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2013年10月25日 (金)

ラジオで話すということ 2

 以前の記事でもご紹介した、ラジオ番組のわたしのコーナーは、曲折の多いわたしの仕事のなかでは、比較的うまくいっている方である。これは周囲のバックアップの賜物であろう。

 このコーナーのことをひとに話すことも多いが、周囲に微妙な反応が生まれはじめたのを感じる。

 知り合いのなかには、会話していても、わたしのラジオ出演の話になると、あからさまに避けようとする人なども出てきたのだ。これはちょっと、予想外である。Facebookでも、ラジオ関連の投稿には「いいね」やコメントが少ない。ラジオというマスコミに関わる、というのは妙な心境を生むのであろうか。ラジオに出ている、というのが自慢に聞こえてしまったりするのだろうか。
 マスコミ、といっても地域のささやかなFMラジオ局であり、たぶん、番組もそう何百人も聴いているとは思えない。このブログを読みにくる人(アクセス解析からすると、週に延べ千二百人程度と思われる)の方がはるかに多いはずなのだ。
 そういう意味で、ブログの延長線上の意識しかわたしにはなかったのだが、こういう意識は、Web環境の非常に整った職場で仕事しているわたしだからもてるものなのかもしれない。
 まるよしくらぶの面々にしても、この職場の関係者が多いので、くらぶ会合の延長のような感じで番組にメールを寄越して協力してくれたりもする。が、一方で無視を決め込むメンバーもいる。

 確かに、マスメディアの向こう側にあるいわゆるギョーカイは、かつて遠い存在であった。わたしの世代にとって、ラジオやテレビに出る人というのは「特別な人」だったのである。昔はメジャーな放送局しか存在しなかったからであり、若い頃はわたしも自分がラジオに出るようになるなんて想像もできなかったのだが、現代は状況が全く異なる。
 そういえば、わたしがサッコさんと近しく交流していることに関しても、上記のような複雑な態度を呈する人はいる。ひまわり隊に入ればさせてもらえることなのだが、そこまで踏ん切りがつかない人もいるだろう。
 しかし、Webが発達した現在、敷居はきわめて低くなっている。サッコさんとわたしたちファンが気軽に顔を合わせたり、SNSで交歓したりするようになったのも、その一つのあらわれだ。
 そして、前述のような地域密着型の小規模なラジオ局が林立するに至ったことも、状況を変えている。だから、現代に慣れた学生などは屈託がない。ラジオの話にも自然についてくる。

 かくして、知り合いとの会話のなかでラジオ出演の話題を出すのには、かなり気を遣わねばならないのである。おかしなことになったな、と思う。
 そうは言っても、レギュラーでラジオに出ている以上、事あるごとに番組のPRはせねばならない。一人でも多くの人に聴いてもらいたいからこそ放送しているのであるし、聴く人が少なければ、提供料を引き上げられてしまうかもしれない。だから「仕事」として宣伝を重ねているのだが、人によっては煩く感じていることと思われ、申し訳ない。
 「仕事」と言っても、まさに括弧付きの「仕事」である。これが校務なのかどうか微妙なところで、勤務時間内に収録するのが是か非か、わたしより早くから出演している先生方に訊いても、確たる答がなかった。番組が殆んど知られていないので、誰も気に留める人はない、というのが実際のところなのだろう。
 研究者としての専門領域である日本語学と国語教育の啓蒙、ということをコーナーの趣旨に掲げれば、研究業績にすらなり得るかもしれないのだが、どうなんだろう。

 

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