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2013年5月16日 (木)

ラジオで話すということ 1 

 ご存じの方はご存じのことだが、先月から、ラジオ番組にレギュラー出演するようになった。

 とはいっても、地元のFMラジオの番組であるから、大した話でもない。勤務先が週に一時間を買い取って、ものづくりとそれに関する教育をPRする番組をやっているのである。そのなかで、わたしは毎週十分間のコーナーを担当し、ことばや教育、鉄道、歌など、つまりこのブログと似たようなテーマの話をしている。
 わたしの本名や所属をご存じの方ならば、わたしの公式彩図、あるいはわたしのFacebookページ(アカウント名は本名の名字を漢字、下の名前を平仮名にしたものである。これで検索すれば、Facebookに登録していなくても読むことができるはずだ)をご覧いただければ、番組やコーナーの詳細をご案内している。
 電波が届く範囲は狭いけれど、Web上で同時配信しているので、パソコンやスマホがあれば、世界中どこにいてもお聴きいただける。

 さて、この記事は、ラジオで話すということを、言語表現の観点から述べることにする。

 当然のことだが、ラジオでは全て口に出さないと伝わらない。理屈では分かっているのだが、出はじめた頃は、共演者との会話でつい無声で頷いたり間を空けたりして、共演者に迷惑をかけてしまった。
 あまり長く誰も話さない状態が続くと、聴取者が不安になるので、途切れないように誰かが声を出さないといけない。そのあたりは、授業とも講演とも違うプレッシャーと闘うことになる。
 特に自分のコーナーは自分がリードしないといけないから、話すことがなくなって空白が出るのが不安でしかたがない。それで、話のネタをいっぱいメモして行くのだが、そうなったらなったで、メモしたことを余さず話したくなって、早口になってしまったり、パートナーと対話するゆとりがなくなってしまったりする。意識に余裕をもつことが必要なようだ。
 そういうところは普段の会話とは異なるのだが、考えてみると、普段の会話でも、極端に沈黙を恐れる人というのがいる。どんなにつまらないことでも会話を続けることにのみ重きをおいて、ちょっと間が空くとすぐ割り込むタイプの人が。そういう人は、テレビやラジオのトークを規範にしているのだろうか。自分が放送でしゃべっているつもりになっているのだろうか。
 理想的には、少々間が空いても、聴取者が待っていてくれるような力をわたしが具えるべきなのだろう。それには話の内容、ひいてはわたし自身が魅力的な話し手であることが求められよう。結局は全人格的な修養が、語りの技術を高めるのかもしれない。

 いちばん怖いのは、聴取者の反応が見えないことであろうか。
 講義はするな授業せよ、というのは教師の鉄則である。聴き手(子ども)の反応に追随しながら展開するのが授業、聴き手(子ども)の状態に構わず進めるのが講義、ということになるが、いくら講義といっても、物理的に聴き手が目の前にいる以上、百パーセントその状態に無関心なままに話し続けることはできないだろう。
 しかし、ラジオでは全く見えない聴き手を意識し、その反応を想像しながら話さなければならない。この想像がまた難しい。授業だって、学生の反応を想定しながら計画を練るわけだが、想定どおりにはこぶことは、むしろ少ない。聴取者も電波の向こうで、当方が思いもしない受け止め方をしているかもしれないし、さらには話に倦んでラジオのスイッチを切られてしまうかもしれないのである。
 聴き手が何人いるかいないかさえ分からないし、どういう人が聴いているのかも分からない。もちろん想定はしているが、こちらの望んだような属性をもった聴き手だけが聴いているという保証はないから、話す内容にも表現にも気を配らねばならない。
 こういう表現相手のあり方は、わたしが「不特定未知数」と呼んでいるものである。考えてみれば、インターネット上の表現と全く同じである。インターネットでは書きことばが主だが、ラジオはそれを話しことばでやることになる。それがわたしには新しい体験である。

 発声は、対話ではなく語りのそれにしないと、マイクにうまくのってくれない。お腹に力を入れて、声帯の下半分まで開いて話さないといけない。
 分かっていても、マイクは目の前にあるので、つい横にいる人に話すように声を出してしまう。スタジオの壁の向こう側に語るように話さないといけない。
 マイクの性能はけっこういいので、声を張り上げる必要はないのだが、逆にノイズまで入ってしまう。いわゆるリップノイズとか、口で息を吸い込む音、唾を飲み込む音までマイクが拾ってしまう。そういう音をたてないようにと意識して喋ると、内容に集中できなくなるし、そうでなくても緊張気味なので、つい音が出てしまう。慣れないといけないと思う。

 言葉遣いというか、言葉の選び方についても、聴覚にのみ訴えることを意識している。なるべく音読みでなく訓読みの言葉を使うようにしたり、熟語を訓読しなおしたり、類義語で言い換えを重ねたりして、誤解のないようにしないといけない。
 また、聴取者のイメージを喚起しようと思うと、名詞述語文(何ハ、何ダ)よりも動詞述語文(何ガ、ドウシタ)を多用することになる。
 形容詞は、例えば色彩を現す語のように、感覚に密着したものはいいが、「すごい」とか「美しい」とかいう、個人の感性に負うようなものは、極力避けるようにしている。イメージは共有したいからである。
 ここでも、説明するな描写せよ、という小説の鉄則を、究極的に適用しなければならないのである。そうした制約、というほどではないけれど、努力目標のもとに話をするのは、いいことば修業にはなる。

 
 わたしは関西で育っているから、面白いラジオ番組に囲まれていた。わたしが語りの規範とするのは、長く関西で帯番組をやっていた人、例えば、浜村淳、キダ・タロー、上沼恵美子といったお喋りの名手である。かなりテクニックは盗ませていただいていると思う。もちろん、レベルはその方々の足元にも及ばないが。
 特に、キダ・タローさんは、自身のラジオ番組で料理のコーナーをやっていたほどの人である。巻き寿司を切る瞬間の緊張感が、聴いているだけで伝わってきた。言葉による描写力が群を抜いているのだろう。ラジオなのに京阪アクセントを貫いていたところも、見倣っているところだ。

 そして、ラジオで話すことによって得た何らかのものが、本業の授業の語りをもっと洗煉させてくれたら、これはまたわたしにとって、このとりくみに大いなる意義があったことになる。

 この他、「ラジオに(レギュラー)出演する」ことを告げたときの周囲の人の反応というのもまた、非常に興味深いものであった。これも書きだすと長くなりそうなので、改めていつか記事にしよう。

※ このカテゴリーの記事のように、まるよしの楽しい日本語の話を満載した本、ぜひお手に取ってお読みくださいね。

 『まるごと とれたて 日本語談義 -ラジオ番組『高専ライブ』で語ることばの話-』
 桐島周 2016 勝木書店 定価1500円(税込)
 
ISBN: 978-4-906485-09-3 
 (桐島周は、まるよしのペンネームです)

 勝木書店のホームページでご注文いただくのがご便利かと思います。
  http://www.katsuki-books.jp/ (書籍検索から)
 Amazon・楽天などでは購入できません。

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