただ、「近しい人」の範囲は一定しない。

 遠路お参りに来た者からすると、なんだか香奠だけ渡しに行ったかのようでもある。香奠ももちろん重要なのだが、一番大切なのは、故人を悼みつつ送り出す気持ちではないのだろうか。その気持ちは、世俗から暫し身を離すことのできる空間で読経に耳を傾けて、ひととき敬虔にして清新な心となることでこそ、実現されまた迎え入れられるのではないだろうか。このように思うわたしは、考えが古く堅いのであろうか。
 聞けば、回り焼香は、通夜に来る客が多すぎ、葬儀場に入りきらないため、苦肉の策として始まり、ここ何十年かの間に広まった慣習だという。
 たしかに、当地の通夜はけっこう賑わう。近所の人や会社の同僚は、借り上げバスなどに乗って大挙やって来る。都市部などに比べると、通夜に出かけるべき間柄はかなり縁薄いところまで及ぶと思う。通常の家屋や寺院では収容することが難しい。冬など積雪もあるから、外で待たせるに忍びない。夜も遅くなるし、会葬者は早く帰す方が親切だ…。
 しかし、それは理由にならないだろう。会葬者が多いのは地方ならどこでもそうだろうし、雪国もここだけではない。それなのに、なぜか当地でだけ回り焼香が行われているのだ。このごろは葬儀社の所有する専用の葬儀場で営まれる通夜も多いが、そこでもやっぱり回り焼香が普通だ。通夜客が多い土地柄だと分かっているなら、最初から大きい葬儀場を建設し焼香台も増やせばいい、と思うのだが、そうならない。

 結局は、通夜の本質がいずこにあるか、という思想の問題になる。回り焼香は合理的とも言えるが、それは手順のうえでの合理でしかない。本質を外した省力化は、特に人の生死を扱うセレモニーには馴染まないのではないか。
 もちろん、足を運ぶこと自体にも意義はあるし、当地は禅宗の一大拠点を擁しながらも、一般の信仰において主流なのは作法などにも比較的おおらかな浄土宗系であるから、こういう慣習が生まれる風土は元々ある。
 しかし、僧侶の読経も講話もない通夜は、わたしには気持ちのうえで受け入れがたい。わたしは自分の地元でも通夜に参加するが、家に入りきれずに軒先や前の道路で傘をさして読経を聴いて祈りを捧げつつ、焼香の順番を待ったことは、何度もある。遺族としての友人のために出かけた通夜であって、故人と一面識もない場合も多いが、仮にもそういう場に出向いたのであるから、故人に思いを馳せる。自分の友人に命を与えてくれたことに感謝して祈るのである。
 回り焼香に出会う度に、免許更新を思い出す。都市部の運転免許更新センターでは、省力化のために、優良ドライバーの免許更新は、法規上行うべき「講習」を実質行わず、パネルを展示した通路を歩き抜けさせたり、新しい免許証のできあがりを待つ間ビデオを上映したりして、「講習」を実施したと見做す場合が少なくない。あれと同じではないか、と思ってしまうが、故人を見送る行事が、あれと同じでよいのだろうか。反面、当地ではこの講習はきちんと実施するのであるが。

 だったら、残って後の法要に参列すればいいではないか、と言う人もいるかもしれない。が、それに出席する人は暗黙のうちに予め決まっていることもままあり(通夜振舞の都合もあるのだろう)、そういう人達は回り焼香の時には既に席を占めて祭壇を見守っていて侵しがたかったりもする。参列したいなどと言いだすと、遺族や葬儀スタッフに余計な手間をかけはしないか、と気を遣う。
 葬儀スタッフも、
「ご焼香の済まれた方はどうぞお気をつけてお帰りください」
「ご都合のつく方はどうぞお残りください」
 と鵺のようなアナウンスをするので、どうしたものか迷う。
 それに、借り上げバスも回り焼香が終わったら帰り便が出発してしまう。

 誤解しないでいただきたいのは、通夜の施主である喪主以下遺族をとやかく言うつもりは毛頭ない、という点である。実際に通夜や葬儀の段取りをするのは葬儀社である。しかし、その葬儀社だって、土地の習慣に従っているだけである。
 だから畢竟これは、地域全体にたちこめる共同主観のなせる業であって、誰のせいとは言えないのである。

 Webで検索してみると、地元の人であっても最近の回り焼香について違和感を表明している向きがある。また、はっきりと苦言を呈する僧侶もいる。
 少し心強く思うが、何かをきっかけに世論が盛り上がりでもしないかぎり、なかなかこの趨勢は変わらないのだろう。

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